◆ 丹後の原像【81.古代海部氏の系図 ~2】
前回の記事にて、それまで行ってきた「丹後叢書」の現代語訳を一時中止し、「古代海部氏の系図」という著書を元に新しい題材を行っていくという旨を綴りました。
そして序章として、この題材を始める経緯や、「海部氏系図」の概要等について触れました。
今回はその第2回目。
ゆるゆると本題へと向かいます。
先ずは「本系図」(籠名神社祝部氏系図)から見ていくことにします。
◎日本最古の系図
「本系図」は近江国の三井寺所蔵の「和氣氏系図」(国宝「円珍俗姓系図」)とともに、日本最古の系図とされています。
「円珍俗姓系図」は円珍という僧侶が弟子に、承和年間(834~848年)に書かせたもの。「本系図」よりおそらく30年程度古いものと思われます(具体的には後述します)。
讃岐国の和氣公氏の系図。「海部氏系図」の「本系図」と同じく「縦系図」。全文一筆で、円珍が加筆しています。
◎朝廷への系図の提出
平安時代初期に、朝廷では全国の祝部職に対して、一年に一回、各祝部の系図を提出させていました(後に三年に一回となる)。
籠神社においては、海部氏が古代から連綿として宮司職を歴任。そして「本系図」にはその直系子孫だけが縦に記録されています。
「巻子装」といって巻物のように楮(こうぞ)の紙を五枚縦につなぎ、中央に淡墨の罫を一本縦に引き、その線の上に歴代の宮司(祝)名が記されています。
この系図には、始祖の彦火明命から平安初期の三十二世孫の海部直田雄祝(アマベノアタヒ タオノハフリ)までが記載。在位年月も付記されています。
つまりこの「本系図」が、上記にいう「朝廷が全国の祝部職に対して、一年に一回、各祝部の系図を提出させていた」というものに合致すると考えられます。
◎「丹後國印」
「本系図」の各代の宮司(祝)の上には、合計28箇の朱印が押されています。
それが長らく判読できないでいましたが、昭和六十二年に色分解による写真撮影を行った結果、「丹後國印」の四文字であることが判明しました。国宝指定は昭和五十一年のこと。十年余りを経て解明されたのです。
◎「本系図」の作成時期
用いられた紙と書風からみて平安前期を下らないことは明白。
また巻首に「従四位下籠名神」と記されています。これは籠名神が従四位下となった貞観十三年(871年)六月から、従四位上になった元慶元年(877年)十二月の間であることが分かります。
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■ 「勘注系図」
「本系図」が代々の宮司だけを縦に順々に記しているのに対して、「勘注系図」は直系子孫の兄弟姉妹までが記されています。また多くの「註」が付されています。
一般公開されたのは平成四年のこと。それまでは先々々代宮司の海部穀定氏が書写したものが、一部に広められていました。現存する「勘注系図」が書写されたのは江戸時代の初期のこと。昭和五十一年に「本系図」とともに国宝指定されました。
◎「本系図」「勘注系図」の影響
ともに始祖の彦火明命以降の9世紀までの系譜や注記が詳細に記されています。その中には他のどの古い記録にも含まれていない貴重な古伝も存在。
ともに籠神社の海部宮司家によって秘蔵され、世間に公表されることはありませんでした。
その最大の理由は、この系図により万世一系といわれる天皇家と海部氏が祖先を同じくし、親戚関係にあることが明らかになることにより、世間からの圧力をおそれたためであろうとされます。
戦後を経てさまざまなしがらみから解放された現代において、もう秘蔵の必要性が無いと判断した穀定氏が一般公開を決断したと思われます。
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■ 「丹後國一宮探秘」と「倭姫命世紀」
二つの系図の他にも海部宮司家に秘蔵されてきた文書があります。
◎「丹後國一宮探秘」
「丹後國一宮探秘」という書が海部宮司家に代々秘蔵されてきました。
こちらは南北朝時代の建武年間(1334~1336年)に書写されたもの。伊勢神宮が現在の三重県に鎮座する前に、籠神社が元伊勢であった旨を記した貴重な資料。
既にこの【丹後の原像】テーマ内にて現代語訳を行っています。
先代宮司 海部光彦氏の著書
この著の中に「丹後國一宮探秘」の読み下し文が掲載されています。
◎「倭姫命世紀」
「倭姫命世紀」とは、倭姫命が天照大御神の御神体を奉じ、その鎮座地を求めて各地を巡幸する伝承を記す書。鎌倉中期頃に度会行忠により編纂されたと考えられています。
この書は伊勢神宮の内宮に伝えられてきたもの。複製が「神宮古典籍影印叢刊」八に収められ、また「(新訂増補)国史大系」七、「続群書類従」神祇部、「日本思想大系」十九などに所収されています。
ところが海部宮司家にも所蔵されています。元々は神宮の祢宜である中川氏が所蔵していたものであるとのこと。
奥書に「此一巻は伊勢度会五十鈴之宮(内宮のこと)神主代々相伝令所持秘之者也」と記されます。
つまり現存する最古の写本であり、場合によっては「倭姫命世紀」の原本である可能性すらも。
天照大御神の御神体の巡幸地のことを「元伊勢」と称しますが、「倭笠縫邑」を経ち真っ先に向かったのは、丹波国(当時はまだ「丹波国」から「丹後国」が分離独立していない)の「吉佐宮(よさのみや)」。
現宮司の海部穀成氏の、確か妹さんにあたる方でしたでしょうか。海部やをとめ氏が、中学生程度でも読まれるレベルまでに平易にされた書を発刊されています。
この書を元に、倭姫命の聖蹟を顕彰するテーマ記事も設けていますが、巡幸地を巡ることができていないため現在は中断中…。
復活させねばならんのですが(汗)(汗)(汗)
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■ 二枚の鏡
籠神社が二千年もの長きに渡り、神殿の奥に秘蔵し伝えてきた二枚の鏡「息津鏡(おきつかがみ)」と「辺津鏡(へつかがみ)」。
この日本最古の伝世鏡が昭和六十二年に公開されました。
◎「息津鏡」と「辺津鏡」
地中から出土したものではなく、代々人の手で伝えられたもの。もちろん破片や割れたものではなく、大切に大切に保管され当時の姿そのままに崇められ、口伝により伝えられてきたという伝世鏡。極めて貴重なもの。
*息津鏡
直径175mmの内行花文八葉鏡。後漢鏡(1950年前)とされる
*辺津鏡
直径95mmの内行花文昭明鏡。前漢鏡(2100年前)とされる
いずれも畿内では他に出土すらしておらず、もっぱら九州北部で出土するのみ。
いずれも引用できそうな画像が無いため、上部に掲載した「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」(海部光彦著)の表紙を写した写真をご参照下さいませ。
◎鏡の意義
この二枚の鏡のことが「勘注系図」のはじめに記されています。
━━天祖(あまつみおや)が二璽神宝(ふたつのみしるしのかむたから)すなわち息津鏡と辺津鏡を天鹿児弓(あめのかごゆみ)と天羽々矢(あめのはばや)を添へて火明命に授けた━━
これが史実であるなら、彦火明命が瓊瓊杵命の天孫降臨と同様に鏡を授けられ、さらに弓矢を添えられて降臨させられたと捉えることも可能かと思われます。
彦火明命と瓊瓊杵命の関係は以下の通り。
*紀一書・記 → 彦火明命(兄)、瓊瓊杵命(弟)
*紀一書 → 彦火明命(父)、瓊瓊杵命(子)
この彦火明命の降臨譚がなぜ記紀に記されないのか。これについては記紀編纂時には既に分からなくなっていた、或いは書くことを憚られた、このいずれかであろうかと思います。
他にも10本の堅魚木、妻飾りの鏡形木、床下の「心御柱」など、伊勢神宮と同じ社格を有しています。
籠神社ご本殿の堅魚木と妻飾りの鏡形木。こちらにも「五色の座玉」が頭を出しています。(*撮影禁止となる15年ほど前に撮った写真)
◎天日槍神と「息津鏡」「辺津鏡」
新羅王子であった天日槍神が「八種の神寳(やくさのかむだから)」を携え、日本に降臨したとされます。
記の応神天皇の条には、天日槍神の「八種の神寳」の中に「息津鏡」と「辺津鏡」を含んでいます。但馬国(当時は丹波国に含まれる)の出石神社は、その「八種の神寳」を「八前大神」として祀ったことを創祀としています。
ただし紀の本文(七種)と一書(八種)のいずれも垂仁天皇の条には、「日鏡」のみが記されています。
(詳細は → 天日槍神の記事にて)
果たしてどうか…。
確かに天日槍神と海部氏には繋がりは見出だせるのですが、時代もまったく異なることですし、同意はしかねます。
また饒速日命が授かったとされ、大和国の石上神宮のご祭神の一柱、「布留御魂大神」とされている「十種の神寳」にも「息津鏡」「辺津鏡」が含まれています。
「先代旧事本紀」に記される「彦火明命=饒速日命」というのはまったくのでたらめであり、饒速日命が丹後には縁もゆかりも無ければ時代も異なります。こちらは切って棄てて問題ないかと思います。
今回はここまで。
「海部氏系図」においては「丹後國一宮探秘」という書、「息津鏡」「辺津鏡」の二枚の伝世鏡も含めて考えねばならないということが分かります。
次回は…
テキストとしている「古代海部氏の系図」(金久与一著)では、丹後国(但馬国も一部含む)の弥生時代以前からの古代の様子が略述されているのですが…
精査して取り上げるかどうかを考えてみます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。