明石家は藤原家の末裔で、黒田家と姻戚関係

明石 元二郎 ① 日露戦争を勝利に導いた福岡の男」の続きです。

 

明石 元二郎(あかし もとじろう)は、幕末の元治元年(1864年)8月1日、福岡の天神で生まれ、陸軍士官学校・陸軍大学を優秀な成績で卒業し、日露戦争時は欧州内でスパイとして活躍し、往年は陸軍大将、そして台湾総督まで上り詰めた。 

明石 元二郎(あかし もとじろう)

 

元二郎が生まれた福岡黒田藩の明石家とはどんな家柄なのか? 上級藩士が住む天神赤坂(大名)地区に「明石三家」があった。

 1812年に書写された「福博古図」で「明石三家」の場所を確認すると、印が本家、印と印が分家で、印が元二郎が生まれた明石家になる。 現在、アクロスが建っている場所だ。  は現在の福岡市役所中央区役所の場所を示す。

(海鳥社発行 「古地図の中の福岡・博多」を利用しています)

 

そもそも、黒田24騎の中にも名前が見えない明石本家が、何故大名町の一等地に屋敷を構えているのか・・・

 エクセルで次の家系図を作成したので、この資料で明石家の歴史、黒田家との関係を少し説明したい。 福博地図当時の明石三家当主名の蘭は、地図上の印の色で網かけして分けている。

 

 

明石家の先祖を遡ると、奈良・平安時代に栄華を極めた藤原一族に辿り着く。 鎌倉時代後期、藤原鎌足(中臣鎌足)から18代目の藤原家良は、西国・淡路島・四国への交通の要所である播州明石に移り住み、明石姓を名乗った。 藤原家良=明石家良が明石家の始祖となる。 

 

江戸時代になって、黒田家の家譜が編纂された。 それによると、黒田家の祖は近江北部の佐々木源氏におよぶようであるが・・・戦国時代の下剋上で伸し上がってきた大名の家系図は脚色が多いと聞いている。 藤原一族はしっかりした系図が残っているので、もしかしたら、先祖の家格は明石家の方が上かもしれない。

 

黒田家の祖が近江を出て、備前福岡(岡山県東部)を経て播州姫路に落ち着いたのは、黒田官兵衛の祖父・黒田重隆(しげたか)の時代だ。 播州での勢力を拡大していた小寺氏に仕え、重隆の嫡男・黒田職隆(もとたか=官兵衛の父)の時に姫路城を預かり城督となった。 その頃の明石は、始祖から五代目の明石正風が山城(明石枝吉城)を築き治めていて、同じく小寺氏に仕えていた。 明石家と姫路黒田家の地図上での位置関係を確認しておきたい。

 

(地図はマピオン利用)

 

姫路城明石枝吉城の距離は約30km。 黒田職隆(もとたか)が小寺家から姫路城の城督を任せられた頃、職隆(もとたか)は小寺家の仲人で妻を娶った。 明石正風の二女・岩姫(いわひめ)で、官兵衛(長男・万吉)の母となる。 ここで、黒田家と明石家に姻戚関係が生じる。 岩姫は官兵衛(万吉)が13歳の時に28歳で亡くなっているので、官兵衛の嫡男で初代福岡藩主・黒田長政は祖母の顔を知らない。 

 

時が経ち、秀吉に仕えた黒田官兵衛は軍師として出世し、豊前中津に封じられた。 戦国時代なので世情は慌ただしく動いていて、播州の明石安正(黒田家に嫁いだ岩姫の弟で四男)は宇喜多秀家に仕えていた。 文禄元年(1592年)、文禄の役が始まると明石安正宇喜多家に従い朝鮮半島へ出征した。 ところが、宇喜多秀家は戦果を上げることが出来ず、豊臣秀吉の非難を浴びる。 明石安正はその責任をとって切腹したのである。 明石安正が息子(安行)に残した遺言状には「宇喜多家には仕えず、黒田家を頼れ」と書いてあった。

 

朝鮮の役が終わり、明石安行は父の遺言通り家族を伴って豊前中津黒田家を頼った。 官兵衛は母方の親族である明石安行を快く迎え入れた。 隠居した官兵衛如水に替わり長政が黒田家の当主となり、関ケ原の戦いで家康に認められ、筑前52万石の福岡藩初代藩主となった。 明石安行の家族も一緒に中津から福岡に移り、大名町の印に禄高千石で屋敷が与えられた。

 

寛永14年(1637年)、二代藩主・黒田忠之の時に「島原・天草の乱」が勃発する。 明石安行も老体に鞭打って出陣するも戦死。 代わりに三人の息子たち(長男正利・二男行光・三男安貞)が大奮闘した。 後日、二男、三男も分家が認められ、天神に千石の禄高と屋敷(印、)が与えられた。 特に三男の安貞印)は敵の侍大将の首を取ったことから、千三百石に加増された。 福博古図には、家臣名の横に禄高が記されている・・・「明石三家」では長男(印)と二男(印)の家が千石で、三男(印)は千三百石となっている。

(海鳥社発行 「古地図の中の福岡・博多」を利用しています)

 

分家した三男・安貞から十代目が明石貞儀(ただのり)で幕末動乱の時代を迎えていた。 陸軍大将・明石元二郎は元治元年(1864年)8月1日、貞儀(ただのり)と妻・秀子の二男として生まれた。

 

父・明石貞儀(ただのり)は、元二郎が生まれた2年後に29歳で自害(切腹)している。 何故なのか、自害の理由が書かれた記録は残っていない・・・貞儀(ただのり)は筑前勤皇党との関わりがあったらしいので、乙丑の獄(勤皇党処罰)に属していたのかもしれない。 25歳で未亡人となった秀子は、幼い長男・(5歳)と次男・元二郎(2歳)を連れて浜の町の実家(吉田家)に戻り明治を迎えるが、苦しい生活を強いられた。

 

 

明石元二郎 ③ 大名小学校から東京へ」 

明石元二郎 ④ 明治を突っ走った福岡の同胞」 

明石元二郎 ⑤ 欧州での諜報工作活動」   

明石元二郎 ⑥ 台湾総督と陸軍大将」   

明石元二郎 ⑦ 福岡出身の元二郎を偲ぶ」 

明石 元二郎(あかし もとじろう) ⑧」に続く。

 

 参考資料 「情報将軍 明石元二郎」 著者:豊田穣 光人社 発行

                    「明石元二郎 上・下巻」 著者:小森徳治 台湾日日新報社 発行

 使用古地図 「古地図の中の福岡・博多」 福岡アーカイブ研究会 海鳥社

 この本が一冊あると楽しいヨ!

 

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