天太玉命神社
(あめのふとたまのみことじんじゃ)


大和国高市郡
奈良県橿原市忌部町153
(P有)

■延喜式神名帳
太玉命神社 四座 並名神大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神

豊石窓命
櫛石窓命


忌部氏の氏神と考えられている社。当地「忌部町」は忌部氏の本貫地であるとも。
◎当社から北北東600mほどのところに天高市神社が鎮座、その北すぐで「曽我遺跡」が発見されています。5世紀後半から6世紀前半の遺跡で、祭祀用具の勾玉や管玉など、80万点という夥しい量が出土、忌部氏が国家祭祀の中心を担っていたことがよく分かります。
5世紀から6世紀にかけて阿波国より移住。そして中央において地位を確立した忌部氏も、奈良時代になると同じ祭祀氏族である中臣氏に押され始め、姿を消していきます。当社の寂れようもそれに応じたかのよう。
◎ご祭神は神名帳にあるように四座。天太玉命とその御子神三座です。ところが御子神三座には異説もあります。「五郡神社記」という書は、天太玉命と大宮乃売神・太玉命(天富命か)・天比乃理咩命の三座としています。天富命も天比乃理咩命も忌部氏の祖。天富命は神武東征時に橿原宮を造ったとして知られる神。また阿波忌部を率いて安房こへ移住、安房神社(未参拝)を創建したことなどでも知られます。天比乃理咩命は天太玉命の后神。
なお瑞垣内の右殿には天児屋根命、左殿には玉依姫命が祀られています。
◎かつての名神大社の衰微が顕著に見られるのは中世頃から。嘉吉元年(1441年)の「興福寺官務蝶疎」という書に、「太玉神は同郡(高市郡)忌部に在り 供僧蓮光寺と号す 社司一人神人三人 祭る所は忌部連遠祖天太玉尊」とあるようです。どうやら仏教施設の鎮守社に成り果てていたようです。さらに江戸時代には中臣氏の氏神を勧請し、春日社と称していたと。現在の瑞垣内右殿の天児屋根命がその名残かと思います。
◎「五郡神社史」には高市郡式内社 天津石門別神社(比定社は天津石門別神社)を併祀したとあります。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。











岡天王社という境内社。詳細不明。