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丹後国與謝郡 新井崎神社
◆ 徐福 (方士が見た理想郷)
~14 (丹後半島編)
これまでの太平洋側の徐福伝承から一転、日本海側へと舞台を移します。多くはないものの、日本海側にもみられるようです。
既にいやと言うほど書いてきましたが、京都府与謝郡伊根町の伝承。
そう!あの神社の伝承!
あの愛して止まない神社の伝承です!
「北航路」を採った徐福船団は山東半島沿いを東進、朝鮮半島沿岸を伝い北九州へ。そして有明海や対馬海流に乗り日本海へと進みました(→ 第2回目の記事参照)。そして辿り着いたという伝承が残るのが「新井崎」。
断崖絶壁の海岸であり、明らかに難破し漂着といったところかと。新井崎神社が鎮座、「徐福上陸之地」石碑と「ハコ岩」、徐福が匿われたという「経文岩」があります。
◎「童男童女宮」
ご祭神は事代主命・宇迦之御魂神・徐福の三柱。御神体は約30cm余りの男神・女神像。これは童男童女であるとされています。また「丹哥府志」によると、「童男童女宮」と称されていたとしています。
◎神薬は「菖蒲(アヤメ)」と「蓬(ヨモギ)」
徐福は「ハコ岩」に漂着、岩の上で休んでいたところ邑長(むらおさ)に来意を訪ねられたと。徐福は眼前の仙薬は少ないから咸陽宮には帰られないと言い、この地に住み着いたと言い伝えられているようです。
その神薬は「九節の菖蒲と蓬」であったとされます。当社から少し登ったところにある仏教施設の「艾(もぐさ)」は、徐福が求めた神薬、黒茎の蓬にちなんだもので、俗に「蓬莱の艾」とも言うとか。丈の長さ五~六尺、最大のものでは一丈も。新井崎の名産となっているようです。
◎「ハコ岩」と「経文岩」
徐福が漂着し休憩を取って居たという大岩が「ハコ岩」。「新井崎」の突端にあり、かつてはそこに小祠が建てられていたとか。徐福を祀っていたのでしょう。
そこから10m余り登ったところに「経文岩」があります。その大岩の下に穴を堀り徐福は住んでいたとされます。村人は徐福を守るために経文を唱えて匿ったと伝わります。もちろんまだこの時代には仏教は伝来しておらず、後世の附会かと思われます。
「経文岩」内部。
ご本殿は沖合いに浮かぶ「冠島・沓島」に向かい合っています。そちらを意識して建てられたのは明白。春秋分の日は鳥居の真ん中の「冠島」から陽が登ることを、当社を兼務する宇良神社(浦嶋神社)宮司は発見しています。
「冠島」は火明命を祀るとするのが一般的。ところが徐福が来着した当時にはまだ神名などは無く、当地区の海の守護神、或いは陸上までを含む丹後全体の守護神くらいに捉えていたのではないかと思います。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20221031/23/keith4862/58/32/j/o1080081015196413752.jpg?caw=800)
鳥居越しに仰ぐ「冠島・沓島」。
今回はここまで。
次回はいよいよ伝承地紹介のラストとなります。最終回とするのか、或いは今後をどう展開していくのかを示す予定です。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。