天津石門別神社
(あまついわとわけじんじゃ)


大和国高市郡
奈良県高市郡高取町越智字大西85
(P無し、セブンイレブンのある交差点から東へ進み初めての辻を北へ左折し集落内へ)

■延喜式神名帳
天津石門別神社の治定社

■旧社格
村社

■祭神



「曽我川」東岸の「越智」の古い密集した集落内に鎮座する社。
◎当社は式内社 天津石門別神社に「治定(県の示達)」されています。長らく所在不明となっていたものの、治定に併せ社名・祭神名の変更がなされたようです。
◎中世の頃にこの辺りを支配した越智氏が斎祀る社であったとされ、九頭明神と称し1185年(元歴二年、文治元年)に創建と越智氏系図にあるとのこと。もしさらに古くからあった神社に越智氏系の神社が被さったとすれば、原初は水神を祀っていたのでしょうか。
なお「五郡神社史」では天太玉命神社に併祀されるとしています。
◎天津石門別神(天石門別神)は櫛石窓神・豊石窓神とも称される「御門の神」。瓊瓊杵尊の降臨の段で、三種神器に常世思兼命(トコヨノオモイカネノミコト)天手力男神とともに添えられたという神。
神名帳に見える宮中三十六座のうち、神祇官西院坐御巫等祭神二十三座、御門巫祭神八座(並大)。内裏四面の門に櫛石窓神・豊石窓神がそれぞれ祀られ計八座。
◎「古屋家家譜」では天手力男神と同神とし、大伴連の祖神としています。他にも天太玉命の御子とする説も。忌部氏は大伴氏と同族とする説もあり可能性はあるかと思われます。また久米氏は大伴氏からの分岐氏族と思われるため、久米氏の祖神でも。

◎日本家系図学会及び家系研究協議会会長である宝賀寿男氏のサイトによれば、
━━大和の大伴氏族の流れは、大和源氏(清和源氏頼親流)のなかに入り込んだ模様で、源姓を称した中世大和南部の大族越智氏も実際には大伴氏族の流れをなんらかの形でうけたものか。━━としており、大伴氏(同族の久米氏)との関連に言及しています。
◎越智氏が拠点とした貝吹山城(「貝吹山」山頂)の北側は、神武天皇二年に道臣命が「宅地(いへどころ)」を賜ったという「築坂邑」(「築坂邑傳稱地」碑、氏神は鳥坂神社)。またその東隣は久米氏が拠点とした「來目邑」(「來目邑傳稱地」碑、氏神は久米御縣神社)。さらに貝吹山城の北西には大伴一族の奥津城とされる新沢千塚古墳群があります。そして貝吹山城の西方に鎮座するのが当社。
◎ご本殿は無く、楯状列石にびっしりと巡らされた中にご神体とおぼしき榊。神籬のような自然崇拝形態をとどめる珍しい姿です。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。






拝殿ではなく祝詞舎。


こちらが御神体。




境内社

境内すぐ側から、神武天皇が即位後に国見をしたという「嗛間丘」を。


大和国高市郡の神社