ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 25

 3時にケイトと別れた。

 


「レオノーラまで行きたかったんだけど」

 


 残念そうに呟くケイトを説得して名前も知らない停車場のような所で富四郎とマイクは車を降りた。



 ガソリンスタンドで給油ついでにお昼を食べて車に戻る途中、
 ケイトがトイレに入っている間に二人は話し合った。
 ここから北に向かって車に走る間に第3の拠点となるべく適当な場所を見つけたら、お世話になったケイトとお別れしよう。

 


 
「本当にここでいいの?
 カルグーりー以上に何もなさそうなこの町に泊まる所はあるの?」

 



 彼女の心配をよそに、これ以上、ケイトを引き延ばしていたら、見ての通りの小さな車を飛ばして、ここから家に着くのが深夜になってしまう。

 


 スタンドも修理工場もない町で車が故障して、
 食料も水に手に入らず、途方に暮れるかもしれない。
 野生動物に襲われるかもしれない。

 


 死活問題だ。
 明日、仕事が入っている彼女にこれ以上迷惑は掛けられない。
 富四郎とマイクは覚悟を決めた。
 野良猫だって生きていけるくらいだから、
 今夜一晩、泊まる所なら何とかなるだろう。


 
 イギリスの流刑植民地に過ぎなかったオーストラリアで、
 ゴールドラッシュが沸き立ったのが今から百年前の19世紀半ばのことである。

 


 サンフランシスコ周辺からやや遅れて、オーストラリア東部のニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州で金鉱山が発見された。 続いて西オーストラリア州のこの地が熱狂に包まれた。
 今でもカルグーリー近辺に現役の鉱山が点在しているのだろう、 ケイトが運転する小さな車は不毛な大地を突き進んだ。

 


 時折、息を飲むような大きなトラックやダンプカーと擦れ違う。
 豆粒のような車をあざ笑うかのように轟音を立てる、
 鉱山や工事現場からそのまま現れたよう超大型車も珍しくはない。
 

 信号すら珍しい1本道で久しぶりの赤信号に停車している間、
 ラジオから流れるロックン・ロールに肩を揺すり、口ずさみ、
 ケイトが夢中になっている間に後部座席でどちらからともなく、 ここがいいなと囁き合った。


 お昼から3時間が経過。
 通りの路肩に停めた車の運転席からケイトが降りて、
 マイク、富四郎の順で車を降りた。


 
「ここでお別れね。
 二人と出会ったのがちょうど今くらいの時間じゃなかったかしら。
 いつか、どかで会えれば嬉しいな。

 

  わたし、仕事でよくパースに行くから、街で見掛けたら気軽に声を掛けて。
 わたしもそうするから」

 


 彼女との別れを惜しむように二人は握手した。


 
 運転席に戻ったケイトは手を振った。
 エンジンを掛け、小さなマフラーから灰色の煙が吹き出すと、
 小さな車体が動き出した。
 Uターンして車は反対車線に入った。
 ケイトは二人に視線を向け、右手を挙げた。



 車が通り過ぎ、ケイトの車が来た道を戻って行く。
 富四郎とマイクは見えなくなるまで彼女の車を目で追った。
 と同時に、どうしようもない現実が二人を襲った。
 あらためて、町を見渡してみると、ケイトが言っていたようにカルグーリー以上に何もない殺風景な町並みに腰を抜かすほどだった。

 


 唖然として、声も出なかったが、これからどうしよう。
 カルグーリーの駅に着いた時と同様に旅の当てなど、まったくない。
 第二のケイトが二人の前に現れてくれるほど世の中は甘くはない。

 


 とはいえ、前を向かなければ一歩も進みはしない。
 ケイトと別れた場所から、富四郎とマイクは足を踏み出した。



「ここまでケイトに送ってもらって何だけど。
 狭い車に乗っているだけで腹が減った。
 トミー、晩飯には早いけど、メシにしない」


 青い手提げ鞄を首から提げたマイクがそう言うと、ちょうど良いタイミングでいかにもローカルな雰囲気な中華料理店が目に飛び込んできた。

 


 二人は目を合わせ、ここにしようと確認すると、
 漢字で「広東」と書かれたドアを潜ることにした。

 


 カウンターだけの狭い店内の椅子に座っていたのは店主と見られる中国人のおじさんだった。
 染みで少しばかり汚れた白い料理服のおじさんは愛想よく黒いナップザックを背負った富四郎に中国語で話し掛けたが、
 言葉が通じないと解ると、英語に切り替えた。



「ジャパニーズ?」

 


 おじさんは富四郎を日本人と見てとった。
 小さく目頭を下げた富四郎にメニューを渡して、 
 ドアの側からカウンター内の厨房に入った。
 カウンターの丸椅子に腰掛けた二人は迷うことなく、炒飯を頼んだ。

 


 二人は炒飯を食べ、おじさんがサービスしてくれたお茶を飲みながら、これからの旅の行方を話し合っている最中に、
 一つ椅子を隔て、店に入ってきたグレーの作業服姿のガタイが良い中年の白人男性が二人の話に割り込んできた。


「二人はここから北に行きたいんだな」

 


 彼は富四郎とマイクの横顔を眺めた。

 


「よかったら、俺のトラックに乗せてやる」

 


 薄い茶色の髪に白髪が交じった彼の目の前のカウンター越しに、お盆に乗った中華定食が置かれた。

 


「まずはメシを食ってからだ」



 彼は器用に箸を使い白米と肉野菜炒めを食べ、蓮華で中華スープを飲んだ。
 おじさんにご飯のお代わりを頼んで、野菜炒め、スープと口を運び、お茶で締めた。



「メシの後にビールを飲みたいところだが、これから運転だから、我慢するか。
 俺はテリー。
 それじゃ、二人の話をじっくりと聞かせてもらう」




 富四郎とマイクはこれまで経緯とパースの大学寮で供に暮らす日本人とニュージーランドの学生二人がダーウィンを目指していると話した。


「トミーとマイクだな。
 二人は間違いながらもパースから列車に揺られ、車両の中で知り合った売り子の家に泊めてもらった。
 おまけに車でカルグーリーからここまで送ってもらって、ここまでやって来た。

 


 いいか、その娘さんに感謝するんだ。
 そうしないと罰が当たる。

 


 だがな、ここからダーウィンまで行くのは一苦労だ。
 15年間、トラックでオーストラリア中を走り回っている俺でさえ、 これまで一度しか行ったことがない。

 


 自慢じゃないが、オーストラリア生まれでこの国から出たことがない俺だが、ダーウィンはジャングルのように熱い。
 言っておくが、死にそうに熱い。



 俺が知っているダーウィンはアマゾンそのものだ。
 たまたま、俺が行った時が雨期だったせいかもしれないが、
 雨が少ないオーストラリアで、スコールのような大雨でトラックが流されるかもしれないと想ったのはあの時だけ。

 


 ワイパーなんで何の役にもたたず、フロントガラスに打ち付ける大粒の雨が、目の中に飛び込んでくるようだった。
 サイクロン以上なんだ。
 ダーウィンは特別な土地なんだ。


 
 二百年くらい前、もっと昔かな、
 オランダかどこかもの好きな白人がオーストラリアを発見した頃、 俺の先祖でもあるイギリス人がこの島といか大陸に移り住む以前の原始の時代が残っているのがダーウィンという土地だった。

 


 今は、多少は変わっているだろうが、こう言っては失礼かもしれないが、俺が訪れた10年くらい前のダーウィンは白人よりはアボリジニーが多かった。

 


 そうだな、気候風土は違っても、同じノーザンテリトリーにある、ここから東に向かった、聖なるウルルに似ているのかもしれない。

 


 とてもダーウィンまでは行けないが、
 今から俺は、トラックに荷物を積んだまま、鉄鉱石の鉱山で有名なマウントホエールバック近くの小さな町まで行く。



 ここから北へ千キロ近くあるかな。
 途中、適当な所で仮眠して明日の今頃まで着けばいいと思っている。
 二人も一緒に行くか?」



 富四郎とマイクは目を合わせた。


 
「さて、決まった」

 


 テリーはそう言って、爪楊枝を手に持った。
 器用に歯に詰まったごはん粒や野菜の屑を抓み出すと、
 爪楊枝を2本に折り、食器に乗せた。
 それから、湯飲みのお茶を飲んで、煙草に火を付けた。
 煙草を吸わない二人を気にすることもなく、二本目を吸い始めた。

「オヤジ! 勘定」

 


 どこか日本人のようだった。



 炒飯をご馳走になった富四郎とマイクは広東というなの中華料理屋を出ると、店の脇に横付けされたテリーのでかいトラックが目に入った。


「もう一度荷物を点検して、出発だ。
 俺が荷台に上っている間に二人は通りを見張っていてくれ。
 命があっての物種だからな。
 車が突っ込んで来ようものなら、その前に車を止めてくれ。
 わかったな」



 テリーが荷台に上って荷物の点検をしている間、
 言われたように、二人は通りの車に気を配った。
 テリーのトラックのような大型車が通り過ぎて行く。
 時折、日本では見たこともないトレラーのように長く連なった車両を見掛ける。



 近場に鉱山が点在していることからこの街道はある意味で物流の拠点であり、ここはその交差点なのかもしれない。
 そう想いながら、富四郎は十数分を過ごした。


「やっと終わった。
 二人の居場所はここだ」

 


 トラックの荷台を見ながらテリーに言われて、富四郎とマイクは目を見合わせた。

 


「冗談だよ。
 俺の隣の特等席に二人まとめて座らせてやる。
 だがな、運転に気が散るからお喋りは厳禁だ。
 その代わり、俺から喋った時は特別に喋らせてやる。
 さあ、俺に続いて運転席に乗り込むんだ」



 まずはテリーが右ハンドル側の高いステップに足を掛け、難なく運転席に乗り込んだ。
 その様子を見ていた富四郎は運転席側から反対に回り、左足を大きく伸ばして助手席側のステップを踏み、テリーがドアを開けてくれた運転席にどうにか滑り込んだ。
 続いたマイクは長い足に幾分の余裕を残してステップを踏んだ。


 運転席にテリー、その隣に富四郎、左の座席にマイクの順で座る位置が決まると、「これから出発だ」

 


 テリーは左手首の腕時計に目を落とした。

 


「今が、4時10分。
 これから日が暮れて、10時過ぎにどこか適当なところで一眠りする。
 その前にできれば、夜食を手に入れる。
 さあて!」



 テリーがトラックのエンジンを掛けた。
 数分間、エンジンを暖めて、テリーのトラックが発進した。
 気の良い中国人店主の「広東」を過ぎると、それまで以上に何もない景色が現れた。

 


 突然、つむじ風が吹き荒れた。
 一瞬、目の前がトラックのフロントガラスが土埃で覆われ、土塗れのトンネルに入ったようだ。
 車体がガタガタと揺れ、眠っていたマイクが飛び起きた。


 
 テリーが機転を効かせ、フロントガラスに水が走り、
 ダーウィンの大雨では役に立たなかったであろ大型のワイパーが土埃を流してくれた。 
 所々に汚れは残っているが、高い運転席からどこまでも続くような広大な大地に終わりを告げたのは何を隠そう夕陽だった。



 カラスもいなければ、天空も舞う鷹や鷲などの猛禽類の姿もない。
 もちろん、小型の野鳥なんて目に入りようがない。

 


 太陽の光が行き届いていた頃はともかく、
 トラックに乗り込んで1時間が過ぎると、辺りは段々と薄暗くなり、ライトの灯りが朧気な通りを照らした。
 次第に左右の灯りの輪は強さを増し、一点となり、照らす世界だけがこの世のすべてとなった。


 対向車のトラックの放つライトの光線が3人を射貫く。
 昼間は天気が良かったのに陽が暮れると曇ってしまったのか、
 星の姿も見当たらない。
 


 突然、押し黙っていた車内にテリーの声が響いた。

 


「今、夜の8時だ。
 もう1時間ばかり走ったら、ガソリンスタンドが見えてくる。
 とりあえず、今晩はそこで休憩だ。
 給油している間に小便をして、夜食と朝飯を買って、空き地で眠るとするか。

 


 明日の朝は早いぞ。
 そこでメシを食って、鉱山があるマウントホエールバック近くの小さな町で荷下ろしだ。
 俺はそこでお前たち二人と別れる。
 予定は以上」

 

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 24  

 ケイトを先頭に、マイク、富四郎の順で狭い階段を伝って1階に降りた。
 ほんの十数分前、富四郎がトイレに行く間にぼんやりと眺めたキッチンが3人の目の前に現れた。

 


 マイクが両手で持っていた、ティーボットと二つのカップとポテトチップスの皿を載せたプレートを長方形のテーブルに乗せた。



「朝食はバケットでいいかしら。
 母が何を勘違いしたのか、普段は食べないパケットを買っておきながら、冷蔵庫に入れたままにしている。
 余り物では悪いけど、今朝はバケットとシリアルとコーヒーね」



 黙ってはいたが、富四郎とマイクが昨日の朝、寮から旅立つ前に食べたのと同じく、バケットとシリアルの朝食になる。
 この2ヶ月間、狭い大学寮で寝起きを供にする二人の阿吽の呼吸である。


「マイクとトミーは椅子に適当に座ってくれない」

 


 富四郎が廊下側にマイクとケイトがテーブルの対面の椅子に腰を降ろした。



 ケイトがティーポットを片付け、カップと皿を洗い、朝食の準備をしている間に富四郎が階段で遭遇した白い猫がどこからか現れた。

 


「リサ、どこに行っていたの?
 まあ! いつものことか」



 一人芝居のケイトがキッチンの上の棚から大きな袋を降ろして、 白い皿に猫の餌を盛り付けた。
 お腹が空いていたのだろう、リサは瞬く間に餌を平らげ、
 いつの間にやら姿を眩ました。

 


 袋を棚に上げると、ケイトは水道水で手を洗い、薬缶に水を注いでコンロに掛けた。
 それから、冷蔵庫を開け、バケット2本取り出した。

 


 大きな木製のまな板の上にバケットを置いて包丁で3等分に切り分け、コンロの下のオーブンに入れてガスを点火した。
 シリアルを皿に盛り、カップ、バケット用の皿、大小のスプーンをそれぞれ3つずつ用意した。



 ケイトはオーブンからバケットを取り出し、それぞれの皿に盛り付けた。
 冷蔵庫から瓶入りの牛乳とバターとジャムと棚からインスタントコーヒーと砂糖が入った瓶を取り出した。



「冷蔵庫の中のバケットは硬くなり過ぎていたので、
 本場のフランス人からしたら邪道かもしれないけど、
 食べやすいように水分少々と熱を加えたんだけど。
 味のほうはどうかな?」

 


 独り言のようなケイトに富四郎とマイクは黙っていた。


 
「バケットとシリアルを食べてからお出掛けね」

 


 ケイトはキッチンの壁に掛けられたグレーの丸い時計に目をやった。

 


「今が8時25分だから。
 10時前には出発できる。
 それまでに二人は今日の予定を立てて頂戴。
 わたし、明日は仕事だから、二人に付き合えるのも今日限り」



 オーブンで熱を加えたバケットの味はなかなかだった。
 富四郎はこれからの旅の行き先を案じつつ、ケイトの家が旅の第2の起点になったと。



 食事が終わり、歯磨きとトイレを済ませた富四郎はマイクと交互に一昨日の夜以来のシャワーを浴び、下着を着替えた。
 富四郎は黒のナップザックを担ぎ、マイクは青い手提げ鞄一つを右手に持った。

 


 ケイトに続いて、二人が玄関を出ると、白猫のリサがどこからか姿を現した。

 


「二人にお別れの挨拶しなさい」

 


 ケイトはリサの喉元を撫でると、また彼女が消えた。

 


「さて、準備は整った。
 車を持ってくるから、ここで待っていて」


 ケイトの車は御世辞に立派とはいえない小さな日本車だった。
 富四郎も母国で作られたであろう車の名前も知らないほどで、
 トヨタなのか日産なのか三菱なのかも解らず、
 ケイトも知らない有り様だった。

 


 富四郎が想うに兄の車のスバル360よりは多少大きく、
 いつ洗車したのか定かではないほど色は白から鼠色に変色していた。

 


 チープな車体は定員4人がギリギリで運転席と助手席に一人ずつ、 後部座席に二人が乗れば満員御礼で、
 本当に動いてくれるのか心配になるほどの頼りなさだった。

 


 ちょうど1年前の6月、2月にシンガポールに帰国した王がパースの中華街で借りてきた日野コンテッサが大層立派なほどだ。



 小さなトランクに富四郎のナップザックを入れ、
 ケイトが右のドアを開けた、
 手を伸ばし、左のドアのロックを解除して、屈み込んで助手席を前にずらし畳んで、車外に立っているマイクに後部座席に乗るように促した。

 


 背が高いマイクは肩から首に青い手提げ鞄をぶら下げ、
 腰を折るようにして後部座席に乗り込んだ、
 次に富四郎が助手席に腰を降ろすと、最後にケイトが運転席に着いた。


「これ、弟のビルが置いていった車なの。
 高校時代に免許を取った彼がボロでもいいから自分の車が欲しくなって、農場のアルバイトで貯めたお金でようやく買った車なんだけど、こんなオンボロな車を他所に持って行くのは気が引けたのかしら。
 それでわたしの足になった。


 
 二人のご要望通りにこの界隈の見所の一つである金鉱山に寄ることなく、次の起点になる町まで行けるところまでこの車で突っ走る。
 今のところ、当てはない。

 


 二人とも車の免許を持っていないという事はわたしに命を預ける。
 免許を取って丸2年、暇を見つけては、父の車を借りてハンドルを握り経験を積んだ、
 運転は多少荒いけど、死ぬことはないと思うから、心配しないで」



 そう言って、ケイトは車のエンジンを掛けた。
 数分間エンジンを暖めた後、サイドブレーキを解除して、
 器用にクラッチとギアをコントロールして、アクセルを踏み込んだ。

 


 車が走り出すと、ルームミラーに白猫のリサが映っていた。
 彼女の憂いを持った赤い瞳が何とも麗しく、やがて、その姿が消えた。



 ラジオから流行のアメリカ、イギリスのロックやポップスが狭い車内に響いている。

 


 音楽、ファッション、映画等々、田舎育ちということもあってか国内外に問わず、若者文化に疎い富四郎には騒音そのものでしかなかったが、隣のマイクは狭い車内で音楽に合わせ手を叩き、
 足踏みして英語で口ずさんでいた。
 時に低い天井に頭をぶつけながらも楽しそうだった。



「トミー、好みの音楽は?」

 


 ケイトの問いに富四郎は黙っていた。

 


「この車より広いとはいえ、狭い寮でこの2ヶ月、
 トミーと寝起きを供にしながらも、トミーが女性や音楽やファッションの話をするのを聞いたことがない。
 日曜日に映画やパブに誘おうにも、トミーは本ばかり読んでいるからな」

 


 富四郎は口を閉じたままだった。



「トミーに限らず、若い日本人がどんなファッションをして、
 音楽や映画を好み、料理を食べているのか、
 わたし、日本人の感性に興味があるんだけど、さっぱり想いつかない。

 


 ついで言うと、こんな田舎に住んでいるからかもしれなけど、
 ここで日本人を見掛けたこともない。
 わたしは車内販売の仕事でパースにも出掛けるから、
 向こうでアジア人を見掛けるとしても、ほとんど中国人。
 こう見えても、パースの中華街に出向くこともある。


 
 音楽の好みなんて人それぞれで異性の好みもしかり。
 生まれて初めて言葉を交わした日本人がトミー。
 そんなわたしが言うのも何だけど、
 日本人と中国人の違いも解らなかった。


 短い時間だけど二人と知り合って、
 なんとなくだけど、その違いを感じられたわ。
 やっぱり、トミーには日本人の女性が合っているのかなって。

 


 将来、トミーは学者になるんでしょう。
 そのために日本からはるばるオーストラリアのパースまでやって来た。
 それで、時間を惜しんで休日も本を読む。
 わたしが理解できない事をトミーは学んでいる。
 それだけでも、充分すごい事なのよ」



 ケイトの長台詞が終わると、ラジオのDJのお喋りに続いて、
 暫く車内は音楽の渦に飲み込まれていた。
 窓の外はカルグーリーの住宅街を過ぎ、駅方面に戻ることなく、郊外を突き進んだ。



「ケイト、今どこに向かって走っているの?」

 


「北よ。
 あなたたちの最終目的地がダーウィンだと聞かされて、
 少しでも近づきたいのは山々だけど、
 ビルが住んでいるブルームは恐ろしく遠くて、日が暮れても着けないので、その手前の適当な所までこの車で行ける所までは行ってみるつもり。
 わたしも行ったことがないけど、レオノーラ辺りが目標かな」



 知らない町に当然のように二人は口を閉じていた。
 彼らの予定では昨日の6時頃にパースから北上したジェラルトンに着いて、二、三日は海に臨むジェラルトンでのんびり過ごして、 さらに北上する目論みが、何の手違いからか想いもしない内陸のカルグーリー行きの列車に間違って乗り込んでしまったのだから。

 


 それでも、幸運にも車内販売で見知ったケイトの家に泊めてもらい、休日のケイトの車で次の地点まで送ってもらっているのだから、文句が言えた義理ではない。



 名も知らないケイトの車は小さな車体を震わせながら、
 辺りに何もない不毛の大地を走り続けた。
 本当に何もなかった。

 


 ケイトの家を出ると、目に入る物といえば牧場と牛と羊がいるだけで、あとは何を見ただろう。
 家もなければ町も見なかった。
 殺風景さを通り過ごしていた。


 
 パースから半日かけて列車で移動したオーストラリアのゴツゴツとした大陸性を実感するとともに、日本ならとっくに海や山にぶつかり、様々な風景に触れることができるのにと想わざるを得なかった。
 


 ケイトの家を出て2時間近く、富四郎の腕時計が11時半を過ぎた頃、どこまでも続きそうな1本道に突如として現れたガソリンスタンドに彼女の車が立ち寄った。

 


「ちょうどよかった。
 まだ2時間くらい走れそうだけど、ここで給油しないと次の店がいつ目の前の現れるか解らない。
 ここでガソリンを入れてから隣の店でお昼にしない」



 そう言って、ケイトは車を停めた。

 


 ケイトが車のキーを渡した白い作業服姿の禿げ頭の白人のおじさんと何やら話している間に車に残った富四郎とマイクは一言二言言葉を交わした。

 


 給油が終わると、車の外に出ていたマイクがケイトの代わりにガソリン代を払った。

 


「気を使ってくれなくていいのよ」

 


「タダで泊めてもらってうえに車で送っているんだから、 
 これくらいはしないと、罰が当たるとトミーと相談したんだ。
 お昼も俺達のおごりだから、心配しないで」


 
 スタンドの側で待機している車を横目に、
 ケイト、富四郎、マイクの3人はガソリンスタンドに併設するこじんまりとしたレストランに足を伸ばした。

 


「運転するケイトはビールを飲めないから、俺達も控えるしかないけど、ランチは豪勢にするか」

 メニューを見ながら、マイクがテーブルの隣の富四郎と目の前にケイトに語り掛けた。

 


「ここは景気よくステーキにするか」

 


 マイクはメニューに写ったオージー・ビーフを指出した。

 


「コーヒーの後のデザートは何にする?
 さて、これから旅の前祝いだ」

 

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 23

 マイクの肘打ちで目を覚ました。
 隣はいつも通りに寝相が悪いマイクに戻っていた。
 マイクの腕を払いのけ、富四郎はベッドから起き上がった。
 部屋には窓の脇から光りが漏れている。

 


 一辺が1メートル弱の正方形の織りが入った黄色のカーテンを開けると、雲の合間からぼんやりと陽の光が部屋に届いていた。
 


 寮と同じく、押すタイプの窓を10センチほど開け、
 部屋の空気を入れ換えた。
 それまで澱んでいた狭い部屋には外の冷たい空気が流れ、
 肌着とブリーフだけの富四郎は身震いした。

 


 暖房が必要なほどでないにしろ、気温は何度くらいだろう。
 すぐに富四郎はズボンを履き、シャツを羽織り、窓を閉めた。
 ぼんやりとオーストラリアの地図を想い浮かべた。

 


 窓の向こうが東ということは、遠くに東海岸のシドニーがあり

、ドアの方角が西で、その向こうには二人がやって来た西海岸のパースがあるということだ。

 


 ここカルグーリのケイトの家からオーストラリア北部を目指すとして、アイディアの欠片も浮かばなかった。

 富四郎の腕時計は7時35分。
 列車がカルグーリーに到着して12時間経過。
 昨夜9時過ぎにベッドに入り、一旦、4時過ぎに夢で目を覚まし、合計10時間は眠っていたことになる。

 


 ケイトが持って来てくれた無造作に置かれたままのティーポットを持ち上げると、若干紅茶が残っていた。
 自分が使ったグレーのカップにポットの紅茶を注ぎ、
 富四郎は一息で紅茶を飲み干した。

 


 カラカラなった喉を潤すと、急に尿意を感じた。
 ケイトが言っていたようにトイレは1階にしかない。



 狭い部屋を出ると、どこからか入った薄明かりで狭い急な階段が富四郎の目に入った。
 あらためて、思い出すと、二人が一晩を過ごしたのは屋根裏部屋だった。

 


 昨夜のケイトに習って、壁のスイッチに触れ、灯りに照らされた階段を踏み外さないようにゆっくりと階段を伝った。
 一旦、2階で息を整え、そのまま1階まで降りた。


 今にして思えば、カルグーリーの駅で途方に暮れながら駅舎を離れ、マイクが通りで小便を済ませた後、車内販売の売り子のケイトが突然現れてくれたのは幸運以外の何ものでもなかった。

 


 彼女の後を付いて、この家の玄関を潜り、そのまま2階から屋根裏部屋へ上がったので、この家のことも家族のことも何一つ知らなかった。


 
 屋根裏部屋に二人を引き連れたケイトがトイレとシャワーは1階の廊下の奥にあると、言っていたのを思い出した。
 膀胱がパンパンだ。
 ともかく、小便をしよう。

 


 カルグーリーに着く前に車両のトイレで用足して以来、
 約半日、汗以外の水分を体から出していないのだから。
 玄関口の電球色の灯りが照らす狭い廊下を進むと、左にキッチンと、そう広くはないダイニングの作りになっている。


 
 留学でオーストラリアに来て以来、1年少々経ちながら寮以外の個人宅を訪れたことがない富四郎にとって、外人さんが宣う、
 日本の家が狭い狭いと固定観念が染み付いていたが、
 ケイトが狭い家だと断っていたようにマイクとお世話になった、屋根裏部屋をはじめ、玄関、キッチン等を比較すると、 
 日本の田舎の富四郎の家のほうが遙かに広かったのである。

 


 日本にいる時は常識くらいの認識しかなかったが、
 富四郎の実家は農家で土地も、古い家ながら間取りも広かった。

 


 家取りの長男が嫁を貰い二人の子供を授かり、5人兄弟のうち、 残りの兄姉は家を離れ、両親と富四郎を含めて7人家族になっていた。


 末っ子で高校を卒業しても、東京、大阪に出ることなく、
 地元の大学に進学し、アパート暮らしや寮住まいを経験することなく、自宅から通学していた富四郎は和室8畳間を宛がわれた。
 世間知らずとはいえ、ある意味で恵まれた環境だったのである。



 富四郎は廊下に灯りが差し込むキッチンとリビングを目に入れながら、まっすぐにトイレを目指した。
 ドアを押すと、そこはケイトの言っていたようにトイレとバスタブが同じスペースに組み込まれるタイプになっている。

 


 奥に進み、便座の蓋を開けた。
 立ったままズボンのファスナーを降ろし、大事な物を抓み出した。

 パンパンに膨張した膀胱を開放するべく、勢いよく小便が飛び出した。
 するとどうしたことか、急に便意を催した。

 


 トイレの水を流すことなく、
 富四郎はそのままブリーフを腰まで下げ、便座に腰を降ろした。
 出る物を出して一安心すると、備え着けのトイレットペーパーで尻を拭き、汚物を流し、側にあった石鹸で手を洗った。



 富四郎は来た道を戻った、
 玄関口で廊下の灯りを消し、代りに階段の電球を付けた。
 ゆっくりと階段を上っている最中に真っ白で真っ赤な瞳、
 赤い首輪をした大きな猫と擦れ違った。
 猫は富四郎に構うことなく、するすると1階に降りていった。

 


 2階を通過して、富四郎が出て来た屋根裏部屋に入ると、
 いつの間にか起きていたマイクと部屋にやった来たケイトがベッドに腰掛けて雑談していのだ。



「おはよう、トミー」

 


 マイクとケイトは声を合わせた。

 


「おはよう」

 

 富四郎が朝の挨拶を返すと、

 


「寝惚けながらも、目が覚めると、トミーがいない。
 カルグーリーの駅からパースに向かって逃げ出したか、
 日本に帰ったじゃないかと気を揉んでいたところ、ケイトが来てくれた」

 


「そうよ、トミー。
 マイクと心配していたんだから」

 


 ケイトが屋根裏部屋に突っ立っている富四郎に目を移した。 


 
 マイクと並んでベッドに腰掛ける化粧気のないケイトの顔をよく見ていると、カルグーリー行きの車両のボックスシートで出会った制服姿の売り子の彼女とも昨夜、駅を出て途方に暮れていた二人の前に天使のように突如現れた黒い革のジャケットと黒いパンツ姿の彼女とも違って、ぐっどくだけたジーンズに紺のセーター姿に長い黒髪、化粧を落としたソバカスが浮かぶ白い肌のケイトは幼さすら感じさせるのだった。


「それでどこに行っていたの?」

 


「1階のトイレ」

 


 富四郎は目線を下げ、ケイトとマイクに応えた。

 


「寝相の悪いマイクの肘打ちで目を覚ましたので、そのままトイレに行くことした。
 昨夜のケイトを思い出して、恐る恐る階段を伝って1階に降りると、玄関の奥にトイレとバスタブが並んでいた。

 


 用を足し、ここに戻ってくる途中に白い大きな猫と擦れ違ったけど、この家の飼い猫?」

 


「リサに会ったのね。
 トミー同様にどこに行ってのか探していたけど、
 1階に降りていたんだ。
 それで、彼女、トミーに挨拶した?」

 


 富四郎は首を振って、付け加えた。

 


「僕を無視して1階に降りて行った」

 



「やっぱり。
 立っているのは疲れるでしょう。
 トミー、そこに座ったら?」

 


 ケイトが言うように、富四郎は屋根裏部屋の床に腰を降ろした。

 


「それで二人の今日の予定は?」

 


「まったくない」

 


 マイクが当然のように言った。

 


「それじゃ、今日一日、二人に付き合おうかな!」

 


「どうせ成り行き任せの旅だから、俺達は構わないけど、
 ケイト、せっかくの休日が台無しじゃない?」

 


「わたしならちっとも構わない。
 どうせ乗りかかった船だから、つぎの船が見つかるまでわたしは付き合うつもり」


「それはどうもありがとう。
 トミー、聞いたか。
 昨日の夜、ベッドに入る前に俺が言った通りだろう。
 この旅は当たりだな。
 旅の早々に強力な助っ人に巡り逢ったもんだ、と。

 


 それはそうと、見ず知らずの若い男を二人、家に連れ込んで、
 ご家族は迷惑じゃない?」



「両親なら気にしなくていいの。
 マイクとトミーがビルの屋根裏部屋に泊まったことすら知らず、いつものように二人はそろって7時前には仕事に出て行った。

 


 父と母は早寝早起きで日の出前には目を覚まし、
 簡単な食事を済ませると、そのまま車で仕事に出掛けるの」

 


「そうなんだ」

 


「だから、同じ家に住んでいても何日も顔を合わせないことも珍しくない。
 わたしが今の仕事を始めてからはその傾向がさらに強まった。

 だから、両親への気づかいなんて、心配御無用」

 


「それならいいけど」

 


「何か食べて、今日の予定を考えましょう」

 

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 22

 その夜は、ケイトの家に泊めてもらうことになった。
 ケイトは電球の灯りに照らさた玄関脇の木製の狭い階段を上っていった。



『ギー ギー』と、軋むよう音を気づかいながらも、
 後に続いた二人が2階に着いた。

 


 右手に持ったバッグをマイクが床に降ろすと、ケイトが口を開いた。

 


「どうもありがとう」

 


 彼女はそのまま2階の先の短い階段を上った。

 


「二人とも上がって来て」

 


 マイクに続いて富四郎が階段を上がりきると、ケイトは部屋のドアを開けた。
 電球色の灯りが部屋を映し出している。
 そこは天井がない左右の壁が三角形の狭い屋根裏部屋だった。



「ここは弟のビルの部屋よ。
 一ヶ月前、高校を出たばかりのビルが仕事を見つけて家を出た。
 以来、母がたまに掃除している程度だけど、二人が寝るだけなら充分よね。

 


 部屋にはビルのベッド一つで二人で一緒に寝ても、
 一人は下で寝ても、それはあなた達の自由。
 明日、わたしは休みけど、一緒に出掛ける、
 それとも、予定があるのかな?」

 


 二人は黙っていた。

 


「何かあったら、わたしの部屋は2階の奥。
 両親の部屋はわたしの部屋の隣だから、間違わないで。
 洗面は1階の廊下の奥でトイレとシャワーはその隣りで一緒になっている」

 


 そう言って、ケイトはこの場所を離れた。


         
 10分後、木製のプレートにティーポットと陶製のカップ二つとポテトのチップスを載せて、ケイトが部屋に戻ってきた。

 


「ミルクを忘れて御免なさい。
 お腹空いてない? 

 


 今、これしか用意できなかったけど、わたしはこれで失礼するわ。
 長旅で疲れたでしょうけど、今夜はここでゆっくりと眠って。
 お休みなさい?」


 ケイトが去り、あらためて、富四郎は腕時計で時間を確認した。
 ただ今、8時45分。
 カルグーリーの駅に着いて、1時間少々が経過。

 


 車両のボックスシートで売り子のケイトからホットドックを買って食べたのが3時過ぎ、腹が減るはずだ。
 そういえば、富四郎のバッグにパース駅の売店で買ったリンゴが二つ残っていたはずだ。
 バッグの底からリンゴを取り出した。

 



 ケイトの弟のビルが残した三角形の壁の一面を覆うように貼られた、アマゾネスのような金髪美女軍の裸体に見守られながら、
 テーブル一つない殺風景な屋根裏部屋に腰を降ろした二人はケイトが差し入れてくれたポテトのチップスを抓んだ。

 


 マイクはそのままリンゴを齧り、富四郎は両掌でリンゴを拭いて、 前歯で皮の感触を味わった。


「腹の半分も充たしていないけど、これでどうにか眠れそうだ」

 


 そう言って、マイクはカップの紅茶を飲み干し、立ち上がった。

 


 背が高いマイクは三角の壁に頭をぶつけながら首を振り、

 


「トミー、明日はどうする?」

 


「今晩はここでゆっくり休んで、明日になって考えよう」
 頭がパンパンになっていた富四郎は明日の事まで考える余裕すらなかった。



 明日になれば明日の風が吹く。
 二人はシャワーは浴びず、トイレに行くことなく、
 狭いベッドで体を寄せ合った。

 


 いつもより2時間以上早い9時過ぎにはベッドに入り、
 狭いベッドに二人で体を寄せ合いながら、
 長旅の疲れで、マイクの鼾を気にすることもなく、
 深い眠りに落ちていたのだが、悪い夢を見ていたのが、
 心臓の鼓動で富四郎は目を覚ました。
 今は真夜中のはずだ。


 夢の中で富四郎は母と二人だった。
 朧気ながら想い返してみると、夢は実家の隣の家だった。
 母と富四郎はその家に出向いて、母は年長のおばさんと言い合いになっていた。

 


 母を守ろうと、想わず富四郎が手を出すと、
 母の頬に右手が触れ、『ご免なさい』と、謝った。

 


 ここで、突然、夢は萎んで目が覚めた。
 何かのメッセージなのだろう、
 難儀な旅を気づかって、母が夢に出てくれたんだ。
 遠い日本を、故郷を想い、富四郎は母に感謝した。


 
 こんな夜中でも几帳面な性分から時間が気になり、
 左手首に嵌めているはずの腕時計を見ようにも部屋は真っ暗だ。
 ベッドから起きて、灯りを付ければ、ぐっすりと寝入っているマイクが起きかねない。


 
 寝相が悪いマイクはこの日に限って、狭いベッドで自分のポジションを維持するかのようにうつ伏せで寝入っている。

 


 ベッドに張り付たままの富四郎は手を伸ばせて届くところに置いたナップザックを引き寄せた。
 間口を開け、手を伸ばすと、光が灯っている。

 


 そうか。
 何かの役に立つかと、小型の懐中電灯を忍ばせていたんだ。
 良いのかの悪いかのスイッチが入ったままだ。
 懐中電灯を右手に持ち、左手首に光りを当てると、
 4時15分。

 


 夜明けまでにまだ暫くある。
 気を取り直して、目を瞑ると、夢を見ることなく、深い眠りに落ちた。

 

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 21 

 7時35分、列車は予定より30分遅れてカルグーリー駅に着いた。
 富四郎は黒いナップザックを背負い、マイクは青い手提げ鞄を首から肩に回して、プラットフォームに足を付けた。

 


 改札を抜け、駅舎に入ると、天井からぶら下がった電球がぼんやり灯っていた。
 


 ここが旅の第一関門のカルグーリー。
 二人と一緒に降りたであろう客の姿は見当たらず、猫の子一匹いなかった。
 駅の売店も閉まっている。

 


 期待は見事に外れてしまったが、誰を恨んでも始まらない。
 ホテルを予約しようにもインフォメーションらしき施設はなく、二人とも途方に暮れて、駅舎から外に出た。

 


 真っ暗で、まるで西部劇に出てくるような場末の停車場だった。
 タクシーもいなければ、時代遅れの馬車がやってくる気配もなかった。


「急に冷えてきた」

 


 マイクがぽつりと呟いた。
 6月は南半球のオーストラリアは冬の盛りだ。
 海に臨むパースから鉄道で10時間以上掛かった内陸のカルグーリーがより冷えるのは理にかなっている。
 冷たい風が身に染みる。



「小便がしたい。
 駅に戻るのも面倒だな」

 


 駅前とはいえ、ゴーストタウン染みた通りから、
 マイクは一歩足を踏み出し背を向けた。
 ジーンズのジャケットだけでは寒いのだろう。
 マイクが襟を立て、体を震わせると、脇から湯気が立っている。


「すっきりした。
 トミーもどうだ?」

 


 富四郎は首を振った。
 こんな事もあろうかと、富四郎はカルグーリー到着10分前に車内で用出しを済ませていたのだ。

 


「トミー、これからどうする?」



 富四郎は黙っていた。
 ボックスシートの中で想い浮かべていたのは、
 ともかく、カルグーリーに着けばどうにかなるだろう。
 日本の田舎を旅するように温泉に浸かり、土地の美味い物をお腹に詰め込んで、旅館でのんびりしよう。

 


 そんな贅沢を夢想していた訳ではないが、
 ホテルの一つや二つはすぐ見つかり、晩飯を食って、
 シャワーを浴び、暖かいベッドに潜り込み、旅の疲れを癒そう。
 旅の行方を考えるのはそれからでいい。



 事態は想いもよらない展開だ。
 この寒さで、どこに行けばいいのか見当もつかなかった。
 風が吹いてきた。
 北風なのか南風なのか、ここ南半球のオーストラリアでは日本の常識が通じないのが当然なので、今更、ここで愚痴を言っても後の祭りである。



 突風が吹き抜けた。
 黒いジャンバーを羽織った富四郎も体を震わせ、
 マイクのハンティングが飛ばされた。
 通りに転がり、ハンティングを追ってマイクが手を伸ばすと、
 通りを歩く若い女性が声を掛けた。

 


「あなたは?」

 


 ハンティングを手にしたマイクが目線を上げると、

 


「やっぱり、あなたですね。
 わたし、車内販売の売り子のケイトです」

 


 メイドのような白い制服から黒いパンツと黒い革のジャケット姿に様変わりしたケイトは車内ではアップにしていた黒い髪を靡かせながら黒いボストンバッグを右手に提げていた。


「僕はマイク。
 向こうは寮のルームメイトのトミー」

 


「マイクとトミーね」

 


 ケイトは黒いジャンバー姿の富四郎に目を移した。
「でも、こんな所で何をやっているの?」
 マイクは自分が言うべき台詞を確認するようにごくりと唾を飲み込んだ。


「正直に言うと、今晩、泊まるところがなくて困っているんだ」 
「そうなの?」

 


 背が高いマイクを見上げたケイトは同じ背丈ほどの富四郎に目を移した。

 


「ボックスシートでは余裕しゃくしゃで、そんなこと言ってなかったじゃない」



「あの時は今夜泊まる所にも困るとは想ってもみなかったから。
 言うのを忘れていたけど、実は乗る車両を間違えて、
 ジェラルトンに行くところをガルグーリーに着いてしまった。
 パースを出発して30分後、乗車券の確認に来た車掌に教えられてね」

 


「と言うことは、わたしがサービスしていた時にはすでに解っていたのね」

 


「そう言うこと。
 考えてどうしようもないから、開き直っていた」

 


「パースに引き返そうとは思わなかったの?」

 


 マイクは黙ったまま、首を振った。



「二人とも若いのにドンと構えているなと想ったけど、
 これからどうするの?」

 


「見ての通り。
 とんだ見当違いだった」

 


「そうね。
 二人とも、行く当てがないんなら、わたしの家に来ない?
 ちょうど弟の部屋が空いているから、どうにかなるんじゃない。
 ここから少しあるけど、わたしの後を付いて来て」

 


「その前に大きなバッグが俺が持つよ」

 


「ありがとう」

 


 マイクは自分の青い手提げ鞄を左肩に回し、ケイトのバッグを右手に持った。


「結構、重いけど、何が入っているの?」

 


「いろんな物よ。
 車内販売の制服や靴。
 化粧品、下着、衣服、そんなところからな」


 富四郎とマイクはケイトの後を付いて歩いた。
 殺風景なカルグーリーの駅前から歩くこと約10分。

 


 これから泊めてもらうというのに失礼この上ないが、
 等間隔に設けられた街灯が辺りを照らしているとはいえ、
 人も車の通りも少ない何もない田舎道を気にするようでもなく、ケイトは履き替えたブーツの音を鳴らして颯爽と歩いた。



 通りから住宅街に入って、数軒の家を過ぎて、ケイトが古い家の前で立ち止まった。

 


「ここがわたしの家。
 弟が仕事で北部に行ってしまったので、
 今、住んでいるのは両親とわたしの家族3人。
 小さな家で何もないけど、わたしの家にようこそ」

 

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 20

「早いけど、今からお昼にしようよ。
 途中でお腹が空けば車内販売で何か買えばいいし、
 どうにかなるだろう」



 気転を効かせたマイクが早いお昼にしようと富四郎に持ちかけた。
 いつもより1時間以上早起きして、6時過ぎには朝食を終えていたので、二人の腹の空き具合はもう昼前だった。



 富四郎はマイクの提案に頷いた。
 腕時計は9時35分。
 立ち上がった富四郎は棚の上から黒のナップザックを降ろした。

 


 駅の売店で買ったサンドイッチ、ビスケット、紙パックのオレンジジュースを紙袋からそれぞれ二つずつ取り出した。

 


 ボックスシートに向かい合った二人は窓際の小さなテーブルに置いたサンドイッチを抓み、紙パックのオレンジ・ジュースを飲んだ。
 日本のジュースより酸味が強く感じた富四郎は2度、3度。
 喉が詰まり、軽く咳払いして、喉に溜まった唾を飲み込んだ。



「トミー、大丈夫?」

 


 富四郎は目でマイクに応えた。

 


「大丈夫だよ!」


 
 もう一片のサンドイッチを手に取り、喉の奥に送り飲み込むと、 富四郎はそのままビスケットの包み紙を解いた。

 


 ビスケットは二束でクリーム味とチョコレートの15枚ずつの味違いで、クリーム味とチョコレート味を一つずつ口にすると、
 富四郎の意識は薄れ、もう忘れてしまったはずの子供時代の遠足の景色だった。

 


 保育園の年長さんか小学校1年生で、
 今では名前も忘れてしまった仲間と田舎道を歩いていた。
 山道を越え、神社の鳥居を潜り階段を上って行くと、木々が覆う森。

 


 境内までの束の間の一時に太陽の薄灯りが足元に届いている。
 目には見えない鳥の鳴き声が響いた。
 古新聞紙を広げて、ひんやりと地面に腰を降ろした。


 肩から首に回した緑の鞄から弁当箱を取り出した。
 白いハンカチの包みを解き、母が作ってくれた大好きな巻き寿司と卵焼きに手を伸ばそうとすると、富四郎は目が覚めた。



 いつの間にか眠りに落ちていたのだ。
 目を覚ますと、マイクが富四郎の肩に首を垂れ、鼾を立てて眠っている。

 


 腕時計は1時5分。
 お昼を食べ始めたのが10時前だったから、3時間近くが経っている。
 窓の外は見たこともない荒涼の大地が続いている。

 


 西海岸の南のパースから東へ数時間、列車で走っただけで、
 オーストラリアが雄大な大陸であり、かつ大きな島国でもあると言われる所以が少なからず実感できた。


 富四郎は変化に乏しい外の景色を眺めていた。 
 この旅はいったいどうなるのだろう。
 皆目見当がつかないが、車掌によると、午後7時にはカルグーリーという金鉱山を有する町に辿り着くそうだ。


 前世紀、一攫千金を求め、世界中から集まったであろう、
 荒くれ者のような気負いも夢も抱くこともなく、
 ただただこれからどのような展開に待ち構えているのか、
 窓際の小さなテーブルに肩肘を付いて、
 窓に張り付いてかのように変わることがない景色に富四郎は深いため息をついた。



 子供の頃の夢でも見ているのか、寝言を呟いていたマイクが突如、


「トミー、ここはどこだ?」

 


 寝惚けているのか覚醒しているのか、トミーは声を出した。

 


「車両のボックスシートだよ」

 


「そうなんだ。
 墓場に向かっているんじゃなかったんだ」

 


「墓場?」


「そうだ。
 僕が子供の頃に住んでいたニュージーランド南島のクライストチャーチ郊外に古い墓場があって、そこが近所の子供たちの遊び場になっていた。

 


 一人っ子で、同級生や同級生の姉さんや二つ、三つ年上の悪ガキどものいじられ役で毎日のように墓場の周りを走り回っていた。
 今で言う使い走りだ。

 


 ガキ大将の子分になって、この金でお菓子やジュースを買ってこいとか、近くの家に怖い犬がいるから様子を見てこいとか言われて、駆けずり回った。



 夏の墓場はまだマシだけど、冬は最悪だ。
 いつ幽霊が出てきてもおかしくないほどの不気味さで、
 他所の家の墓標に腰掛けて、足をブラブラさせていると、
 尻の底からからシンシンと冷え、膀胱がパンパンに膨れて、
 ついつい、墓の周りで立ち小便してしまった。


『マイク、今晩、この墓に眠っている幽霊がお前の部屋の窓の外から忍び寄って、お前のおチンチンを噛み千切りるから用心しろ』


 その夜、僕は一睡も出来ず、明け方になって寝ついて、
 目覚めたら、ベッドの中が寝小便の海になっていた。


 
 ある日、例の仲間たちで墓場の近所の家の窓に石を投げる悪戯をしている時だった。
 石を投げて、逃げようとしら、いつもは鎖に繋がれている大きな犬が急に飛び出して、僕に襲い掛かる。

 


 助けて! と悲鳴をあげると、悪ガキどもの姿はどこにもなく、逃げ去っていた。

 


 このまま、犬に噛み殺されて、死んでしまう。
 覚悟を決めた。
 僕はこのまま天国に行くんだなと」

 



 マイクがそこまで話すと、ワゴンを押した車内販売の売り子の若い白人女性が映画のような昔ながらの白いメイド衣装で現れた。
 待ってましたかのようにマイクが声を掛けた。


「サンドイッチはありますか?」

 


「残念ながら売り切れました」

 


「ビールは?」

 


「ビールも売り切れです」

 


「コーヒーは?」

 


「今日はいつもよりお客さんの注文が多く、
 残っているのはホットドックとティーだけです」

 


 マイクが富四郎の目を見て確認を取った。

 


「それなら、ホットドックとティーを二ずつ下さい」

 


「ありがとうございます」


 彼女はワゴンの中からホットドックと紙コップと紅茶のティーバッグとプラスティックのスプーンを二つずつ取り出した。
 包み紙から外した紅茶をコップの中に入れて、ワゴンに乗せた魔法瓶の湯を注いだ。

 


「ミルクと砂糖はどうされます?」

 


 黙ったままマイクが首を垂れた。

 



 マイクは紅茶の中に角砂糖と赤ちゃんが飲むような小さな容器に入った粉ミルクを入れた。
 紅茶の中でミルクが浮かび上がり、ゆっくり沈ん行く様を確かめるようにマイクはスプーンでコップの中の紅茶を掻き混ぜた。

 


 
「この列車は金の鉱山で栄えたカルグーリーに向かっているんですよね?」

 


「その通りです。
 わたしはカルグーリーに住んでいますが、露天掘りがある金鉱山は町からかなり離れたスーパーピットという場所です。
 小学生の頃、学校から見学に行きましたが、あまり楽しい場所ではありませんでした。

 


 この仕事でカルグーリーとパースと往復していますが、
 はっきり言って、パースに住んでいる人が羨ましい。
 わたしの両親くらいの人やお年寄りはともかく、
 若い人はパースやシドニー、メルボルンのような都会に憧れて、 町を出て行きます。

 


 それも仕方ありません。
 わたしも近いうちにパースに住みたいと思っているくらいですから。
 お客さんたちはパースの人ですか?」

 


 彼女はマイクから目を外して、富四郎を見た。



「僕たちは留学生です。
 僕がニュージーランド人で隣のトミーが日本人です」

 


「そうですか。
 外国から来られているのですね。
 これと言って何もないカルグーリーですが、良い旅を」

 


 マイクが二人分の代金を支払うと、
 彼女はワゴンを押して、ボックスから離れた。



 マイクは口を潤すように紙コップの紅茶に口を付けると、
 ホットドックを一口頬張った。

 


「ソーセージにマスタードが効いているな」

 


 マイクは紅茶を一口飲んで、ホットドックを二口で平らげた。

 



 富四郎はまずは紅茶に口を付けた。
 それから、ゆっくりとホットドックに口を移した。
 少し辛いが旨味がある。
 ミルク入りの紅茶を飲み、ホットドックを食べ終えて、もう一度紅茶を飲んだ。



「どんな町か想像しても始まらないが、日暮れ過ぎにはカルグーリーに到着する」


 
 そう言って、マイクは目を閉じた。

 

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 19

 旅に出る数日前から富四郎とマイクが話し合った結論として、
 まずはパースから北に向かう。

 


 西オーストラリア州ジェラルトンから行ける所まで行って、 
 足回りが良い地点を定め、二人の旅は第2幕を迎える。
 そこから先は行き当たりばったり感が強いがどうにかなるだろう。


 
 前夜は軽い興奮状態でなかなか寝付けなかった富四郎だが、
 ルームメイトのマイクは肝がすわっているのか、
 いつもながらベッドに入るなり軽い鼾を掻いている。

 


 今年のマイクとの旅は言い出しっぺではないにしろ、
 流れに任せ、どこまで行くのか、何日間の旅になるのか、
 今のところ皆目見当が付かない。

 


 ただ、マイクとの暗黙の了解で7月の新学期が始まるまでにはパースに、出来れば6月中に寮に戻ること。
 最終目的地の候補をノーザンテリトリーのダーウィンとしている点である。



 富四郎がベッドから起き上がり、ランプの灯りを頼りに窓を開けると小雨が降っていた。
 マイクは体を海老のように体を丸め、眠っている。
 音と立てないように部屋を出てトイレから戻ると、
 大口を開いて欠伸をするマイクと目が合った。



「おはよう」

 


「おはよう」

 


 マイクがオウム返しに口を開いた。

 


「トミー、いよいよだね」



 寮のキッチンでシリアルに牛乳をかけ、包丁でバケットを半分に分け、インスタントコーヒーに浸し、ほぐしながら食べた。
 朝食が終わると、二人そろって部屋に戻り、昨夜纏めた荷物のチェックに取り掛かった。

 


 まめに洗濯するとして、富四郎は着替えに三日分のTシャツ、
 パンツ、靴下、長袖シャツ一枚、ハンカチ、歯ブラシ、歯磨き粉、 タオルを大学院への通学に使っている黒のナップザックに詰め込んだ。

 
 マイクの荷物は青い手提げ鞄一つだ。

 


「たったそれだけなの?」

 


 富四郎はマイクの少な過ぎる荷物に目をやった。

 


「トミー、僕の手提げが気になるようだね。
 中にはパンツとシャツと靴下がそれぞれ二日分、歯ブラシと歯磨き粉だけだ。
 それに加え、僕は怪我や病気に備えて、薬を常備している。
 高校時代のニュージーランド北島の旅もこの手提げと荷物量で乗り切ったから、これで充分だ」

 


 マイクは自信たっぷりのようだ。

 


「今から洗面台で歯を洗って髭を剃り、トイレを済ます。
 トミー、準備はいいかな?」


 部屋に戻り、富四郎は昨年と代り映えがしない綿の長袖シャツに茶色のセーターを重ね、黒いズボンに黒のジャンバーを羽織り、黒い運動靴に両足を突っ込んだ。
 マイクは緑のハンティングを被り、ジーンズの上下に青い運動靴を履いて準備が整った。


 1階に降りると、昨年と違って今年は誰にも声を掛けられることなく、二人がすんなりと寮から出ると、雨はすっかり上がった。

 


 通りでバスを待つこと3分。
 シティーセンターまで約10分。
 一番後ろの席に陣取った二人は言葉を交わすことなく、
 パース駅で降りた。


 
 ロータリーから駅の構内に入ると、
 二人揃って、何かの暗示のように頭上の告知板に始発電車でありながら出発時刻が15分遅れの表示に目についた。

 


 時間があるので、その間にチケットを買い、トイレに寄った。
 売店でサンドイッチ、ビスケット、リンゴとオレンジ・ジュース等を買い込んだ。

 


 プラットフォームに出て数分後、二人の前に車両が現れた。
 日本ほど鉄道インフラが整っていないとはいえ、
 富四郎はオーストラリアに来て、パースに来て1年2ヶ月にして、初めて電車に乗る。

 


 それほど富四郎はパースの街から遠出することなく、
 大学、大学院のキャンパス内、寮に籠もっていた。


 心臓の鼓動が聞こえてくる。
 マイクと連れ立って、車両のステップを踏み、車内に乗り込んだ。
 自由席のボックスシートに腰を降ろして、富四郎は腕時計を見た。

 


 8時45分の出発時刻まで5分。
 車両が引き摺られるようにゆっくりと動き始めた。
 15分遅れだから、午後6時前後に目的のジェラルトンに到着するはずである。

 


 車両はパースの市街地から次第に遠ざかり、辺りはどこまでも続く平原の只中を走っている。


 30分後、チケットの確認のため紺の制服姿の小柄な若い車掌がボックスシートに入って来た。
 富四郎とマイクが財布に収めていたチケットを渡すと、車掌は首を傾げた。



「どうかしました?」

 


 マイクが車掌に尋ねた。

 


「ジェラルトンに行かれるのですか?」

 


「そうですけど、それがどうかしました?
 6時過ぎには終点のジェラルトンに着きますよね?」

 


「残念ながら、この車両はジェラルトンには行きません。
 乗る車両をお間違いになったのでは?」

 


「パースを15分遅れのジェラルトン行きでしょう?」

 


「いいえ、この車両は定刻通り、8時45分発のカルグーリー行きです」



 車掌によると、カルグーリーは19世紀末に金鉱が発見された、  今も採掘されている世界規模の露天掘りで有名なスーパーピットを有する町で、そこから50キロほどの手前のクールガーディ周辺とゴールドフィールドが、それこそ金の一帯と呼ばれているそうだ。


「何かの弾みで間違えたとはいえ、
 僕達が乗ったこの車両はゴールドラッシュで栄えた、
 今も現役の鉱山の町に向かって走っているんですか?」

 


「その通りです。
 チケットはどうされますか?
 この次の停車駅で乗り換えて、一度、パースに戻られますか?」

 


 マイクは車掌の顔を見て、富四郎の目を見返し、確信した。
 どうせ行き当たりばったりの旅じゃないか、運が良いのか悪いのかはともかく、このまま突き進むことに異論はないと。



「これも旅の醍醐味です。 
 今更、パースに戻りません。
 このままゴールドラッシュの町に向かいます」

 


「そうですか。
 それではジェラルトン行きのチケットは一旦キャンセルして、
 お金を返還し、あらためてカルグーリー行きの代金を頂きます。
 差し引きで少し足しが必要ですが、宜しいですか?」


 
 マイクは富四郎の目を見て、小さく頷いた。

 


「解りました」

 


 車掌はマイクと富四郎のそれぞれチケットを回収し、素早く新たなカルグーリ行きのチケットを作成して手渡した。
 二人から追加の代金を徴収し、手際よく事態を収め、車掌はボックスから下がった。



 パースから北に向かう予定が突如、東に向かう羽目になった。
 電車は走り続けている。
 想いもしない展開にもマイクも富四郎も動じることはなかった。
 成り行きに身を任せるしかない。

 


 とはいえ、海に臨んだ町から対照的な砂漠の只中にあるような、現役であるとはいえ、かつてゴールドラッシュで栄えた、
 金鉱山の最寄りの町に向かっていると聞かされて、
 一瞬、二人とも黙り込んでしまった。

 

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 18

 マイクが寮に入って2ヶ月近くが過ぎた。
 四六時中とはいえないながらも、大学、大学院に行っている時間を除いて、夕方から翌朝まで、寮での食事、シャワー、トイレ、リビングで他の学生との交友時間以外、睡眠時間を含めれば、少なくとも一日、10時間から12時間程度は狭い部屋で二人で過ごさなければならない。

 


 社交的ではないにしろ、それなりに人付き合いが出来る富四郎は王同様にマイクとは近づき過ぎず、適度な距離を保っていた。

 



 6月に入ると、大学と大学院が冬休みになる。
 富四郎に帰国の予定はない。
 日本に戻り、両親と姉と生まれたばかりの姉の子供に会いたい。
 1年ぶりに懐かし故郷の景色を眺め、家族と食卓を囲む。
 富四郎とて、人間なら当然の感情を持ち合わせていた。


 ニュージーランド出身のマイクは隣国とはいえオーストラリアの西の外れのパースから丸一日がかりの移動と旅費を考えると、
 1年後の留学を終えるまで国に戻る予定はなかった。

 富四郎はルームメイトになったマイクと1ヶ月の長い休みの間、ずっと顔を付き合わせていることになる。

 


 それを憂慮してではあるまいが、冬休みの1週間前、
 夕食が終わり、二人がそろって部屋に戻って来た直後、
 マイクが富四郎に休み期間中の予定を尋ねた。



「トミー、冬休みは日本に帰国しないんだよね」

 


「そうだよ。
 できれば、帰ってみたけいけど、遠いし、お金がないから」

 


「僕もそうなんだ。
 トミーは長い休みに何をするの?」

 


「これといった予定はないから本でも読んでいる。
 図書館は閉鎖されないので、図書館で過ごすか、
 借りた本を寮で読むか、そんなところじゃないかな」

 


「そうなんだ。
 僕もニュージーランドに戻る予定はないから、
 二人でどこかに出掛けない?」


 富四郎はマイクの目を見て、彼の本気度を窺がった。
 この頃にはマイクと富四郎は二人で旅行に出掛けてもおかしくないほど気心が触れ合っていた。



「去年の冬休みは、マイクの前のルームメイトだった中国系のシンガポール人の王がチャイナタウンで日本車を借りてきて、
 二人で出来れば近場のどこかで一泊しようと、この部屋を出たところ、リビンでギターを弾いて歌っていたジミーとロバートというアイリッシュコンビが車に乗り込んで、4人で寮を離れたんだ」

 


「それでどうなったの?」

 


「男4人を詰め込んだ車はパースの南の海岸を走った。
 小一時間も海外沿いを走ると、車は一転、内陸に入り、ロバートがどこかで耳にした山小屋を目指すことになった。
 車が海外沿いを離れると、景色はそれまでとは様変わりして、
 どこまでも続く牧草と牛と羊の天国が現れた。


 
 ロバートが言った、山らしい景色もなければ、姿も現れない。
 どこまでもどこまでも緑の平原が続くかと想われたところ、
 急に小山が車のフロントガラスに映り、池が目に入った。


 
 池の側に車を駐めて、4人で山を登って行くと中腹にロバートが言う、小ぶりな山小屋が建っていた。
 僕らは急遽、狭い山小屋に一夜を供にすることになった。



 王がチャイナタウンで仕入れた二人分の食料を彼らにも分け与えることにした。
 小屋の前で急拵えの竈を作り、枯れ木に火を熾し、王の持っていた鍋でご飯を炊いた。

 


 夕食後、竈の火の周りに4人が集まり、
 ジミーが車のトランクに積んだギターを弾いて、
 寒さを吹き飛ばすように大声で歌を暖を取り、一夜を凌いだ。

 


 オーストラリアに熊はいないし、
 オーストラリアの野犬といわれるディンゴにも遭遇しなかった。
 それが1年前の冬休みの思い出かな」



「トミー、今年はもっと遠くに出掛けてみない?」

 


 今度はマイクが富四郎の表情を窺がった。


「僕はギターも弾けなければ、車の運転免許も持っていないけど、去年が車での近場の一泊なら、今年はバスでも鉄道でも、ヒッチハイクでもかまわない。
 山でなくとも、海でもいい。

 


 ちょっとしたアイデアがあるんだ。
 僕は高校時代にラグビーの練習が休みの期間に人生初の一人旅を経験した。
 もちろん、両親の許可を得て、少年時代の夢の延長である冒険に挑んだ。

 


 実家のあるニュージーランドの南島からフェリーで北島に渡って、首都のウエリントンから北に向かって鉄道を利用した。
 途中下車しては名前も知らない町に立ち寄り、野宿すると、さらに北を目指した。
 かつての首都で最大都市のオークランドに着いた。


 
 ニュージーランドは細長い二つの島がメインで人口が少なく鉄道がそれほど発展していないので、公共交通機関を使っての旅には頭を使って、運を引き寄せるしかない。

 


 そこで、僕は考えた。
 どうやって、ニュージーランドの最北端まで辿り着くか、ここからが正念場だ。
 トミー、どうしたと想う?」


 
 富四郎は黙っていた。
 オーストラリアの隣国とはいえ、ニュージーランドの知識はほとんどなく、考えたこともない。



「僕は無免許ながら、父の車を何度か運転したことがあって、
 バイクにも乗れるけど、鉄道での移動はオークランドまでにして、僕はオークランドから先はバスとヒッチハイクに切り替えた。

 


 そうせざるを得なかったのは事実だけど、今まで自分が経験しなかった夢想だにしなかった事が現実となった。
 この旅で僕が経験しなかったのは泥棒や犯罪くらいだ。
 小説の一本くらいは書けるようなぐっと詰まったような10日間だった。

 


 タダで人の車に乗せてもらい、トラックに乗せてもらい、 
 屋根のないピックアップの上で果てしく続くような草原を眺めたりもした。

 
 牧場に潜り込んで牛や羊に騒がれないように一晩を過ごしたり、どうにかこうにかニュージーランドの最北端に辿り着いた。
 そこから南に下るのは、はるかに簡単だった。



 この冬休み、もしトミーがよければ、大学や寮のあるパースから北に向かい、どこでもいい適当なところに泊まって、
 最終的な目的地は北部のどこかに設定する旅はどうかな?

 


 僕のニュージーランド北島のようにノープランの旅も面白そうだし、トミーの好みでないなら、きっちりと計画してもいい。
 どう、この話に乗ってくれるかな?」


 富四郎はマイクの顔色を窺った。



「一つ気を付けて欲しいのは南半球のニュージーランドやオーストラリアでは北に向かうと赤道に近づくので気温が高くなる。
 大学で知り合ったイギリスやアイルランド、ヨーロッパの留学生もそうだけど、赤道の北にある北半球の国とニュージーランドやオーストラリアでは季節同様に常識が真逆なんだ。
 北半球に住む、日本人のトミーも同じはずだ。

 


 そう言う僕も赤道を越えたことがない。
 そんなニュージーランド人の言葉に説得力がないのを承知で言わせてもらうと、生まれ育った環境の影響は想像以上に大きい。
 頭で解ってはいたけど、想像以上だった」



 富四郎はマイクと旅に出ることに合意して、
 次の日から二人で旅の計画を練り始めた。
 冬休みまであと6日。
 定期試験も終わり、富四郎は7月から大学院の2年目を迎える。
 それまでの1ヶ月間はよく言えばリフレッシュ休暇だ。

 


 大学、大学院に通う必要はなく、帰国するなり、実家に戻るなり、アルバイトするなり、図書館で勉強に励むなり、人それながら、富四郎とマイクの二人は連れ立って旅することなった。


 富四郎もマイクが言うパースから北に向かう、赤道に近づく旅に興味を惹かれた。

 


 オーストラリアの西端の南に位置するパースから北に向かうとすれば、地図や時刻表を開かずとも、公共交通機関が脆弱なのは一目瞭然。

 


 鉄道で行ける範囲には限りがあるし、そこから先はどうやって行けるか首を傾げるばかり。
 高校時代のマイクが経験したニュージーランド北島のオークランド以北より何もない広大で辺鄙な土地が果てしなく広がる。



 富四郎とマイクの寮があるオーストラリアのパースをニュージーランド最大都市のオークランドと見立てたとして、最初から鉄道を捨てるか。
 それとも、パースをニュージーランドの北島の南に位置する首都ウェリントとして、行けるとこもまで鉄道を使って辿り着いた地点が富四郎とマイクにとってのオークランドなのか。

 


 考えれば考えるほど頭がこんがらがってしまうが、
 考えに考えないと動けない富四郎は冬休みまでの数日間、
 自分なりの結論を出そうと、図書館に通い詰めた。
 


 図書館ではいつも生物学に浸っている富四郎も、
 試験を終え、リラックスした雰囲気でオーストラリア西部から北部にかけての本を手に取った。

 


 自国であるはずのオーストラリアとはいえ、それほど需要がないのだろうか、所謂ガイドブッグとよばれるタイプの旅行書は稀で、図書館に蔵書している本はこの地域の歴史を踏まえた解説書形式になっている。



 パースの北側が、オーストラリア北部がどんな歴史的な背景を持ち、どんな都市や地名があり、何があるのか、どういった見所があるのか、マイクに言われるまで富四郎は考えたこともなかった。

 このエリアについて、ニュージーランド程度の知識と興味しか持ち合わせていなかった。

 


 生物学を学ぶために留学している富四郎にとってのオーストラリアとは学びの場として大学院、住まい居場所となっている寮がある西海岸のパース、それ以外のことはシンプルにざっくりと捉えていたのである。


 地図上でオーストラリを俯瞰すると、
 日本の四国を巨大化して、赤道を越えて南に下ったのがオーストラリアであり、オーストラリアの西海岸をぐっと下った位置にパースがあり、ほぼ同緯度ながらやや南に、直線距離で三千キロ以上、鉄道の営業距離では四千メートル前後、ぐっと離れた東海岸に富四郎が訪れたことがない国内最大都市のシドニーがある。

 


 シドニー南西の位置にするのが第二の都市のメルボルン、
 二つの大都市から等距離、ややシドニーよりに誕生したのが首都のキャンベラであり、その程度の事を再確認した。



 数時間かけて、富四郎は数冊の本を読むにつけ、
 オーストラリアの歴史とオーストラリ西部並びに北部の地理をぼんやりながら認識できるようになった。

 


 オーストラリア留学が決まった時点で、日本でも得られるような知識に今更感はあったものの、今からでも決して遅くはない。



 大学院での学びが大事には違いない。
 英語も然りであるが、それ以前に自分の生活基盤となっているこの土地がどのような成り立ちで今日に至っているのか、
 原点に立ち戻るといえば大袈裟であるが、
 マイクとの旅でに出ることになって、そのことに気づかされた。

 


 気になった数冊の本を借りて、富四郎は寮に戻った。
 マイクと旅に出るまで数日間に多少なりとも頭の中を整理をしたいものである。

 

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 17

 パーティの翌日、王が寮を去った。
 それから十日後、ジミーとロバートが続いた。
 王が寮を去ったことで、二人で10ヶ月過ごした部屋は富四郎だけになった。

 


 解っていたこととはいえ、一人になれて気が楽になるどころか、狭い空間に虚しさが漂っていた。
 王が使っていた机とベッドはそのままで次の主がやって来るのを黙って待っている。



 大学院での講義、図書館で本に集中している時はともかく、 
 寮に戻り、食事を終え、シャワーを浴び、
 ベッドに入るまでの時間が富四郎にはなんとも苦痛だった。
 言葉を交わさなくても、すぐ側に王がいてくれるだけで、
 どれだけ自分を支えていてくれたかを富四郎は思い知らされた。

 


 今、やるべき事といえば勉強に励むことだが、
 一人になった寮の部屋で己を鼓舞しようにも、大学院や図書館ほどの集中力を維持できない。
 本を開き、10分も20分もすると、ため息とともに本を閉じ、
 目を閉じて本の上に顔を埋めてしまう。
 そのままベッドで眠ろうにも気が冴えてしまう。



 王は何をしているのだろう。
 家族に囲まれて、美味しい中華料理を食べ、家業のホテルを手伝いながら、大学復帰への準備をしているのだろう。
 帰国して1週間後に、絵ハガキを寄越してくれたが、
 寮でのお礼と挨拶程度の短い文章から彼の生活を推し測ることは困難だ。

 


 富四郎は富四郎の道を進み、王は王の道を進む。
 ジミーにしても、ロバートにしても同じことだ。


 富四郎はオーストラリアのパースの地を踏んで1年が過ぎた。
 今、日本が桜の季節なら、赤道を越え真南に位置するオーストラリアは秋の只中。


 4月、富四郎の新たなルームメイトはニュージーランド人のマイクという二十歳の若者だった。
 富四郎より三つ年下で、肌色は白く、茶色の瞳と髪の毛を持ち、 痩せぎすながら身長が190センチ近く、薄らと無精髭を生やしていることもあって年上のように見えなくもない。

 


 2月までルームメイトだった中国系シンガポール人の王も背が高かったが、一つ下でせいぜい同級生にしか見えなかった。



 母国ニュージーランドを離れるのが初めてで、
 同じ英語圏で兄弟国のようなオーストラリアとはいえ、
 やはり、生まれて20年間過ごした環境とは違って、
 ちょっとした違和感を感じると、マイクは言った。

 


 寮の食堂で夕食を終えた月曜日の夕方、二人は部屋に戻る前にリビングに寄った。
 富四郎がキッチンのコンロに薬缶を掛け、お湯を沸かし、ティーバッグの紅茶を飲み寛ぎながら、マイクが語り出した。



「トミー 僕は高校時代までニュージーランドのナショナルスポーツのラグビーに打ち込んでいたけど、日本での人気はどう?」

 


「どうかな?
 僕の地元でラグビーをやっている人はほとんどいなかった。
 スポーツ音痴の僕はラグビーのルールもよく知らないけど、
 県内の高校でラグビー部は数えるほどしかなかったはずだ。
 一番人気は野球でその次はなんだろう」

 


「そうなんだ。
 日本はラグビーをする人は少ないんだ」

 


 ここでマイクは紅茶一口飲んだ。



「ラグビーの本場のイギリスではサッカーと同じようにイングランド、スコットランド、ウェールズというように協会があって、
 それぞれ別の国のようにラグビーを競う。
 お隣のアイルランドはちょっと難しい立ち位置だね。

 


 それに加えて、大陸のフランス、僕の母国のニュージーランド、 今いるオーストラリア、南アフリカの8ヶ国がラグビー強豪国なんだ。
 


 僕は子供の頃から地元のクラブでラグビーをしていたけど、
 それほどの選手でもなかった。
 サッカーボールと違って楕円形のラグビーボールを蹴るのは難ししい。

 


 足が速い訳でも、試合の流れを読んで、的確に判断を下す、 
 選手の中の監督といわれるスタンドオフをやれるような選手でもなかった。


 
 身長はあっても体重が軽くて、15人中8人いるフォワードは務まらず、怪我したり、空きが出たポジションをこなす便利屋でしかなかった。
 ナショナルチームのオールブラックスに入れるような器じゃなかったということだ。

 


 それを自覚していたから、ラグビーは高校で一区切りして卒業した。
 大学に入っても、ラグビーボールに触れることはなかった。



 それが、オーストラリアのパースの大学に留学して、公園でラグビーボールに戯れる子供たちを見るにうちに僕の心境に変化が生じた。
 本格的にラグビーをやることはないにしろ、もう一度、ラグビーボールに触れたいとね」

 


「僕がスポーツ音痴でも、ラグビーが手でボールを持ってタックルできるくらいは知っている」



「それはありがたい。
 トミーは生物学を学んでいるんだろう。
 僕は自分の目標が定まらないんだ。

 


 実はオーストラリアではなく、アメリカがイギリスに留学したかったけど、アメリカもイギリスも南太平洋に浮かぶ小さな島国のニュージーランドからは遠く、お金の都合もあって、
 結局、オーストラリアのパースに落ちついた。

 


 人生で何をしたいか定まっているトミーが羨ましくもあるけど、留学期間の1年間で僕はこれから何をやりたいのか、
 その手掛かりが掴めればいいと思っている。



 君も知っているようにニュージーランドはオーストラリアと同じように自然の宝庫であり、ヨーロッパから連れて来られた羊をはじめとする家畜や野生動物で溢れている。
 羊なんて人の数より何倍も多い」



「僕の母国の日本もニュージーランドと同じように太平洋に浮かぶ島国だけど、羊の数はそれほど多くはない。
 日本で羊といえば北海道かな。

 今から3年前の夏、大学3回生の頃、先生に連れられ、学生仲間と日本列島の北の島である北海道を訪れたことがある」



「地図で見て知っていたけど、北海道と言うんだ」

 


「それはどうもありがとう。
 その時が初めて北海道でそれ以来、訪れてはいないけど、
 たった一度だけの10日ほどの旅だったけれど、感じることが多い旅だった。

 


 その昔、北海道にはアイヌ人と言われる人達が住んでいた。
 表現するのは難しけど、本土の日本人とは少し違った人達なんだ。

 


 今から百年以上昔、日本で言えば将軍や大名、侍が日本を支配していた江戸時代に領土の野心を胸に秘めたロシアの艦船が当時、蝦夷地を呼ばれた北海道周辺の海域まで足を伸ばしていた。

 


 当時の日本の行政府であった江戸幕府は蝦夷地に度々役人を送り、ロシア側との交渉に当たらせた。
 それはアメリカのペリーの黒船が現れる少し前の事で、
 イギリス、フランスの勢力も加わり、将軍を有する幕府は混乱した。

 


 その機会に乗じて、西南大藩の薩摩、長州が倒幕に立ち上がり、 イギリスやフランスの横槍もあり、ついに幕府が倒れ、新しい明治政府が樹立した。



 薩摩、長州を中心とした明治政府は欧米列強に追い付き越せを旗印に、日本を近代国家とするべく、富国強兵を目指した。
 つまり、欧米列強を真似て、軍備に力を入れ、産業に発展させ、経済の自立を目指した。

 


 明治政府は富国強兵作の一環として、ロシアの南下を防ぐ一方、 北海道を食糧基地化することを目論んだ。
 日清戦争、日露戦争、2度の世界大戦を経て、日本政府は羊毛と食糧の供給不足を補うために北海道で大量の羊を飼育する計画を立てた」


「北海道って、どこかニュージーランドに似ているね、
 ニュージーランはイギリスの自治領となって、60年余りの歴史しかない。
 正式に独立したのは戦後かな。

 


 僕の祖父母もそうだけど、イギリスからの移民がやってくる前にはすでにマオリ族という先住民族がいた。
 そういう点でも、トミーが言った北海道とニュージーランドの類似点があるのかもしれない。



 海洋民族のポリネシア人のマリオ族が太平洋の島々からニュージーランドに移ってきたのが約千年前のことだと言われるいるけど、それ以前のことは、はっきりと定まっていない。

 


 五十年、百年後には違う説が生まれているのかもしれない。
 それから羊だ、
 ニュージーランドでは羊がそこら中に牧場にいて、人間より羊が多いと言われる国だからね」


 
 そう言ったマイクはニュージーランドの南島で最大都市クライストチャーチから少し下った、小さな町の出身で高校時代までラグビーに打ち込んだ地元からクライストチャーチの大学に進学して大学寮に入り、この4月にパースの大学に留学して、
 富四郎のルームメイトとなるべく入寮したのである。

 

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 16

 年が明けた。
 富四郎がオーストラリアのパースの寮に入って、9ヶ月が過ぎた。
 ルームメイトの王は2月中に帰国することが本決まりになり、
 富四郎との別れが近づいた。

 


 6月に山小屋で供にしたアイリッシュコンビのジミーとロバートも2月末でアイルランドに帰国する。
 別れの季節が目の前に迫っている。



 大学院の講義にもどうにか付いていけるようになったのは良しとして、王やジミー、トミーが寮を去ってしまうという事は即ち、富四郎は独りぼっちになってしまう。
 新しい学生がやって来るのだろうが、
 富四郎にはそのような心の余裕はなかった。


                 
 大晦日の午後11時、寮ではパーティーが行われた。
 ジミー、ロバート、王、富四郎が中心となって、シェフ役の王が腕を振るう中華料理をメインに彼らが揃えた、おにぎり、
 ビーフジャーキー、人参のスライス、枝豆、チップスなどが彩りを添え、キッチンとリビングに十数名が集まった。

 


 ジミーのギター、ロバートとのアイリッシュ・トラッドの余興もあり、ビール、ワインが飲めない者はコーラを手に1年の終わりと新たな年の始まりを祝った。


 リーダー格のジミーのカウントダウンで新年を迎え、狭いリビングに熱気が溢れた。
 三々五々でフェイドアウトすると、
 パーティを主催したジミー、ロバート、王、富四郎の4人は後片づけと食器やグラスを洗って、それぞれの部屋に戻った。

 


 祭りのあとを引き摺るように、そのまま無言でベッドで横になり、富四郎と王は新年の朝を迎えた。
 

 8時過ぎにどちからともなく目覚めた富四郎と王は部屋で新年の挨拶を交わした。
 旧暦で正月を祝う習わしがある中国をルーツに持つ王には新暦のニューイヤー・パーティーは少々物足りなさを感じていたようだ。

 


 二人は揃ってトイレに向かい用を足すと、人気の消えたキッチンに入った。



 王は水を一口、二口飲んだ。
 立ったまま昨夜の残りを摘まみながら、もう一口水を飲んで、
 口を開いた。
 


「パーティは最高だった。
 ジミーとロバート、集まってくれた仲間には申し訳ないけど、
 家で、シンガポールで、正月といえば春節に限る。
 こればっかりはどうしょうもない。

 


 シンガポール人とはいえ、僕の根っ子は中国だから、生まれ持った中国人の血がそうさせるのか、これはもう理屈じゃない。
 大人から子供まで家族、一族が集まって、飯を食う。
 爆竹を鳴らし、男は酒を飲み、女は歌い、子供ははしゃぎ、小遣いを貰う。

 


 シンガポールなんてちっぽけな島国で人が集まるのは簡単だけど、 広い大陸の中国ではそうもいかない。
 まして、世界中に散らばった中国人は春節を目指して故郷に戻る。


 秋から気になって調べていたけど、今年の春節は2月17日の月曜日。
 仲間との別れが近づいているが、オーストラリに来る前から、
 パースのこの寮に入る前から解っていたことだから、こればかりは致し方ない。

 


 まだ留学期間が残っていて、
 一足先に大学から寮からおさらばする訳にもいかないが、
 春節までにはシンガポールの家に戻りたいと思っている。



 寂しくなるけど、トミー、君とももうすぐお別れだ。
 君と出会った時はこの狭い部屋で上手く過ごせるか不安になったが、それもとんだ取り越し苦労だったようだ。

 


 トミー、今までどうもありがとう。
 これから残り少ないこの部屋での暮らしもどうかよろしく。
 話は変わるけど、トミーが作ってくれたおにぎりは最高だ。
 ところで、日本は旧暦で正月を祝うの?」



 富四郎はマグカップに自分の分と王の分の緑茶を入れ、
 キッチンテーブルの椅子に腰を降ろした。
 おにぎりを摘み、お茶を飲み干して、富四郎は語り出した。


 
「ジョニーがシンガポールに帰国して、僕の前からこの部屋から去ってしまうのは寂しいことだけど、人には出会いもあれば別れもある。
 君もそうだけど、僕も前に向かって進むしかない。

 


 僕はそれほどの信仰心を持っていないし、運命論者ではないけど、目に見えない誰かに、何かに、定められているとしたら、
 人はそれを神と呼ぶのかもしれない。
 世界は広く、人種も宗教も様々ながら、
 人は心の拠り所を求めている気がしてならないんだ。
 


 春節の話に戻ると、今から百年くらい前まで、日本も中国と同じように旧暦で正月を祝っていた。
 今年が1969年ということは99年前の1868年が新しい日本の始まりだ。
 将軍や殿様、侍が日本を支配していた江戸幕府から明治の時代になって、政府は急いで旧暦から新暦に切り替えた。



 俗に脱亜入欧といって、日本は精神的にも制度的にもアジアを離れ、西欧諸国の真似をした。
 軍事に力を入れ、国を豊かにしなければ、西欧列強の植民地にされて、世界から取り残されてしまう。  

 


 それまでの幕府と藩が支配していた幕藩体制をあっさりと捨て去り、新たな明治政府を作った。
 侍が侍の誇りである髷を切ったくらいだから、旧暦を捨てることなんて、当時の日本の支配層では大した問題ではなかったのかもしれない。


 日本はアジアを下に見て、アジアを見捨てたのかと言われれば言葉に困るけど、日本人の一人として言わせてもらえば、
 大国のインドが英国の植民地になり、アジアの多くがヨーロッパの植民地となった。

 


 中国を支配していた清朝までがアヘン戦争でボロボロになった。 その様を見ていた幕府が危機感を持っていたところにペリーの黒船が現れた。
 


 世界が激変していたちょうど百年前、日本は新たな国になるべく、それまでの因習を捨て去るように中国式の正月である春節を捨て去った。

 


 日本では春節のことを旧正月というけど、
 東京や大阪のような大都会はともかく、僕が育った地方では、
 家によって違うんだろうけど、もう亡くなってしまった祖父や祖母の時代はもっと旧正月が身近だったと想う。

 


 僕が小学生の時に祖父が亡くなり、中学生の時に祖母が亡くなったけど、祖母が作ってくれた、餅の中に豆をまぶした豆餅をよく覚えている。



 シンガポールにあるのかな?
 日本には七輪という炭で火を熾す昔ながらも道具があって、
 七輪に金属製の網に餅の乗せ、あるいは網の上に食べ物を置いて焼く。
 焼くというより、火であぶると言ったほうが適切かもしれない。

 


 砂糖に醤油を垂らし、七輪の熱で膨らみ、薄らと焦げた豆餅を付けて食べるのが、僕にとっての旧正月の一番のご馳走なんだ。


 
 一般的な丸餅に豆をまぶした豆餅に加え、餅を細長くした豆餅もあれば、日本人が得意な応用として、豆餅の他に餅にきなこをまぶしたきなこ餅、餅の中にあんこを入れたあんこ餅、
 白い餅に紅生姜を加えたピンク色の餅があったりする。

 


 旧正月といえば、やはり餅に限るね。
 餅といえば、もう一つ二つ思い出した。
 雑煮と善哉だ。
 雑煮は旧正月より新暦の正月に定番の料理で家により地方により、餅を焼いたり、焼かなかったり、入れる具材が違っていたり、作り方は随分と違うようだ。



 主役の餅を引き立てるようにいろんな野菜や鶏肉を入れたお椀に盛り付けしたスープで、これを家族全員で食べないと正月が来た気がしないほど、日本では定番中の定番の料理だ。
 もう一つが善哉。
 これは餅が主役というより、小豆と砂糖を効かせたスープが主役で餅が脇役となって小豆を引きたてる。


 新暦の1月11日には鏡割りといって、神棚や仏壇に飾った餅を割って善哉にする。
 新暦の正月、鏡割りと旧正月。

 


 餅で新年を祝う行事は今の日本にも続いているけど、
 50年もすれば、僕の住んでいる田舎を含めて日本から完全に旧正月は消え去ってしまうのかもしれない」



「トミー、知っている?
 春節は旧暦で祝うから、毎年、時期が変わるから気を付けないといけない。
 今年の春節は2月17日だけど、来年の事を考えると頭が痛くなる。

 


 新暦のパーティーもよかったけど、春節の前にもう一度パーティをやらないか。
 それが僕のお別れパーティだ。
 僕もそうだけど、ジミーとロバートも2月でこの寮を去ってしまうので、3人まとめたパーティにしよう」

 

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