黒田長政・加藤清正・飯田覚兵衛と亀甲車

飯田覚兵衛と大銀杏 ① 加藤清正と熊本城」の続きです。

 

加藤清正飯田覚兵衛は永禄5年(1562年)生まれの同じ歳で幼なじみ。 黒田長政は永禄11年(1568年)生まれなので、清正・覚兵衛より6歳年下になる。 長政の初陣は14歳で、父・官兵衛の中国毛利攻めに従っている。 天正11年(1583年)、15歳の時の賤ケ岳の戦いで功を挙げた。 この賤ケ岳の戦いの時、七本槍の一人として認められた加藤清正やその家臣の飯田覚兵衛は21歳で、長政と出会ったのはこの時だろう。 黒田長政加藤清正は、その後も秀吉の命に従い、各地を転戦する。 島津征伐を終えて天下統一を果たした秀吉は、二人の戦いぶりを認め、長政には豊前中津に12万石、清正には肥後北半国に19万石を与えた。 この頃から長政と清正は、お互いを認め合う盟友となって行く。

 

長政と清正が共同で城を攻略した戦があった。 「文禄の役 第二次晋州城の戦い」と言う。 「第一次晋州城の戦い」も含めて、日本ではあまり触れない。 理由は後で・・・。

 

 文禄の役 第二次晋州城の戦い 

文禄元年(1592年)の春、唐津の名護屋城から秀吉の朝鮮侵略が始まった。 黒田長政24歳、加藤清正30歳の時であった。 一番隊から八番隊まで総勢16万が対馬海峡を渡った。 一番隊の小西行長は釜山上陸後、わずか20日で李氏朝鮮の都・漢城(ソウル)まで攻め込んだ。

文禄の役 第三軍までの侵攻コース 

 

漢城(ソウル)で一番隊の小西行長と二番隊の加藤清正・三番隊の黒田長政は合流したが、半島東部を担当した清正は本体と離れ、ロシア国境近くまで北上した。 黒田長政と小西行長は四番隊以降の部隊と連携を取りながら、平壌を攻略した。 上陸から2ヶ月後だった。 しかし、明国の援軍4万が朝鮮軍と合流すると、徐々に形勢が悪くなって来た。 

 

形勢悪化の理由はもう一つあった。 日本軍は進軍ルートの南西側をあまり注視していなかった。 慶尚南道に頑強な晋州城(チンジュソン)があって、ここに駐留している朝鮮軍が、日本軍の補給部隊を度々襲ったのである。 補給路を遮断された日本軍は食料で苦しんだ。 そのことを聞いた秀吉は、細川忠興に九番隊を編成させ、2万の軍勢で晋州城攻撃を命じた。 これが「第一次晋州城の戦い」である。 晋州城は平壌城に勝るほどの堅城で、容易に攻略出来ない日本軍は、背後から義兵(自警団)らの攻撃も受け退却した。 この戦いによって明軍・朝鮮軍は勢いづき、日本軍は徐々に追い詰められていったのだ。

豊臣秀吉

 

劣勢が認められるようになった日本軍の小西行長は、明国・朝鮮国と講和交渉に入り、釜山まで撤退して休戦とする案を提出した。 秀吉はしぶしぶ了承したが、一つだけ我慢ならないことがあった。 晋州城の一件だ。 後々の為に、休戦の前に晋州城を完全に落とすことを命じた。

 

漢城(ソウル)から釜山へ撤退する途中で、4万人規模の第二次晋州城攻撃隊が編成された。 黒田長政加藤清正は、話し合って一番隊に名乗りを挙げた。 二人は共に晋州城への一番乗りを果たそう、と話し合ったのだ。 「第二次晋州城の戦い」が始まった。

 

晋州城には、朝鮮軍兵7千人の他に、晋州近辺で蜂起した義兵(自警団)と商人や百姓ら民間避難民1万3千人、計2万人が立て籠もっている。 日本軍は二番隊、三番隊の部隊もそれぞれ担当方角から攻撃を加えるが、石垣に近づくと弓矢や投石、熱湯などで反撃され、頑丈な石垣を越えることが出来なかった。 

晋州城(復元)

 

長政清正は話し合って、其々から大将クラスの武将を選出し、特別攻撃隊を編成することにした。 攻撃方法については彼らの意見を充分に取り入れた。 選出された武将は、黒田陣営から母里太兵衛後藤又兵衛、加藤陣営からは飯田覚兵衛森本義太夫の4人だった。 4人は早速、現状打破の策を練り、石垣の上からの攻撃を防ぐ装甲車(後に亀甲車と呼ばれた)を考案した。 

亀甲車

(画像はH/P”歴史マガジン”さんからお借りしました)

頑丈な板で箱型の車を造り、屋根は固い板を重ね、その上に牛皮を何枚も張り重ねると強度が増す。 それらに鉄鋲を打って、更に頑丈にする。

 

亀甲車の中に兵士が乗り込み、石垣に近づく。 上からの弓矢・投石・熱湯を防ぎながら、亀甲車の中から兵士が、大きな鉄棒槍で石垣を壊していくのだ。 この作業を昼夜繰り返し、とうとう北側の城壁に穴を開けた。 その瞬間、4人の武将が一番乗りを競って城の中に突入した。 一番乗りは武将にとって名誉なことであり、その一番乗りは、黒田家に関する資料では後藤又兵衛、加藤家の資料では飯田覚兵衛となっている。 これでは、どちらが一番乗りだったかは確認できない。 おそらく、二人がほぼ同時に突入したのだろう。 勝利の夜、長政と清正は4人の武将を呼び、陣幕の中で祝いの酒宴を開いたのではないだろうか。 以後、黒田家加藤家は家臣も含めて親しい関係が続く。

 

この「晋州城の戦い」について、特に「第二次晋州城の戦い」について、日本では書籍や解説書に詳しく触れられていない部分がある。 晋州城に立て籠もった朝鮮軍兵士と義兵を含む民間人2万人は、秀吉の命により一人残らず殺されている。 日本軍における虐殺の事実を歴史の中に残さないように・・・だと思う。 でも、事実は事実で、この時の日本軍に限らず、中世までの戦争はローマ軍・モンゴル軍など、どの戦いも同じだった。 慶長の役で戦いが再開されたが、秀吉の死によって日本軍は退却し、戦争は終了した。

 

文禄・慶長の役には石田三成も半島に渡っている。 その間、黒田長政加藤清正の二人と三成の間には確執が生まれていた。 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、長政と清正は三成を嫌って徳川側の東軍に付いた。 東軍の勝利によって、家康から長政には筑前国、清正には肥後国が与えられ、二人は大大名となる。 この時、黒田長政は32歳、加藤清正は38歳。 清正は築城中の福岡城を見学に来るなど、二人の盟友関係は更に深くなっていた。

黒田長政

 

慶長11年(1606年)、江戸城拡張のため、各大名に天下普請が命じられた。 この時福岡藩から母里太兵衛、熊本藩からは飯田覚兵衛の築城名人が江戸に向かっている。 二人は「晋州城の戦い」での戦友であり、江戸城で、懐かしい武勇談を肴に酒を飲み交わしたのだろう。

 

関ケ原の戦いで、徳川家康に認められた長政と清正であったが、二人には違いがあった。 黒田長政は軍師・官兵衛の嫡男として豊臣家家臣になったが、加藤清正は少年期から秀吉に育てられた子飼いの家臣だった。 清正は、特に豊臣家に対する忠義の想いが強い。 

 

征夷大将軍の職を二代目・秀忠にゆずった家康にとって、最も大きい不安材料は、秀吉の嫡男・大阪城の豊臣秀頼の存在だった。 家康には、豊臣家を完全に消滅させるまでの手順が綿密に練られていた。 その流れの一つが、「二条城の会見」。 慶長16年(1611年)3月、家康は京都の二条城に秀頼の参上を要求し、秀頼に対して臣従の姿勢を求めたのである。 秀吉の嫡男・秀頼の身に何か起こってはいけない・・・加藤清正は秀頼が二条城に入る前から、秀頼の傍らに控えた。 清正は食事の時も秀頼から離れることは無かった。 会見は無事に終わった。

加藤清正

 

二条城の会見」を終えて、・・・清正にとっては秀頼の護衛を終えて、大阪から船で帰国の途に就いた・・・しかし 清正は、その船の中で発病し、熊本で息を引き取った。 49歳だった。 病死ではなく、毒による暗殺とする説がある。 その可能性が高い。 清正は「二条城の会見」で秀頼の身に何か起こった時に備えて、飯田覚兵衛と100名の兵を町民に変装させ待機させていた。 それが徳川側に知れたのだろう。 清正には嫡子がいたが、結局は改易となった。

 

黒田長政は盟友の死を悲しんだ。 長政は一方で不安を覚えた・・・徳川幕府は黒田家と加藤家の親交が深いことを知っている。 黒田家にも疑いの手が伸びて来るかもしれない。 長政は従順の気持ちを示すために竣工したばかりの天守閣を壊した(僕の仮説)。  その後、改易の事後処理を終えた飯田覚兵衛を長政は客人として福岡に迎え屋敷を与えた。 長政にとって、覚兵衛は清正と同じく戦友であった。 覚兵衛は清正を偲ぶために、熊本城から銀杏の木を持ち込み、屋敷に植えた。 その銀杏の木が400年を経ても大名町で葉を茂らせている。 清正の魂が宿っているようにも感じる。

大名町 旧飯田屋敷の大銀杏

 

黒田長政加藤清正、そして飯田覚兵衛との人間関係・・・うっちゃんの仮説も少々含まれていましたが、大よそ、理解頂けたでしょうか。 

そんなことで、昭和47年(1972年)、福岡市はこの銀杏の木を「保存樹」に指定し、「再生治療」を行うことにしたのです。

再生治療解説

 

① 朽ちつつある大木の枝は、崩落の危険性が高いので剪定する。

② 幹の空洞部に同じDNAの銀杏の苗を植栽する。

③ 土壌を改良して、「ひこばえ」を育成する。

  「ひこばえ」とは、「孫生え」の意味で、根本から生えてくる若芽のこと。

④ 徐々に古い幹を撤去していく。

 

ひこばえ」を大きく育成し、再生治療の完成は、50~60年後らしい。

僕が、その姿を見ることは出来ないが、孫や曾孫が見れる。 それを想像すると嬉しい気分になる。 その為にも、熊本藩の飯田覚兵衛と福岡藩のつながりを、歴史として伝えていかねばならない。 これを「浪漫」と言うのではないだろうか。

 

 

うっちゃんの歴史散歩

香椎浪漫トップページ

 

飲酒運転を撲滅しよう!