◆ 火吹く人たちの神 ~17






今回を以て、第一部のうちの第一章「銅を吹く人」を終えます。

まだそこかい!

ツッコミが入りそうですが。

これほどの中身の濃い書になると、
一字一句追って吟味しつつ読み進めることで、初めて諒解されることも多々ありまして…。

このような独りよがりな記事ですが、お付き合い頂ける方がおられましたらさいわいです。



過去記事一覧を作成しました!


第一部 青銅の神々
第一章 銅を吹く人


■ 鍛冶に携る小人集団の典型「赤銅のヤソタケル」

「鍛冶」と「小人」、ひいては「小子部」の集団、これらを結びつける事例が多く示されています。



◎「鍛冶」と「小人」は世界共通の認識

*ベヤリング・グウルドは「民俗学の話」の中で、「小人はかつては非常に器用な鋳金者であると信ぜられ、ことに鋳刀師としてはみごとな腕前を持っていた」と。

*北欧の伝説ではもっともすぐれた坑夫は小人であった。

*ドイツやコオンウォル、あるいはデヴォンシャには、トロルと称して、鉱山で働く小人がいたという俗信がかつて行われていた。

まだいくつかの事例が並べ立てられていますが、ほとんど知らない分野なので…これだけもあれば十分かと思います。

こういった伝承が東アジアに伝わり、さらに日本にも海を渡り伝わってきたのではないかと。

*新羅の巫王である脱解(ダッカイ)は鍛冶屋であり、箱の中から出現した小童。



◎小童と「ひじ」

「三代実録」の記述。
━━元慶元年(877年)、美作国(みまさかのくに、備前国から分離独立した国)から銅を進上したが、その銅というのは高田(現在の真庭市勝山)にある加夫良和利山の銅と小童谷村(ひじやむら、現在の真庭市湯原)にある比智奈井の銅を採った━━

他に「小童」を「ひじ」と訓む例は、備後国世羅郡にもあるとのこと。この訓みには「小人」と「銅山」の関係が暗示されているのではないかとする谷川健一氏。

これ以上は言及していませんが、「ひじ」とくれば、丹後の「比治の真名井」を連想せずにはいられません。

こんなことが書かれていましたか…
「比治」について今は何も語られないので、頭の片隅にでも。



◎八幡神と童子

本書では宇佐神宮の「託宣集」に、「鍛冶神の八幡神が竹の葉の上に乗った三歳の童子の姿で示現した」とあることが示されています。

これは「足助八幡宮縁起」にも同様のことが記されています。



◎童子とタタラ師

◆玉鋼の杜 ~金屋子縁起と炎の伝承~ 5の記事内で、以下の内容を掲載しております。

三品彰英博士の「対馬の天童伝説」から引用。
* 宇佐八幡宮の由来で「足助八幡宮縁起」には、宇佐八幡の神格は元来鍛冶神であり、童形の神(三才の小児の形)である。
* 対馬には天童伝説があり、その分布が鉱山地帯にわたっており、タテラ(タタラ)という地名と結び付きがある。天童は天下って来た童形の神で、一面冶匠たちの奉ずる神であったらしい。
* 新羅の脱解王(第四代国王)については、「三国遺事」の記述に、小童の冶匠であったという伝承がある。

本書と一部重複しています。これら3つは明らかに系統的につながりがあり、
━━そしてこれを更に追っていけば、北欧伝説に特長的な、各種の名刀の製作者が「小人」の刀鍛冶であった、という話につながって来る━━と。明らかに北方系であるとしています。またタタラ師ではなく、平地在住の加工集団(鍛冶師)であると。

つまり平地農民=「主民」と一体化している鍛冶師から、「客民」であるタタラ師が取り入れたものであるという結論を導き出しています。

谷川健一氏よりも一歩進んだところに言及しています。



◎「金屋子神」と「神の子」

昨年は年始早々より夏過ぎまで、出雲国で祀られる金屋子神社のご祭神、「金屋子神」をせっせと勉強しておりました。

もうすっかり頭の中から蓄えた知識がどんどん抜け出しておりますが…あらためて一通り読み直すと、ずいぶんといろんなことを勉強させて頂いたものです。

皆の一番の関心事である「金屋子神」の正体とは?について、安部正哉宮司があらゆる説を拾い上げ、紹介なされています。
いずれの説も非常によく吟味された上でのものであり、阿部宮司も正体を特定しかねる…というのが結論。

そこでは敢えて言及しなかったものの、こちらでこっそり自身の考えを露呈するなら…

「金屋子神」はやはり、「金屋」たちの「子神」ではないかと思うのです。神名を無視して論じるべきではない!というのが私個人的な考え。

そうすると上記の「童形の姿をした八幡神」という説が該当するのですが、もう一つの説があります。

「日本民俗学体系 8」の中で堀一郎氏は、「金屋子縁起抄」に主神(金屋子神)の母神が金山彦命と結婚しやがて金屋子神を生んだとあります。これは記紀との妥協をはかろうとしたとしています。つまり母子信仰があったが記紀に妥協させるために金山彦命と結婚させたのではないかと。

*若宮の誕生
「鑪と鍛冶」において民俗学者の石塚尊俊氏は、神が天降る際に必ず巫女がいたに違いないとし、やがて若宮が誕生するとしています。その例として
・天目一箇神と道日女の間に御子
・大物主神と勢夜陀多良比売との間に比売多多良伊須気余理比売
・火雷神と玉依日売との間に加茂別雷神
以上を挙げ、金屋子神の「子」にその残映を見出せるのではないかとしています。

*「神のまつり」は「神の子を生むこと」
「日本の神々」において平野仁啓氏は、「加茂別雷神社の縁起の中心は、神を祀る巫女が、神の子を生むという話になっているが、実は、神の子を生むことが神のまつりであった」と記しています。


[出雲国] 金屋子神社



◎赤銅のヤソタケル

ようやく表題の「赤銅のヤソタケル」を。神武紀に二つの「高尾張邑」にいた住人の記述がみられます。「高尾張邑」とは大和国葛城(葛木)地方にあった村のこと。第2代綏靖天皇 葛城高丘宮跡の周辺一帯が推定地。


━━高尾張邑 (中略) に、赤銅(あかがね)の八十梟帥(ヤソタケル)あり。此の類(ともがら)みな天皇と距き(ふせき)戦はむとす━━

━━高尾張邑に土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身(むくろ)短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相類たり(あひにたり)。皇軍、葛(かずら)の網を結きて(すきて)、掩襲ひ(おそひ)殺しつ。因りて改めて其の色を号けて(なづけて)葛城(かづらぎ)と曰ふ━━

「高尾張邑」にいた「赤銅の八十梟帥」は、=「土蜘蛛」ということでしょう。「侏儒」とは「小人」のこと。

「赤銅」という名から、彼らが「鋳銅」に従事していたことが分かります。事実、御所市「長柄」から多紐細文鏡や銅鐸が出土。また「朝町銅山」が明治まで稼働していたとのこと。

「朝町銅山」とは葛木御歳神社の南東の山中。葛木御歳神社の奥山には、かつて多くの採銅跡が存在していたと、宮司は地元民からの情報を得ています。

そこから南側の「五百家(いうか)」に渡り鉱脈が通っているとのこと。「いうか」はやはり「伊福」からの転訛でしょう。一般には五百の家が…などという地名由来が通っていますが。

またその西側には「風神」を祀る志那都比古神社(風の森神社)が鎮座。ここは東西からの山がぐっと迫り、細い峠道に風が吹き抜ける場所。通称「風の森峠」。「たたら製鉄」に必要な強風が吹く格好の地。
「五百家」と「風の森」との間の「船路」からは、銅鉱石が出土しているとのこと。そもそも葛木御歳神社の奥山内には、少し登拝道を逸れると散乱しているそうですが。

さらに西側には鍛冶神である味耜高彦根命を祀る高鴨神社が鎮座。こちらも宮司が語るには、参道に鉱脈が走っているとのこと。


[大和国葛上郡] 葛木御歳神社
神前には鉄滓が奉納されています。



◎葛城国造と尾張氏

初代「葛城国造」として任命されたのは剣根命。これは神武天皇が大和平定後に、論功行賞として任命したもの。谷川健一氏は土着豪族とみなしています。ただし記紀その他文献に出自の記述が無いため不明。

この剣根命の娘である諸身己姫(もろみこふね)を娶ったのが、尾張氏(海部氏)の武諸隅命。初代「丹後国王」の由碁理(ユゴリ)と同神ではないかとみられています。

これまで「伊福部氏」は尾張氏(海部氏)系であると記してきましたが、剣根命の裔である葛城直が尾張氏(海部氏)と繋がりました。つまり「伊福部氏」とも同族ということに。

そして「赤銅の八十梟帥」が「伊福部氏」だったのではないかとも述べています。これについては私の方からは何も言えません。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれないし。

[大和国葛上郡] 葛城一言主神社の一の鳥居の横の「蜘蛛塚」。こちらが「赤銅の八十梟帥」のものではないかとされます。境内には他に2ヶ所の「蜘蛛塚」があります。





今回はここまで。

冒頭に記したように、次回からは第2章へと突入します。

私がおよそ20年ほど前に本書を読み、大変な衝撃を受けたあの神が登場します。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。