黒田長政と加藤清正と飯田覚兵衛

福岡市中央区役所前の明治通りを挟んで左向いに、地上24階のマンション(プレミスト天神赤坂タワー 印)が建っている。

 西鉄グランドホテル  大名ガーデンシティ(リッツ・カールトン) 中央区役所 (地図マピオン利用)

 

この「プレミスト天神赤坂タワー 印」の場所を、江戸時代後期(1812年頃)の福博古図で確認する。

 通りの向かい側は文字が逆さまになっているので、この近辺を拡大し180度回転させる。

 

印の場所は、「二千五百石、飯田太郎左衛門、入三十間」と読める。  江戸後期は飯田太郎左衛門の屋敷で、飯田家は禄高二千五百石。 この一帯は上級藩士の屋敷が続くが、他は千五百石や千石前後なので、飯田家は特に高い禄高だと分る。 入三十間とは屋敷の奥行で、三十間=54mとなる。 明治通りとなる道路側にも屋敷幅が三十間と書かれているので、この屋敷の広さは、54m×54m=2,916平方メートル(㎡)=約880坪となる。

 

この屋敷跡に建てられている現在のマンション(プレミスト天神赤坂タワー)の、入り口左側明治通りに面して、「保存樹」と書かれた銀杏の大木がある。 

 

7月下旬に撮った写真で、緑色の銀杏(イチョウ)の葉が生い茂っている。

 大木と思ったが、背丈はそんなに高くない。

 

 葉が茂って幹が良く見えないので、冬に撮った写真で見てみると・・・

 

幹は大きくて、古木だとは判る。 樹齢400年と言われていて、老齢による腐朽が進んでいた。 福岡市はこの銀杏の木を保存樹に指定し、現在、再生治療を行っている。 再生治療の方法も興味があるが・・・まずは、この「銀杏の大木」から歴史浪漫を膨らませたい。

 

 

横に建つ説明石碑に以下のように書かれている・・・この地は江戸時代初期黒田藩家臣となった飯田覚兵衛直景(かくべいなおかげ)を祖とする代々飯田家の屋敷。 覚兵衛は肥後熊本の国守・加藤清正公の重臣であったが、清正公が亡くなり、加藤家が改易になった時に福岡の黒田長政公に召し抱えられた。 この大銀杏は清正公を偲んで、覚兵衛が熊本城から苗木を運んで移植したもの・・・以来この場所で約400年間、大名町で起きた歴史の数々を年輪に刻んできた。 大正時代に飯田家の屋敷跡に、炭坑経営で成功した中野徳次郎が建坪400坪の豪邸を建てたが、銀杏の大木は伐採されることなく残された。 

 

大よその事は解ったが、これだけでは不思議に思う点もある。 飯田家の始祖・覚兵衛直景(かくべいなおかげ)が、この屋敷に移植した銀杏が現在も同じ場所にあると言うことは・・・飯田家は江戸初期から明治まで、一度も屋敷を移動していないことになる。 藩主が変わる度に、一般的には家臣の屋敷も変わる事が多いのに・・・。 飯田覚兵衛が長政に召し抱えられたのが、慶長17年(1612年)。 よって、長政の精鋭家臣団「黒田24騎」の中には、飯田の名前は見えない。 なのに、江戸時代後期の飯田太郎左衛門の時代になっても、他の上級藩士よりも禄高が高い。 

 

これらの不思議は、飯田家の始祖・覚兵衛直景(かくべいなおかげ)と言う武将の浪漫を紐解いて行けば解るのではないか・・・。 加藤清正とその家臣だった飯田覚兵衛、この二人と黒田長政との間は、強い糸で繋がっていたに違いない。

 

 飯田覚兵衛直景(いいだ かくべい なおかげ)

僕たち福岡の人間は、黒田如水公長政公親子に仕えた忠義の士として、母里太兵衛栗山善助を良く知っている。 同じように熊本県民に、加藤清正公に仕えた重臣として一番に名が挙がるのが飯田覚兵衛直景(かくべいなおかげ)なのだ

 

話は約450年前の戦国時代まで遡る。 

秀吉(木下藤吉郎)は信長から羽柴秀吉と呼ばれる頃から出世が始まる。 秀吉は従僕(家来)が必要になった時に、同郷出身の三人の少年を引き取り養っていた。 三人とは後の名で、加藤清正飯田覚兵衛森本義太夫の同じ歳の幼なじみだった。 秀吉に仕える段階で、この三人の幼なじみは清正が親分で覚兵衛義太夫が子分だ、とお互いの取り決めに従っていた。

 

この幼なじみの主従関係の在り方は、中国三国志に於ける(しょく)国の劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)の「桃園の誓い」に似ている。 彼らは酒を飲みながら義兄弟の誓いを結び、生死を共にする主従関係になった。  清正覚兵衛義太夫の場合は、相撲をとって勝った清正が親分となったようだ。 後に脚色したような話にも聞こえるが・・・ただ、清正が一国一城の城主になってからも、この関係は崩れていない。 加藤清正にとって飯田覚兵衛森本義太夫の二人は最も信頼できる家臣であるが、その前に友であった。

 

さて、

戦国時代や幕末維新のような大きな歴史の流れの中では、「その時、そこで~~だったから、歴史が変わった」と言う場面がある。 その後の歴史に登場する人物も大きく変わってくるのである。 戦国時代に於いて、「その時、歴史が変わった」大きな場面の一つは「本能寺の変」ではないだろうか?

 

 二人の武将の博多人形がある。 二人は誰で、どんな場面なのか?

 左は秀吉で、毛利勢の備中高松城を攻めている最中に、京都本能寺の悲報が届いた。 信長の死を悲しんでいる。 隣に座っていた黒田官兵衛が言った。 「悲しんでいる場合ではありませぬ。 直ぐに光秀を討ちに軍を返しましょう。 殿が天下人となる好機をお見逃し無きよう」 

 

軍師・官兵衛の凄さはここにある。 秀吉光秀を討ち取った時から歴史が変わり始めた。 織田軍団の中でも柴田勝家は秀吉に反抗したが、有名な「賤ケ岳の戦い」で勝利し、天下人へ近づき出した。 「賤ケ岳の戦い」で活躍した「七本槍の武将」の一人として、初めて加藤清正の名が登場する。 その後の、彼の見事な戦いぶりは、良く語られる。 しかし、その脇で、清正を超す猛烈で彼を助けていたのが、飯田覚兵衛森本義太夫だった。 

 

加藤清正の活躍と共に、飯田覚兵衛森本義太夫も語られることが多くなった。 「虎退治」で槍を持った加藤清正が有名だが、その清正を生涯に亘って守り支えた飯田覚兵衛の方が槍術には優れていた。 秀吉が徳川家康に勝利した「小牧・長久手の戦い」でも、清正・覚兵衛・義太夫の三人は暴れまくった。 天正15年(1587年)の九州島津征伐をもって、秀吉の天下取りは完了する。

豊臣秀吉

 

各地を転戦し武功を挙げた加藤清正を、秀吉は大いに褒め、肥後北半国(熊本)を領主として封じた。 秀吉は薩摩島津を制して天下統一を成し遂げたが、それでも島津の動きを危惧していた。 島津の見張りの為に、信頼する加藤清正を肥後(熊本)に封じたのである。 明治政府が西南戦争後に、鹿児島を見張るために熊本に軍事拠点を置き、九州郵政局など主要な出先機関を置いたのと同じです。 

 

清正覚兵衛義太夫の三人は、初めての国治めを喜んだ。 入国後、直ぐに治水・土木工事、道路の整備に取り掛かり、領民の信頼を勝ち得た。 現在でも「清正公(せいしょうこう)さん」の愛称で親しまれる所以がここにある。 特に治水・土木工事を率先して担当したのが、飯田覚兵衛だった。

加藤清正

 

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後も、家康から肥後一国を拝領し、清正は五十四万石の大大名になった。 熊本城は元々は山城だったが、本格的な築城に取り掛かった。 黒田長政時代の福岡藩の築城名人と言えば、普請奉行の野口左助母里太兵衛だが、熊本藩で普請奉行として一番に名が挙がるのは飯田覚兵衛だった。

 

 飯田覚兵衛が築いたと言われる「百間石垣」。 熊本城北側の重要な守りとして築かれた。

 

 熊本地震のニュース報道で「奇跡の一本石垣」として紹介された櫓がある。 加藤清正が「飯田丸」と名付け、飯田覚兵衛の名が残る。 覚兵衛が護りの要として特に力を入れて築いた。 現在、「飯田丸」は大林組によって復旧工事が進んでいる。

 

 現在の熊本城天守閣から撮った写真。 右側の本丸御殿の前に大きな銀杏の木が見える。 清正公は、「銀杏の実は籠城の時の食糧になる」として、城の各所に植えた。 熊本城は別名、「銀杏城」とも呼ばれる。

 

慶長16年(1611年)、加藤清正が病気???で死去。 加藤家が改易となった後、清正公の盟友と言われた福岡藩の黒田長政は、飯田覚兵衛を客人として迎え入れた。 実は長政と覚兵衛は20年以上前からの知り合いだった。 その話は、次回のブログで・・・。

黒田長政

 

幕末まで同じ屋敷で代々ほぼ客人として扱われてきた飯田家の始祖・覚兵衛という人物が凄い。 彼が心から仕えた清正公を偲ぶために移植された銀杏の木は、黒田藩代々藩主からも大切に扱われてきたことが分かる。 当然、福岡市もこの銀杏の木を保存樹に指定し、再生治療を行っている。

 

 参考文献 「古地図の中の福岡・博多」 海鳥社

 

飯田覚兵衛と大銀杏 ②」に続く。

次回は、飯田覚兵衛と加藤清正公との親密な主従関係、文禄の役に於ける福岡藩と熊本藩の連携プレー、そして保存樹に指定された大銀杏の再生治療に触れたい。

 

 

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