☆神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑



大和国平群郡
奈良県生駒市上町(詳細住所不明、下記参照)
(P無し、富雄川を挟んだ対岸道路に「ファミリーマート生駒上町店」がある「西村橋東詰」交差点のすぐ南)



『神武天皇戊午年十二月皇軍ヲ率ヰテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ヲ得サセ給ヒシニ因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト號セリ聖蹟ハ此ノ地方ナルヘシ』

以上のような碑文。
この聖蹟顕彰碑は「鵄邑(とびむら)」と考えられる地にあります。大和盆地の北西部を縦断する「富雄川」の東側、丘陵裾。

皇軍(神武天皇軍)は忍坂(おしさか)で兄磯城(エシキ)を誅殺。いよいよ長髄彦との最終決戦が行われます。その決戦地については記紀に記されていません。

それまでの神武東征ルートや長髄彦の拠点、「金鵄」から推測して「磐余邑」もしくは「鵄邑」の2箇所があげられます。

「磐余邑」は大和盆地の南東端。「忍阪」の近く。神武天皇や饒速日命に深い所縁のある等彌神社がすぐ側に鎮座する地。
一方の「鵄邑(仮に当地とする)」は大和盆地の北西端。饒速日命が「河内の哮ヶ峰」に降臨後に拠点とし、所縁の史跡が密集する地。
直線距離にして30kmほど離れています。

雹(ひょう)が降るほどの雨中の決戦、皇軍は苦戦します。ところが一筋の光が射したかと思うと、磐余彦尊(神武天皇)の弓の先に止まり、稲光のようにさんぜんと光輝きました。長髄彦軍兵たちは目をやられ、ついに降参してしまいます。

この「金鵄」にちなむ「鵄山」というのが当地より北2kmほど、「富雄川」上流にあり「金鵄発祥」の石碑もあります(記事未作成)。

「金鵄」を八咫烏とする説や三炊屋媛命とする説などいろいろありますが、饒速日神の神霊だったのではと唱えられた、添御縣坐神社(三碓)の宮司さんの説がもっともしっくりとくるかも。

長髄彦目線から見ると、金色に光輝く饒速日神の神霊が鵄となって去って行ったと。つまり、長髄彦の元を離れて行ったと。


*写真は2018年9月頃と2022年8月撮影のものとが混在しています。


富雄川沿いの道路(県道7号線)、「西村橋東詰」交差点のやや南にあります。目印は「出垣内」バス停、ちょうど人がいるところ。

ここから山道、2~3分もあれば十分。





山道をさらに5分ほど登ればその先にある天忍穂耳神社