「八丈島」 *フリー画像より







◆ 徐福 (方士が見た理想郷) 
~13 (伊豆七島編)






「阿蘇ピンク石」製の石棺テーマ記事ばかりにかかりっきりになるわけにもいきません。

他の連載もののテーマ記事も進めていきます。


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■過去記事
* ~ 1 … 始皇帝を欺く!

* ~ 2 … 神薬を求め出航!
* ~ 3 … 九州の徐福伝承
* ~ 4 … 四国の徐福伝説
* ~ 5 … 新宮市 前編
* ~ 6 … 新宮市 後編
* ~ 7 … 熊野市波田須編
* ~ 8 … 三河地方編
* ~ 9 … 「富士古文書」編
* ~10 … 富士吉田市編
* ~11 … 富士河口湖町・山中湖村編
* ~12 … 藤沢市編・寒川神社

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■ 八丈島の徐福

「八丈島」を中心とした「伊豆七島」にも徐福伝承があるようです。

「八丈島誌」に「秦の徐福」という項があり、以下のように記されるとのこと。
━━秦の始皇帝が、方術士徐福を東海に遣わし、不老不死の霊薬(仙丹)を求めさせたという伝説がある。
これも、馬琴の脚色によって宣伝され、大いに伝説価値を高めたものであるが、弓張月の素材となった中国人渡来の伝説は、古くから八丈島にあったものである。
始皇帝の命を受けた徐福は、東海の島々を訪ねまわったけれども、ついにその霊薬を手に入れることができなかった。徐福は帰国を断念し、孝霊天皇七十二年(紀元前219年)に紀州熊野に着き、この地で生涯を終ったという。彼の子孫は熊野にて繁栄し、徐福十九家として、徳川時代末期まで家系を残していたと伝えられる━━

「八丈記」という書には「八丈名義」の項に、「日本現存徐福十九臣之事」として、徐福の十九族の末裔が紀州新宮に現存するとあるとのこと。当書にはその十九家が列記されています。

熊野に漂着した徐福に従った童男童女たちは、四散して再び漂流。その一部が「八丈島」に漂着したとしています。

この内容を熊野の項で載せなかったのはなぜ?



■ 青ヶ島の徐福

「青ケ島島史」という書には、
━━親島八丈島を古来、女島(女護ヶ島、にょごがしま)と言い、青ヶ島を男島と言いならわして来た…(中略)…東海をくまなく捜したがついに仙薬を発見することができなかった。それで断念し帰途に着くが、おめおめと始皇帝の所へ戻るわけには行かなかった。
それで童男五百人を青ヶ島に残し、童女五百人を八丈島に残して、徐福は紀州に逃れたという。八丈島と青ヶ島にそれぞれ残された男女は、年に一度の交友会が許されて、南風の吹く頃青ヶ島から八丈島に渡ったというが、女児が生れたら八丈島に留め、男子が生れた時には青ヶ島に連れて行く習わしだったと伝えられている━━とあるようです。

子孫繁栄が最重要課題であったであろうこの時代に、男女が別々に住み、年に一度しか会えないというのはいかがなものかと。「交友会」などという言葉も後世のイメージがするのですが。

Wikiには、
━━徐福伝説によれば、男女が同じ島に住むと神の祟りがあると信じられた時代があり、女人禁制の島だったとされる━━とあります。



■ その他の伝説等

◎「三宅島旧記」という書には、
━━孝安帝の時、外人来りて東南海に航し、初めて十余島を拓く。このうち遠いもの三島あり、曰く八丈島、曰く青ヶ島、曰く小島なり━━

◎「八丈島」では男子の漁労と、女子の中国から伝わった絹織物の製作が家計の中心生業として、古来から受け継がれているとのこと。

なお「八丈島」をはじめ、「伊豆七島」には伝説はあっても神社等の遺跡は無いようです。


外輪山の地形が美しい「青ヶ島」。
*フリー画像より


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。