相摸国 寒川神社 *フリー写真素材より





◆ 徐福 (方士が見た理想郷) 
~12 (藤沢市編・寒川神社)






徐福伝承というものを受け入れつつ記事を進め、最後の最後で否定しようかと目論んでおりましたが…

伝承のあまりの過大解釈にだんだんと我慢ならず、途中に第9回目の記事で「富士古文書」を取り上げたことで、

先ずは一旦甘んじて受け入れておこうという気が、完全に失せてしまいました。

だんだんと伝承への批判的な記事となってきていることをお許し頂けましたらさいわいです。


ただし第7回目の記事、紀伊国熊野までの伝承は否定しません。伝承を根本から否定できないので。

それ以降の伝承があまりに酷い…

ですから熊野詣の際には必ず徐福に手を合わせております。



~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
■過去記事
* ~ 1 … 始皇帝を欺く!

* ~ 2 … 神薬を求め出航!
* ~ 3 … 九州の徐福伝承
* ~ 4 … 四国の徐福伝説
* ~ 5 … 新宮市 前編
* ~ 6 … 新宮市 後編
* ~ 7 … 熊野市波田須編
* ~ 8 … 三河地方編
* ~ 9 … 「富士古文書」編
* ~10 … 富士吉田市編
* ~11 … 富士河口湖町・山中湖村編

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


■ 藤沢市の徐福

藤沢市は神奈川県の中央南に位置し、相模湾に面する地域。南端の「江の島」が有名。訪れたことのない地ですが。

かつての相摸国高座郡(たかくらのこほり)。現在の綾瀬市・海老名市・相模原市・座間市・茅ケ崎市・大和市・高座郡(こうざぐん)寒川町が含まれます。

なお「相摸国」は正式な表記を用いました。木篇の「模」ではなく、手篇の「摸」が古代の表記。木簡には「摹」とあるようですが。

藤沢市内の妙善寺という仏教施設内に、徐福の子孫であると名乗る福岡家の「福岡子孫累代之墓」があるようです。その墓碑には「徐福」の名が記されているとのこと。

またその近くには白旗神社という社が鎮座しています。社名からして徐福の後裔とされる秦氏の関連が考えられます。
もちろん秦氏が徐福の後裔であるというのは、何ら立証されたわけでもなく、あくまでも「徐福信者」の一部の伝承に過ぎません。



■ 謎の寒川神社

その「高座郡」に鎮座するのが寒川神社。式内名神大社であり相摸国一ノ宮。ご祭神は寒川比古命・寒川比女命。

参拝したこともなければ、詳しく調べたこともないのですが、由緒がはっきりせず、ご祭神も不明の謎の社という認識くらいはあります。

そしてネット上ではもう笑えるくらいに、皆さん根拠も無しに適当なことを書いては上げています。発想が豊かというか(笑)
嘘の情報の上にさらに嘘を重ね上げていき、あたかもそれが正しいかの如く…。

原因は焼失等で縁起に関わる由緒等がほとんど存在しないため。またご祭神も記紀等文献には一切登場しないため。したがっていかようにも創作が可能。

もちろん創建時期は不明ながら、雄略天皇の御宇に幣帛の奉幣があったことから、それ以前には遡ります。

相摸国はヤマト王権の影響が強い地域であると思われ、また大和朝廷の東国経営の拠点となっていたように窺えます。
これはこの地に貴族や寺院の封戸が多いこと、渡来人が多いこと、陸奥国鎮守府の「公廨(くがい)」(官人俸禄を収蔵する建物)を負担していたことなどから(「官人俸禄」とはお給料のこと)。

「先代旧事本紀 国造本紀」には、成務天皇の御世に武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖である神伊勢都彦の3世孫である弟武彦命が、初代相武国造に任じられたとあります。

また倭建命の東征神話に相武国造が登場します。記には相武国造の火攻めに逢うも、これを草那藝剣で難を免れ、「焼遺(やきづ、=焼津)」の地名由来譚を載せています。ここでは国造を迎え火で焼き殺したと。

一方で紀には日本武尊が駿河国「焼津」で地元の賊に火攻めに逢うも、天叢雲剣が独りで草を薙ぎ草薙剣と名付けたとあります。相武国造は登場しておらず、舞台も駿河国。

寒川神社の近くからは縄文時代の遺跡が発見されています。想像するに当地には縄文時代の信仰があったが、相武国を開拓した国造が祖神を祀った社ではないかと。つまり神伊勢都彦の3世孫である弟武彦命の祖神ではないかと。

ここでは神伊勢都彦の話をするのは控えましょう。伊勢国、出雲国、宝賀寿男氏は邇藝速日と同神などと怪説をも出しており、壮大なスケールとなってしまうので。



◎「富士山」に居住していた徐福

なぜ寒川神社をこの記事で取り上げたのかというと、徐福伝承があるため。

第9回目の記事でも取り上げたように、「富士古文書」に徐福伝承があります。一般には「偽書」と称される「古史古伝」の一。
そのなかでも内容はかなり酷く、あまりにお粗末なもの。「ホツマツタヱ」や「ウヘツフミ」もビックリの代物。

編纂者は史実を書こうとしたのではなく、物語を書こうとした?それなら納得…。でもそれなら面白みには欠ける…。

とにもかくにもそこには、
━━「富士山」を目指した徐福一行は「富士高天原王朝」に到着し、不二阿祖山太神宮を初め各七廟を拝し、大室中室に居住した━━(大意) と記されています。

笑ってはいけません!

こんなものでも真に受けている人たちが一定数存在するので。不二阿祖山太神宮もその一。この内容を由緒として掲げているようです。

ただし「富士高天原王朝」はさておき、徐福が「富士山」に居住していたというのは、可能性がゼロとは言い切れません。



◎徐福子孫たちの移住

「富士山」は延暦十九年(800年)から数回に渡り大噴火があったとされます。これは「日本紀略」という書によるもの。
私撰書であり、編者も不明ですが、「富士古文書」や「ホツマツタヱ」などとは異なり信用のおける書。

以下は伝承。出所は不明。
その延暦十九年の噴火の際に徐福子孫たちは移住を余儀なくされ、その際に創建したのが寒川神社であると。

もちろんそのようなことがあろうはずはあり得ません。それは式内名神大社に列格しているため。徐福子孫の社では到底無理。
また成務朝の幣帛の奉幣はどうなったのか、桓武天皇の御世にも幣帛を受けています。

さらに上述の白旗神社へも移住したとするものもあります。ご祭神は寒川神社と同じく寒川比古命・寒川比女命。そこから勧請されたと伝わります。「富士古文書」によると、徐福の長男が福岡氏。そのすぐ近くに「福岡子孫累代之墓」があります。

こればかりは当事者たちがそうだと名乗っておられるので、どうしようもないことですが。


寒川神社 楼門 (2023年 迎春ねぶた祭) 
*フリー写真素材より


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。