◆「倭姫命世記」 血汗涙砕身物語 (6.豊鋤入姫命 ~2)
■過去記事
1.幽契
2.葦原中国平定
3.天孫降臨
4.神武天皇
5.豊鋤入姫命~1
前回より豊鋤入姫命が登場しました。文字数オーバーとか何とかで半分載せたところで終了。残り半分です。
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【大意】
(崇神天皇即位)三十九年[壬戌]、但波(丹波国)の吉佐宮(余佐宮)に遷幸し瑞籬を作り、四年間奉斎しました。ここから倭(大和国)に戻りました。この年に豊宇介神(トヨウケノカミ)が天降り坐して、天照大神に御饗を奉りました。
【補足】
◎「倭笠縫邑」から先ず遷されたところは丹波国の「吉佐宮」。候補地は眞名井神社、皇大神社、笶原神社、竹野神社の4ヶ所。この「吉佐宮」については【丹後の原像】のテーマにて、「真名井原縁起」や「丹後國一宮探秘」などでさんざん書いてきているので割愛します。留意点は何よりも差し置いてこの地へ向かったことかと思います。
◎「但波(丹波国)」と記されていることが要注意かと思います。「倭姫命世記」が編纂された中世には既に、丹波国から丹後国が独立しています。この記述を素直に取ってしまうのなら、「吉佐宮」は丹後国ではなく丹波国にあったということに。真相はどうなのでしょうか…。
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【大意】
即位四十三年[丙寅]、倭国(大和国)伊豆加志本宮(嚴橿之本宮)に遷り八年間奉斎。
五十一年[甲戌]、木之國(紀之国)奈久佐濱宮(名草濱宮)に遷り三年間奉斎。この時に紀国造は良い地口の御田を献上しました。
五十四年[丁丑]、吉備国名方濱宮に遷り四年間奉斎。この時に吉備国造は釆女である吉備都比賣と良い地口の御田を献上しました。
【補足】
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20181018/17/keith4862/c2/7c/j/o1080060714286514863.jpg?caw=800)
◎次に吉備国名方濱宮は意見が大きく分かれます。それは表記通りに「吉備国」(現在の岡山県)と捉えるのか、紀伊国名草郡「吉備郷」と捉えるのか。
伊勢部柿本神社と国主神社(有田川町)には伝承がはっきりと残っています。また「奈久佐濱宮」から伊勢部柿本神社は東方3km、国主神社(未参拝)は南方10kmくらいと、程よい距離。国主神社の元社を田殿丹生神社(未参拝)とするなら、両社とも背後は深い山々であり、自身が支持する「天之御璽」を守り抜くために遷した地としては申し分ないかと思います。
一方の「吉備国」の方は大和国からの遠さが問題。豊鋤入姫命や倭姫命が辿った地は、鉄資源を求めることにも無縁ではなさそうという感触を持っており、そういう意味では吉備国は申し分の無い地。候補地として伊勢神社(岡山市)、内宮(岡山市)、穴門山神社(倉敷市)、穴門山神社(高梁市)、神明神社(総社市)、今伊勢内宮外宮の6社。いずれも未参拝であり、土地勘も紀伊国に比べてかなり劣るため触れようもないのが現状。いずれ訪れたいとは思いますが。
今度こそ!次回より倭姫命が登場します!