(徐福の塚説もある阿須賀神社境内の磐座)





◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~6
(新宮市編 後編)




前回の記事では、新宮市内の徐福にまつわる史跡等を挙げるだけにとどめました。

今回はその詳細をみていきたいと思います。



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■過去記事
* ~ 1 … 始皇帝を欺く!

* ~ 2 … 神薬を求め出航!
* ~ 3 … 九州の徐福伝承
* ~ 4 … 四国の徐福伝説
* ~ 5 … 新宮市 前編

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阿須賀神社のご本殿裏の「蓬莱山」を徐福が目指してやって来たのであろうと。

また境内に「徐福の宮」が鎮座しており、弥生時代の住居跡が発見されています。
さらに子安社横の注連縄が掛かる磐座が、徐福の塚とも伝承されていると。

そして南方200mに徐福の墓所があり、現在は「徐福公園」として整備されていると。

前回は主にこの内容まで触れました。
今回はさらに詳しく。



◎「蓬莱見聞記」坂本可水氏

明治末期の上熊野地の住人による著。「飛鳥神社」(阿須賀神社のこと)の項に以下のように記されるようです。

━━また社殿の西隣に、周囲一丈余りの石に注連をかけて祀れるあり、或は徐福を祀れるに非ざるやと云う━━

さらに秦の徐福の項に、

━━然るに徐福の墓地については二説あり。一は現在の場所をさし(「徐福公園」のこと)、一は東京上野図書館内に古き新宮の地図ありて、これによれば現今の場所は屋敷跡であって、墓は飛鳥神社の境内にありという。
果して然りとせば、飛鳥社の西方に古き石を祀れる所ありて、往古より御陵と言い伝ふるもの、即ち徐福の墓に非ざるかという。もとより両者の可否断定はなし得ざるも、後者の説当れるならんか━━と。

つまり阿須賀神社境内の瑞垣外、ご本殿横の磐座を墓所ではないかと考えているようです。

当時の神官であった宇井氏も、
「ただ御陵ならんかと推測するのみにて、何人の御陵なるや分明せず」と。



◎徐福の墓(「徐福公園」内)

かつては「楠薮」といったとのこと。今も楠の大木が茂っています。

境内(公園)の面積は2014平方メートル。
中央部の一段高いところに、「秦徐福之墓」「七塚の碑」「秦徐福碑」「僧絶海の詩」「明太祖の御製賜和碑」等があります。

「秦徐福之墓」は、
━━紀州初代の藩主徳川頼宣が管内巡視のため紀南を訪れ、阿須賀神社に祀っている秦の徐福の伝承を聞き、その墓を建てようと考え、儒臣李梅溪に命じて「秦徐福之墓」と書かせ、和歌山産の緑泥片岩に刻ませた。しかしこの楠薮の地に建立されたのは、凡そ百年後の元文元年(1736年)で、「熊野年代記」には「秦徐福の石塔楠薮に建つ、一説には享保十四年(1729年)ともいう」とある━━と。

この典拠は不明。これを信ずるのであれば、当地は徐福の墓所ではなく、所在不明であったために当地に設定されたということになります。



◎七塚の碑

以下のように記されています。こちらも典拠は不明。

━━往古、熊野には徐福の重臣七人の墳丘が、蓬莱山を中心にして北斗七星になぞらえて、七つ点在していたといわれている。
後世の者が、これを疑って発掘したところ、古刀、釼、陶磁器等数種も出たが、その発掘者はたたりにあい、立町病にかかりたるため、元の所に埋め戻したところ、病が直ちにいえたと言い伝えられている。
明治の末期頃には、本州製紙工場内に三つ、塚町に二つ、若草町に一つあったとの記録があるが現在は一つも見当たらない。
大正四年十一月、熊野地青年会によって、一括して現在地に七塚の碑として祀られることになった。また、大正六年には塚町に「秦徐福重臣塚」として祀られることになった━━

「塚町」というのが現在の「徐福公園」がある「新宮市徐福」であろうと思われます。



◎徐福と農業

「和歌山県史蹟名所誌」の「秦徐福之墓」の項には、
━━徐福は童男女五百人を率いて、五穀の種、耕作の農具を取揃えて日本に渡来し、熊野の浦にあがりて耕作をなし…━━とあるとのこと。



◎徐福と捕鯨

「産業事蹟考」には、
━━「熊野捕鯨業は世に聞ゆる所也。相伝う斯業の振興は古書にありて、彼の徐福が当時秦の禍を避けて遠く日本に航し、紀州熊野浦に着し、初めてこの地に於て捕鯨の業を行い、是より後漸やく本邦各地に伝播するに至れりと称す」とあるが、この説果して実ならば、秦代徐氏の遺法にして、我が国に於ては、紀州熊野を以て開始するは全くいわれなきに非ず。而してその捕鯨の歌は、
 大島原からよせくるつち(槌鯨)を
  二十艘秦氏がさしてとる
とあり、本邦に於て秦姓を冒す者は、総て秦氏の末族といういい伝えあり。然らば徐福も秦の人なれば、この歌の中の秦氏とは或は徐氏のことと言いしものならんかとあり、捕鯨の術を以て徐福の遺法なりとなすは古き伝説なり」と━━あるようです。

新宮市「三輪崎」はかつて捕鯨の基地。八幡神社では「鯨踊り」が奉納され、日本遺産「鯨とともに生きる」の構成文化財の一。
鯨がとれると真先に、その肉を徐福の墓に供えたといわれています。また近隣の太地町は「泰地」とも書き、泰地姓が残っているとのこと。



◎徐福紙

「熊野年代記」には、元正天皇 養老四年(720年)に熊野徐福伝の唐紙様の紙が献上されたとあります。

江戸中期の見聞録、「笈埃随筆」という書には次のようにあります。

━━紀州熊野那智浦天満という所の円心寺という寺から、僧の土産として国産の岡崎五竹庵主人に送らる。その紙は奉書、杉原の類に非ず、また国栖、美濃、岩国などにも非ず、様変わりの見馴れざる紙なれば、いぶかりて問ひければその僧の言ふには、さればこの紙売買する程の物ではなく、僅かに隣郷に用いる許りなり。上古秦の徐福日本へ渡り来りて熊野に在住し、紙をも教え、漉かせて用いたり。
今に至り此辺一、二ヶ村民習い伝えてすき申し候。即ち名を徐福紙と申す━━

日本にまだ文字が存在しなかった時代に紙が伝えられたのかどうかは疑問。
またなんでもかんでも徐福に結び付けたがるための、愚話なのかもしれません。




今回はここまで。
これで「新宮市伝承地)終え、次回は熊野市「波田須」の徐福についてとなります。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。