東京都知事の石原の慎ちゃんが作家時代に主演した新聞記者物。



 大手メーカー社長三原準之助(三津田健)の長男健司(平奈淳司)が下校途中に誘拐される。そして、三原邸に脅迫文が送られてくる。
 そこには警察には知らせるなと書かれていたが、準之助の長女、葉子(司葉子)が脅迫文を持って警察に訪れるのであった。

 サツ回りの記者、東都日報の記者冬木明(石原慎太郎)と毎朝新聞の記者今村(仲代達矢)は葉子の訪問にと特ダネの臭いを嗅ぐのであった。
 そして、今村は小野塚捜査主任(志村喬)に単刀直入に聞くのであった。小野塚は相手にしないのであった。
 一方、冬木は一旦署を出て飲み屋に入り、そこに置いてあった雑誌の三原家の記事から葉子のことを知るのであった。そして、署に戻った冬木は、葉子が取調室で事件のことを話しているのを盗み聞きするのであった。
 翌朝の東都日報には、誘拐事件のことが見出しになっていた。

 今村はこのことで小野塚に抗議をする。小野塚は子供の命の大切さを訴え、今村に詳しいことを記事に書くのは犯人逮捕まで待ってくれと頼むのであった。
 しかし、記事のせいで身代金受け渡しの時に逮捕を狙っていた警察は捕まえることができなかった。犯人が危険を察知し現れなかったのである。
 この事件でもっと特ダネを狙う冬木は三原邸に侵入し、葉子と会うのであった。そこで冬木は葉子に犯人へ弟を返すことを訴えた手記を書かせるのであった。

 その頃、タクシーの運転手が犯人を乗せたかもしれないと警察署に現れる。そして、一緒にいた子供が健司だと知るとモンタージュを取るのであった。
 一方、記事が得られない冬木は健司が野球選手の川田(三船敏郎)のファンだと知ると川田選手に犯人に語りかける番組を放送し、それを記事にするのであった。
 ところが、今村が小野塚から聞き出し、人相写真が手配された記事を書き、冬木は慌てるのであった。
 そして、冬木は小野塚らの刑事部屋に忍び込み、犯人のモンタージュ写真を盗むのであった。

 写真を手に入れた冬木は東都日報の販売所に配り、配達員達に警察よりも先に見つけるのを指示するのであった。
 しかし、なかなか犯人が見つからないために冬木は夕刊にモンタージュ写真を掲載するのであった。
 その夜、冬木は今村と会い、自分のやり口を非難されるのであった。

 翌朝、配達員の少年が犯人の笹井(宮口精二)を発見する。しかし、本社よりも警察に知らせるのであった。
 それを知った冬木はすぐに現場に行く。しかし、もう笹井は捕まっていた。そして、健司は殺された後であった。



 技巧的な演出と撮影で、多くのファンがいる鈴木英夫監督の映画である。
 この映画は誘拐事件とその記事を得ようとする記者の物語をサスペンスタッチで演出し、次に何が起きるのかわからない作り方が映画の面白さを盛り上げている。

 また、芥川也寸志の音楽が不思議な効果を上げている。使用されている楽器が『第三の男』のテーマ』と同じせいか、曲そのものが似ている。
 そのせいだろうか、この映画日本映画っぽさを感じることがなく、洋画のように感じられる。それはこのころの東京の外れの田舎町の風景がでてくるのだが、メインテーマのせいで外国の田舎町に見えてくるのである。音楽で映像の雰囲気を変えてしまうというのもいい効果を出している。
 そして、その音楽の乾ききった感じが作品のドライな世界も盛り上げているのであった。

 そして、この映画は、後の映画でも取り上げられる、報道機関のスクープ合戦による度を越えた取材の批判も描いている。
 この映画で、石原慎太郎が演じる、冬木はまさにスクープを得るためにあらゆる手段を行っていく。
 人を騙し、盗み聞きなどを行っていき、スクープを手に入れる。その上、美談を作り上げることで更に新聞の売り上げを伸ばしていくのであった。
 そして、非難されれば、生活のためだとか人々に真実を知らせるため、と言っては自己正当をする。
時に映画の新聞記者は人々に真実を知らせるというのをかざして、正義の味方になる。しかし、この映画はそれを見方によっては、悪の方向になる報道を正当化する面があるのを主張している。
 そのため、捜査は悪い方向になり、主人公も自己満足正義のダークな男になっていく。

 また、誘拐された姉を騙して手記を書かせてお涙記事にしたり、テレビを使って人気の野球選手に犯人を説得させたりして美談を作り上げたりと、いかにマスコミというのが作り上げというものを簡単に作ることができるものであるのをさらすのであった。

 そして、その度を越えたやりすぎも個人の反論でならば正当化ができる。しかし、これが組織になればそうはいかない。
 それはいかに組織という巨大な力があるものでも世間に評価という表面は弱いということである。
 組織がそれから逃れるためには、一人を悪人にしそいつを処罰すればいいのである。儲けさせている時はその男を持ち上げ、批難されればその逆を行う。
 この映画にはそんな巨大組織のからくり図も描かれているのであった。

 本来、主人公がこのような立場になったら、人々は同情するであろうが、この主人公はそれまでさんざん非道なことをしているので観ている側には同情を一切しないようになっている。
 まるで、敵役が最後にやられる姿のようにも見えるのであった。
 ラストが共感されない主人公を主役にしたということでも、この映画は実に珍しく、しかもそれが成立しているというのも凄いことである。

 鈴木英夫監督の念を入れた演出が実に溢れ出ている。

 そして、この主人公を演じるのは石原慎太郎である。この頃は当然都知事でもなく、政治家でもなかった。まだ、芥川賞の作家であったに違いない。
でも、この映画では批難されればされるほど、強い自己主張を出してくる冬木を演じていたが、よく考えればこの冬木の姿はまさに今の石原慎太郎の姿であり、まさにそのものズバリの人をキャスティングしたものである。

 これほど、演技でなく地である自己主張キャラである石原の前では、名優仲代達矢も存在感が薄くなっている。そもそも、この映画では刑事に頼まれて記事を控えるという大人しい記者をやっているからなおさらである。
 これが、後であれば、冬木は仲代が演じているキャラになっていただろう。仲代の冷たさを感じるキャラは冬木の悪徳な所をクールに演じただろう。

 でも、この頃でも仲代達矢はそれなりに存在感が強い役を演じていたが、それを潰してしまうくらいの石原慎太郎の存在感もまた凄さを感じさせるのであった。


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