田村泰次郎の『肉体の門』と『埴輪の女』をベースにした異色の女性ドラマ。
敗戦直後の闇市で娼婦として戦後を生き抜いた菅マヤ(団令子)は、経済復興した日本社会で埴輪を研究して愛している夫と子供を持ち、東京郊外で洋服店を経営して幸せに暮らしていた。
ある日、マヤはデパートで昔の娼婦仲間だった浅田せん(楠侑子)と再会する。そして、マヤは避けたがっていた娼婦の頃を思い出すのであった。
娼婦時代、マヤはボルネオマヤという名前で、せんは関東小政という名前で、お六(岩崎豊子)、お美乃(坂本スミ子)、町子(千之赫子)らとグループを組み、厳しい掟の元、共同生活をしていた。
そんなマヤ達の元に謎の復員兵伊吹新太郎(南原宏治)が転がりこむのであった。最初は邪見にしていたマヤ達女性陣らだったが、身近に男ができたことで魅かれていくのであった。
そして、伊吹が牛一頭を盗んできて、みんなで食べた日のマヤは伊吹と寝てしまうのであった。それを伊吹にせまり断られたおせんは嫉妬し、商売以外で男と寝ないという掟を持ち出し、マヤをリンチにかけるのであった。
しかし、それでもマヤは伊吹と寝たことで女の真の喜びを知るのであった。
再会した時、マヤは最初はせんと会うのを避けていた。しかし、伊吹がせんのクラブでヒモのような生活をしていると聞く。
マヤは夫との生活にどこか退屈さを感じていて、自分に喜びを与えてくれた伊吹に会いたくなる。
せんからマヤのことを聞いた伊吹も彼女に会いたくなっていた。しかし、伊吹は麻薬密輸に関係し自身も麻薬中毒であった。
せんは幸せに暮らしているマヤを見て、伊吹と家庭的幸せを欲するのであったが、ここでも伊吹に無視されるのであった。
そして、伊吹はマヤを大磯のホテルに呼ぶのであった。
悩んだマヤはせんに相談するが、彼女に、夫を得て肉体を売り続けている、罵らる。結局、マヤは一人で大磯に行くのであった。
再会をしたマヤと伊吹であった。しかし、麻薬に蝕まれ廃人同然になった伊吹はマヤに心中を求めるのであった。
マヤはここで家庭のことを考えてしまい、拒否をするのであった。
一度は睡眠薬を飲んだ伊吹であるがマヤの助けで助かる。説得を続けたマヤであったが、伊吹は再び薬を飲むのであった。
この映画は、鈴木清順監督が演出した『肉体の門』の後日談として作られている。ただし、現代部分の原作である『埴輪の女』を読んだことがないので、正確な続編なのかどうかはわからない。もしかしたら、『肉体の門』とは関係がない話かもしれない。
また、『肉体の門』も原作に使われているため、清順監督で映像化されたシーンが再び登場している。
しかし、清順監督版がカラーで清順美学の演出でスタイシュなのに対し、本作は白黒で同じシーンは汚いものに仕上げていた。
恩地日出夫監督を最初に知ったのは、東宝のアイドル女優内藤洋子の映画だったので、東宝青春映画の監督というイメージがあった。
しかし、本作のような明るく爽やかなイメージの東宝青春映画とはほど遠い、異色のドラマを撮っていたのを知って、そのギャップに驚いた。
でも、恩地監督のことをしていけば、本作のような異色なドラマを多く撮っていて、実はそちらが恩地監督の本来のカラーなんだと知るのであった。
だから、この映画はとても重くシリアスな映画である。
戦後経済の復興で裕福になっている日本のように幸せな家庭を持つマヤ。しかし、彼女には過去に娼婦という汚れた過去を持っていた。
そこに恩地監督は繁栄し美しくなった日本はかって戦争に負けて汚らしかった国であるのを忘れるなといわんばかりに、マヤの汚い過去を回想させる。
そのせいだろうか、白黒というのもあるが、本当、娼婦時代のマヤの所は汚い上に暗く、嫌悪感され味あわされてしまう。
そして、娼婦達も汚く下品に描かれて、清順監督版とはまったく違ったものに仕上がっているのであった。
そして、幸せに溢れて夫や子供からも愛されているのに現代の生活にマヤは不毛さを感じ、汚れていたけれど女の真の喜びを得ることができた娼婦時代に戻るのを望むのであった。
この不思議な女の心理を恩地監督はねっちこく描き、繁栄した日本の中で窮屈さを感じてしまう幸せとはなにか? あの汚れた敗戦時代の日本を忘れることができるのかと、いうものを問いかけているかのようであった。
そして、その答えは、結局、喜びを得た薄汚い時代に戻ろうとして、時間が進んだ今では汚いものは汚いのだと出しているのであった。
それを象徴すかのように現代の伊吹はヤク中で死に様も口からよだれを流すという汚い死であった。そこには、マヤの娼婦時代の頼りがいのあった男の姿は微塵もなかった。
まさに、過去の汚さをそのまま持ち続けた人間の末路であった。
そして、この映画、団令子がまさに体当たりの演技をしている。
団は、この映画が作られた頃はまだ東宝の青春映画や喜劇、文芸映画で明るく元気な役を演じていた頃で、いわゆるアイドル女優の頃である。
それなのに、娼婦のシーンでは吹き替えなしで尻を出したり、せんら仲間にリンチを受けるシーンでは清順版の野川由美子同様に全裸で縛られたりする。
また、戦後の所では過去からの後ろめたさと、生活に窮屈さを抱く妻も演じている。
そこにはアイドル女優という面影がなかった。ある意味、団も女優として自分を高めるために、この役を演じているのを感じた。
もう一人、忘れないのが伊吹を演じた南原宏治であった。
敗戦の伊吹は危なさを持っているがどこか頼りがいのある男であった。清順版では宍戸錠が好演し、錠自身が出演するアクション映画のキャラクターのようにすら感じてしまう。しかし、清順版では錠はラストで死にいい印象を残していくのであった。
一方、南原の伊吹は錠のような感じを持つことができなかった。彼は生き残った。しかし、あきらかに伊吹という男は高度成長へと進んでいる安定重視の社会では生きていける男ではなかった。
この映画はまさにそれを見せつけていた。だから、南原版の伊吹は社会からはみだし、そのため麻薬中毒となり無様な姿をみせるのであった。
それは、南原宏治という俳優が、どこか不気味さを感じる個性を持っているのでジャブ中で廃人のような伊吹の姿は見事にはまっていた。そして、また伊吹の姿は、この作品世界に重く息苦しい物を強烈に感じさせていた。
とてつもなく後味の悪さが強い映画であった。そもそも、元祖の『肉体の門』もある意味後味の悪さがある映画であったが、その後を描くことで更に後味の悪さを感じるのであった。
結局、後味の悪い人生を送った人間は、またそんな終わりを得るのである。
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敗戦直後の闇市で娼婦として戦後を生き抜いた菅マヤ(団令子)は、経済復興した日本社会で埴輪を研究して愛している夫と子供を持ち、東京郊外で洋服店を経営して幸せに暮らしていた。
ある日、マヤはデパートで昔の娼婦仲間だった浅田せん(楠侑子)と再会する。そして、マヤは避けたがっていた娼婦の頃を思い出すのであった。
娼婦時代、マヤはボルネオマヤという名前で、せんは関東小政という名前で、お六(岩崎豊子)、お美乃(坂本スミ子)、町子(千之赫子)らとグループを組み、厳しい掟の元、共同生活をしていた。
そんなマヤ達の元に謎の復員兵伊吹新太郎(南原宏治)が転がりこむのであった。最初は邪見にしていたマヤ達女性陣らだったが、身近に男ができたことで魅かれていくのであった。
そして、伊吹が牛一頭を盗んできて、みんなで食べた日のマヤは伊吹と寝てしまうのであった。それを伊吹にせまり断られたおせんは嫉妬し、商売以外で男と寝ないという掟を持ち出し、マヤをリンチにかけるのであった。
しかし、それでもマヤは伊吹と寝たことで女の真の喜びを知るのであった。
再会した時、マヤは最初はせんと会うのを避けていた。しかし、伊吹がせんのクラブでヒモのような生活をしていると聞く。
マヤは夫との生活にどこか退屈さを感じていて、自分に喜びを与えてくれた伊吹に会いたくなる。
せんからマヤのことを聞いた伊吹も彼女に会いたくなっていた。しかし、伊吹は麻薬密輸に関係し自身も麻薬中毒であった。
せんは幸せに暮らしているマヤを見て、伊吹と家庭的幸せを欲するのであったが、ここでも伊吹に無視されるのであった。
そして、伊吹はマヤを大磯のホテルに呼ぶのであった。
悩んだマヤはせんに相談するが、彼女に、夫を得て肉体を売り続けている、罵らる。結局、マヤは一人で大磯に行くのであった。
再会をしたマヤと伊吹であった。しかし、麻薬に蝕まれ廃人同然になった伊吹はマヤに心中を求めるのであった。
マヤはここで家庭のことを考えてしまい、拒否をするのであった。
一度は睡眠薬を飲んだ伊吹であるがマヤの助けで助かる。説得を続けたマヤであったが、伊吹は再び薬を飲むのであった。
この映画は、鈴木清順監督が演出した『肉体の門』の後日談として作られている。ただし、現代部分の原作である『埴輪の女』を読んだことがないので、正確な続編なのかどうかはわからない。もしかしたら、『肉体の門』とは関係がない話かもしれない。
また、『肉体の門』も原作に使われているため、清順監督で映像化されたシーンが再び登場している。
しかし、清順監督版がカラーで清順美学の演出でスタイシュなのに対し、本作は白黒で同じシーンは汚いものに仕上げていた。
恩地日出夫監督を最初に知ったのは、東宝のアイドル女優内藤洋子の映画だったので、東宝青春映画の監督というイメージがあった。
しかし、本作のような明るく爽やかなイメージの東宝青春映画とはほど遠い、異色のドラマを撮っていたのを知って、そのギャップに驚いた。
でも、恩地監督のことをしていけば、本作のような異色なドラマを多く撮っていて、実はそちらが恩地監督の本来のカラーなんだと知るのであった。
だから、この映画はとても重くシリアスな映画である。
戦後経済の復興で裕福になっている日本のように幸せな家庭を持つマヤ。しかし、彼女には過去に娼婦という汚れた過去を持っていた。
そこに恩地監督は繁栄し美しくなった日本はかって戦争に負けて汚らしかった国であるのを忘れるなといわんばかりに、マヤの汚い過去を回想させる。
そのせいだろうか、白黒というのもあるが、本当、娼婦時代のマヤの所は汚い上に暗く、嫌悪感され味あわされてしまう。
そして、娼婦達も汚く下品に描かれて、清順監督版とはまったく違ったものに仕上がっているのであった。
そして、幸せに溢れて夫や子供からも愛されているのに現代の生活にマヤは不毛さを感じ、汚れていたけれど女の真の喜びを得ることができた娼婦時代に戻るのを望むのであった。
この不思議な女の心理を恩地監督はねっちこく描き、繁栄した日本の中で窮屈さを感じてしまう幸せとはなにか? あの汚れた敗戦時代の日本を忘れることができるのかと、いうものを問いかけているかのようであった。
そして、その答えは、結局、喜びを得た薄汚い時代に戻ろうとして、時間が進んだ今では汚いものは汚いのだと出しているのであった。
それを象徴すかのように現代の伊吹はヤク中で死に様も口からよだれを流すという汚い死であった。そこには、マヤの娼婦時代の頼りがいのあった男の姿は微塵もなかった。
まさに、過去の汚さをそのまま持ち続けた人間の末路であった。
そして、この映画、団令子がまさに体当たりの演技をしている。
団は、この映画が作られた頃はまだ東宝の青春映画や喜劇、文芸映画で明るく元気な役を演じていた頃で、いわゆるアイドル女優の頃である。
それなのに、娼婦のシーンでは吹き替えなしで尻を出したり、せんら仲間にリンチを受けるシーンでは清順版の野川由美子同様に全裸で縛られたりする。
また、戦後の所では過去からの後ろめたさと、生活に窮屈さを抱く妻も演じている。
そこにはアイドル女優という面影がなかった。ある意味、団も女優として自分を高めるために、この役を演じているのを感じた。
もう一人、忘れないのが伊吹を演じた南原宏治であった。
敗戦の伊吹は危なさを持っているがどこか頼りがいのある男であった。清順版では宍戸錠が好演し、錠自身が出演するアクション映画のキャラクターのようにすら感じてしまう。しかし、清順版では錠はラストで死にいい印象を残していくのであった。
一方、南原の伊吹は錠のような感じを持つことができなかった。彼は生き残った。しかし、あきらかに伊吹という男は高度成長へと進んでいる安定重視の社会では生きていける男ではなかった。
この映画はまさにそれを見せつけていた。だから、南原版の伊吹は社会からはみだし、そのため麻薬中毒となり無様な姿をみせるのであった。
それは、南原宏治という俳優が、どこか不気味さを感じる個性を持っているのでジャブ中で廃人のような伊吹の姿は見事にはまっていた。そして、また伊吹の姿は、この作品世界に重く息苦しい物を強烈に感じさせていた。
とてつもなく後味の悪さが強い映画であった。そもそも、元祖の『肉体の門』もある意味後味の悪さがある映画であったが、その後を描くことで更に後味の悪さを感じるのであった。
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