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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、前回の記事『怒りという感情 』に対して、
確かにそう言われてみれば使い分けていますね。
でも然るべき時にはちゃんと怒る必要があるわけですから、どうやったら正しい時に正しく怒れるのでしょうか?
というコメントをいただきました。
確かに、私たちには、時に自らの怒りを大いに表明すべき時があります。
それは、社会に対する怒り、つまりは『公憤』です。
政治家や企業の不正、国民を顧みない政治、あるいは悪質な犯罪行為などに対しては、私たちは、大いに怒りを表明し、この世の中をより良い社会へと変えていく努力をする必要があります。
もちろん、この場合でも、怒りを表明するのは法律に則った適切な方法を用いてであって、テロや暴力行為、悪質な嫌がらせなど犯罪行為によるものではありませんん。
時に、社会への怒りを犯罪行為によって訴える人たちがいます。
しかし、それは、あくまでも『社会への恨み』という個人的な怒り、つまり『私憤』によるものであって、もはや公憤と呼べるものではありません。
ただ、彼らは、自らの行為を社会のせいにしているに過ぎないのです。
私たち日本人は、どちらかと言えば、この公憤を表明することが苦手なようです。
例えば、政治に大いなる不満を持っていたとしても、それを投票に行かないという消極的な方法によってしか表明しません。
そして、
「誰がやっても同じだから」
という言い訳をします。
それは、ただ単に公憤を表明することから逃げているに過ぎないのです。
なぜなら、公憤を表明するとは、社会と積極的に関わることを意味しているのであり、そのためには、自らの行動を自らが律するという責任が生じます。
しかし、多くの人たちが、社会との積極的な関わりを避け、自らの責任を回避しようとしています。
そして、陰でこっそり不満を言ってはお茶を濁している。非常に残念なことです。
『私憤』に関しては、また次の機会に書きたいと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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