阿良須神社 (舞鶴市小倉)


丹後国加佐郡
京都府舞鶴市大字小倉字フル宮13
(P有、のぼりの立つ参道の西隣の進入口から)

■延喜式神名帳
加佐郡 阿良須神社の論社

■旧社格
郷社

■祭神
豊受大神
[相殿] 多岐都姫命 市杵島姫命 多紀理姫命
[殿内秘座] 木花咲夜姫命(二宮神)


東舞鶴の東部外れ、「青葉山」を源流とする「志楽川」中流域沿いに鎮座する社。社前は若狭への幹線道路。布留山神社が隣接して鎮座しています。
◎「志楽郷」五村の総氏神であり郷社。「一ノ宮」とも称されていたようです。他に「大森社」という記述も見られます。
◎社頭案内板は以下の通り。
━━当社は崇神天皇十年、丹波将軍 丹波道主王が青葉山に住む土蜘蛛 陸耳御笠(クガミミノミカサ)と云う兇族を討伐し給う時、豊受大神を神奈備の浅香の森にお祭りされたのを創祀とする。降りて天武天皇白鳳十年九月三日 柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神 阿良須神社と奉称す。遡りて元年 大友皇子の御謀叛の時 越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を詠じ給う。
 曇る世に 柳ヶ原を ながむれば
 神の恵みや 晴るる朝霧
 風来ぬる 青葉の山の 煙りたへ
 行先遠き 雲の上かな━━(以下略)
◎「加佐郡誌」は以下を伝えています。
━━古老伝えて曰ふのに、「当社の祭神は伊奘諾尊の御孫稚彦霊神の御子豊宇気大神にましまして、崇神天皇の十年丹波道主王の勅を奉じて此の国を治め給ふに当り、霧が立ち篭めてあやめも分からずなり人生に害があらうと思召されたので、親しく天神地祇に祈誓せられた所、三更(23時~翌1時)に至って大神柳原に(字田中の地内と言ふ)現はれ給ふたから、御子八乎止女をして其の地に神籬を建て神霊を斎き奉り年穀豊穣蒼生安穏を祈らしめられたのに、翌日になって天始めて晴れ生民も豊になることが出来た故に、此地方を日下村と言ひ亦神座府の名称(加佐の語源といふ伝説がある)も此の地から出たのである」と(異説があって、「崇神天皇の朝に祀ったのは柳原隧道の西の耕地辺であらうか」)尤も当社は四王子の御創建であって年代が久しいけれども、青葉山が崩壊して其の神跡を失ったのを天武天皇の白鳳十年辛巳九月三日に、丹波道主王の裔女が隧って柳原に神殿を造営し豊受阿良須神社と称し奉られたので(此項志楽村参考三と符合しない)、同十一年には越前国阿須波の里に忍び給ふた、高市皇子が柳原の社へ幸して親しく天下鎮静のことを大神に祈り、御歌を詠じ給ふたといはれている━━
◎双方ともに類似した創祀創建譚かと思います。社頭案内では原始は「浅香の森」としているのが、「加佐郡誌」には見られません。ただし「霧が立ち篭めて…」とあり、これを「朝霞(あさか)」と捉えるのであれば共通のものかと。「神奈備」とあることから「青葉山」内かと思われます。
「柳ヶ原(柳原)」は字「田中」の地内。現在の舞鶴市「田中」は、現社地の北側道路向かいにある志楽小学校からさらに北側辺り。標高200mの小山が、さらに奥に尾根続きの標高300mの山が隣の舞鶴市「泉源寺」にあります。おそらくはこの山中に祀られたかと思います。
慶長五年(1600年)に兵火に罷り全焼、翌年に現社地にて再建されたと伝わります。
◎これらとは別に、「舞鶴市内神社資料集」所収の「神社調査書」という書は以下を記しているようです(他サイトより孫引用)
━━古老神話伝説曰神代の昔 大己貴命少彦名命 国造座の時 此春日部里柳の原は木根樹立険しき深山たりければ 谿間々の沼地より昼夜霧立罩めて 晴明の時なく名にし負ふ霧の海の凄まじさ言はかりなかりき 神話によれば地主神を覓めしと産霊二柱神 琴浦浜に遊幸座し時 冨士の高根より天降り座す木花開耶姫命 産霊二柱大神の御前に参り会給ひて 茲に年久敷住せ給ひて浅からさりける契を結びて 地主神咲耶姫は豊受大神三女神等を斎祀りて此地を領有し…(以下略)…━━
◎ここでは「産霊神二柱」(大己貴命・少彦名命のことか)が「地主神」を尋ねようと「琴浦浜」(不明)に遊幸していた時に、二柱の御前に現れたのは木花開耶姫命であったと。つまり「地主神=木花開耶姫命」。そして地主神(木花開耶姫命)は豊受大神・宗像三女神を斎祀ったとあります。
◎類似した資料として、同じく「舞鶴市内神社資料集」所収の「阿良須神社記」は、以下を伝えています。
━━(大己貴命・少彦名命が地主神を 尋ねていると)魚井の原より神光海原を照し、白糸浜の十二月(しはすぐり)の神の森に着き、たちまち月が浦の御崎にあたかも月光とも物とも見ゆる物現り出でたり。これすなわち幽契によりて、魚井の大神(豊受大神)が降臨し賜えるなり。この時、天火明命出でて大神を田中の威光山に迎え、天道姫命をして、国家鎮護の大神として親しくこれを祭らしめ賜ひき。これより一天心よく晴れ渡り、命等勇んでこの国土を経営し、強暴の神を征服し、邪鬼の者等を払い、天香語山命に大神の神饌の為に、月代の神田を柳原に定め、水田陸田を開き、天道姫命に大神の五穀の稲穂を乞い求め、広く生民に施し、耕耘種芸の法を教え、衣食の仕方を授け、又摂生療病の方法を示し、功なるや、二神(大己貴命・少彦名命)高志の国に至り、天火明命を召して「汝、此の国を領知すべし」と詔り給ひき。崇神天皇即位十年秋、丹波将軍道主王 勅を奉じて、青葉山の土ぐも陸耳御笠を征伐するに当り、天神地祇を祭りて神意を伺われると、神霊たちまちによいお告を下された。それを倭得王に命じ、たやすく賊首を征服し国土を平定し、鎮撫の結果を天皇に奏せられた。又、天火明命の孫 笠津彦笠津姫に、柳原の神並の森に神社を建てて、豊受大神、三女神、木花開夜姫命を祭らしめ給う。これが当社の起りである。
天武天皇白鳳十年辛巳、北国大地震の為青葉山崩壊し、大神鎮座の霊域を失ったのである。同年秋九月三日夜、里長春部のむらじ青雲別が独り、その境内の探し求めの苦慮を五人の神は見られて、五つの重ねの唐衣。緋の御裳、おすべらかしにひかげのかずらをつけ、美しい天女五人の姿をして柳原へ天降られて、その娘水長姫に夢枕に立ち「朝日輝く柳ケ原は昔、大己貴命少彦名命の国造りの初めより深い縁の地故に、神霊永くここに止まるべし」と申された。里長は神の仰せに従い、柳原の大森を大宮処と定め、宮居を造営し五柱の神霊を奉祭し、春部の里の氏神・豊受皇阿良須神社と崇め奉った。即ち当社の基礎で万代不変の神地である。同十一年、大友皇子により天武との戦が始まる。この時越前のあすはの里に逃れられた高市皇子は、左中将清忠外従臣等と共に当国に下られ、同年七月七日夕暮柳原の宮に入り給ふて四方を眺められた時、美しい乙女に会われて不審に思われ、いましは誰ぞと問い給ふと、われは青雲別の子水長姫と答え申す。皇子は更に、大宮に祭れる神は何れの大神にましますかと問われると、国の鎮めとなる豊受大神と、三女神及び木花開夜昼命と謹しみ申し上げる。皇子は清流に身を清め、心を静められて神垣に入らせ給う。みずから琴を弾き、水長姫に御神楽を神前に奏せしめられ、長い祈念を続けられた。この祈誓の神に通じたのか、わた立つ威光の峯の綾雲は、大森の宮居へ流れて来て、その中に見えかくれしつつ、やがて五人の天女が秘曲に合わせて袖ひるがえし舞いを始めた。…(以下略)…━━
◎同名の阿良須神社が福知山市大江町にも鎮座し、当社ともにいずれも式内論社。大江町の方が有力と見られています。
◎ご祭神については上記社頭案内では豊受大神。「丹後舊事記」は、丹波道主王が丹後国二ノ宮 大宮賣神社より大宮賣大明神・若宮賣大明神(豊受大神とされる)を勧請してきたとしています。「神名帳」においては一座。大宮賣大明神が漏れ落ちたのでしょうか。
一方「加佐郡誌」では主祭神を豊受大神、相殿神を瓊瓊杵命、天児屋根命、天太玉命としています。
また「京都府地誌」(明治八年)には「小倉神社」として掲載され、往古は「小倉神社」と称していたと伝えています。明治元年~十四年には「小倉神社」と改称されていました。
そして大倉岐命を合祀しているとも。ただしこちらは隣接する布留山神社と混同しているのではないかと思われ、そちらで取り上げます(後ほど記事UPします)
◎木花咲夜姫命は「殿内秘座」、「二宮神」などとして祀られています。以上の由緒等から木花咲夜姫命が原始より祀られていたのかは甚だ疑問。単に「山の神霊」といった祀られ方をしていたのではないかと。山容の美麗さから「若狭富士」などと呼ばれるようになり宛てられた神名ではないかとも考えます。
堀川院皇子の出産が遅れたために祈願され、無事出産が叶い正一位大明神の勅額が下賜されたとのこと。以降は安産守護の宮として崇敬が高まったようです。
◎ご祭神等については諸説入り乱れていますが、主祭神は豊受大神とするのが妥当でしょうか。
また布留山神社と隣り合わせで、中で行き来できる珍しい格好に。ところが村は異なり、氏子も異なります。類似の伝承があり、混乱が生じているようにも思います。
◎「青葉山」をご神体としているのは青海神社。その社が山中で祭祀されていたものが里に降りてきたのは、陸耳御笠が討伐される前のことだったのかもしれません。そうして当社の方も山中にて祭祀されていたのが、現社地に降りてきたということでしょうか。
◎社名の「アラス」は古代朝鮮語を連想させます。渡来人ということであれば鍛冶製鉄が関わるのではないかと。丹波道主王陸耳御笠との戦いも鉄を巡る覇権争いではなかったかと考えています。そして最終的に鎮まったのは「布留山」の北麓。「フル」もまた古代朝鮮語では「村」、ひいては「神の降臨地」とする説もあるようです。
◎境内摂社として神明神社が鎮座。主祭神は天照皇大御神、配祀神は金刀比羅大神と北野天満大神。こちらは崇神天皇三十九年に天照皇大神が「吉佐宮」に遷座された時、大雪が降ったがそこに天照皇大神の足跡が残ったから祀ったと伝わります。

*写真は2018年9月と2024年5月撮影のものとが混在しています。


駐車場進入口


当社は向かって左側、布留山神社は向かって右側。




隣の布留山神社から当社を。

向かって右側が摂社 神明神社。


豊受大神御鎮座二千年の石碑。

祭壇跡でしょうか。



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