福岡藩の人材が凄かった  

明石元二郎 ① 日露戦争を勝利に導いた男

明石元二郎 ② 黒田藩明石家の系図」   

明石元二郎 ③ 大名小学校から東京へ」 の続きです。

 

陸軍大将・明石 元二郎(あかし もとじろう)は、幕末の元治元年(1964年)8月1日、福岡藩の天神で父・明石貞儀(ただのり)と母・秀子の次男として生まれた。 満2歳の時、父・貞儀が自害して果てた後は母・秀子に育てられた。 明治9年(1876年)12歳の時、元福岡藩出身で海軍兵学校で学ぶ石田五六郎の薦めで、軍人になるべく上京することを決める。

 

明石 元二郎(あかし もとじろう)

 

海軍の石田五六郎に従って上京した元二郎が、陸軍大将にまで昇進したのだが、何処で海軍から陸軍へ気変わりしたのか・・・? その理由は上京の旅路にあった。 博多から大阪までは海路、大阪から東京へは陸路を取る。 この旅程は江戸時代中期の頃からあまり変わっていないが、元二郎にとっては初めての船旅であり、船酔いに相当苦しんだ。 海軍を避けて陸軍へ進んだのは、この時の船酔い苦痛が原因だと言われている。 

 

石田五六郎は元二郎の東京での遊学中の滞在を、元福岡藩勘定奉行だった團 尚静(だん なおきよ)に頼んでいた。 元二郎は数年後、この上野のの家で、後の三井財閥の総帥となる團 琢磨(だん たくま)と面会することになる。 團 琢磨(だん たくま)も福岡藩出身で、團 尚静(だん なおきよ)の養子であるが、この頃は米国のマサチューセッツ工科大学に留学中であった。

團 琢磨(だん たくま)

 

年が明けた明治10年(1877年)、明治政府との意見の食い違いから西郷隆盛が鹿児島で決起したことが西南戦争につながる。 この年、元二郎は陸軍士官学校に幼年生徒として入学する。 自分が西郷隆盛と同じ陸軍大将まで上り詰めるとは、この時点では夢にも思わなかっただろう。

 

明治11年(1878年)9月、米国留学を終えた 團 琢磨(だん たくま)が上野の邸に戻って来た。 元二郎は初めて團 琢磨に挨拶した。 その時、團 琢磨は同じく福岡藩出身でハーバード大学で学んだ金子堅太郎を連れて来ていて、元二郎に紹介した。 二人は元二郎よりも幾つも年上だったが、米国帰りの垢抜けした秀才の雰囲気に、元二郎は何かに目覚めたような気がした。

金子堅太郎

金子堅太郎はその後、伊藤博文の元で明治憲法の起草に取り組む。 後年の日露戦争時、明石元二郎が欧州で諜報工作活動によってロシア国内をかく乱している頃、金子はハーバード大学の同窓だったルーズベルト大統領を訪ね、日本支持を得て、戦後のポーツマス講和条約を有利に動かした。 金子は邸での明石との初対面のことを覚えていて、後年、手記にその事を記していた。 以後、元二郎は金子を兄事して親しくなる。

米国留学中の福岡県(藩)出身者

 ボストンにて、左 團 琢磨、中央 金子堅太郎、右 栗野慎一郎の三人。

 

栗野慎一郎は福岡藩槍術師範の家に生まれ、團や金子よりも数年遅く米国留学(金子と同じくハーバード大学)に出発していて、三人は現地で親交を深めた。 栗野慎一郎は帰国後、外務省へ入部し、駐アメリカ公使を経て明治30年(1897年)、駐フランス公使として赴任する。 

栗野慎一郎

栗野慎一郎は駐フランス公使の時、陸軍参謀本部からフランス公使館付陸軍武官として派遣された明石元二郎とパリで面会している。 明治34年(1901年)、栗野が駐ロシア公使となった時も、元二郎は陸軍武官として一緒に移動した。 日露戦争の終結まで、明石元二郎の諜報(スパイ)活動を現地で直接支援していたのが、福岡同郷の栗野慎一郎だった。

 

 余談だが・・・僕の祖父は現在の東区馬出に住んでいたので、父は当時の馬出尋常高等小学校を卒業している。 その父の卒業表彰状は、晩年 子爵位を授かっていた栗野慎一郎から贈られていた。 僕は、この後、十数年後に生まれた。

 栗野慎一郎は昭和12年11月15日、87歳で死去しているので、その前年のことになる。 福岡藩出身なので、福岡県の発展に尽力されていたのだと思う。 父が亡くなった10年前、実家の押し入れから出て来た。

 

 

少し話が逸れてしまった。 明治16年(1883年)12月、元二郎は19歳のとき、第6期陸軍士官生を卒業し陸軍少尉となる。 

 陸軍少尉進級に際し、自ら新橋の写真館に出向いて記念の写真を撮る。好青年だ。

 

この時の56名の同期生から将来の大将クラス幹部が4人出ていて、内3人が福岡出身であった。 明石元二郎(台湾総督・陸軍大将)、仁田原重行(近衛師団長)、立花小一郎(関東軍司令官)の3人である。

立花小一郎は福岡の出身であるが、福岡藩では無く三池藩で生まれた。 つまり、柳川立花藩の繋がりになる。 明治43年(1910年)の日韓併合時に、明石元二郎とはソウル(京城)で一緒に仕事をすることになる。

陸軍士官学校

 

明治20年(1887年)、元二郎23歳の時、陸軍大学に入校し、明治22年卒業。 明治24年(1891年)、参謀本部付を命じられ、陸軍大尉に進級。 参謀本部の川上操六(薩摩藩出身)に認められ、出世コースを歩み始める。 明治28年(1895年)31歳の時、陸軍少佐に進級。 その間、元二郎は結婚し、ドイツ留学を終え、日本は日清戦争に勝利して台湾は日本の領土になっていた。 

 

川上操六は日清戦争の事実上の作戦指導者だった。 その川上が鹿児島弁で元二郎に説いた。 「日清戦争後、ロシアの朝鮮半島に対する野心がはっきり見えて来た。 近い将来、ロシアと戦う日が来るだろう」 川上操六明石元二郎に、ヨーロッパに赴いてロシアの事情を探ってくれないか、と頼んだ。 元二郎は、川上操六の世の中の動きを見る天才的な能力に感服していたので、自分を選んでくれたことに感謝し喜んで引き受けた。

 

明治34年(1901年)、中佐に進級していた明石元二郎はフランス公使館付武官を命じられパリに赴任する。 この時のフランス公使が、團 琢磨金子堅太郎の親友である福岡藩の栗野慎一郎だった。 栗野は團と金子から「同郷の明石元二郎が来るから宜しく頼む」と連絡を受けていた。 元二郎は早速諜報活動を開始した。 明治35年(1902年)、栗野がロシア公使としての転任に合わせ、元二郎も武官として公使館のある首都ペテルブルグに移った。 明治37年(1904年)2月、日露戦争がはじまると、栗野慎一郎明石元二郎は公使館を当時中立国だったスウェーデンストックホルムへ移動させた。 元二郎はロシア国内をかく乱するために、本国から送金された資金で本格的な情報収集と工作活動に入った。

 

この頃の重なる話をする。 明治34年頃と言えば、福岡出身で近代演劇の祖と言われる川上音二郎(かわかみ おとじろう)の絶頂期で、妻の女優・貞奴(さだやっこ)と共にヨーロッパ中を巡業公演していた。 貞奴は伊藤博文が寵愛していた芸子で、音二郎貞奴の結婚媒酌人を金子堅太郎が伊藤から命じられている。 金子堅太郎音二郎たちのヨーロッパ公演がスムーズに進むよう、準備・宣伝・巡業設営をパリの栗野慎一郎に頼んだ。 

音二郎と貞奴

僕はこれらの事から、音二郎たちが巡業中に各地で情報収集も担っていたのではないかと思っている。 栗野慎一郎は欧州の政府要人達に、人気の音二郎貞奴(さだやっこ)を紹介した。 つまり、音二郎も準スパイ活動をしていたのだと思われる。 明石元二郎はそれらの情報を何らかの方法で聞いていた筈で、元二郎音二郎が現地で密会していた事実はあるようだ。

 うっちゃんのブログ  「川上音二郎 ① 」~「川上音二郎 ② 

 

福岡を拠点としていた政治結社に「玄洋社」がある。 自由民権運動に発した「玄洋社」は、後に、大アジア主義を唱え、ロシアの朝鮮半島南下を危惧していた。 「玄洋社」の中心人物・頭山 満(とうやま みつる)は、この頃、個人的な活動拠点を東京に移していた。 

頭山 満(とうやま みつる)

頭山もロシアに福岡出身の諜報員(工作員)を送り込んでいたそうだが、陸軍参謀本部と歩調を合わせていたかは分らない。 しかしこの頃、頭山の存在は政府・軍部内でも強く知られていたことから、陸軍中佐に進級していた福岡同郷の元二郎と個人的に情報交換していたことは事実として間違いない。

 うっちゃんのブログ  「頭山満と玄洋社 ①」~「頭山満と玄洋社 ⑤

 

日露戦争の勝利に絡んだ福岡出身のサムライ達って、凄くありません?

 

 

明石元二郎 ⑤ 欧州での諜報工作活動」   

明石元二郎 ⑥ 台湾総督と陸軍大将」   

明石元二郎 ⑦ 福岡出身の元二郎を偲ぶ

明石元二郎 ⑧ 日本のスパイ活動と香椎の明石邸」に続く。

 

 

 参考資料 「情報将軍 明石元二郎」 著者:豊田穣 光人社 発行

                    「明石元二郎 上・下巻」 著者:小森徳治 台湾日日新報社 発行

■ 使用古地図 「古地図の中の福岡・博多」 福岡アーカイブ研究会 海鳥社

 

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