(和歌山県新宮市 徐福公園内の徐福像)






◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~1




新しいテーマを立ち上げます。性懲りもなく。
数回程度のショートテーマに留めますが。


現状を踏まえると既にキャパオーバー。
後先考えずに猛進するのが特技(笑)

行き詰まると…
ゴマカシを練るのも特技の一つ(笑)


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現在、スマホのカメラレンズ割れにより、敬神活動を事実上停止。機種交換の膨大な作業に追われています。

故障機の返還が迫っているため当面は1日1記事UP程度に留め、作業に注力します。
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古代史好きの方なら一度くらいは耳にしたことがあるであろう、「徐福」という伝説の人物。

古代史好きでなくても、ゆかりの地に住む方ならご存知だと思います。

日本建国に大いに関わり、その末裔(秦氏)たちは日本の発展に大いに寄与しました。今の日本の歴史は「徐福」抜きには語られません。


ところがその功績に比して、あまりに知名度が低いように見受けられます。

そもそもは伝説上の架空の人物である…
実在はしたが日本には来ていない…
日本の漂着譚はすべて創作話である…

多くの学者たちからは相手にされていません。


そもそもこれほど全国各地に伝承があるのに、架空だの創作話だの…で片付けられるのか。

確かに疑わしきことがあることも承知しています。ですが実在したという仮定のもと、どんどん進めていくつもりです。

数回に渡り、自身もあらためて学び直しつつ…
その偉大な人物(神)をささやかながら顕彰していきたい!そういうテーマです。



当テーマの記事は、「ロマンの人・徐福」(奥野利雄著)を基に進めていきます。

*元新宮市立歴史民俗資料館 館長
*元財団法人 新宮徐福協会理事


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(三重県熊野市波田須 徐福の宮)





「徐福」とは何者だ?

そこから始めます。

既に【丹後の原像】テーマの中で軽く触れているのですが(→ 徐福の余福)、あらためて。



舞台は古代の中国から始まります。

周代・春秋時代・戦国時代を経て、秦が初めて中国を統一します。紀元前221年のこと。

日本は弥生時代真っ只中。
卑弥呼なんて生まれたのはまだまだ後の時代。神武東征もずいぶん後のこと。籠神社の伝世鏡「邊津鏡」がいくら古いといっても、せいぜい紀元前50年くらいのもの。


中国本土へ話を戻します。
その中国統一を成し遂げたのは、彼の有名な始皇帝。強大な権力を有し、残虐暴君として語られます。次代の「漢書」地理誌には「奢淫暴虐」と記されます。

中国という国は倒した前政権を悪評して、自前の政権を持ち上げるという習慣がありますが、それを差し引いても…というところ。


確かにそういう面も大いにあったのでしょうが、何せ人質の身分から戦国時代を奇跡的に勝ち上がり、中国史上初の統一を成した人物、このような性格だったから成し得たのかもしれません。

「万里の長城」を造るなど、領民たちに苦役を強いたり…というのも有名な話。権力も財もすべて手に入れたのです。


その秦が最後に降伏させたのが斉という国。長年の宿敵でした。

日本という国は特殊な国で、日本人の特殊な感覚で物事を捉えるとおかしいことになります。敗者をも称え、なんなら敗者をしっかりと鎮魂しておけば守護神とも成り得る…などというのは日本だけ。それ以外の国では敗者は徹底的に制服弾圧されます。

勝者に必要な一部のモノとヒトのみ奪い取られ、不必要なものは徹底的に破壊や惨殺がなされるのです。斉はなかでもその一番の対象。つまり徹底的に滅亡に追い込まれることは必至なのでした。



さて…
そのような状況下を踏まえて徐福を。

徐福の身分は「方士」。
「方士」とはこの著によると、「不老長生術を職とする呪術師、祈祷師、薬剤師を兼ねたもの。医薬、天文、占術その他の諸学に通じた学者でもあった」としています。ありとあらゆる分野の知識を備えた超エリートであったと言えるでしょう。

徐福がいた地は「山東半島」の南部、琅邪郡という地。孔子や孟子もこの付近にいたとされ、その影響を大いに受けていただろうとされています。




始皇帝に仕えた「方士」は三百人ほどいたと言われますが、なかでも徐福はもっとも信頼されていたようです。

つまり徐福は始皇帝の信頼を得て身分は保証されているも、自国の斉は滅ぼされる、多くの同郷の命が失われるという状況だったのです。


この辺りの歴史は司馬遷の「史記」に詳述されています。徐福の時代からおよそ100年後のもの。一応信頼のおける書とされています。

中国統一後に始皇帝は各地へ行幸します。始皇帝と徐福が出会ったのは共に老齢、60歳台だったようです。

ここぞとばかりに徐福の悪知恵が働いたのです!スーパーマン同士の出会い、ところが徐福の方が一枚も二枚も上手だったようです。

権力も財もすべて手に入れた始皇帝、次に欲したのは「不老不死」でした。迫り来る齢に対し、この栄華を永遠に…と考えたのでしょう。


徐福は一世一代の大芝居を打ちました。
「不老不死の神薬(蓬莱薬)を求めて参ります!」…と。始皇帝はその話に飛び付いたのです。

そしてちょっと海に出て帰って来て偽の報告をします。
「海神が育ちの良い童男女三千人と五穀の種、いろいろな道具、技術者が必要だと言っています」と。

始皇帝はまんまと騙されました。

資料により人数は大きく異なりますが…
*500~数千人(1万人近く)の人員と大船団(30~85艘)
*巨万の軍資金
*あらゆる分野の技術者
*渡海後の生活

始皇帝はこれらを供出させられたのでした。


たかだか薬草を手に入れるだけに、1艘の船と数人が行けば済むことでは?

なぜにこれほどまで?
徐福が狙ったのは「村ごと移住」だったのです。

神薬を始皇帝に献上することなど毛頭なく、帰ることすらも考えていない。つまり始皇帝による滅亡から免れるため、村ごと移住してしまえ!というものだったのです。これだけのものが提供されればもう十分。

始皇帝は「不老不死の神薬」に目が眩んでいたのか、そうとしか思えません。徐福にまんまとしてやられたのでした。


徐福は始皇帝に15年ほどかかると適当なことを言い、これほどの財を供出させました。徐福はそのうちばれるのではと恐々としていたと伝わります。

ところがその心配も杞憂となるのでした。10年後に始皇帝は薨去。こうして徐福はその移住地で永住することになったのです。




今回はここまで。
次回からは日本各地の徐福伝承を記事にしたいと思います。