ずいぶん長らく背中痛で悩まされ、
仕事にも敬神活動にも大きな影響が出ました。
ところが…
ひょっとしたら…
その原因が分かりつつあるのかも。
それはそれで対策を講じなければならないのですが、復活に向けて大きく前進できるかもしれません。
多くの方々にご心配を頂き、
励ましのお言葉もたくさん賜っています。
原因がはっきりと分かった時点で
再度ご報告致します。
これまで記してきたことを要約して推測してみると、天目一箇神を祖神と仰いで斎祀る氏族は、西の方からおもむろに東へと移動していったのではないかとしています。
或いは東の山城(近江の間違いか?)辺りから菅田首の一族が、移動したとみられぬこともない…と甚だ曖昧なものですが。
西→東への移動に固執しているように見受けられるのですが、果たしてそうなのか?
朝鮮半島から技術者たちが流入しているため、概ね西→東となるのでしょうが、鉱山を求めて時には東→西への移動もあったのではないかと思うのです。
谷川健一氏は天目一箇神社の分布は、天日槍の渡来伝説とも微妙な照応関係を有しているとしています。
これは非常に気になっていた点。
*菅田首の移動
「杉原谷」(「加古川」支流)の銅山を稼行した一群は、西方の西脇市や小野市、東条方面へと進出。それから近江国蒲生郡の菅田神社の所在地や、山城国(所在地は不明)、さらに大和国へと移り住んだとしています。
[大和国添下郡] 菅田神社
◎大和国高市郡の磐橋神社
「大和志料」には、高市郡「金橋村」(後の橿原市小綱町)に「磐橋神社」があって、高市の奄知造氏(アムチツクリノウジ)の祖である天目一箇命を祀るとあります。
そして「小綱」(しょうこ)は元々「小網」と書いたとし、「小網(おあみ)」は「遠海(おうみ)」に通じ、「遠海」は「奄知」からの転訛と考えられるとしています。「奄知」は古代朝鮮語で小児を 意味する、「閼智(あるち)」に由来するものであろうと。
この磐橋神社の「磐橋」は元々「金橋」と呼ばれていたとのこと。「金橋」は「石槌」や「金鉗(かなはし)」が天から降ってきたとからだと。
この「金橋村」には隣接して「忌部村」があり、ヤマト王権内で重要な地位を占めた忌部氏の本貫地。氏神である天太玉命神社が鎮座します。
周辺から約80万点もの夥しい量の玉類が出土したことでも知られます。バイパス敷設による事前調査で事前調査されたものですが、当時立ち退きをやむなくさせられる同級生たちが、発掘調査に参加していました。余談ですが。
橿原考古学研究所の関川尚功氏は、「各地に分散していた玉作りを大和に集中させた王権直属の工房だった」という見解を示しています。
谷川健一氏は伊勢の忌部氏が天目一箇命を祖とすることから、関連を見出だしているものの、果たしてどうか…。
なお「磐橋神社」は現存しないと思われます。20年近く前に町内をくまなく探しましたが。1km余り西方には金橋神社が鎮座します。
◎「奄知」
近くには「庵治町(おうじちょう)」もあり、奄知造氏の痕跡が残ります。
◎「三宅」「結崎」
◎「鏡作郷」
「三宅村」の南側は「鏡作郷」(現在の田原本町小阪辺り)。こちらには鏡作坐天照御魂神社を始めとして鏡作連が奉斎した社が5社鎮座。鏡を 作るわけですから、もちろん材料の銅が搬入されています。
5社鏡作社のうち鏡作麻気神社は、祖神である天麻比止都彌命(=天目一箇命)を祀っています。
*「蔵堂」
*平群郡「額田郷」
推古天皇の諱は「額田部王」。額田部連が奉斎した社であり、推古天皇の田部(従事していた部民)と考えられます。こちらも天津彦根命の裔。
谷川健一氏は以上からみて、大和盆地のど真ん中に鍛冶氏族が移住してきたとみています。
今回はここまで。
これで第一章が終了。
次回より第二章へと進みます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。