[大和国高市郡] 植山古墳
推古天皇・竹田皇子の合葬墓とされる(初葬墓)
石棺は阿蘇ピンク石製の刳抜式家型石棺
*写真は「歴史に憩う橿原市 博物館」展示物より






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (33)






GWを挟み、
毎年のことながら新しい読者が少々増えました。

この企画物記事の主題を簡単にお話ししておくことにます。

5~6世紀頃(古墳時代中期~飛鳥時代の初頭)にかけて、畿内の古墳から「阿蘇ピンク石製」石棺が出土します。

真の継体天皇墓とみられる今城塚古墳や、推古天皇・竹田皇子の合葬墓(初葬墓)とされる植山古墳等から発見されたことで、「大王の棺(ひつぎ)」と呼ばれ、一時はちょっとしたブームとなりました。


「阿蘇山」噴火により生成された、微かにピンク色に発色した石材。

畿内には「二上山」や「竜山石」など優れた石材が豊富にあるにも関わらず、敢えて遥々と熊本県宇土市から、有明海や瀬戸内海を通り運ばれてきたのです。


その謎を紐解くのが、この企画物記事。


軽い気持ちで始めたものが、
日本古代史を根底から見直すほどの壮大なスケールとなったのです。

私個人的には面白くて面白くて…

ご覧頂ける方があればさいわいです。



■ 額田部氏の関与を探る

前回の記事にて、伊勢船木直氏が「阿蘇ピンク石製」石棺の水運の技術的側面を担っていたことを記しました。また第19回目の記事に於いては、それを管掌していたのは紀氏(紀朝臣系)であろうと記しました。

ところがあらゆる関連資料を探っていると、その水運に関して「額田部氏」がちらほら顔を出します。そこで「額田部氏」が「阿蘇ピンク石製」石棺の水運に関わっていたのかどうかを探っていきます。


[大和国平群郡] 推古神社

「額田郷」(現在の大和郡山市額田部北町)に鎮座する推古天皇(額田部皇女)を主祭神とする社。



◎「額田部氏」とは


「額田部氏(ヌカタベノウヂ)」は全国に見られる氏族。氏族の源流は諸説あり不明ながら、古くより大和国に発した氏族が全国に拠点を広げたものと見られます。

記紀に於いては第24代仁賢天皇紀に初めて顔を出し(神代記の「誓約」の段にも記載があるが、額田部湯坐連氏が天津彦根命の後裔氏族であるという系譜を示すのみ)、少し時代を降って第29代欽明天皇紀に再び登場、以降は多く記載があり、とりわけ飛鳥時代、なかでも特に推古天皇(額田部皇女)紀に頻繁にみられます。
記紀以外では「播磨国風土記」に第15代応神天皇の御代の事蹟が見えています。

「新撰姓氏録」を元に分析すると、2系統の額田部氏があると考えられ、一つは「天津彦根命系」額田部氏。大和国平群郡「額田郷」(現在の大和郡山市額田部北町・額田部寺町・額田部南町)を本拠地としていました。もう一つは「明日名門命系」額田部氏。本拠地は不明。右京・左京、摂津国、山城国(愛宕郡と相楽郡に「額田」の地名有り)に記載が見られます。
このうち水運に関わったのは「天津彦根命系」額田部氏と思われます。

「播磨国風土記」に記載の額田部氏は、もう一つの「明日名門命系」額田部氏によるものと思われ、「天津彦根命系」額田部氏の登場は文献上に於いては、仁賢天皇以降と考えられます。

額田部氏はヤマト王権の時代からやがて大和朝廷となり、その水運を担っていたと推されますが、それのみならずに馬の飼育・貢上も行っていたとみられます。そのことからヒト・モノの運搬管理全体を職掌としていた氏族であると見受けられます。

また額田部氏は平群氏とともに、まるで一体化したかの如くに伸長したという経緯があります。



◎重なる「阿蘇ピンク石」と額田部氏

「阿蘇ピンク石製」石棺と額田部氏との間に直接的な関わりは見られないようです。ところがあらゆる面に於いて重複しています。これはもう偶然というだけでは片付けられないのではないかと思うのです。

*時期の重複
「阿蘇ピンク石製」石棺の出土例として最も古いとされるのは、古墳時代前期後半(4世紀後半)の山城国綴喜郡の八幡茶臼山古墳のもの。ただしこちらは古墳、石棺ともに現存しておらず、確定要素とはし難いもの。
古墳時代中期(5世紀代)に入ると、中頃の河内国石川郡の空櫃山古墳のものを始めとして、5世紀第四半期に一気に計6ヵ所へと急増。古墳時代後期(6世紀代)前半には、真の継体天皇墓とみられる摂津国島上郡の今城塚古墳を筆頭に計4ヶ所が出土。そして後期後半に大和国高市郡の植山古墳を最後に姿を消します。

ただしこれは実際に出土したもの、かつ推定年代測定がなされたもののみのデータ。築造年代不明の古墳もありますし、そもそも未だ出土していないものもあろうと思われます。
記紀やその他文献等に於いて、「阿蘇ピンク石製」石棺の輸送に携わった可能性のある「天津彦根命系」額田部氏が台頭してくるのは仁賢天皇以降、即ち5世紀末からのこと。

第36代孝徳朝、大化五年(649年)の蘇我倉山田石川麻呂誣告事件により、額田部湯坐連等が斬られ、一族の勢力は衰退します。

*推古天皇(額田部皇女)と額田部氏

天津彦根命系」額田部氏の勢力が盛んな頃、推古天皇という、聖徳太子が摂政となった際の天皇がいました。日本最初の女帝であり、聖徳太子の影に埋もれがちながら、政策断行の潔さ等は目を見張るもの。本来はもっと顕彰されるべき天皇であったと考えています。余談となりましたが…


即位前の名は「額田部皇女」、諱(いみな)も「額田部」なのです。これは額田部比羅夫により、大和国平群郡「額田郷」で養育されたことによるものと想定されます。

さて…石棺の方に話を戻しますと…

大和国高市郡の植山古墳は、改葬前の推古天皇の墓、初葬墓ではないかと見られている古墳なのです。


今後の考古学的成果により、これより後の年代の「阿蘇ピンク石製」石棺が出土する可能性はありますが、現在のところはこの墓から出土した石棺を以て、以降は姿を消しています。しかもわずかながら、他の出土例よりも時期が遅れているのです。


これは偶然のことなのか…それとも必然のことなのか…。


[大和国高市郡] 植山古墳




*継体天皇と額田部氏
真の継体天皇の御陵とされる今城塚古墳の石棺の一つは、「阿蘇ピンク石製」と見られています(近くで石橋として使われていたものが石棺片とされる)。継体天皇と額田部氏との直接結び付けるものは見当たりません。

かつての平群郡「額田郷」の一族の氏寺とされる額安寺の近くに、額田部狐塚古墳が築かれています。全長50m程度の前方後円墳、周濠跡も確認されています。築造年代は6世紀前半頃と推定。
副葬品として銅鏡や冠帽、純金首飾り等の豪奢な遺物が出土。規模等も含めて額田部氏の首長墓とみてよいのだろうと思います。

橿考研 春季特別展「継体大王とヤマト」(平成二十七年)という書に於いて、坂靖氏(橿考研総括学芸員)は以下の見解を述べています。
━━検出された埴輪は、継体大王の擁立に関わったされる尾張、近江、山城、摂津地域の古墳で使われた尾張系のもので、大和では額田部狐塚古墳が初出で被葬者は継体天皇を支えた人物の可能性が考えられる━━

継体天皇と尾張とが結び付く所以は、最初の妃が尾張目子媛であること。先帝とは四親等以上離れ、応神天皇五世孫という越前王を擁立するには反対派も多くいたことでしょう。相当な推戴や支援等諸々があったようです。記紀に見える大伴金村や物部麁鹿火はもちろん、妃の出である尾張氏や、そして額田部氏も携わったということなのでしょう。


[摂津国島上郡] 今城塚古墳

付近で石橋に使われていた石材が当墳の石棺片とみられ、「阿蘇ピンク石」が用いられている。



*宇土の「額田部」

推古天皇(額田部皇女)の御名代である「額田部」が全国に広がっていました。主として馬の飼育・貢上を媒介として平群氏とともに広がったものと思われます。


肥後国の「宇土」にも「額田部」が存在しました。「正倉院文書」の「天平勝宝二年(750年)四月五日の写書所解」には、「額田部真嶋年卅七、肥後国宇土郡大宅郷戸主額田部君得万呂戸口」とあります。こちらは「大宅郷」とあることから、大宅氏に関わるもの。「新撰姓氏録」に記載ある「大和国 皇別 布留宿祢 柿本朝臣同祖…」、つまり和邇氏系(後裔氏族として筆頭は春日氏、二番目は大宅氏、他柿本氏や小野氏等全16氏族に分岐した)の「額田部」が住んでいたように思います。

「三代実録」貞観六年(864年)一月四日条には「勅停肥後国大宅牧」とあり、朝廷の牧場があったことが窺えます。大宅氏もまた馬の飼育等に携わっていたとされます。




◎「水運」という必須要件

「阿蘇ピンク石製」石棺は現地、即ち肥後国の「阿蘇山」の西麓、熊本県宇土市網津町にて産出された、ピンク色に発色する石材を伐り出すことから始まります。現地でおよそ35tもの石棺に加工。そこから有明海を発ち瀬戸内海を通り畿内へ。「淀川」を遡上し、途中「大和川」へ分岐するものもあり(付け替えが行われる江戸時代まで「大和川」は「淀川」に合流していた)、遡上し陸揚げ後は修羅で曳かれて古墳まで。およそ一年近くの工程・行程を経て成し遂げられたもの。

特に肥国「宇土(うと)」から有明海、瀬戸内海を経由して、「淀川」(または支流の「大和川」)を遡上し水揚げされるまでの、いわゆる「水運」は並大抵のものではなく、高性能な「船」と高度な「船運技術」が問われるもの。当時の一級の技術者たちの手により成し得たものと思われます。また長旅の途中には補修等も必要であったのではないかと。

*船木氏と紀氏

船木氏は紀氏(紀朝臣系)と親しい関係にありました。紀氏は武内宿禰の子、紀角宿禰を祖とし、紀伊国の「紀ノ川」流域を拠点として活動した氏族。雄略・顕宗・欽明朝にて軍事・外交にて華々しく活躍しました。神武東征時より水運を担った可能性もありますし、神功皇后の遠征には紀氏の尽力無しには語られないと考えます。

「住吉大社神代記」に「船玉神 今謂ふ 齋祀るは紀国の紀氏の神なり 志麻神 靜火神 伊達神の本社なり」(「船玉神」とは住吉大社境内摂社 船玉神社のこと)とあります。また「造船技術を持って仕えていた船木氏の祖神 大田田命が三艘の船を造った」とあります。船木氏と紀氏との関係の近さが窺えるもの(→ 詳細は第19回目の記事にて)



[摂津国住吉郡] 船玉神社(住吉大社境内摂社)



*紀氏と額田部氏
紀氏は武内宿禰の子の紀角宿禰を祖とする氏族。「紀ノ川」流域の紀伊国名草郡を本拠地としていましたが、やがて大和国平群郡へと拠点を広げました(→ 平群坐紀氏神社)
この地は額田部氏と一体化した如くの平群氏の本拠地。平群氏もまた武内宿禰の子の紀木菟宿禰(キノツクノスクネ)を祖とする氏族であり、言わば親戚の関係。紀氏と額田部氏が親密となるのは自然な流れだったのでしょう。


[大和国平群郡] 平群坐紀氏神社



*水運の管掌
水運の技術的側面、即ち用材の伐り出しから造船、航海までを手掛けたのは、古来よりずっと船木氏以外に担ったとは考えにくいこと。
そして水運全般を管掌したのが、紀氏から徐々に頭角を現してきた額田部氏へと移行したのではないかと想像します。





今回はここまで。

これにて一通りやっておかねばならないと思うことは、成し得たかと思います。

今後は新しくそういったものが出てきた際に、再開させようと思います。おそらくはこの記事を以て最後とはならないように思います。



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