意冨布良神社
(おおふらじんじゃ)


近江国伊香郡
滋賀県長浜市木之本町木之本488
(P有、境内西側)

■延喜式神名帳
伊富布良神社の比定社

■旧社格
県社

■祭神
建速須佐之男命
[合祀] 大穴牟遅命 猿田彦大神 八意思兼命 梨迹臣命
[配祀] 菅原道真公 天照皇大神 倉稲魂命


「北国街道(ほっこくかいどう)」から少し入った所、「大洞山」の南麓に鎮座する社。
◎創建時期は姉川合戦や賤ヶ岳合戦により古書を悉く焼失しているため不明。
創草は天武天皇白鳳四年に、霊峰「大洞山」を背にし現社地に祀られたとしています。「白鳳」とは私年号であり、664年とも675年などとも言われるものの不確か。
「考証するところ隣の田部村、村内の往還道路に鳥居ありて、旅人馬乗して通る時は、必ず落馬したと伝えられている。こうした祟りのため恐れて、取除き大洞山で煙埋したと、今に伝えられている」としているのは滋賀県神社庁。
◎これらのことから判断するに、往古より「大洞山」には神霊が鎮まっており、天武朝期に祟り神と考えられていた、そしてその頃に創建されたのであろうということかと。
◎主祭神は建速須佐之男命ですが、原始のご祭神は梨迹臣命だったのでしょうか。最古とされる羽衣伝説(「天女の衣掛柳」の記事参照)が当地に伝わっていますが、そこに登場する伊香刀美が伊香具神社で祀られる伊香津臣命、天女との間に生まれたのが意美志留(乎彌神社などで祀られる)と那志登美の兄弟神。那志登美が梨迹臣命のこと。他に乎彌神社の合祀社や伊香具神社の境内摂社 三ノ宮神社などで祀られています。
◎この「大洞山」については、慶長七年(1602年)の検地の際に当地を「王布良(おほふら)」と記しているとのこと。そして古は「王布良天王社」であったと。
◎元禄十年(1697年)の記録には、山の中腹に神前神社(猿田彦命)・乃彌神社(八意思兼神)・蟻通神社(大穴牟遅神)が鎮座していたらしく、総称して「神宮」「上の宮」と呼んでいたのこと(現存するのかどうかは未確認)
◎「大洞山」というからには大きな洞窟があるということなのでしょうか。
同じ伊香郡内には式内社である意太神社(おふとじんじゃ)意波閇神社(おはへじんじゃ)が鎮座。いずれも「鉄」が関わっているのではないか、引いては渡来系氏族が関わっているのではないかと考えています。
当社「おおほら(おほふら)」もそれらと音の共通点が見られ、同様に「鉄」、そして渡来系氏族が関わっている可能性を感じます。仮に原始のご祭神を梨迹臣命とするなら、天女はやはり渡来人ということになるのでしょうか。このような説を出しているものは見当たらず、また個人的な推測に過ぎないものですが。
◎また谷川健一氏は「伊富(おほ)」が「伊福部氏」或いは「多氏」と通ずるのではないかとしています。「多氏」については、同族である「小子部(チイサコベ)」が鍛冶に従事していたのではないかとみています。
◎式内社 意冨布良神社の比定社となってはいるものの、南方およそ4~5kmほどに鎮座する走落神社の境内社、意冨布良神社(未参拝)も論社として挙げられています。
◎「北国街道」の側、交通の要衝にあったことから、これは戦においても要衝に。木曽義仲が戦勝祈願をした際に置いたとされる「兜石」など、中世から戦国時代にかけて武将からの崇敬は厚かったようです。そして明治には県社に列格しました。









木曽義仲が据えたという「兜石」。


境内社の田神山天満宮。こちらも立派なお社。