[伊賀国] 都美恵神社



■表記
伊勢津彦神

*「伊勢国風土記」逸文では伊勢都彦命、出雲建子命、天櫛玉命、櫛玉命
*「播磨国風土記」では伊勢都比古命
*「住吉大社神代記」では伊勢川叱古命


■概要
記紀には記されず、「伊勢国風土記」逸文等に記される神。そこでは伊勢国の国号由来になったと記されています。

◎「伊勢国風土記」逸文の一説の記述
━━出雲神の子 出雲建子命の別名が伊勢都比古命である。亦たの名を天櫛玉命と言う━━

出自は出雲、「出雲神」とは大国主命と考えられます。さらに…

━━伊賀の「安志(あなし)」の社に坐す神。石を以て城を造っていたが、安倍志彦神(アヘシヒコノカミ)が奪いに来るも勝てずに帰ったため、「石」が転訛し「伊勢」となった━━

「安志の社」とは「式内社 穴石神社」のこととされますが、論社として伊賀市「石川」の穴石神社と、「柘植(つげ)」の都美恵神社の2社が挙げられています。「安志(あなし)」は「穴師」と同義ということかと、つまり産鉄に携わる氏族であったと思われます。
「安倍志彦神」とは伊賀国一ノ宮 敢國神社のご祭神のこと。大彦命を祀る社として麓に創建されるも、原始は「南宮山」山頂に少彦名命を祀る社として創祀されたと伝わります。「安倍志彦神=少彦名命」なのかどうかは不明。

さらに神武天皇の御宇の記述が見られます。
━━神武天皇は天日別(天御中主尊十二世孫)に伊勢国を平定するように勅した。伊勢津彦は長く住んでいることから拒むも兵を向けられ降伏。天孫に国譲りを確かに行う証に、今夜「八風(強風)」を起し海水を吹き、波に乗って東方へ去ると伝えた。その夜、大風が四方に起こって波を打ち、揚げ日の如く光り輝き、陸も海も明るくなり波に乗って去って行った。国名は国つ神(伊勢津彦)の名を取り「伊勢」となった━━


出雲から伊勢へと移住し長らく住んでいたようです。記述内容から風神であるということが分かります。「たたら製鉄」に必要な強風を起こす神として崇められていた神であるかと。

さらに後世の補記として「近くは信濃国にいる」と記されています。

◎この信濃国に…という記述を含めて、伊勢津彦を建御名方命と同神であると唱えたのが、本居宣長や伴信友など。時代も場所も異なり、信濃国に…というのも後世の補記であるため、俄には信じ難いところ。

そもそも建御名方命は「出雲国風土記」には登場しない神。もちろん国譲り神話も記されていません。国譲りが実際にあったとするなら、出雲以外の地で起こったと考えられます。伴信友は出雲にいながら伊勢を領有していた伊勢津彦を頼って、建御名方命が一旦伊勢に移り国譲りがなされたとみています。
時代に関しては本居宣長は誤伝であるとしています。

◎「住吉大社神代記」には、大田田命の子 神田田命のさらにその子 神背都比古命は、天賣移乃命の子 富止比女乃命を娶り、伊勢川叱古乃命を生み、伊勢玉移比古女乃命を娶り坐し、伊西国(伊勢国)「舩木」に住んだとあります。
「舩木」は舩木氏が拠点とした地。倭姫命巡幸に際し大いに活躍した氏族。多気郡に所縁の神社が見られます。

◎伊勢津彦の後裔は信濃以外にも、無邪志国(武蔵国)や相武国(相模国の東部)なども移ったようです。

「角井家系」には出雲国造の祖 天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)の子に出雲建子命(別名/櫛玉命・伊勢都彦命)を挙げ、「始め度会県に住む、神武天皇御宇に東国に来る」と記しているようです。「度会県」とは伊勢国度会郡のこと。

「先代旧事本紀 国造本紀」には無邪志国造の条に、「出雲臣祖 名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄 多毛比命を国造に定めた」とあります。上記「角井家系」にある伊勢津彦の子の神狹命ということでしょう。

また同書の相武国造の条には、「武刺国造の祖神 伊勢都彦命三世孫 弟武彦命を国造に定めた」とあります。

◎「伊勢国風土記」には伊勢に長らく住み地名由来となった、「角井家系」には度会県(度会郡)に住んでいたとあります。
ところがこれまで自身が参拝を重ねた度会郡の70社余りに、配祀や合祀社を含めても伊勢津彦神を祀る神社は存在しません。漏れている主要社をざっと調べても見当たりません。多気郡はわずか30社足らずしか参拝できていませんが、こちらにも見当たりません。さらに伊勢国全体の参拝済みの180社にも見当たりません。

結局のところ「伊勢国風土記」編纂以前に、既に分国がなされていた伊賀国に所縁の神社が一社のみ(式内社 穴石神社)のみといった具合。伊賀国は70社余りを参拝済み、主要社はすべて参拝し終えています。

これは異常なことと考えます。伊勢国内のまだ未拝の社で祀られているということでしょうか。或いは建御名方命のように、別名にて祀られているのでしょうか。そもそも伊勢国を拠点としていたことに疑問を抱かざるを得ません。

◎伊勢国朝明郡(現在の菰野町)に「八風峠」という伝承地があります。これは伊勢津彦神が「八風(強風)」を起したことを以て、東方へ去る証明にしたという故事を由来とする地名。ただし周辺に伊勢都彦を祀る社は知り得る限り存在しません。
「八風峠」東麓に鎮座する式内社 多比鹿神社では、大国主命の五世孫 多比理岐志麻流美神が開拓したとされています。また「八風峠」山頂に鎮座する式内社 伎留太神社においても痕跡は見えません。

◎「播磨国風土記」の揖保郡の条には、「伊勢野」という地は平穏に住むことができないので、衣縫の猪手 漢人刀良らの祖にあたる者が、山麓に神社を建て、山上の峰にいる伊和大神の御子である伊勢都比古の命と伊勢都比売とを祀った…とあります。これは「伊勢野」の地名譚であり、建てた神社はもちろん伊和神社のこと。

伊和大神については大己貴命とするのが公式見解ですが、本来は土着の伊和氏の祖神とする見方も。また伊勢都比古を伊勢津彦神と同神とするのも意見が分かれています。


◎これらに対し宝賀寿男氏は、伊勢津彦神とは邇芸速日神(饒速日神)のこととし、実際に伊勢から東方へ去ったのは子の神狹命であるとしています。

神狹命も伊勢津彦神と同様に、伊勢国内に祀られる神社は見当たりません。ただしこちらは神名に特徴が無いだけによく似た別名で祀られている可能性は否定できません。

氏は膨大な資料を精査し丹念に家系を再構築していることから、一定の信頼を置き、当ブログでもたびたび引用していますが、この伊勢津彦神に関しての推論に至るまでの過程には粗さが露呈。従って、そう考えられなくもないという程度に留めおきます。

松前健氏は、━━伊勢津彦東海退去の物語は、海辺の祭儀の縁起譚に過ぎないもので、別に何等かの種族の移動や氏族の東遷の史実が背景となっているわけではない━━としていますが、伊勢津彦神の神話は何らかの史実を反映したもので、それがどこかに紛れ込んでいると考えたいものです。


■系譜
父 … 大己貴命(「播磨国風土記」による)
配偶者 … 伊勢都比売(「播磨国風土記」による)
子 … 神狹命


■祀られる神社(参拝済み社のみ)
[伊賀国] 都美恵神社(合祀)(本来の祭神ではないか)

*関連する神社
[伊勢国三重郡] 足見田神社(原始の祭神ではないか)

[伊賀国] 敢國神社

[伊賀国] 穴石神社(本来の祭神ではないか)
[播磨国] 伊和神社



[伊賀国] 穴石神社



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