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心理コンサルタントのしらたきです。
さて、『地獄の沙汰も金次第』という言葉があります。
大辞泉でその意味を調べてみると、
『地獄の裁判も金の力で有利になる。この世はすべて金の力で左右されるというたとえ。』
と書かれています。
これは、意味にもある通り、金があれば何でもできることのたとえとして用いられてきました。
しかし、この言葉には、もともと対になる句がありました。
それは、
『金で買えない極楽浄土』
というものです。
つまり、
地獄の沙汰も金次第でなんとかなるが、
そのお金を出しても買うことができないのが極楽浄土なのだ。
それだけ極楽浄土は有り難いものなのだ。
という極楽浄土の素晴らしさを教えるための対句だったものが、いつの間にか、『地獄の沙汰は金次第』という言葉だけが一人歩きをしていったものなのです。
ところで、極楽浄土、または天国、あるいは地獄というものが、実際に存在するかどうかは、亡くなってからでないとわかりませんが、人が亡くなってから極楽浄土や天国に行くか、あるいは、地獄に落ちるかは、現世での行いによって決まってくる、とよく言われます。
もしそうだとすれば、人は亡くなってからも自分の人生が評価され選別されるのか、と思うと、なんだかやるせないような気もしてきます。
そんなことを考えていると、
『人が人を選ぶというのは、もともと不公平なものなのだ』
ということを誰かが言っていたのを思い出します。
あるいは、何かの本で読んだのかもしれません。
確かに、人が人を選ぶというのは、たとえどのような方法を用いたとしても不公平だと言えるかもしれません。
たとえば、受験にしてもそれは言えます。
そもそも、人の記憶力や読解力、表現力、計算力などは、人間の能力の単なる一部に過ぎず、それによって人間の能力のすべてが分かるというものではありません。
増してや、どのような問題によって人の能力を測るか、ということは、選ぶ側の恣意的な要素が入る可能性が高く、どんな問題を出してもそれが公平であるとは言えないのです。
つまり、人が人を選ぶということは、それにどのような方法が用いられたとしても、そこには必ず選ぶ側の嗜好や考えなど恣意的な判断基準が採用されることになり、結局は、公平性が保たれる要素は無くなってしまうのです。
それゆえ、たとえ何かの選別から漏れたとしても、
それは、選ぶ側の恣意的に歪まされた不公平な枠から外れた、
というだけのことであり、
それによって、人間の能力や人格が否定されるわけではないのです。
ただ、選ぶ側が勝手に決めた線引きの外にいるだけのことに過ぎないのです。
だからと言って、何もしなくてもいいと言っているのではありません。
受験や就活などで、たとえ自分が選ばれなかったとしても、
それは不公平な枠から外れただけのことであり、何も嘆くことなど必要ないと言いたいのです。
必要なことは、そのことを嘆くよりも、あくまても自分の能力を高める努力を続けることなのです。
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