☆ 掖上鑵子塚古墳
(わきがみかんすづかこふん)
大和国葛上郡
奈良県御所市柏原
(P無し)
■形状
前方後円墳 (周濠有り)
■全長
149m
■築造時期
(不明) ※5世紀後半頃ではないかとされる
■埋葬施設
(不明) ※長持型石棺か
■出土品
円筒埴輪、形象埴輪(水鳥型、冠帽型、冑型、大刀型、靭型等)
金銅透彫帯金具、木製品、琴柱型石製品
■周辺の状況
神武天皇が国見をしたという「国見山」と、孝安天皇陵が築かれた「玉手丘」との間の谷地に築かれた古墳。
■被葬者
葛城円、眉輪王説有り
周濠跡に沿ってぐるりと道路が敷かれ、墳形が非常に分かりやすい古墳。
全長149mと首長級の巨大前方後円墳。
周辺では室宮山古墳に次ぐ規模。
調査は部分的にしかなされていないようで詳細は不明ながら、出土品は室宮山古墳と似たものが多いとか。
したがって葛城氏系のものと思われますが…そもそもこの時代でこれだけの規模の古墳を造ることができるのは皇族、氏族で言えば葛城氏以外には考えられませんが。
被葬者説として葛城円(ツブラ)、眉輪王(マヨワノオオキミ)説有り。教科書等でもお馴染みの顔ぶれ。
葛城円は葛城襲津彦の孫。円大臣とも。
葛城襲津彦の次の代で玉田宿禰は葛上郡を、葦田宿禰は葛下郡を拠点としたとされます。その玉田宿禰の子が葛城円。
玉田宿禰は孝安天皇陵が築かれた「玉手丘」辺りを拠点としたとされます。北側の丘陵の北西辺り。丘陵を挟んだ反対側。
眉輪王は天皇を殺害した史上唯一の事件を起こした張本人。「眉輪王の変」。
これは父の大草香皇子が、罪無くして安康天皇に殺害された事に端を発するもの。
そして円大臣の邸宅に逃げ込みますが、大臣諸共に大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に焼き殺されています。