ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 12

 翌日のNHK朝のニュースでも中華会館の事件を取り上げた。
 周麗子さんと陳大全さんを含めた4人を殺害したのは、
 台湾人の洪という22歳の男と中国人の習という21歳の女で、
 昨日の午前中、内偵中だった警視庁の捜査班が横浜の中華街近くのアジトに潜んでいた二人の身柄を押さえ、
 事件が起きた東京の中華会館近くの警察署に護送し、
 午後になって、逮捕した。

 


 昨夜は簡単な取り調べのみで、今日から本格的な調書が始まる模様ですと、男性アナウンサーが原稿を読んだ。


 
 ツヨシは両親と一緒に朝食を食べながらニュースを観ていたが、   両親が出勤するのを待って、
民放のワイドショーをハシゴした。
 中華会館の前からレポーターの中継はどこの局も似たりよったり
だったが、昨日の厚化粧の女レポーターの姿が見えなかったのと、
 東京在住の台湾メディアが押し掛けているのが見てとれた。


 
 キミコさんとミドリさんはどうしているのだろうか?
 キミコさんにとっての周麗子さん。
 ミドリさんにとっての陳大全さん。
 二人はやっぱりこの事件の関係者に違いない。

 


 ワイドショーが事件の続報を終えると、
 ツヨシはあらためて今朝の朝刊を手に取った。
 三面には事件のあらましと、昨日、横浜で検挙され東京に送られた後、逮捕された容疑者の指名が記載され、詳細が記述がなされていた。


 
 容疑者は台湾の台北市出身の洪芳水22歳という男と中国の青島市出身の習綺容21歳の女の2人でそれぞれ観光で来日して、
 ビザの有効期限が過ぎてからの消息が掴めていなかったと言うので、行方不明ならぬ不法滞在。


 4月に中華会館で死亡した4名の内分けは、
 横浜生まれ東京育ちでお茶の水で書店員をしていた中国籍の周麗子さん当時21歳。
 台湾の高雄市出身で上野の日本語学校の学生であった陳大全さん当時20歳
 中国の吉林省出身で、陳さんと同じく上野の日本語学校の学生であった金美南さん当時21歳。
 台湾の台北市出身で葉資明さん当時20歳。
 容疑者2名と被害者4名との関係も被害者像も今のところ不明。



 ワイドショーと全国紙の朝刊とキミコとミドリの情報を加味すると、事件当日、中華会館に住んでいたのは周麗子と陳大全と金美南の3人。
 新聞では職業不詳の葉資明はミドリが勤める日本語学校の学生の噂によると、新宿歌舞伎町でホストをしていたようでとかく評判の良くなかった人物のようだ 
 


 実際、ユウジがキミコに誘われ、デート気分で二人で横浜に出掛けた日曜日、中華街で周麗子さんの祖父に会っていたちょうどその頃、ツヨシはミドリに誘われて、水商売のお姉さんやお兄さんが勤めに出る前の太陽の光が射した歌舞伎町を散策していたのだから。

 


 今や日本人の街から中国人の街と化した夜の歌舞伎町に生息していた葉資明が世間から忘れ去られた、戦前に建てれらた遺物のような中華会館で亡くなったのがどうにも不思議でならなかった。


 
 容疑者2名と被害者4名の関連が不明である以上に、
 中華会館に住んでいた3名と葉資明の関係がどうにも解せない。
 はっきりしているのが、葉資明と陳大全さんが台湾人で二十歳。
 それから、容疑者の洪芳水が同じく台湾人で22歳。
 葉資明と洪芳水が台北市の出身で陳大全さんが高雄市の出身。
 容疑者の洪と習の関係は今のところ報道されていない。


 翌日から、警察による情報操作なのか、
 真夏のミステリーなのかは知る術もないが、
 ワイドショーの中継も全国紙の記載も、
 中華会館での事件の続報は申し合わせたようにピタリと止んだ。

 


 情報が動いているとすれば、イーターネットと台湾のマスコミだろう。
 ケーブルテレビ花盛りの台湾のTVを観ることは特別な契約をしていない限り、長崎にいようが東京にいようが無理な話で、
 台湾のインターネットの情報を翻訳するのも、
 ネットのゴミ溜めの中からまともな情報を拾い上げるのも一苦労で、どうにも気分が乗らなかった。


 
 ツヨシは残りの夏休みを長﨑の実家で何をすることもなく過ごしていた。
 バイトをすることもなく、大学生の本分である勉学に打ち込むでもなかった。

 


 ただ、ただ家に残していた大量の文庫本の小説を読み返し、
 それにも飽きると、図書館に通い、魯迅に関する書籍を借り、
 家に持ち帰り部屋で読み、東京のアパートから持参した魯迅の小説で締めた。

 


 その傍ら、市内電車で乗り込み、何の宛てなく、
 行ける所まで行っては引き返し、街の反対方向の先まで行って、 

 気分が乗れば辺りをぶらぶらして、一日を過ごした。



 暇を持て余し、ついに弁当屋でバイトを始めたユウジが帰り道に2日と空けず、帰りにツヨシの家に寄った。
 2階のツヨシの部屋に上がり込み、
 ああでもないこうでもないと、世間話にうつつを抜かした。

 


「たまには奢ってやるから、外に出よう」と、
 ユウジが気分の良い時は、坂を下って、
 ハンバーガーショップに入り、ハンバーガーを囓り、 
 コーヒー一杯を付けて、気の済むまで長居した。


 
 長﨑の街にも実家にも飽きてしまったユウジは早急に東京に戻ろうと催促するが、腰の重いツヨシを前に、一人で東京に戻る気配はないようだ。


「中華会館の事件はどうなっていると思う?」
 ユウジの問いにツヨシが応えた。
「まったく解らないね」

 


「そう、やっぱり」
 ユウジは溜息混じりに応えた。
「台湾人と中国人のカップルが捕まったと思ったら、
 その後、なんの情報も流れてこれない。 
 永田町か霞ヶ関の上の奴が仕組んでいるんだ。
 それが証拠にマスコミもあえて報道しないし、
 俺たち末端の人間は下水の垂れ流しみたいな滓の情報しか届かない。
 いくらインターネットの時代とはいっても、
 結局のところ、権力者に操作されているだけで、
 20世紀とちっとも違わないじょないか?」


 
「しょせん、日本に言論や報道の自由はない。
 それを期待するほうが馬鹿と言えば馬鹿だ。
 ありていに言えば、中国や北朝鮮と変わらないし、
 アメリカだって似たようなものだろう。
 俺たちは21世紀に生きていると思い込んでいるが、
 実際はまだ20世紀が続いているのかもしれない。
 歴史ではこんな例がある。
 20世紀が本格的に始まったのが第一次世界大戦が勃発した1914年と言われている。 
 歴史が動き出したんだ。
 だから、20世紀になって、まだ百年は経っていない。
 何かでかい事が起きてようやく21世紀の幕が開くのじゃないのかな」



「ツヨシ先生の歴史認識は解ったよ。
 それで、中華会館の事件はどうなると思う?」
 先ほどの台詞をユウジは繰り返した。

 


「キミコさんにメールなり電話で尋いてみたら?」
「代わりに、ツヨシがミドリさんに尋いてくれてもいいんだけど。
 だって、ミドリさんは中華会館で亡くなかった陳大全さんと中国人女性が通っていた日本語学校に勤めているんだから。
 ミドリさんが言っていた、
 わたしの仕事は事務で学生の管理が担当だって。 
 ということは、黙っていても、
 ミドリさんには中華会館の事件の情報が入って来る」


 
 この日、ユウジの弁舌は冴えていた。
 早く東京に戻って、俺たちが中華会館の事件を解決してやるんだと、意気込みを見せていた。



「ユウジ、まるで探偵気分になっていないか?」
「いけないか」
「俺たちはホームズとワトソン君じゃない」
「ツヨシ、お前がホームズで俺がワトソンって言いたいんだろう。
 それでも構わない。
 表面的にはいつも、俺が主役のようで、実はお前が主役で俺が脇役なんだ」
 少し苛立っているのか、ユウジは語気を強めた。



「俺たちは19世紀末のロンドンのホームズでもワトソンでもない。
 どっちが主役でも脇役でもなく、現代の日本に生きる大学生で帰省中の身だ。
 よく考えてもみろ。
 俺たちのような素人に手に負えないヤマだと思わないか。
 殺人事件だ。
 4人が死んでいるだぞ。
 それに4人が4人とも外国籍だ
 おまけに容疑者2人も外国籍だ。
 日本に台湾と中国が関わっている。
 


 外交問題まで発展するはオーバーとして、
 野次馬根性で高見の見物が身のためだ。
 それが俺たちの分相応だ。
 小説や映画じゃない。
 これは現実に起きた殺人事件だ」

 


 今度はツヨシが強く出たので、ユウジは拗ねてしまい、
 この日はそのままお開きとなった。


 
 厳しい残暑が続く8月の終わりに、どちから切り出すでもなく、
 ツヨシとユウジは連れだって長﨑から高速バスを乗り継いで、  

 東京に戻って来た。

 

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 11 

 ツヨシは中国から帰国した。
 何日ぶりの日本なのか、
 パスポートに押されたスタンプを見ても、
 解らないほど頭がぼーっとして霞んだままだった。

 


 福岡空港国際線ターミナルから博多駅筑紫口までタクシーを飛ばし、街に立ち寄ることもなく、
 往復券の復の切符を使って特急に乗ると、
 車掌に切符の確認で起こされたのを除けば、
 長﨑までの2時間近くを眠り続けていた。


 
 長﨑駅前から大好きな路面電車に乗り込んで、
 つり革に掴まり、立ったまま街を眺めた時、
 ツヨシはようやく日本に帰って来たのを実感した。
 中国では中華三昧だったこともあり、母の手料理で、
 父とビールを傾け、親子3人水入らずで過ごした。


 夕食後、自分の部屋のベッドで寝転びながら、
 ツヨシは携帯でユウジに電話した。

 


「今日、中国から帰って来た。
 家で両親と晩飯を食べ終わったとろこだ」
「そうか。無事に帰って来たか。
 ツヨシ、今、家にいるんだな」
「そうだよ」
「今から、家に行こうか」
「疲れているから、明日にしてくれ。
 中国ではホテルのシャワーだけで我慢したから、
 これから1週間ぶりに、のんびりと風呂に入りたい」


 
「ツヨシ、それでいつ東京に戻る」
「そこまで頭は回らないよ。
 東京は逃げはしない、急ぐ必用なんてどこにもない。
 大学の講義が始まるまで戻ればいい」

 
 翌日の昼前、小学生の時のように電話連絡もせずに、
 ツヨシの家の玄関先にユウジがぶらりと姿を現した。
 


「親父さんもお袋さんもお勤めご苦労様。
 その留守を狙って泥棒猫のお出ましです。
 ツヨシは子供の頃から、出不精というか家に籠もるのが好きだったからな。
 長旅に疲れもあるだろうし、
 百パーセントの確立で家にいるはずだ」
「まあ、上がれよ」

 


 幼馴染みを拒む必用もない。
 そう言われることを当て込んだユウジはツヨシの家に上がり込んだ。



「それで中国はどうだったんだ?」
 黙ったままのツヨシを構うことなくユウジは喋り続けた。
「突然だもんな。
 台湾から帰国して、一緒に長﨑に帰省したかと思ったら、
 明日から中国へ行くだと。
 こっちも、あっけに取られたよ。
 今時、上海万博も知らない日本人がいるのに驚いたし、
 それが極身近なツヨシだとは。
 遠慮しないで、中国の土産話をしてくれ。
 俺はそれを聴きに来たんだから」



「何から話そうか」

 


 言葉が続かないツヨシの頭は混沌としたままだ。

 


「つまんない奴だな。
 誰にも邪魔されない、せっかくの一人旅だろう。
 自慢話の一つ二つのネタは仕込んでないのかね。
 ツヨシ先生、法螺でも嘘でも、何か一つ頼みます。
 そういえば、3日前、キミコさんからメールがあった」

 


『ユウジさん、故郷の長﨑でいかがお過ごしですか?
 わたしは部屋のピアノの前に座って、暑い夏を過ごしています。
 台湾ではたいへんお世話になりました。
 東京に戻って来られたら、ミドリさんとツヨシさんを交えて、
 また渋谷でお会いしたいですね。
 キミコより』
 

 まあ!
 こんな感じだった。
 持てる男はつらいね。
 


 追伸
『帰国してから、ミドリさんにはまだ会っていませんが、
 近いうちに二人で会う予定です』
 だとさ。
 俺たちが会うのはその後かな」


 渋谷家の朝食のおかずの残りで、
 ツヨシとユウジがお昼を食べながら、
 テレビでお昼のワイドショーを観ていると、
 突然、スタジオから中継に切り替わった。



 縦縞のワンピースに厚化粧の中年女がマイク手に語り掛けた。


 
「桜咲く4月にこの建物の前で起きた中国人女性2名と台湾人男性2名の計4名が亡くなった事件の続報です。
 警視庁は水面下で事件事故の双方で捜索を続行していましたが、
 今しがた、容疑者と想われる2名を横浜市内で検挙した模様です。
 詳しい経緯が解りしだい、お伝えします。
 中華会館からは以上です」

 


 女が自らの役目を果たした時、真南の太陽が女の頬を煌々と照らし、一滴の汗が頬を伝って川となった。


「これが本当だとしたら、周麗子さん、殺されていたんだ。
 台南のお父さんと弟はどうするんだろう?
 キミコさんは?
 レポーターが言っていたけど、
 検挙したようですというのは逮捕したのとは違うのか?」



 ツヨシは黙っていた。


「テレビ観てるんだろう、ツヨシ、何とか言えよ」
「今、思い出した。
 見覚えがあるレポーターが、表情も変えずに、
 周麗子さんと陳大全さんを含めた4人の死を中華会館前で再現したんだ」



「解ったよ。
 俺が尋きたいのは検挙と逮捕はどう違うのかということだ」
「法学部じゃないから、はっきりとは知らないけど、
 検挙というのはある程度の証拠があって、逃亡されないように、
 警察が逮捕するために身柄を押さえたという事じゃないかな」

 


「そうか。

 


 それで事件は解決するかな?」

 


「まだ、逮捕もしてないんだろう。
 これからだ。
 逮捕して、警察が取り調べて、起訴が出来ると確信したら検察に送検する」
「刑事ドラマのように詳しいこと。
 ツヨシは将来、脚本家になるべきだね。
 きっと、売れっ子になること間違いなし」

 



 反論しないかと思いきや、ツヨシはすぐに言葉を返してきた。

 


「俺たちだって、いつ何時、司法当局のターゲットにされ、
 裁判官になれと呼び出されるか知れないご時世だから。
 全くの他人事でもない」

 


「でも、裁判官になれば日当が出るよな?」

 


「ああ、そうだ」
「いいバイトじゃないか」

 


「人は報酬をもらえばいいとは限らない。
 暇を持て余している大学生ならともかく、
 裁判官になりたくない人もいれば、なりたくてもなれない人もいる。
 裁判なんてまったく興味がない人、適性に欠ける人、 
 事件の関係者と近い人は排除されるだろうが、
 この世の中は実に様々な人々がいる。
 


 現に、我々はキミコさんの小学校時代の同級生で、
 この件で亡くなっている周麗子さんの父親の家を訪ねた。
 その上、キミコさんとミドリさんと麗子さんの弟の聯明君と5人で高雄まで行き、
 中華会館でのもう一人の被害者、ミドリさんが勤める日本人学校の学生の陳大全さんの家にお邪魔になり、中華饅頭をご馳走になったじゃないか。
 2階の彼の部屋で彼の日本に留学する経緯をお母さんに聞かされて、1階に降りると、高校生の妹が戻っていた」



「そうだったな。
 あれから、まだ1ヶ月も経っていないのか。
 そうだ。
 それから、俺はキミコさんに誘われて横浜に行き、
 中華街で周麗子さんのお爺さんにも会った」



 お昼を食べ終え、テレビを消し、食器を洗い、
 家の戸締まりを済ませたツヨシとユウジは夏の盛りの長﨑の中華街に繰り出した。
 死ぬほど暑い夏の一日だった。

 

    
 上海、北京、大連の暑さにも、
 旅行者の気合いで乗り切ったツヨシだったが
 生まれ育った長﨑に帰って来て、どっと疲れが出てしまった。
 落ち着けるはずの故郷に戻ってからも、
 中国人の血を引く華僑の顔を見、その嗅いだせいかもしれなかった。


 
 しかしながら、本場大陸の中国人と東シナ海を挟んだ長﨑の極
狭いエリアに生息する中国人は血統的には同種であっても、
 似て非なる者のように感じたのは、暑いからといって、
 首都北京の中央駅で地下鉄の構内で腹を出して涼む中国人はここ長﨑にはどこにもいないのだから。

 

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 10
 
 朝食も摂らず、7時前にはホテルを出て、
 ツヨシは、北京空港の搭乗口から機上した。
 飛行機の翼が見える通路側の席でシートベルトを締めたまま、
「Jast a  moment」と英語のアナウンスが流れたあと、
 1時間近くもそのままの状態で待たされた。



 日本だったら、ぶち切れていたはずだ。
 しかし、不思議な事に機内の大多数を占める中国人から不満らしい声は聴こえてこない。
 駅ではぞんざいな振る舞いを見せる中国人も機内では少しは上品なようだ。
 超格差社会の中国では、ぱっと見は解らなくても、階層が違うのかもしれない。


 
 ようやく動き出したかと思うと、
 それから3機の出発を待って、
 ツヨシを乗せた飛行機は大連に向けて飛び立った。
 


 大連到着後、空港の外に出て、ツヨシはそのままタクシーに乗った。
 中国を代表する大都市である上海、北京とは違って、
 地下鉄開通がまだの大連では空港から街の中心部に近いこともあってタクシーが便利なのである。
 運転手がそれなりの安宿に連れて行ってくれると、
 ツヨシは計算した。


 
 運転手がミラー越しにツヨシに話掛ける。 
 とは言っても運転手は日本語も英語も出来ないし、
 ツヨシも挨拶程度の中国語しか話せない。
 それでも、運転手の言わんとする事は伝わってきた。
 日本人か? 
 ホテルはどこにするか?


 何を勘違いしたのか運転手は星が並んだ日系ホテルの前でタクシーを停めて、首を傾け、ここでいいかとツヨシに目で尋ねた。
 少しは人を見なよ。
 Tシャツにジーンズの日本の学生風情がヤッピーなビジネスマンに見えるのか。

 


 ツヨシは首を振って、簡体字で駅と書いたメモを渡すと、
 運転手はなるほどと頷いてアクセルを踏み込んだ。



 長屋のように安宿が並んだエリアでタクシーから降ろされた。
 ここから百メートルほど先に人だかりの大連駅が見える。
 商売気だけが売りのどうにも垢抜けないランニング姿の客引きに誘われて、ツヨシはホテルの中に入った。
 店先のおやじといい勝負のおばさんがフロントというより店番として待ち構えていた。


 
 とりあえず、部屋を見せてもらった。
 狭い部屋とはいえ、ベッドもそれなりで、トイレとシャワーがあり、テレビが観れて百五十元なら値段相応だろう。
 どうせ1泊切りの通りすがりの旅烏。
 明日には福岡へ飛び立っている。
 店番のおばさんの所に戻り、ツヨシはここに泊まることを告げた。



 タクシーに乗っていた時から、色鮮やかな車体が気になって、  

  ホテルにあった観光地図とガイドブックを頼りに路面電車に乗った。



 幼い頃から父親の運転する車で親子3人の遠出より、
 路面電車に乗っている時が至福の時で、
 長﨑市内を回遊するのが大好きだった。
 長崎を離れ、上京した今でも、ツヨシは路面電車が好きだ。


 上海や北京のような大都市は東京と同じく、
 路面電車より地下鉄のほうが遙かに合理的で時間のロスが少なく、 交通渋滞を起こさず、大量の人を瞬時に移動させることが出来る。

 


 東京オリンピックを前後として、日本の東京から世界の東京へと生まれ変わるため、東京で路面電車の廃止はやむを得なかったのだろうが、それでも、早稲田から都電荒川線が、
 同様の電車が三軒茶屋から下高井戸まで走っているが、
 路面電車はメインストリートを駆け抜けて欲しい。


 
 路面電車で大連の街を巡り巡った。
 ツヨシの故郷の長崎は坂の街として有名だけど、
 それに劣らず、大連の坂もなかなかなものだ。
 まず、海星公園のパラソルに染まったビーチに行った。

 


 海水パンツを持参していなかったので、
 初めから海に入る気はなかったが、
 平日なのに湘南以上のすごい人の数に圧倒された。



 そういえば、今年2度目の海水浴場で、
 最初は台湾の高雄港の外海にある旗津のビーチだった。
 考えてみれば、まだ半月あまりしか経っていないのに、
 遠い昔の出来事のようにも想える。
 ユウジはともかく、東京に住むミドリさんとキミコさん、
 周麗子さんの弟で台南で出会った高校生の周聯明は今頃どうしているのだろうか。


 スニーカーを砂に埋めて海とビーチを見ていると、
 お腹が鳴った。
 アルミホイールに包まれた機内食を摘まんでコーヒーで流し込んで以来、何も飲み食いしていなかったのだから仕方ない。
 海星公園のビーチを後にして、目についた食堂に飛び込み、
 ツヨシは大盛りの炒飯を平らげた。


 
 路面電車に揺られて、大連の東の端にある海浜公園に来ていた。
 目の前に広がる海から黄海を南下して東シナ海に出て、
 東に舵を切るとユウジが待っている長﨑に着く。
 何か不思議な気分だった。

 


 台湾の桃園空港から台北のホテルに着いて、
 ユウジの提案で行った陽の落ちた基隆港からの眺めにも通ずる感傷だった。



 結局、ツヨシは大連で路面電車に乗って海を見ただけだ。
 ここからは近距離にある日露戦争の攻防戦として、 
 小説やドラマで名を馳せた旅順に寄ることもなく、
 大連駅の側で売り子が連呼する、
 渤海を挟んだ煙台行きのフェリーには見向きもしなかった。

 

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 9

 先に述べた通り、
 皇帝まで登り詰め、権力を手にしたかに見えた袁世凱は、
 1916年(民国5年)日本政府が要求した21箇条の要求、
(ドイツが山東省に持っていた利権を日本に譲り、
 旅順、大連の租借期限と南満州鉄道の利権を99年延長することなど)を飲んだことで急激に勢力が弱まり、そのまま退位して、
 この年、寂しく世を去った。


 
 それでも、
 袁世凱の帝政時代から続く恐怖政治は軍閥政治でも引き継がれ、   北京の街にはあらゆる場所に密偵がはびこり、
 権力に刃向かう勢力に対し徹底して締め付けた。

 


 政府の教育部に勤める魯迅もその例外でなかった。
 政府関係者である表の顔と社会の深層心理を描き出す作家を併せ持つ魯迅に心が安らぐ日などなかったのである。


 
 そのような状況下でも魯迅の心は折れなかった。
 日本留学時代の東京で文芸雑誌新生に発表が叶なかった挫折をバネにした。

 


 1918年(民国7年)36歳になった魯迅は新青年において、 

 儒教に縛られ、自分と一族のことしか考えられない大多数の漢族と、昔から中国社会に蔓延る食人を糾弾する、
 後の代表作となった『狂人日記を』を発表した。


 翌、1919年(民国8年)に魯迅は作家として地盤を固めた。
 孔乙己、薬、明日の3編とツヨシが民国という元号を意識した小説、小さな出来事(ツヨシが民国という元号を意識した小説のようなエッセーのようなごく短い作品)を発表。



 民国6年の冬の北京、北風の強い朝、
 魯迅と想われる語り手のわたしが自宅から車(人力車)に乗ってS門まで出掛けると、ここでは北京の内城と外城を結ぶ一番西側にある宣武門のことで、この門の内側にある教育部に務める魯迅はここを通らなければならなかった。
 

 車夫が門の近くで老婆を引いた。
 車夫は女を連れて目の前の派出所に入った。
 派出所から出て来た巡査がわたしのところに来て、
 車夫が車を引けなくなったので、
  あなたが自分で車を引いて下さいと言うので、
 わたしは外套のポケットからポケットから硬貨をつまんで、
 車夫に渡してくれとの意味合いで、巡査に渡した、
 その日の出来事を、わたしはいまでもよく思い出すのだ。


 
 思うところあって、この年の12月、
 魯迅は故郷の紹興に帰り、家を売り払った。
 実家に残していた母と妻の朱安と三男の建人一家を連れて北京に戻った。

 


 北京では次男の作人一家と三男の建人一家と生活を共にした。
 1921年(民国10年)魯迅は最高傑作の『阿Q正伝』を発表する。
 1923年(民国12年)魯迅は作人の日本人妻である羽太信子との折り合いがつかず、それが原因で弟の作人と終生、絶縁することになったのである。



 結果的に、魯迅は妻の朱安と家を出た。
 作家として多忙の日々を送る一方、
 魯迅は教育部の仕事の一環として、北京大学、北京師範学校、
 北京女子高等師範学校で教鞭をとった。

 


 そこで魯迅は、法律上の建前だけの妻である朱安に代わり、
 その後、事実上の妻となる、教え子であった許広平と出会った。
 文学者、教育者として魯迅を慕う許広平に対し、
 手紙をやりとりするうちに、魯迅のほうも許広平に惹かれた。
 ツヨシはその当時の彼女の写真の前に立っている。


 1926年(民国15年)8月、その時が来た。
 魯迅は母と妻の朱安を北京に残して、
 北京女子師範大学の学生であった許広平と一緒に北京駅を発った。
 天津から南京を経て上海へ、そこから船で厦門に着いた時は9月。

 


 この時、魯迅は間もなく45歳、一方、許広平は28歳の若さであった。
 魯迅は厦門大学で文学史、小説史の教授に就任した。
 しかし、人事、住居などの不満から、
 魯迅はこの年の12月一杯で厦門大学の職を辞した。



 翌、1927年(民国16年)1月には誘いを受けていた中山大学のある広州に移った。
 広州は許広平の故郷であり、魯迅はこの地で初めて終生の伴侶でとなる彼女と暮らし始めた。
 


 広州は革命の故郷でもある。       
 1842年、アヘン戦争でイギリスに敗れた清国は南京条約で香港を譲り渡し、広東、上海、厦門、福州、寧波の5港を開港させられ、

 その上、イギリスに賠償金を払い、治外法権まで認めさせられた。

 


 1851年、
 少数派の満州族が支配する、不甲斐ない清朝に対し、
 多数派の漢民族が不満や怒りを爆発させた。
 その発火点となったのが、農民蜂起とも言われる、
 洪秀全が起こした太平天国の乱である。

 


 広州のある広東省生まれで、科挙を4度受けても通らなかったエリート崩れの知識人だった洪秀全が楽園を目指して立ち上がった。



 1953年、南京に首都を打ち立てるまでになったが、
 イギリスとフランスの手を借りた清朝をあと一歩まで追い詰めたが、結局、太平天国は砕け散った。
 太平天国の後、いよいよ清国は混迷し、半世紀が過ぎて、
 辛亥革命が起きた。
 

 話を元に戻そう。
 1927年(民国16年)4月12日、
 国民革命軍総司令の蒋介石は上海で反共クーデターを遂行した。
 4月の半ばにはその影響は広州にも及び、多数の死傷者が出て、 魯迅が勤める中山大学の学生も逮捕された。

 


 アヘン戦争から85年後、魯迅が移り住んだ広州は国民党反動派が支配する土地となっていたのである。


 
 9月27日、国民党から逃れるようにして、
 魯迅は許広平を連れて上海行きの船に乗った。
 日本留学から帰国して、中国国内を転々としてきた魯迅は10月になって、終の棲家となる上海に辿り着いた。

 


 上海で魯迅と許広平は事実上の夫婦となった。

 


 当時の上海の大部分が租界地であったため、国民党の勢力も北方の軍閥の関与も部分的であり、多少なりとも風通しが良かったので、
 いろんなタイプの文化に携わる人が集まって来た。
 魯迅もその一人だったのである。



 上海で魯迅と許広平の間に男の子が誕生した。
 この時、魯迅は48歳、許広平は31歳である。
 ツヨシは親子3人の写真の前に立っている。
 魯迅とは切っても切れない内山書店が写っている。
 上海で9年間を過ごした魯迅は1936年(民国25年)10月19日、 

 眠るようにしてこの世に別れを告げた。



 2度3度、ツヨシは博物館を見渡して、魯迅の元を離れた。
 日本人と中国人は友であり兄弟であるという、
 魯迅が残した言葉がツヨシの心に強く残った。
 魯迅が何より嫌ったのは瓶煮のように儒教によって、
 がんじがらめにされた中国人のメンタリティそのものであった。

 


 魯迅の死後、中華人民共和国が成立し、
 魯迅と縁の深い北京でオリンピックが開催されて、
 魯迅が眠る上海で万博が開催中の今日、
 表面上の繁栄とは裏腹に中国人は何一つ変わっていないだろう。

 
 魯迅が生きていた当時を想わせる古い通りをのんびりと歩き、 

 駄菓子屋でビスケットとミネラルウォーターを買って、
 ツヨシは大通りに出てバスに乗り込んだ。
 最後尾のシートに座りビスケットを食べ水分を補給すると、
 北京の中心街をしばらく歩き、歩き疲れると、
 またバスに乗り込り、三里屯で降りた。
 


 ガイドブックによると、三里屯は北京を代表するお洒落なエリアのようだ。
 そう言われてみれば、若い白人の男女の姿が多い。
 上海の新天地のような場所なのだろう。
 ショップに入り、商品を覗き、ツヨシはまた歩き出した。



 バス停でバスの行き先を確認していると、
 目の前に団結湖行きのバスが停まり、慌てて飛び乗った。
 北京のホットエリアは意外に近かった。



 一旦ホテルに戻り、一休みして、 
 近くのレストランで中華風の洋食を晩飯を食べ、
 ツヨシは三里屯までのんびり歩いた。
 真夏の太陽は沈み、きらびやかな照明の向かいに、

 高層ビルが聳える。

 


 どこからともなく若い人々が集ってくる。
 東京以上の豪富とセレブが暮らす北京と上海、
 彼らとは対照的に10億人の負け組がこの国の隅々で肩を寄せ合って生きている。

 

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 8

 翌朝、目覚めたツヨシは近くの食堂に出向いた。
 ホテルにレストランはあっても、別料金のため、
 地元の中国人客に囲まれて朝食を食べた。

 


 セルフサービスで自分が食べたい物をお盆に乗せるのだが、
 上海のホテルに懲りず、
 お椀から溢れんばかりの粥を蓮華で掬い口に運ぶと、
 これまた、まったくと言っていいほど味の無い代物だった。

 


 ただ、上海で習ったように、蒸しパンを2口3口食べて、
 口の中で味の濃い漬け物と調和させて、
 どうにか粥を食道から胃に流し込んで、ツヨシは部屋に戻った。


 
 昨日一日で、人の多さと下品さから北京の地下鉄には飽きて、
 今日はバスで動くことにした。
 タクシーに間違って連れて行かれたホテルの近くからバスに乗った。
 上海と同じく、要領を得ず行き先を確かめずに乗ってしまい、
 行き先の不安に駆られて北京中心部近くでバスを降り、 
 反対車線に渡って、ツヨシは北京動物園行きに乗った。


 
 子供ではあるまいし、パンダを見たかった訳でもなかったが、
 パスの行き先に北京動物園の文字を見つけると、
 天安門広場と同じように北京のランドマークのような気がしてバスに吸い込まれたのだ。

 


 運良く座ることが出来て、
 それから、20分か30分ほど観光気分で北京市街を車窓から眺めた。
 終点のターミナルで降りると、ツヨシは北京動物園まで歩いた。



 観光客特有の日常感覚の麻痺で、うっかり忘れていたが、
 今日は日曜日。
 パンダ目当てなのだろうが、
 子供の手を引いた家族連れの長い長い行列にあんぐりと口を開け、 動物園前から降りた地点まで引き返し、 
 今度は北京大学行きのバスに乗り込んだ。
 ツヨシも東京の私大に通う大学生だ。
 中国有数の北京大学を見てみるのも悪い話ではない。
 

 バスのルートを見て、ガイドブックで確かめると、
 北京動物園から北京大学までの道程に、北京外国語大学、
 北京理工大学、人民大学などいくつもの大学が並んでいる。
 これからアカデミックな街道をバスに揺られ味わうのだと想っていたが、いかんせん、北京大学までが遠すぎて、
 人民大学を過ぎた所でバスを降りた。
  首都北京の数ある大学の一つにも寄ることもなく、
 ツヨシは北京動物園まで戻って来た。



 乗り継いだバスが北京の中心部へ差し掛かると、
 ガイドブックでピンクのアンダーラインを引いた北京の魯迅博物館の近くを走っていることに気付いて、バスから飛び降りた。



 大通りから、魯迅が北京に住んでいた時代のなごりを感じさせる街並に入り、しばらく歩くと、博物館内の門に辿り着くと、
 駐車場にはドイツの高級車が並んでいた。
 館内に入る際に、パスポートを提示した。

 


「あなた、日本人?」 
 インテリそうな銀縁眼鏡の中年の中国人女性に英語でそう言われ、
 ツヨシは魯迅の博物館の中に入った。
 


 魯迅の歴史を辿るように、
 魯迅が生まれ育った紹興の街のコーナーにツヨシは立っていた。
 頬が痩けた弁髪の魯迅の父親が写真に映っている。
 内憂外患だった清朝末期でさえ、
 皇帝を抱える少数の満州族に対する服従の証として、
 大多数の漢民族の弁髪せざる者は死刑に処すの効果が絶大であったのだろう。

 


 漢民族でありながら、
 幼少の頃から死ぬまで異民族の風俗に身を委ね、
 名家を傾けた魯迅の父が本物の満州人に見えてしまい、
 絶大なる権力に対する悲哀が込み上げてくる。
 


 幸いになことに、16歳の魯迅は封建制社会の風習が強く残った紹興を離れて、南京の江南水師学堂に入学した。
 その後、付設された礦務鉄路学堂に再入学し、
 この学校で優秀な成績を収めて、
 1902年(明治35年)4月、魯迅は留学生として来日した。
 

 中国の紹興で生まれ、南京で学んだ少年が東シナ海を船で渡り、
 横浜に上陸した。
 この時、魯迅は二十歳。
 百年あまりして、長﨑に生まれ、東京の大学に進学した同じ年のツヨシは上海に渡り、今、この場所に立っている。
 


 来日した魯迅は東京の牛込にあった弘文学院(柔道の開祖である、
 嘉納治五郎が清国留学生向き開設したといわれる)の寄宿舎に身を寄せた。
 この頃から、魯迅は清朝支配がする母国を日本から傍観していたようで、自身も1年間は紹興の父を呪縛し続けた弁髪を留めていたが、ようやく意を決した魯迅は豚のしっぽと蔑まれた弁髪を切り落とした。



 2年間で弘文学院の日本語及普通速成科を卒業した魯迅は、
 1904年(明治37年)9月に仙台医学専門学校に入学している。
 この学校で、ツヨシが読んだ太宰治の惜別に出てくる藤野先生に魯迅は出会っている。


 仙台医学専門学校時代、魯迅は決して出来の良い学生ではなかったようだ。
 それを物語るように、展示された、
 当時の魯迅の成績表をツヨシは注意深く見ていた。

 


 その頃、すでに政治と文学に目覚めていた魯迅には人の病や命は救えても病んだ中国社会の足しにはならない医学が物足らなかったのは事事であったろう。
 藤野先生はそんな魯迅に目を掛けた。

 


 仙台時代の魯迅は俗に「幻灯事件」と言われる、
 日本軍に首を切り落とされた中国人の映像を見た。
 目に映った無力な同胞の憐れな最期が契機だったとも、
 そうでなかったとも言われているが、
 魯迅は医者になることを諦めた。
 
 
 1906年(明治39年)3月に仙台医学専門学校を退学して、
 東京に出た。
 官費獲得のため、魯迅は東京独逸語学会経営の独逸学校に入学し、 本郷は湯島の下宿に身を置いた。

 


 この年の7月、魯迅には一時帰国した。
 中国の紹興に住む母親が病気と知らされ、家に戻ると、
 許嫁であった朱安という女性との結婚が待っていた。

 


 旧家の出身とはいえ、
 当時の家に縛られた漢族の女性の象徴で悪癖である纏足で、
 しかも文字も読めない年上の朱安は、およそ魯迅好みの女性とは言い難かった。
 しかし、父親を早く亡くした、旧家の長男の魯迅は家のために母親の決めた結婚に同意せざるを得なかったのだろう。



 結婚後、魯迅は家に新妻を残し、次男の作人を連れて、
 すぐに東京に戻った。
 魯迅の作家生活は東京で始まったと言っても過言ではない。 

 


 下宿では清朝の留学生に珍しく、魯迅は日本の様式を溶け込もうとして、和室で日本式の着物を着て、日本茶を飲んだ。
 それまでにも増して、魯迅は多量の本を読んだ。

 


 評論を書き、国の仲間と文芸雑誌の新生の出版を試みるが、
 結局、これは陽の目を見ずに終わった。
 しかし、この経験が後の作家魯迅を築く上での貴重な経験になったことは確かである。

 


 結婚から3年後、魯迅は家庭の事情から7年にも及ぶ留学生活に区切りを付け、日本を離れた。


 1909年(明治42年)8月、帰国した魯迅は杭州を皮切りに地元の紹興へ移り、教職に就いた。
 しかし、清朝の統治機能はもはや限界に達し、混迷の色を濃くしていた。

 


 魯迅は行く先々の街で学校の管理者と学生の狭間に立って苦悩した。
 そんな折りの1911年(明治44年)5月、次男の作人を帰国させるため、魯迅は2年ぶりの日本の地を踏んだ。
 

 その年の10月、辛亥革命が起きた。
 翌年の1912年(民国元年)1月1日、孫文が南京で臨時大総統に就任。

 


 2月12日、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が清朝皇帝を退位した。
 2月15日、南京に政府を置くことを条件に、孫文に代わり臨時大総統に選出された袁世凱がそれを拒否した。
 3月10日、袁世凱は北京で臨時大総統に就任、追われた孫文は日本に亡命し、袁世凱は独裁体制を固めるかに見えた。


 その間、魯迅は紹興の中学に復職した。
 その後、師範学堂の校長に就任した魯迅は革命後の混乱に巻き込まれ辞職した。

 


 友人の紹介で臨時政府の教育部に着任するために学生時代を過ごした南京と移った魯迅はゆっくり腰を落ち着かせる間もなかった。
 袁世凱が北京で臨時大総統に就いたため、政府機関も南京から北京に移らざるを得なくなった。


 5月5日、船で天津に着ついた魯迅はそのまま北京に移動した。
 この時、魯迅は30歳になっていた。
 横浜に上陸してから10年後のことである。

 


 魯迅は政府の教育部で図書、美術を管理する責任者となった。
 北京で落ち着いた暮らし向きが待っているかに見えた魯迅ではあったが、そうは問屋が許してはくれなかったのである。

 

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  7

 朝の7時過ぎ、北京南駅に着いた。
 地下鉄の路線図によると、
 その名の通り、北京南駅は北京中心部の南に位置し、
 予約したホテルからもかなり離れている。
 人の波に揺られ、ツヨシは改札を抜けた。


 
 上海のホテルの前の馴染みになった大衆食堂で牛肉炒めを食べて以来、ミネラルウォーターを飲んだだけで、
 約12時間何も食べてなくて、それこそ腹ぺこだ。

 


 よく考えてみれば、ホテルの近くのコンビニで菓子パンかスナック菓子でも買って電車に乗り込めばよかった。
 寝台車両だから、食堂車が付いていたのかもしれなかったが、
 今から言っても後の祭りで、とりあえず、ここで何か食べておこう。



 北京南駅は首都北京のメインターミナル駅の一つということもあって、小綺麗な店が並んでいるが、
 上海の大衆的な食堂と違って、値段もそれなりである。
 中国くんだりまで来て、ハンバーガーを食べるのも癪なので、
 ファミレス風の店に足を踏み入れた。


 
 白い制服を着た若いウエイトレスが、1人ですかの意味で、
 右の人差し指を上げた。
 頷いたツヨシはテーブル椅子に腰を下ろした。
 中国語と英語で書かれたメニューからハンバーグセットを選び、 目でウエイトレスを呼んだ。



 待つこと10分。
 ツヨシは定石通りに、まず、ポタージュスープを飲み、
 野菜サラダを摘まみ、ナイフとフォークを使って、
 ご飯とハンバーグと添えられた人参を食べた。
 味はまずまず、ファミレスは日本でも中国でもこんなもんだろう。

 


 食後にコーヒーを飲んでいると、携帯の着メロが鳴った。
 中国での2度目の着信も長﨑に帰省中のユウジからで、
 ツヨシがいつ中国から帰国するのかを知りたがっていた。
 親とご飯を食べるのも、親戚に顔を見せるのも、
 同級生と会うのも、そろそろ飽きがきたようで、
 ツヨシが長﨑に帰って来たら、一緒に東京に戻りたいようだ。



「今、上海から夜行で北京に着いたばかりで、
 駅の中華風のファミレスで飯を食い終わったところなんだ。
 北京に2泊、大連で1泊して、帰国する」

 


「中国にもファミレスがあるのか?」
「何でもパクる、中国のことだ。
 ファミレスくらいあるだろう。
 北京はまだ駅しか見てないが、
 上海なら長﨑の20倍どころか、30倍はでかい。
 人の数なら、本当に40倍はいる」
 


「そうか。
 東京並みか。
 そんな人だらけの中国で迷子にならず、
 無事に長﨑に帰って来いよ。
 ツヨシ、空港に迎えに行こうか?」

 


「心配無用だ。
 それより、一緒に台湾に行った、
 ミドリさんとキミコさんは東京でどうしているのかな?」

 


「そうなんだよ。
 メールでもしてみようかと思っていても、
 なかなか指が動かなくて困っているんだ」
「こっちも同じだよ。
 それじゃ、長崎に帰ってから会おう」

 店を出て、ツヨシは地下鉄の改札に向かって歩いた。



 上海の地下鉄と同じにように空港染みた荷物チェックを受け、
 北京南駅から乗り込んだ4番の地下鉄車両はすでにほぼ満員に近かった。

 


 数駅先の西単というう駅で1番の地下鉄に乗り換え、
 あの有名な天安門の名が付いた天安門西と天安門東を通り過ぎた。
 立ちっぱなしの車内でツヨシが感じたことは、
 中国を代表する2大都市である上海と北京の違いは、
 東京と比較するまでもなく、上海に比べ北京の乗客はどことなく下品だ。
 

 つり革に掴まった化粧気のないノンスリーブ姿の若い女が脇毛を披露するわ、車内にも、フラットフォームにも、
 暑くて涼んでいるのだろうが、ランニング姿の太鼓腹を出したおっさんを、短時間に5人も10人も目撃。
 オマケに、年端もいかない男の子と女の子の物乞い。


 
 上半身裸も物乞いも、地下鉄に限らず、上海では目にしなかった。
 ただ今、万博開催中の上海では風紀上の規律が厳しいのかもしれないが、北京では万博以上のオリンピックが2年前に開催されているが、喉元を過ぎて元の木阿弥となったのかもしれない。


 国貿という駅でもう1度地下鉄を乗り換えた。
 ラッシュアワーに嵌まったのか、
 乗り換え通路には人が溢れ、終わりがないほどに長く感じた。
 おまけに乗る電車を間違える寸前で気付いて引き返し、
 反対方向の10番の地下鉄に乗って、予約したホテルのある団結湖に着いた。
 


 地下道の出口から地上に這い上がってみると、
 上海の街中の大世界とは違って、車がビューンビューンと幹線道路を飛ばす中、恐る恐る上海を習ってタクシーを停めるべく、
 ツヨシが右手を挙げてみたが、数台のタクシーが無視するまでもなく、目の前を通り過ぎて行く。
 停まってくれたタクシーの運転手はホテルの名前と住所と電話番号を書いたメモに首を振った。


 何台ものタクシーが目の前を通り過ぎる中、
 ようやく停まってくれた地方出身者丸出しの中年のタクシー運転手がツヨシの差し出すメモにさっと目を通して、
 いいから乗っていけと、手招きした。
 ツヨシが自分で後部座席のドアを自分で開け、韓国車の現代のタクシーに乗ると、すぐに走り出した。


 
 100メートルも走ると、運転手はメモ見ながらタクシーを停め、 

 ツヨシに中国語で話し掛けて来た。
 その身振り手振りから察すると、
 携帯電話を持っていないのかと言っているようだ。

 


 ツヨシがジーンズのポケットに収めた携帯を運転手に渡すと、
 ホテルへ直接電話を掛けたようで、大声でどなるように話し、
携帯を持ったまま、アクセルを踏んでタクシーは勢いよく走り出す。


 1本目2本目の角を右に曲がり、そのまま直進すると、
 タクシーは停まり、男がここがお前のホテルだと指さした。
 お金を払い、ツヨシが後部座席から降りると、
 あっと言う間にタクシーは走り去った。
 しかし、ホテルは間違っていた。
 北京に比べれば、上海のタクシーの運転手は神様だった。


 
 ホテルの従業員もツヨシが予約したホテルを知らないというのだから運が悪かったと諦めるしかない。
 仕方なくタクシーがやって来た大通りの方向へ引き返し、 
 最初の角で、ツヨシは商店の男性に尋ねた。
「日本人か?」
 英語でそう言われ 小さく頷いて、教えてくれた場所を頭に入れて歩き出した。


 
 人通りの少ない角を左に曲がり、公民館のような建物に辿り着くと、そこがツヨシが予約したホテルだった。
 ホテルのフロントというより、集会場に置いてある無機質な長机の向こうに中国人の3人娘が無愛想に並んで腰掛けていた。

 


 ツヨシが「ハロー」と英語で問い掛けても、
 挨拶の一つも笑顔もないので、
 あえて、「ニーハオ」とは言わず、そのまま英語で通した。


 
 ほとんど英語が通じなかったが、
 それでも、ツヨシがパスポートと出すと、
 3人の中で最も年長そうで器量の悪い女が鈍い頭の隅に閃きを感じたのか、PCで予約状況を確認して、宿泊者用のプリントを渡し、
 ツヨシが記入を終え、カードで支払いを済ますと、
 その女が無言で部屋のキーを手渡した。



 黙ってキーを受け取ったツヨシはそこからすぐ側の1階の部屋に入った。
 キーをドアの近くのポケットに差し、部屋の灯りが付くと、
 上海のホテルの倍の広さで上海にはなかった窓が付いていた。
 値段も倍はするし、2つ星なのだから、当然といえば当然。
 

 焦げ茶色のカーテンの隙間から日射しが籠もれ、
 カーテンを開けてみても、1階のためか、見晴らしと呼べるような代物ではなく、ホテルの内庭と外の建物が見えるだけだ。

 


 タクシーは言うに及ばず、ホテルのフロントの女、
 どれ一つ取っても、上海人は北京人よりずっと親切で街も垢抜けていた。
 上海人は中華人民共和国建国以前から租界地で外人慣れしている、 さすが中国一の大都会。
 ハイカラの代名詞だった、上海帰りと唄われた、リルは偉大だ。



 韓国製のエアコンを付け、中国製のテレビを付けたまま、
 ツヨシはシャワーを浴びた。
 部屋で小一時間も休んで、ツヨシはホテルを飛び出した。

 


 無愛想を絵に描いたような3人娘が雁首を並べたフロントにある北京市のマップを手に取って、地下鉄の駅からホテルまでの略図通りに歩いく行くと、想いのほか早く、狂気のタクシー運転手が突っ走った大通りに突き当たった。
 そこを左に曲がって2、3分も歩いて行くと、地下鉄の駅に出入り口が見えた。


 真夏の陽射しが照り返す中、ツヨシは北京の天安門広場に立っていた。
 ここが有名な天安門。
 いや違う、天安門広場だ。

 


 ツヨシにとっての天安門は北京の象徴であり、革命の広場だ。
 ツヨシが生まれる前の年の1989年(平成元年)6月4日、
 胡耀邦元総書記の死をきっかけにここ天安門広場に集まった数十万とも言われる、民主化を要求する、北京市民、中国人民に対し、
 中華人民共和国政府は武力を持って民主派を制圧し、
 名も無き多くの人々が命を落とした、血の日曜日と言われた、
 天安門事件の舞台である。



 あれから21年が過ぎ、天安門広場も様変わりしたようだ。
 一心に民主化を求めていた北京市民、中国人民に代わってこの広場を埋め尽くしているのは中国全土から集まったお上りさんと世界中の観光客。

 


 白人もいれば、黒人もいれば、ツヨシのような日本人もいる。
 人々は一様にデジタルカメラ、携帯電話、スマートフォンを持ち、
 お喋りと記念撮影に余念がなかった。


 
 天安門広場に集まった民主派に武力を行使する決断を下したのは、
 当時の最高実力者と言われた鄧小平であり、
 鄧小平が率先したのが、共産党一党独裁体制の中、
 相矛盾する資本市場経済を導入し、今日の経済大国中国の基礎を築いた事実は鄧小平に先見の明があったと言わざるを得ないだろう。



 色が白かろうが黒かろうが鼠を捕る猫は良い猫だ、
 豊かになれる者からなればいい、
 嘘か真か知らない鄧小平語録を思い出しながら、
 そういえば、通り過ぎた大通りの前の門が天安門だったと、
 ツヨシは思い返した。


 天安門事件といえば、田中角栄と日中国交正常化に調印した周恩来が死亡した1976年(昭和51年)に最初の事件が起こっている。
 この年の1月に亡くなった周恩来に備えられた花を無造作に扱ったのをきっかけとして、
(中国共産党の作為的な仕業か北京市の担当者のミスなのか定かではない)
 4月5日、政府に批判的な人々が発端となった天安門広場にぞくぞくと集まり、13年後と同じように弾圧されたのである。
(毛沢東は周恩来の死から遅れること8ヶ月、この世を去っている)



 肖像画の毛沢東は1949年の10月1日、
 中華人民共和国成立を告げる場所として、この天安門広場を選び、 この広場に集まった人民に宣誓した。
 だからこそ、天安門には鄧小平ならぬ、
 カリスマである毛沢東の肖像画が掲げられ、
 中華人民共和国万歳の文字が添えられている。


 
 セキュリティチェックを受け、毛沢東が眠る毛主席記念堂を入口まで来て、ツヨシは踵を返した。
 天安門広場に戻り、再び天安門を潜った。
 ツヨシは中華民国建国の父、臨時の大総統だった孫文の銅像の前に立った。

 


 その名も中山公園(孫文中山先生から拝借したと察せられる。
 台湾の各都市の中心地に国父孫文の名前を借りた中山通が走っている)


 故宮(別名、紫禁城。明朝と清朝の皇帝の住居があった宮殿群。
 台北の郊外にも同名の故宮があるが、
 国民党が台湾へ逃げ込む際、所蔵品を持ち込んだと言われる)  博物院に進もうかと一瞬迷ったが、
 第一の目標だった天安門広場に来れて、この地はもう充分だ。


 天安門を離れたツヨシは昨日乗り換えた地下鉄の西単駅で降りて、 中国の首都北京の繁華街を味わった。
 デパートやショッピングモールは人で賑わっていたが、
 上海だろうが東京だろうが、その風景はさして変わず、
 地元の長﨑にも同じような雰囲気だけは味わえる。 
 今住んでいる立川にもツヨシは不満はない。



 西単から復興門、それから和平門に移ると、
 大衆食堂を見つけ、先客の中国人が美味そうに食べていた鉄板の上で焼いた中華風のお好み焼きのような物を頼もうとしたが、
 例のように壁に貼ってある漢字だらけのメニューを指して、
 10分も待ってようやく目の前に現れたのは夏の暑さの最中に湯気を出す麺だった。

 


 間違えた。
 ツヨシか店のおやじか、もしくは双方が。



 こんな事もあると諦めて、かんぴょうのように平たく堅い麺を箸で口に運ぶと、上海のホテルの朝食の粥と同様、味があるのかないのか不思議な味で、おまけに歯で噛もうとしても麺が千切れず、
 ずるずると口の中に入り込んだ。

 


 結局、そのままゴム状の麺を飲み込まなければならない。
 麺と対照的だったのがスープで熱く辛く、一口二口飲むだけで、
 頭の芯から汗が吹き出してくる。
 綺麗に残さず食べるのが礼儀の日本とは違って、
 少しは残すのが中国流のようで、ここではそれを真似て食べ残し、
 代金を店を払い出ると、夏の太陽は随分と傾いていた。
 


 そこから、観光気分で北京駅に寄った。
 上海駅が新宿駅だとすると、北京駅は差し詰めし、
 一昔前の新幹線が通る前の上野駅だろう。
 北京から大連行の航空券を持っているツヨシには用事はなかったが、切符売り場の長い長い行列には、大声を張り上げ、叫び、
 我先にと割り込み、同じく大声を上げ、それを咎める男と女。

 


 首都の中央駅にはどうみても相応しくない、米俵を担ぎ急ぎ足で動く出稼ぎ丸出しの男たち。
 地下鉄と同じく、やはり腹を出して涼む男の群れ。
 

 北京駅の構内を出ると警察と公安が綱を張り、
 大回りをさせられ、ツヨシはトイレに寄った。
 駅前の広場は半端ではない人の数。
 物売りが寄ってくる、見るからに漢民族ではない少数民族の女
たちが今夜のホテルは決まっているのかと、プラカードを見せる。

 


 ツヨシは手で女を振り払い、
 地下鉄の出入り口を探そうにも一苦労する有様だった。



 団結湖に戻った。
 地下道には北方系の男たちが彼らの民族品を並べて売っている。
 そうだ。

 


 北京の地下鉄の乗った時から、ツヨシは気付いていたのだが、
 距離も1500キロ近く離れている上に、
 とても同じ国とは思えないほどに、
 上海と北京では街の表情が違う以上に人の顔が違う。
 やはり、中国は一筋縄ではいかない中華の国だ。

 

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  6

 腕時計に目をやると、もうお昼を過ぎていた。
 腹も空るはずだ。
 ツヨシは目に入った食堂に飛び込んだ。

 


 手を伸ばせば届く所で中華人民共和国の威信を賭けた上海万博が行われているというのに、租界時代そのままに上海の労働者の胃袋を賄うのに、まさにぴったりな場所だった。
 厨房カウンターの前で丸椅子に座った、やる気があるのかないのか解らない白髪交じりのおばさんと目が合った。


 上海ではよくあるように、ツヨシを日本人もしくは外人と見て取ったのだろう。
 おばさんは座ったまま、何にするのか、食べたいのか、
 眼鏡の奥の細い目で黙って訴えかけてくる。

 


 今日で上海も3日目のツヨシも要領を得たもので、
 立ったまま壁に張られた漢字だらけのメニューの鳥肉の炒め飯を指座した。
 その様子を見ていたおばさんは立ち上がり、
 厨房の中の親父に早口で伝えた。
 


 おばさんの目力に従い、
 一人掛けのテーブル椅子に、ツヨシは腰を下ろした。
 コンビニで買ったミネラルウォーターをテーブルに乗せて、
 二口三口を水を飲んだ。

 


 店内では大声をあげながら、唾を飛ばしながら、
 数名の中国人の男が昼飯を食べていた。
 台湾で大声には慣れていたつもりのツヨシも、
 大陸の上海ではそのボリュームが1目盛りアップする。
 


 中国風にアレンジされたメロディが携帯の着信に流れると、
 箸を持ったまま、男の声が2目盛りアップした。
 怒鳴るような喋り声に呆気にとられたツヨシの目の前に、
 おばさんの鳥の炒め飯が露わになった。

 


 スプーンを手にしたツヨシは一気に炒め飯を平らげた。
 店の外見とおばさんの容姿、客層とは裏腹に、鳥の炒め飯は美味かった。
 上海に来て一番と言ってもよかった。


 食堂を出ると、「これからどこに行こうか?」
 ツヨシは独り言を呟いた。
 2日目前、上海に着いた当時、長﨑に帰省中のユウジから電話があって以来、親しい人間と誰も会話していなかったので無理もない。



 欲を言えばせっかくここまで来たのだから、
 万博会場に入らないまでも、気配や空気だけでも吸いたかった。 地図を見ながら、
 ツヨシは上海万博の会場方面である黄浦江に向かって歩いた。

 


 リヤカーの上には山積みされた西瓜に代わり、
 ランニングシャツ姿で5分刈りに十円玉状の禿げのおっさんがピタリとも動かず昼寝の真っ最中。

 その横でサントリービールの瓶ビールのケースが山。
 人の気配はどこにもなく、食堂のおばさんを想わせる気のない野良犬がとぼとぼと歩いてくる。


 
 雲一つない快晴だ。
 ベージュの野球帽からはみだした髪の毛から左の目の横を伝い、
 頬に汗が流れた。
 ツヨシはナップザックの脇に差したペッドボトルの水を二口飲んで喉の乾きを癒した。



 そうこうするうちに上海万博の会場敷地に辿り着くと、
 幸か不幸か入場門ゲートからは少し離れているようだ。
 まあ!いいか。
 万博を観に来たわけでもない。
 微かに伝わってくる熱気に触れればいいのだから。
 
 
 フェンスに沿って歩いて行くと、川が見えてきた。
 黄浦江沿いの道を上海のシンポルでもある電波塔を目指して、
 ツヨシは歩いた。
 泥水のように濁った川から臭気と湿気を含んだ生暖かい風が顔に吹き付ける。

 


 歩き疲れ、一休みしたかったが、
 飲茶も、ファストフードも見当たらず、
 すでに地下鉄の駅は通り過ぎて、バスも来そうになかった。
 そういえば、昼飯を食べた食堂からほど近い高層ビルの谷間に、
 租界地だった新天地のフランス風のカフェから代替わりした、
 アメリカの匂いがするテラスに、
 ヤッピー風な白人と金回りの良さそうな上海人の姿が遠目に見えた。
 


 路地の奥には、ピンからキリまでの象徴のように、
 上海の経済的繁栄を象徴するモダンな高層ビルと対比する傾きかけた長屋と中国式の旅館が、何の違和感もなく共存して、
 金は天下の回りものを地で行くかの如く、建前だけの共産主義が似非資本主義となり、暴走して、何人も手が付けられなくなっている。


 
 運良くタクシーが来たので、ツヨシは右手を挙げた。
 停まってくれたVWのタクシーのドアを開け、
 シートに腰を下ろすと、ツヨシは地図上の外灘の文字を指した。



 外灘は中国全土は言うに及ばず、
 まさに世界中から雑多な人々が訪れる大都市上海の観光名所である。
 タクシーから降りて、どうした訳か、電話口でユウジが歌った、

 戦後の流行歌『上海帰りのリル』をツヨシは思い出した。
 戦前、長﨑とは航路で結ばれていた上海。

 


 ユウジによれば、上海帰りといえば、長﨑に拘わらず、
 日本ではハイカラの代名詞だったと言う。
 60年代のアメリカの若者の代弁者だったボブ・ディランがギターを掻き鳴らし歌っていたように、『時代は変わる』
 再び、上海が世界の時代の寵児となりつつあるのかもしれない。


 当時の栄華を偲ばせる、レトロな建物がそこかしこに見られる。
 辛亥革命から魯迅がこの街に生きた時代を彷彿とさせる、
 貧民街と隣り合わせた高層ビルの谷間のテラスを十数倍、数百倍に拡大した世界中から掻き集められた資本の波が目の前に広がった。



 外灘では黄浦江からの川風に当たりながら、
 ハイな気分になり、そのおかげもあって、
 憂いた気分も吹っ飛んで、どこに寄ることもなく、
 ウオーターフロントのプロムナードを、
 ツヨシは当てもなくぶらぶらと歩いた。

 


 歩き過ぎて、足にきたなと感じると、
 車の往来の激しい大通りに出て、右手を挙げた。
 タクシーは西に走って、ピタリと4つの車輪を止めた。



 上海初日の夜、南京東路から覗いた、高層ビルに照らされた、
 日本の光学機器のメーカー看板の下に、ツヨシは立った。
 感慨に浸ることもなく、目に留まったカフェに入り、
 小腹が空いていたので炒り卵のサンドイッチを摘まみ、
 エスプレッソを飲み、青島ビールに口を付けた。
 


 今日で2度目となる南京東路には慣れたもので、
 東京の渋谷や新宿と変わらない大して変わらなかった。
 上海名物の『蟹』の看板見える。
 地下鉄で南京東路から上海のもう一つの繁華街である南京西路に寄った。


 街をぐるっと一周すると、ツヨシは大世界に戻り、
 常連となった大衆食堂で上海最後の夜の食事を摂った。
 目の前のホテルのフロントで預かって貰っていた荷物を受け取り、
 8番の地下鉄に乗り、この3日間で何度も乗り換えた人民広場でいつもにまして洪水のような人の波に酔って、
 1番の地下鉄に乗り換え、上海火車駅に着いた。


 中国の列車事情に疎く、発車時間より早く着いてしまい、
 五月蠅い中国人と一緒に上海火車駅の改札前で、長い行列に並ばされた。

 


 座り込んで飯を食う。
 ビールを飲む。
 家族、仲間と大声で話す。
 携帯電話が鳴る。

 


 声のボリュームが2目盛りから3目盛りにアップした。
 改札前が大衆食堂ならぬ宴会場へと変身した。



 寝台列車に乗る前から、ツヨシは疲れ果てていた。
 こんな連中と北京まで一緒だなんて。
 仕方なく、バッグをお尻の下に敷いて、ツヨシは腰を下ろして、
 制服を着た車掌の姿を見たのは、30分後。


 
 それから10分、数名の車掌によって改札が開いた瞬間、
 押すわ、喚くわの中国人の本性丸出しで雪崩れ込んで来た。
 背中への重みと痛みでよろめいた。

 


 どうにか改札を通り抜け、人垣を分け、プラットフォームに進み、
 右手に持ったチケットに記された車両番号を確認した時には、
 地下鉄のように手荷物検査を受けのがいつだったのか、
 忘れている始末だった。



 寝台車両の通路を数メートル歩いてようやく、
 指定された2段式の下段の席に落ち着くことが出来た。
 カーテンを閉じ、自分のスペースを確保して、
 スニーカーを脱いで足下にバッグを絡め横になると、
 そのままツヨシは寝ついてしまった。

 


 制服姿の眼鏡を掛けた車掌に切符を確認で起こされた時、
 寝台車は上海火車駅を出発して1時間が経っていた。



 1度トイレに立ったといえ、改札前の行列が嘘のように、
 寝台車両は想いの他、快適で、
 同室の中国人たちも若い個人客で静かだった。

 

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 5 

 前日に続いて、美味くない朝食を食べ、 
 部屋に戻り支度を整え、ホテルをチックアウトする際に、
 ツヨシはフロントの若い女性に頼んで夕方まで荷物を預かってもらった。


 8番の地下鉄で大世界の次の駅の老西門で降り、
 デパートに寄ろうと辺りを窺ってみたが、
 それらしき建物はどこにも見えず、どうやら駅を間違えたようで、
 よく確認しなかった自分が悪かったと諦めて、適当にぶらぶらすることにした。


 
 大通りに戻り、閉じ開きの地図を頼りに歩いた。
 ガイドブックによると、この辺りは租界時代にはフランスの居留地で、新天地と呼ばれ、お洒落なカフェもあるそうだ。
 そう言えば、それなりの白人観光客がテラスでお茶を飲んだり、  

 ショップを覗いたり、
 カップルが立ち止まって楽しそうに話し込んでいる。


 
 そのような景色を横目にしながら、煉瓦造りの建物に遭遇した。
 ここは歴史的意味合いを持つ場所のようで、
 中国共産党第一次全国代表大会が行われた博物館になっていた。
 ピリッと引き締まった数名の軍人さんが門の入り口に立ち、
 その横を擦り抜け、窓口でパスポートを提示した。

 


 中国共産党は太っ腹である。
 敵国であった、今も仮想敵国であるはずの日本の人民である渋谷ツヨシを無料で館内に招き入れてくれた。

 
 1911年、清国が鉄道国有化の資金を外国から調達したのに反発して、四川省を皮切りに各地に暴動が起こり、13の省が独立した。
 翌1912年(民国元年)に南京に迎えられた孫文が臨時の大総統として、中華民国の宣言をしたのが辛亥革命である。



 清国は最大の軍閥だった袁世凱に革命の鎮圧を依頼したが、
 清に見切りを付けた袁世凱が孫文との交渉の結果、
 清の皇帝・宣統帝(その後、日本の傀儡国家とも揶揄された満州帝国の皇帝となった、ラストエンペラーとして有名な愛新覚羅溥儀) を、退位させ、三百年余りにわたった中国大陸を支配した清国は滅亡した。

 


 異民族である満州人から華人の手に権力と取り戻ることに成功した袁世凱は自らが中華民国の大総統となることを孫文に約束させ、
 首都を南京から北京に移した。


 天下を取ったに見えた袁世凱も、第一次世界大戦後、 
 山東半島に上陸し、青島を占領した日本に山東省のドイツ権益やや満州の権益などの21箇条の突きつけられ、それを泣く泣く飲んだ。
 君主制に野心を抱いていた袁世凱は交換条件として、
 中国に共和制はなじまず、日本に帝政を要求した。

 


 しかし、次の王朝を洪憲と決め、1916年を洪憲元年とし定めた袁世凱も中華帝国の皇帝として3ヶ月あまり君臨した後、
 中国各地の反乱に遭い、その地位を投げ出さざるを得なかった。
 この年、袁世凱は失意のうちにこの世を去った。
 袁世凱と対立し日本に亡命した孫文は1919年に国民党を作った。


 1921年7月(民国10年)
 全国統一を進めていた中国共産党の歴史は上海で行われた第一回の代表大会で始まった。
 しかしながら、館内のパネルで示されたこの大会に集まった人物でツヨシが知っていたのは毛沢東唯一人だ。

 
 インドから東南アジアに進出していた英国が18世紀後半になると、 他国を押しのけて清国との貿易を独占するようになった。
 清国で取れた茶を買っていた英国は代金を銀で支払っていたので、
 大量の銀が英国から出て行く結果となった。 

 


 それを防ぐために知恵を絞った英国はインド産のアヘンを清国へ、
 清国の茶を英国へ、英国の織物をインドへと、
 三角角貿易で利益を上げることにした。
 三角貿易が盛んになると、清国の銀が外国へ流出し、
 銀の値段が上がり、清国の財政はさらに厳しくなった。


 アヘンが大量に流入した清国では国を司る役人や軍人の間でもアヘン中毒者が出る始末で、アヘンの輸入を禁止した。
 しかしながら、英国商人は闇でアヘンを密輸した。
 清国が広東でアヘンを廃棄したのを機に、
 建前上の自由貿易を望む英国が清国に宣戦布告したのがアヘン戦争である。

 


 アヘン戦争に勝利した英国は1942年に清国と南京条約を結び、 香港を清国から割譲し、広東、上海、福州、厦門、寧波の5港を開港させた。


 遅れること日本では、ペリーの黒船の来航により、
 1854年(安政元年)日米和親条約を結ばされて、
 下田と函館の2港を開港した。



 その後、朝廷の許しを待たず、
 ハリスと日米修好通商条約を結んだ大老の井伊直弼が、
 オランダ、ロシア、英国、フランスと同じような修好通商条約を結び、(安政の5か国条約)
 神奈川(横浜)、函館、長﨑、新潟、兵庫(神戸)の5港が開かれ、三代将軍徳川家光に始まり、江戸時代に二百年以上続いた鎖国に別れを告げた。

 


 修好通商条約の当事者である井伊直弼が桜田門外で水戸藩士に討たれ、江戸幕府が滅亡の道を歩んで行くその後姿はアヘン戦争に敗れた清の生き写しである。
 

 アヘン戦争、南京条約によって、大国の威信を失った清では、
 異民族である満州人の支配に不満をもった華人の間で全国各地に内乱が起きた。

 


 その代表的なものが、
 1851年、広東で洪秀全が起こした太平天国の乱である。
 20世紀に入り、孫文などの日本留学組らによって、
 清国打破、満州人からの独立を目指した。


 
 その昔、歴代王朝のままに、
 隋、唐、宋、元、明、清などと歴代の王朝名で呼ばれていたが、
 中華思想の影響もあって、支那人自らが中国人、大陸を中国と呼ぶようになり、清の滅亡、中華民国の成立、
 1949年の10月に共産党による中華人民共和国が成立した。



 日本の政治家や文化人が支那とでも言おうものなら、
 狂気の沙汰染みて怒り出すのは、
 支那人のコンプレックスがそうさせるのだろう。
 支那とはもともと、秦から来ているという説や英語のCHINAの日本語読みというのが有力であるが、
 支那人が自らのことを中国人、自らの国と中国と言うようになったのは清朝が衰えた時期と微妙に重なり合っている。


 次の部屋に移ると、パネル写真の中に田中角栄の姿を発見した。
 1972年9月、日中国交正常化の際に、
 毛沢東の女房役で中国共産党ナンバー2の周恩来首相で一緒に収められた写真である。

 


 北京オリンピックを成功させ、上海万博に開催するほどの経済力、
 経済大国中国となった、その基礎を築いた、中国の改革開放路線を推し進めた、一際小柄なフランス留学組の鄧小平の姿も見える。



 この博物館が物語っているのは、
 世界一の大帝国とも謳われたモンゴル人が築いた元のように、
 少数の異民族が多数の華人を支配した清の如く、
 袁世凱が望んでも手にすることが出来なかった歴代王朝の如くの帝政支配を、広大な中国大陸を支配しすることになった中国共産党がその夢を実現し、現代に至っているのである。

 

 その第一歩が上海のこの場所から始まった。


 中国の歴史やメンタリティーのすべてが三国志に凝縮されていると、何かの本で読んだ記憶がある。
 博物館を出て、漫画でもいいから三国志を読んでおくべきだと思った。

 


 ツヨシの知っている中国は学校の歴史と少々齧った魯迅と小学校時代に読んだ孫悟空や水滸伝だけなのだから。


 ツヨシは館を出ると、道に迷わないように来た道を歩いて戻り、
 老西門からそのまま地下鉄で南に下って2つ目の西蔵南路で降りた。

 


 今まで知らなかったとはいえ、
 長﨑にいるユウジに電話で教えてもらったように、
 せっかく上海まで来ているので、話のネタに、
 万博の空気だけでも吸ってみようかと思い立った。


 
 上海市内をうねように流れる黄浦江の両岸で開催されている、
 上海万博は2010年10月31日まで開催中であり、
 地下鉄西蔵南路駅は会場の最寄り駅となっており、
 地上に出ると、歩いても行ける距離にある。


 大通り沿いに太陽の光の方向に歩いていくと、
 高層ビルの隙間に忘れ去られたような長屋が見えた。
 上海万博の開発もここまでは及ばなかったと想われる。
 野良なのか毛並みの悪い薄汚れた猫が小走りで通り過ぎた。

 


 路地に入ると、建物はかなり古く、
 どうにか朽ち果てずに原型を留めているようだ。
 日本で言う戦前の建物のようで、
 見ようでは家というより刑務所にも見える。

 


 通りから、昼中というのに、裸電球を点した薄暗い家の中が窺えた。 
 ステテコ姿の梅干し婆さんが椅子に屈み、煙管で刻み煙草を栄養補給の如く吸っている。


 家の外には綱にぶら下げた年期の入った洗濯物の行列が見える。
 その先に路地の半分以上を仕切って、
 水色のビニールシートの上に赤やピンクの派手な女物のパンツが並べてあった。

 


 売り物だろうが、店番もいなければ、客もいない。
 摩訶不思議な光景だ。
 携帯のカメラでシャッターを切った。
 路地には、今まで目にしなかった中国式の旅館もあった。


 
 路地を進み、十字路に出ると、少しは大きな通り沿いに、
 リヤカーの上に西瓜の山。
 一元、日本円と人民元のレートが一瞬、頭の中で消え去ったが、
 十数円だろう、嘘のように安かった。


 
 八百屋があり、魚屋があり、ハエが集り、
 上海の路地に生きる人たちの活気で少しは賑やかになった。
 日本ではその姿を消した感のある駄菓子屋があり、
 少年のような若い男の子たちが集り、
 台湾でも見掛けた携帯のSIMを売っている。

 


 ツヨシの携帯は所謂ガラケーで、SIMを差し替えた経験が無く、 使えるとかどうか解らなかった。
 もし使えたとして、携帯の番号が変わるようで、
 仕方ないが諦めるしかあるまい。

 

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 4
        
 魯迅が亡くなった1936年(昭和11年)10月19日の8ヶ月前、 日本では皇道派陸軍青年将校によって226事件が起きている。

 

 

 翌、1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国国民党軍の衝突によって、全面的な日中戦争へと突入した。
 以後、日本が無条件降伏する1945年の8月15日までの間、
 日本軍、国民党、共産党が相まみえた中国本土での戦争に加え、
 1945年の8月9日に日ソ不可侵条約を破って参戦したソ連軍が加わった。

 


 
 ソ連軍が旧満州から立ち去ると、国民党と共産党の泥沼の内戦は一層激化した。
 毛沢東率いる共産党が蒋介石の国民党を破り、台湾へ追い遣り、
 中国共産党が一党独裁の原理原則を貫く、中華人民共和国を成立させたのは、魯迅がこの世を去ってから13年後の1949年10月1日の事である。

 



 上海で亡くなった魯迅とはいえ、
 魯迅の名前の付いた大がかりな公園の中に記念館が設けられ、
 魯迅のお墓まで作られているのに、
 合点がいかぬまま、ツヨシは魯迅記念館に紛れ込んでいた。



 上海の街の喧噪が嘘のように記念館は静かだった。
 日本の博物館や美術館がそうであるように、
 魯迅の人となりが時系列に紹介され、
 魯迅に興味を持っているであろう数人が、
 魯迅の出版物や原稿や年表や業績を言葉を出さずに見ていた。

 


 階段で2階に上がり、薄暗い室内で魯迅の生きた時代の映像に触れたツヨシは多少メランコリックな気分に浸り、1階に降りて来た。
 ここまでの1時間、館内で見掛ける多くは中国人のようだ。
 しかし、展示場のような物産店に入ると、それまで静けさは一転した。
 


 ここまで誰一人、ツヨシに関心を示さなかったこの館内で、
 もうすぐ中年の域に差し掛かるであろう中国人女性が日本語で声を掛けて来た。

 


「魯迅記念館に来られた記念に印鑑はどうですか?」と。
「あなたのお名前を今、この場で彫って印鑑にします」

 


 ガラスケースの中に納められた、
「佐藤、田中、渡辺、中村」など日本に多い苗字の印鑑のサンプルを彼女はツヨシに見せた。

 


「日本に帰って作られるよりずっとお安く、印鑑を提供します。
 ものの10分も待って頂ければ、
 あなたのお名前もこのように印鑑になります。
 もし、よろしければ、このような文字にすることも可能です」

 


 一般的な印字された印鑑とは別に崩し文字による印鑑を、
 彼女は指して、ツヨシの顔を見た。

 


「わたしが日本に居た時は、今のあなた位の年齢でした。
 あの頃の中国は貧しかった。
 でも、今はこのように豊かな国になりました。
 これも、魯迅先生のおかげです」



 医師になるために来日して、結果的に自らの夢を文学に託すため、 母国に戻った魯迅を彼女がどのように読んだか知る由もないが、

 昨夜、南京東路で、「女はいらない?」と近寄って来た若い男と同じように、彼女は日本帰りなのだ、この館の主である魯迅と同じように。

 



 ツヨシが体良く断ってこの場を離れようとすると、
 眼鏡を掛けた職人風の老人の横で細長い首に青筋を立てた中国女性が恨めしそうに睨んでいた

 


 印鑑など買わなくて正解だった。
 サインが主流の欧米諸国と違い、
 日本が印鑑なる非現代的な認証を今だに利用しているのは、
 もちろん中国の影響だろう。
 近代化を遂げた日本は、いろいろと弊害の多い印鑑から卒業してもよい時期に来ている。
 

 魯迅記念館を出ると、雨は少し小降りになった。
 隣に魯迅故居があるそうだが、それより魯迅のお墓に参りたくて、
 ツヨシは傘を差して、魯迅の墓を目指して公園内を彷徨っていた。
 もう諦めて、公園内からサッカー場を目指して歩いて行くと、
 何の前触れもなく、忽然と魯迅のお墓が目の前に現れた。
 さっきもこの横を通ったはずなのに気付かなかった。

 



 墓標と緑の低い木立と芝生の中に据えられた墓石の上に椅子に座った魯迅の像に、ツヨシは魅入った。
 左手で半ズボンのポケットから携帯を取り出し、
 その場に傘を置き、右手に持ち代え、小雨に打たれながら、
 カメラのシャッターの押した。

 


 傘を拾い、ガイドブックを広げると、
 魯迅の墓碑には毛沢東の書で刻まれている魯迅先生之墓と刻まれているそうだ。

 


 どこにそのような文字があるのか、辺りを窺っていると、
 魯迅像の向こうに、芝生と緑のもっと低い木立からアスファルトになった通りの奥に壁のような墓碑を発見した。



 ツヨシは傘を持ったまま魯迅のお墓の前に立っていた。
 立川のアパートで読んだ魯迅にようやく巡り会えたような気がした。
 壁になった墓石は魯迅先生之墓と毛沢東の書によって刻まれていた。

 


 魯迅は毛沢東の庇護の元にあったのだろう。
 魯迅と毛沢東という、ツヨシの頭の中で対極にいる、
 相反する人物の繋がりが解せなかった。
 考え込んでいても埒が明かないので、魯迅のお墓に一礼して、
 ツヨシはこの場を離れた。


 歩いて行くと、メッシの看板が見えてきた。
 地下鉄の虹口足球場駅まで歩いて行く内にまた雨が強くなった。
 想わず、上海に来て初めて、ツヨシはバスに飛び乗った。

 


 慌てていたので、行き先を確かめず、
 魯迅のお墓と記念館のあとは魯迅公園の南に位置する多論路文化名街を訪れる予定にしていのだが、どこで降りていいのか解らない。
 北京語なのか、上海語なのか、どちらにせよ、
 中国語は話せないし、英語で尋ねるのも気が引けた。

 


 成り行きまかせで、なるようになればいい。
 そう開き直るしかなかった。
 これまで、リニアモーターカーと地下鉄とタクシーしか乗っていなかったので、目線の違うバスの座席から上海の街を眺めるのも、
 ある意味で新鮮だった。

 


 広い車線にバスやタクシーや多くの車が大都会上海の街を抜うように走った。



 終点の上海火車駅でバスを降りた。
 ガイドブックによると上海の中央駅である書かれていたが、
 東京に例えると東京駅というよりはむしろターミナルの新宿駅に似た印象を持った。



 人の流れに乗って上海駅の構内に入ったが、
 上海ではもうやるべきことは終わってしまったのではないだろうか。
 残っているとすれば、魯迅が生まれ育った上海郊外にある、
 日本でもお酒で有名な浙江省の紹興という街に行くことくらいだ。

 


 ただ、紹興は魯迅にとってそれほど良き思い出の詰まった、
 居心地のよい故郷ではなかったようだ。
 北京で役人だった祖父が魯迅の父のためにとった小細工のせいで、 魯迅の一家は傾きかけ、病弱だった父の薬代がそれに輪を掛けた。

 


 上海から紹興は日帰りでも行けなくはないが、そうすると、
 旅のプランに少々無理が生じてくる。



 ツヨシが持っている航空券の復りは北京発福岡便で大連でストップオーバーすることになっている。
 とりあえず、北京に行こう。

 
 切符売り場はどこか当たりを見渡していると、
「どこに行かれますか?」
 白のワイシャツにスラックス姿の三十代半ばのビジネスマン風の中国人男性が日本語で声を掛けて来た。

 


「北京に行きたいのですが、切符をどこで買えばよいのですか?」
「ここから外に出て、左の方向へ真っ直ぐに歩いて下さい。 
 そうすると、切符売り場がありますから、そこで尋ねて下さい」
「有り難うございます」

 


 ツヨシは軽く頭を下げて、この場を立ち去り、
 男性に言われた通りに進んで切符売り場に辿り着いた。


 何列かある売り場で白人のカップルの後ろに並んだ。
 フランス訛りの強い英語で係りの人と掛け合った彼らの目的地は、
 唐の都だった西安のようだ。

 


 ツヨシの番が来ると、上海発北京行と漢字で走り書いたメモを係りの男の人に渡し、漢字による何度かのやりとりで、
 明日の午後9時過ぎに上海を発ち、明後日の午前7時過ぎに北京南駅に着く寝台車が取れた。

 


 しかし、台湾でも上海のホテルでもリニアモーターカーでも使えた、学生用のクレジットカードが使えなかった。



 中国の鉄道で唯一使えるのは係りの人が指で示すように、
 窓口に張ってある銀聯カードだけである。
 ツヨシはなけなしの人民元でチケットを買った。

 


 彼らに纏わるこれらの物語のすべてが魯迅に繋がっているであろう想って、上海を、魯迅記念館を、今、訪れているという事実を。

 

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 3

 ツヨシは7時前には目覚めていた。
 旅行続きで経費節約の折り、あえて窓のない格安の部屋にしたために、日射しがまったく入り込まず、体内時計が狂ってしまうかと思いきや、騒々しいはずの往来の音も遮断されていたようで、
 かえってぐっすりと眠れた。


 
 狭いユニット式のシャワーと共用になったトイレで小便を済まし、 顔を洗い、フロントでもらった朝食券を持って、部屋を出た。
 昨日、エレベーター内で出会った中国人の少年に教えてもらったように、カード式のキーを翳して下りのボタンを押して、
 食堂のある1階で降りた。
 


 PCの前を通り、白いプラスティックに黒で食堂と印字された赤い矢印方向に進むと電球色でぼんやりとした空間に足を踏み入れた。
 入り口に開かれた厨房があり、
 手前の灰色のビニール製の盆に籠の中に食券を投げ入れるようで、 それ真似ると、愛想の悪い太ったおばさんが椀に粥を注ぎ、 
 小皿に揚げパン2つと、中国式の漬け物を盆に乗せた。



 とりあえず、「謝謝」と言って、ツヨシはおばさんの反応を窺ったが、うんとも寸ともなかったので、
 箸とスプーンを盆の上に置き、テーブルの方に身を翻した。

 


 電球色のぼんやりとした空間にも目が慣れて室内を見渡すと、
 先客の中国人たちが1つのテーブルに二人ずつ並んで座り、
 鳥籠の中の工場労働者のように無言で食べているのに気付いた。


 
 誰もいないテーブルで一人、スプーンで粥を掬い口元に運んだ。
 元来薄味派のツヨシでさえ、まったく味を感じない粥。
 無機質な表情の中国人たちは刑務所で餌に有り付いているかのようだった。

 


 揚げパンを頬張るとわずかな塩気があり、箸で漬け物を挟み、
 口の中に入れると、かなりの塩気。
 粥と揚げパンと漬け物で塩分のバランスを取っているようで、
 ないよりはマシという朝食だった。


 ホテルの前の細い道から往来に出ると、
 車道には昼間同様の溢れんばかりの車と歩道には道行く人の波。
 昨日は初めての中国、上海初日とあって、
 乗ったタクシーも、走っている車の種類も気に留める余裕がなかったが、
 しばらく立ち止まって、よくよく車道を眺めて見ると、
 ほんの数日前まで、ユウジやミドリやキミコと滞在していた台湾に日本車がそれもトヨタ車が多かったのとは対照的に、
 上海ではドイツ車が多い。

 


 というよりもVWとアウディが多い。
 昨日、この界隈から乗車したタクシーをはっきりと覚えていないが、黄色いVWのタクシー数台が通り過ぎた。


 
 VWやアウディに混ざり、BMWもベンツも走っている、
 トヨタもホンダも日産も三菱もマツダもスズキも走っている、
 ヒュンダイも走っている。

 


 日本では決して目にすることがない車も走っている、
 ヤーサンすら見向きもしないアメ車の姿も見える。
 日本でお馴染みの軽自動車の姿は見えず、
 SUV車に代表される大型車が続いて、プリウスが目の前を通った。



 電話で話した長﨑に帰省中のユウジはともかく、
 ミドリとキミコは東京でどういう風に過ごしているのだろうか。
 ミドリは上野の日本人学校の事務職に戻り、音大生のキミコは夏休み中。

 


 あと一歩の所で落石事故に遭った王さんの意識は戻っているのだろうか。
 時が移るのは早いもので、あれからもう一週間になろうとしてい
る。
 そういえば、東京以上ともいえる車の量に、
 二十歳になったばかりのツヨシにさえ、強く印象に残っている、
 人民服に自転車というかつの中国のイメージはいやどこに。


 通りの店で蒸しパン2つを買って、ツヨシはホテルに戻り部屋に入った。
 味気のない粥と揚げパンだけの粗末な朝食を満たすべく、
 蒸しパンを食尽くし、昨日コンビニで買ったミネラルウォーターで喉を潤すが、無論、台湾の王さんが教えてくれた台湾産の阿里山の水ではない。
 


 いつまでも窓のない部屋に籠もっていても仕方ないので、
 そろそろホテルを出て、魯迅に会いに行くとするか。
 昨日から何度か地下鉄に乗っているので、もう驚きはしないが、
 上海の地下鉄では乗車する前にというより改札を潜り抜ける前に、
 空港と同じように手荷物検査を受けなければならない。

 


 万博開催のためのテロ対策なのか、それ以前から習慣なのかは知る由もないのだが、日本の常識が世界の非常識なのか、
 中国一の経済都市上海が特別なのか解らなくなってくる。



 8番の地下鉄は大世界から人民広場を過ぎ、
 そこから4つ目の駅が目的地の虹口足球場。
 魯迅とサッカーの繋がりはどうにも不思議だが、
 サッカー場に隣接して魯迅公園内に魯迅記念館と魯迅のお墓と魯迅が過ごした家が設けられている。
 


 地下鉄の虹口足球場を降りたツヨシがその名の通りのサッカー場を目掛け歩いて行くと、
 御世辞にもサッカー大国とは言えない中国、 
 その経済の中心地上海で、
 とても立派に見えるサッカー場の外観が目の前に現れた。

 


 サッカー場のスタンドの外壁に今やスーパースターとなった、
 つい先々月に行われたワールドカップ・南アフリカ大会では惜しくも無得点に終わった、アルゼンチン代表、スペインリーグ(リーガ・エスパニョーラ)バルセロナ所属のリオネル・メッシの大看板が目に飛び込んで来た。
 

 虹口足球場は中国スーパーリーグ(通称、Cリーグ)に所属する上海申花のホームグランドである。
 虹口という場所は、かつて上海が租界地時代に日本人が多く住んでにいた土地のようで、日本人にも馴染みのある場所でありながら、
 今日の虹口に日本のなごりを見つけ出すのは難しいのかもしれない。

 


 虹口には日本に留学した魯迅のお墓と記念館があり、
 その周りを魯迅公園と命名しているのは日本人にも意義深い気もするが、メッシと中国の、メッシと上海の関係が謎だった。
 いくら考えても仕方ないので、現実的な今日の目的に切り替えた。
 魯迅の記念館とお墓はいったい、この広い公園のどこにある。



 気を取り直して歩き出した。
 サッカー場を通り過ぎると、
 いつの間にか目の前には緑溢れた魯迅公園が広がり、
 その佇まいに、
 ツヨシは小学校の修学旅行で行った大宰府天満宮を思い出したのである。

 


 菅原道真と魯迅の共通点は日本と中国に横たわる海を、
 時空を超えて、文人として才であり、誉れである。
 池があり、小橋を渡り、老人の鳴らす胡弓が聴こえ、
 数多くの老人たちが集っている茶店風な売店があった。

 


 そのような光景を横目しながら、
 ツヨシが大きな魯迅公園の中をうろついていると、
 突然、雨が降り出し、荷物になるのを承知でショルダー・バッグに放り込んだ折り畳傘が急な雨で役になった。

 

 

 今朝、通りで買った蒸しパンを齧りながら、ホテルの部屋でテレビを観ていると、あらためて、中国というのは面白い国だと気付かされた。
 台湾ほどはないにしろ、東京以上のチャンネル数と膨大なコマーシャルが、上海の窓のない部屋のホテルの小さなテレビから、
 もっと、もっと、もっと、もっと、金と物を寄越しなと、
 訴えかけてくる。


 
 建前の世界では人民による平等な社会の実現を目指す、
 共産主義社会の標榜しながら、
 鄧小平による改革開放路線以来、
 現実の世界では、日本を凌駕する資本主義の世界がある。 

 


 共産党の幹部と共産党とのコネを持つ一握りの大金持ちと彼らの
子弟、少数派の小金持ちと10億人の負け組たち、
 都市と農村と、それぞれの土地に住む者たちを隔てる戸籍制度も存在する。
 寝ることを知らない魔都上海にも数知れない出稼ぎ農民工の悲喜劇があることだろう。



 おもちゃのようなリモコンでザッピングすると、
 ツヨシのような旅行客に過ぎない日本人にまで、
 わざわざ上海のホテルのテレビでも観られるように、
 お笑いのような抗日戦線のドラマを昼夜を問わず垂れ流している。



 チャンネルを変え、気分を変え、天気予報を観ていると、
 中国の広さを実感した。
 旧満州の黒竜江省の哈爾浜にはじまり、吉林省の長春、
 遼寧省の瀋陽と大連。
 北京に天津。
 河北省、河南省。山東省。

 


 ようやく、上海になったと思ったら、
 画面はすぐに浙江省に変わっていた。
 福建省に広東省、おまけに中国が領土と自負する台湾の情報まで付け加えて。



 画面がチベットに移り、もう一度、チャンネルを変えると、
 上海のローカルな天気予報に辿り着いた。
 液晶ながら、立川のアパートのブラウン管テレビとさして変わらない映りで、万国共通の傘マークが出ていた。



 高邁な理想からはかけ離れた金と権力とコネとエゴがうごめくオリンピックという名の巨大スポーツイベントは古代オリンピックの復興を夢みて、第一回アテネオリンピックから1世紀以上の時間を経た。


 
 旧ソ連や東ドイツのよう国威発揚の効果を期待して、
 北京オリンピックを開催した中国政府が、
 反日を煽り続ける北京政府が事もあろうに敵国日本の言語である日本語で、スポーツという外来語を体育と言葉に文字に当て嵌め、 置き換えていること見ても、
 頭隠して尻隠さずの彼らの素性が透けてみえる。


 
 中華人民共和国という国家の威信に賭けて臨んだ北京オリンピックで、中国人にとって何より大事なメンツを、
 自らの命より大事なメンツを救っくれたのは、
 オリンピック開催国の面目を保つことに寄与したのは、
 世界の誰もが注目すらしないマイナーな個人種目だった。

 


 マイナーな個人種目の金メダルラッシュに沸いた成功を、
 世界で一メジャーな団体競技であるサッカーに応用することに、 

 国家としての中華人民共和国も人民も四苦八苦しているのが現状が見て取れるのだ。



 それというのも、サッカーのワールドカップの世界では、
 2002年、本来日本単独開催のワールドカップが韓国の横槍によって、日韓共催という史上最低の大会になった折りに、
 中国は悲願の初出場を果たし、
 自ら申し出た中国は、かつての植民地ともいえる、
 儒教仲間の韓国側のパートに割り振られ、ものの見事に3連敗を喫している。



 そうだ、思い出した。
 メッシ率いるアルゼンチンオリンピック代表は北京オリンピックで金メダルを獲得している。


 右手に傘を持って横降りの雨を避けながら、
 ツヨシが広い魯迅公園内を歩いていると、
 ようやく、ようやくそれらしき建物に辿り着いた。
 傘立てに傘を立てて鍵を取り、記念館に入っていくと、
 ツヨシはもう記念館の中の住人になりきっていた。


 日本では戦前戦後と長年に渡り読み継がれ、
 小説家にも批評家にも学者にも評価を得ている魯迅という作家に惹かれ、熱に浮かれたように、勢いで上海に飛んで来たために、
 本来の目的だったはずの小説家である魯迅が彼の時代をどう生き、 母国の中国でどのように評価され、
 現代の中国にどういう影響を与えているのか、
 ツヨシは少しも理解する事が出来なかった。


 
 いや、もっと肝心な事を忘れていた。
 この春に起こった、東京の中華会館で起こった台湾人と中国人の
若い男女4人の死と、ユウジと一緒にキミコとミドリに出会い、
 彼らと供に台湾を訪れ、新高山の頂上へ登る寸前で事故に遭ったとはいえ、高砂族のツオウ族の集落へ引き返さなかければならなかった現実を。

 


 彼らに纏わるこれらの物語のすべてが魯迅に繋がっているであろう想って、上海を、魯迅記念館を、今、訪れているという事実を。

 

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