ユダヤ人埴輪が語る忘れられた日本史 | Kazmarのブログ

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千葉にある芝山古墳は7世紀前後に造営されたと考えられている。古墳群は1958年に国の史跡とされ、そこから出土した埴輪は1971年に千葉県の有形文化財に指定されている。それらの埴輪の内人物のものは武人埴輪とされてきた。

 

美術史家田中英道はその著書「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」でこれら武人埴輪がユダヤ人埴輪であると指摘した。田中が指摘するようにその姿は、現在にも通じるユダヤ人像、長い顎髭、カールしたもみあげ、高い花と鍔広の帽子、といったものに類似している。

田中以前にも日本にユダヤの失われた十氏族が訪れていたという日ュ同祖論は以前よりあった。

 

祇園祭とはシオン祭であり、わらべ歌のかごめかごめはアラム語で解釈できるとかいう、語呂合わせに近いものだと理解され、アカデミーからは無視されてきた。

 

信憑性が伺われたのは長野の諏訪大社だ。そこで行われる御頭祭では鹿の頭を捧げているのだが、ユダヤ教の儀式に、最もユダヤ教では羊の頭だが、似ているというものだ。また諏訪大社で明治以降残酷だということで禁止された御頭祭の儀式に、旧約聖書でアブラハムがその子イサクを神のお告げにより殺害しようとする場面を模したものもあったという。また諏訪大社はモリヤ山のふもとに位置していることもユダヤとの関係を連想させていた。

 

元駐日イスラエル大使エリ・コーヘンが失われたアークを求めて四国を探し回ったことも一時期話題となった。

これらのことは状況証拠からユダヤ人の影響が考えられる程度のものであったが、ここにきて田中のユダヤ人埴輪説である。アカデミーは反応していないが、ユダヤ人が古代日本に確実に来た物的証拠になる可能性が高い。

 

ユダヤ人たちは、バビロン捕囚で代表されるように古代より世界中に散らばって行ったので、その中の一部が日本に来たとしても不思議ではない。中国にも開封というユダヤ人街があった。

田中の指摘で面白いのは多胡羊太夫だ。彼は聖武天皇の時代秩父で和銅の銅塊を発見し、朝廷に献上した。この銅山の発見を喜んだ聖武天皇は和銅と改元し、その銅は東大寺の大仏建立に使用されることとなった。田中は多胡羊太夫がユダヤ人だと推測している。胡は西域人を表す漢字であり、羊という名前からもユダヤ人たちが羊と共に来たのではないかと考えた。それに加えて、羊太夫は和同開珎という日本で初めての通貨発行を行ったのではないかとも推測している。現代もそうであるが、通貨発行権を握ることはユダヤ人の特徴の一つである。FRB(連邦通貨準備基金)は米ドルの発行権を握っておりアメリカの金融政策を担っているものだが、日本では日銀がそれにあたる。日銀は日本政府が株主であるが、FRBは国際金融資本、そのほとんどがユダヤ人の資本、がその大株主だ。

ここまでの話だと、単にそのような歴史であってもおかしくない、といったたぐいの話なのだが、田中の考えでは、ユダヤ人たちは日本に何度かに分けて入ってきたのではないかというものだ。そして日本の文化へも大いに寄与していたようである。

 

秦氏は日本史の中でも有力な氏族である。秦河勝は聖徳太子のブレーンとして有名であり、また山城の国を支配していた秦氏は遷都先を探していた桓武天皇にその土地を提供した。その土地は桓武天皇により平安京と名付けられる。

 

秦氏や鴨氏はユダヤ系でありネクトリウス派のキリスト教徒であったと考えられている。祇園とは祇樹給孤独園精舎の略であるが、それはシオンが転訛したものと言われている。シオンとはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地エルサレムのことであり、エルサレムとは平和な町を意味している。つまり平安京だ。

 

また秦氏が作ったと考えられている神社がある。八幡神社と稲荷神社だ。八幡とはヤ・ハタであり、ヤとは絶対神ヤーウェを意味し、八幡神社とは秦氏の神ヤーウェを祀る神の社のことである。

稲荷とはINARIであり、これは磔られたイエス・キリストの肖像画に書かれているINRI=IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ラテン語)=ユダヤ王ナザレのイエスを意味している、と考えられる。

ここまでくると語呂合わせ感をぬぐえないが、一方稲荷の意味が日本語では説明できないのも事実である。

 

神道は、その源を縄文時代、もしくはそれ以前の自然崇拝、先祖礼賛の風習に求めることが出来る。紛れもない私たち日本人固有の宗教であるが、その一方、仏教に対する国家神道としての形式が作られたのは、それほど古い話ではないようだ。

 

伊勢神宮は天武天皇の時代、出雲大社(杵築大社)の大建築が見られるのは八世紀、現在の鳥居が認められるのも八世紀である。伊勢神宮の形式はユダヤの神殿とほぼ同じ面積や神殿の配置であり、大神神社に見られる原初の鳥居の形はユダヤの神殿の門柱とよく似ていると言われている。

平安時代の貴族に占める帰化人の割合は10%であったと記録されている。

 

遺伝子のハプロタイプとしては日本人に多いのはD型、一方ユダヤ人はE型なのだが、変異種のYAP遺伝子については日本人とユダヤ人固有のものということのようだ。日本人は朝鮮、中国、東南アジアやモンゴルなどから弥生時代に渡来した人々が縄文人と同化していったと考えられているが、渡来人たちにユダヤ系も入れて考えた方がよさそうである。

 

このような状況を総括すると、多くの渡来人たちが五月雨式に日本に帰化してこの国の文化の発展に寄与したことがうかがえる。その中でも秦氏や鴨氏などの渡来系が神社様式確立に深くかかわった可能性は考えてもいいのではないだろうか。それはおそらく記紀の編纂にも影響したのかもしれない。

 

以上のことは田中英道の著作以外に、フィクションだが、著者が関連寺社などを回って取材した内容に基づいている、伊勢谷武著「アマテラスの暗号」そして著名ゼミ講師の茂木誠のユーチューブチャンネルで述べられている内容だ。ご興味のある人はご参照ください。

飛鳥、奈良、平安時代の状況が従来の歴史とは違ってより国際色の豊かなものであった可能性が高い。日本の歴史を振り返ると平安な時代だけではなかったが、それでも他国と比べると、自立した民族の長い歴史が続いている。迫害を受けながら日出る理想の地を目指して極東まで到達したユダヤ人たち(現在の私たちにも幾分かはその血が流れているだろう)は、この地に楽園を見出せたのだろうか。そう信じてみたい。