強盗殺人で死刑の宣告を受けた梢一郎(高倉健)。しかし、彼は愚連隊仲間の剛田(田中邦衛)にだまされて利用されただけであった。
剛田への復讐を望んでいた梢は死刑員仲間の南川剛太(郷瑛二)の脱走の誘いを受け入れ網走刑務所を脱走するのであった。
しかし、途中、仲間割れなどがあり、生き残ったのは梢と国松邦造(菅原文太)だけであった。
国松は梢が結んだ金が目的で付いていくが、途中でまかれてしまうのであった。
吹雪の中、梢は剛田のいる札幌へと進んでいた。その途中で、激しい腹痛で苦しむあき(木の実ナナ)と出会う。最初は無視しようとしていたが苦しむあきを見捨てることができずに梢は彼女の看病をするのであった。
あきの治療費を稼ぐため、梢は日雇いの除雪作業の仕事をする。しかし、仕切っている梶政(山本麟一)が日当をピンハネをした上に梢の素性を知ったため殺してしまうのであった。
あきの所に戻った梢であるが警察が泊まっている宿に現れる。慌てた梢はあきに自分の正体をばらすのであった。
しかし、警察は別の殺人犯佐川(小池朝雄)を捕まえにきたのであった。
翌日、梢とあきは別れるのであった。
剛田の居場所が函館と知った梢はそこに行く。そして、小樽で国松と再会するのであった。
まだ、梢は国松のことを嫌っていたが、国松が癌で助からず苦しむ母親を助けるために殺したという話を聞き、彼に心をゆ許すのであった。
そして、梢は国松から剛田が一億円の電車強盗をするのを聞き、その電車に乗るのであった。
電車の中で梢の復讐劇が始まるのであった。
石井輝男監督、高倉健のコンビで脱獄といえば、ヒットシリーズ『網走番外地』シリーズである。
しかし、本作には『番外地』シリーズのような爽快感がない。あるのは、自分をだました人間へのおどおどした憎悪と、どん底の男と女の悲哀であった。
この映画、強引かもしれないが、三つに構成されているといってもいいだろう。一つは梢らの脱獄劇。二つ目は梢とあきのどん底に生きている男と女の愛の物語。そして、三つ目は走る列車を舞台に行われる復讐劇。
脱走劇は死刑の宣告を受けた人間達のその恐怖ゆえに精神的に狂った姿、激しい寒さの中逃げなければならない人間達が狂っていく姿。
それはまさにゲテモノを見るような気持ち悪さが漂って描かれ、石井輝男監督のその方面の趣味がまさに全快している。
特に、刑務所暮らしで女に飢え逃げた家で女の下着を着て女を犯そうとしたり、寒さで精神を狂わされ全裸で雪原を動き回る郷瑛二の姿は強烈であった。
恋愛劇では他人に冷酷に生きようとしつつも、結局、同じ境遇を感じ助ける男。そして、助けてもらったために男が犯罪者であろうとも愛を捧げようとする女。
この二人の悲哀が実に哀愁強く描かれているのである。
そして、復讐劇は従来の東映映画の全体に見られる激しさではなく、ポイントポイントで見せられる激しさが、血みどろの戦いを強烈に残してくれるのであった。
そして、この三つの要素を見ている時に、石井輝男監督という人が非日本映画的な監督なのかを思わされずにはいられなかった。
舞台は日本の雪国という実に土着的な所である。しかし、画面から感じられる空気は洋画のようなものがあった。
恋愛劇の哀愁をべたさを弱くし、かつドライというわけではない、むしろ弱く演出しているから強く感じてくる哀愁。
復讐劇の所は日本映画アクションシーンの激しい乱闘や撃ち合いではなく、ポイントポイントで激しさ見せる作り方。
このセンスはある意味、フランス映画っぽいやり方である。見ていて、本当に日本映画を見ている感覚が薄かった。
よく考えれば、石井監督は東映ギャング路線では時代劇調のギャング映画に洋画のセンスをぶち込んだ人だし。また、健さんとのコンビ作『網走番外地』の非日本的な作り物である。
さらには、青山八郎の音楽は日本的というよりも、『ゴッドファーザー』を思わせる洋画調の音楽でやっているから、非日本映画的な印象は更に強くなっているのであった。
それだけに、この映画、いつもの東映アクション映画とは違う、静的な余韻を感じて見終えることができた。
そして、健さんはいつものような耐える男を演じていない。
復讐という目的を達成するためには手段を選ばない所、また行えば冷酷非情に人を殺していく姿は斬新かつ強烈であった。
でも、その反面、自分と同じ弱い状況の人間にはやさしさを見せるという姿があった。
このような役を任侠映画時代にやっていれば、健さんの東映時代の人気も更に長くなり、その反面、松竹などの他社出演も遅れていただろう。
そして、菅原文太が二枚看板を見事に背負っている。文太の出番はそれほど多くはないが強烈な印象を残している。
また、任侠路線の頃は健さんの弟分的な役であったが、この映画の頃になると文太は実録やくざ路線で東映のエース格になったということもあり、以前と違って健さんに負けないオーラを出していた。
それは健さんと文太の二人の存在感が作品に厚みを与えているものがあった。
それだけでも、この映画はいい映画となっているのであった。
剛田への復讐を望んでいた梢は死刑員仲間の南川剛太(郷瑛二)の脱走の誘いを受け入れ網走刑務所を脱走するのであった。
しかし、途中、仲間割れなどがあり、生き残ったのは梢と国松邦造(菅原文太)だけであった。
国松は梢が結んだ金が目的で付いていくが、途中でまかれてしまうのであった。
吹雪の中、梢は剛田のいる札幌へと進んでいた。その途中で、激しい腹痛で苦しむあき(木の実ナナ)と出会う。最初は無視しようとしていたが苦しむあきを見捨てることができずに梢は彼女の看病をするのであった。
あきの治療費を稼ぐため、梢は日雇いの除雪作業の仕事をする。しかし、仕切っている梶政(山本麟一)が日当をピンハネをした上に梢の素性を知ったため殺してしまうのであった。
あきの所に戻った梢であるが警察が泊まっている宿に現れる。慌てた梢はあきに自分の正体をばらすのであった。
しかし、警察は別の殺人犯佐川(小池朝雄)を捕まえにきたのであった。
翌日、梢とあきは別れるのであった。
剛田の居場所が函館と知った梢はそこに行く。そして、小樽で国松と再会するのであった。
まだ、梢は国松のことを嫌っていたが、国松が癌で助からず苦しむ母親を助けるために殺したという話を聞き、彼に心をゆ許すのであった。
そして、梢は国松から剛田が一億円の電車強盗をするのを聞き、その電車に乗るのであった。
電車の中で梢の復讐劇が始まるのであった。
石井輝男監督、高倉健のコンビで脱獄といえば、ヒットシリーズ『網走番外地』シリーズである。
しかし、本作には『番外地』シリーズのような爽快感がない。あるのは、自分をだました人間へのおどおどした憎悪と、どん底の男と女の悲哀であった。
この映画、強引かもしれないが、三つに構成されているといってもいいだろう。一つは梢らの脱獄劇。二つ目は梢とあきのどん底に生きている男と女の愛の物語。そして、三つ目は走る列車を舞台に行われる復讐劇。
脱走劇は死刑の宣告を受けた人間達のその恐怖ゆえに精神的に狂った姿、激しい寒さの中逃げなければならない人間達が狂っていく姿。
それはまさにゲテモノを見るような気持ち悪さが漂って描かれ、石井輝男監督のその方面の趣味がまさに全快している。
特に、刑務所暮らしで女に飢え逃げた家で女の下着を着て女を犯そうとしたり、寒さで精神を狂わされ全裸で雪原を動き回る郷瑛二の姿は強烈であった。
恋愛劇では他人に冷酷に生きようとしつつも、結局、同じ境遇を感じ助ける男。そして、助けてもらったために男が犯罪者であろうとも愛を捧げようとする女。
この二人の悲哀が実に哀愁強く描かれているのである。
そして、復讐劇は従来の東映映画の全体に見られる激しさではなく、ポイントポイントで見せられる激しさが、血みどろの戦いを強烈に残してくれるのであった。
そして、この三つの要素を見ている時に、石井輝男監督という人が非日本映画的な監督なのかを思わされずにはいられなかった。
舞台は日本の雪国という実に土着的な所である。しかし、画面から感じられる空気は洋画のようなものがあった。
恋愛劇の哀愁をべたさを弱くし、かつドライというわけではない、むしろ弱く演出しているから強く感じてくる哀愁。
復讐劇の所は日本映画アクションシーンの激しい乱闘や撃ち合いではなく、ポイントポイントで激しさ見せる作り方。
このセンスはある意味、フランス映画っぽいやり方である。見ていて、本当に日本映画を見ている感覚が薄かった。
よく考えれば、石井監督は東映ギャング路線では時代劇調のギャング映画に洋画のセンスをぶち込んだ人だし。また、健さんとのコンビ作『網走番外地』の非日本的な作り物である。
さらには、青山八郎の音楽は日本的というよりも、『ゴッドファーザー』を思わせる洋画調の音楽でやっているから、非日本映画的な印象は更に強くなっているのであった。
それだけに、この映画、いつもの東映アクション映画とは違う、静的な余韻を感じて見終えることができた。
そして、健さんはいつものような耐える男を演じていない。
復讐という目的を達成するためには手段を選ばない所、また行えば冷酷非情に人を殺していく姿は斬新かつ強烈であった。
でも、その反面、自分と同じ弱い状況の人間にはやさしさを見せるという姿があった。
このような役を任侠映画時代にやっていれば、健さんの東映時代の人気も更に長くなり、その反面、松竹などの他社出演も遅れていただろう。
そして、菅原文太が二枚看板を見事に背負っている。文太の出番はそれほど多くはないが強烈な印象を残している。
また、任侠路線の頃は健さんの弟分的な役であったが、この映画の頃になると文太は実録やくざ路線で東映のエース格になったということもあり、以前と違って健さんに負けないオーラを出していた。
それは健さんと文太の二人の存在感が作品に厚みを与えているものがあった。
それだけでも、この映画はいい映画となっているのであった。