福岡出身の欧州スパイ工作員
黒田藩は幕末の悲劇「乙丑の変(いっちゅうのへん)」で、多くの有能な藩士を失った。 しかしながら、彼らの一つ下の世代からは明治に活躍する人材が育っていた。 頭山 満、団 琢磨、金子堅太郎、明石元二郎、栗野慎一郎・・・、彼らは間違いなく日本の歴史に名を残している。 以前、頭山満のブログをシリーズで投稿していた時に思ったのだが・・・福岡に住む私達は福岡出身の彼らのことをもう少し関心を持って、多く語らい、そして讃えてもいいのではないか? 今回の主役・明石元二郎も、そうだと思う。 興味を持って読んでもらえるよう、内容を面白く解り易く整えてみます。
明石 元二郎(あかし もとじろう)は、幕末の元治元年(1864年)8月1日、福岡の天神で生まれた。 資料によっては、彼は大名町生まれとなっていて、色々と勘違いがあるのかもしれない。 後に確認します。
明石 元二郎(あかし もとじろう)
元二郎は、陸軍士官学校・陸軍大学を卒業し、ドイツ留学などを経て、その出世は陸軍内部でも注目された。 明治34年(1901年)、対ロシア情勢が悪化すると、参謀本部に所属していた元二郎はフランス公使館付き陸軍武官として赴任。その後、ロシア公使館付き陸軍武官としてペテルブルグに移動し、スパイ活動を開始する。 本国参謀本部から送られてくる活動資金を利用して、情報を収集し、ロシア国内各地で活動する反乱分子を支援しながら内側から混乱を誘ったのです。
日露戦争の勝利に、旅順を攻略した乃木希典、バルチック艦隊を撃破した東郷平八郎を讃えることが多いが、後に、国内外の軍事関係者によって、元二郎の功績も大きく評価されている。 ただ、スパイ活動という裏方の活動は世間に大きく発表されていない。 現在でも「明石元二郎」の名前を知らない人が多いのは、そんな理由なのかな。 僕も彼の名前を改めて確認したのは、香椎宮クスノキ参道の入り口にあったと言う、豪華な「明石邸」の話を聞いてからだ。 しかし、その「明石邸」の話も元二郎からは少しずれている感じがするので、今後のブログシリーズで確認したい。
元二郎は、最後に第7代台湾総督を務め、陸軍大将にまで上り詰めている。 亡くなった地も福岡なので、今回のブログシリーズは地図による生誕地と終焉地の確認からスタートしたい。
現在の福岡市内福岡部 福岡藩上級藩士の屋敷が並んでいた天神~赤坂門近辺
(地図はマピオンを利用しています)
明治の功労者は何処の藩でも下級藩士の出身が多いが、明石元二郎の生家は福岡藩の上級藩士の屋敷が続く中にあった。 元治元年(1864年)8月1日、元二郎が生まれた屋敷は●印・・・現在のアクロスです。 そして、大正8年(1919年)10月26日、55歳で亡くなった場所は●印・・・現在の西鉄グランドホテルです。 ※は中央区役所。
1812年に書写された「福博古図」で上記の場所を確認
(海鳥社発行 「古地図の中の福岡・博多」を利用しています)
元二郎は台湾総督を務めていた大正8年(1919年)10月、公務による一時帰国の船の中で倒れ、途中の福岡で下船した。 重篤治療を受けたが、脳出血で大名町の松本健次郎別邸(●印)で逝去した。 松本健次郎は安川敬一郎の二男で、父と共に安川財閥を創り上げ、技術者養成のための九州工業大学前身を設立するなど、実業家として知られる。 当時、明石元二郎の実家(生家)は既に無かったので、この別邸が利用されたのだろうと思う。
↑ 江戸時代幕末期、ここは上級藩士・間島甚左衛門の屋敷でした。 1812年頃の福博地図では、数代前の間島十郎太夫となっています。 戦後、松本健次郎別邸の跡地に西日本鉄道の本社が建ち、現在は西鉄グランドホテルになっている。 12歳で福岡を発ち、生涯の殆どを異境の地で過ごした元二郎が最後を福岡で迎えられたことは、何かの因縁だったのか。
最初に元二郎の終焉の場所を確認してしまいました。 これから、福博古図で生誕の場所を詳しく確認して行きます。 実は上級藩士の屋敷の中で、明石姓は3ヶ所確認出来ます。 ●印が元二郎が生まれた明石家・・・他に、●印と●印の明石家があります。 福岡藩の中では「明石三家」と呼ばれていて、江戸時代初期の同じ祖を持つ同血族です。 内一つの屋敷が大名町(●印)にありましたから、このことが「元二郎の生誕地は大名町」と惑わせたのではないかと思われます。
↓ 明石元二郎が生まれた明石屋敷(●印)
↑ 画像上段に、中洲に架かる木造の西中島橋が見える。 この橋によって福岡部と博多部に分けられていた。 福岡側に枡形門があって、通行人はここでチェックを受ける。 北門は唐津街道へ抜け、南門を抜けると直ぐに水鏡天満宮が鎮座していて、その角を右折すると天神町に入る。 ここから大名町まで続く上級藩士の屋敷を抜けて、お城の上ノ橋門と下ノ橋門へと至る。 薬院新川に築かれた石垣は警護の堅さを感じさせてくれる。 天神町の一番手前に明石家の屋敷●●が二つ続くが、二つは、どちらとも分家に当たる。
↓ 本家の明石家(●印)は大名町にある。 ※印が現在の中央区役所の位置になり、通り(明治通り)の向かい側の屋敷は文字が逆になっていて読みにくいが、●印は明石十左衛門の屋敷と書かれている。 元二郎の生家が大名町とされた勘違いは、うなずける。
↑ 明石本家の右隣は、8月のブログ「飯田覚兵衛と大銀杏」で紹介した飯田家の屋敷だ。
飯田家も明石家も黒田藩に召し抱えられたのは、関ケ原の戦い前後で比較的に新しい。 それなのに両家とも上ノ橋御門に近い一等地に屋敷が与えられているのは何故だろう。 飯田家については、前のブログを読んでもらうとその理由が解ると思う。
明石家については、もっと黒田家との関係が深い。 もしかしたらご先祖様の家格は、黒田家よりも明石家の方が上かもしれない。 その辺りのことや、元二郎の幼少の頃、またヨーロッパでスパイ活動をしていた頃の福岡出身人物との関係を、今後のブログで触れたい。
「明石元二郎 ⑧ 日本のスパイ活動と香椎の明石邸」に続く。
■ 参考資料 「情報将軍 明石元二郎」 著者:豊田穣 光人社 発行
「明石元二郎 上・下巻」 著者:小森徳治 台湾日日新報社 発行
■ 使用古地図 「古地図の中の福岡・博多」 福岡アーカイブ研究会 海鳥社
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