☆ 屋敷山古墳


大和国葛下郡
奈良県葛城市南藤井17(「屋敷山公園」内)
(「屋敷山公園」P利用)


■形状
前方後円墳
■全長
135m以上
周濠有り
■築造時期
5世紀中頃(470年頃とも)
■埋葬施設
竪穴式石室、長持型石棺
■出土品
石棺の一部と天井石など(副葬品は無し)
■周辺の状況
葛城山の東麓の丘陵地。墳丘頂からは大和盆地を一望できます。
神明山古墳、火振山古墳など100m級の古墳を始め、相当数の古墳が点在。
■被葬者
葛城襲津彦、葦田宿禰、蟻臣など


葛城市最大規模の古墳、被葬者は首長級かと思われます。
この時期、当地は葛城氏が拠点としており、一族のものと考えて間違いないと思われます。

葛城氏は大和国の葛城山の東麓を拠点に栄えた氏族。葛上郡西部と葛下郡南西部辺りが該当します。葛上郡は現在の御所市、葛下郡南部は現在の葛城市。

始祖は葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)であり、4世紀末から5世紀前半頃の人物(神)と推定されます。神功皇后・応神朝・仁徳朝に渡り事績が記されます。
ただし数人のモデル人物がいて、それを合わせたという説もあり、伝説上の存在とも考えられます。またこれは父である武内宿禰も同じ。あるいは武内宿禰の事績には葛城襲津彦のものも含まれているとも。はたまた葛城襲津彦の存在が創造上のものというのも。

葛城襲津彦の御子から葛城氏は二系統に分かれたとされます。玉田宿禰の系統と葦田宿禰の系統に。玉田宿禰の方は本宗家とされ葛上郡、葦田宿禰の方は葛下郡に。つまり当古墳は葦田宿禰、あるいはその御子の蟻臣のものと考えられます。
玉田宿禰系統(本宗家)がすぐに滅びたのに対し、葦田宿禰系統は次々と天皇に妃を送り込み栄えたようです。

当古墳は大まかな形を残しているものの、後の時代に城が築かれたりして正確な大きさや形は不明。特に墳丘は著しく改変されているようです。

後円部の正面から。
西側より。前方部の角が左端に。


墳丘

大和盆地が一望できます。真ん中やや右に木後ろにうっすらと見えるのが畝傍山。左の方の一番手前が耳成山。



長持型石棺。葛城市歴史博物館にて(2017年8月撮影)。