現在の日本は、世界各国のスパイが一番多い
「明石元二郎 ⑦ 福岡出身の元二郎を偲ぶ」 の続きです。
■ 元二郎の無頓着な性格と陸軍のスパイ活動軽視
台湾では今でも尊敬されている明石元二郎が、日本においてあまり知られることがないのは何故か? それは陸軍内部での元二郎の立ち位置と関係があったのではないか。 一つは、母親の秀子が一番良く知っていた元二郎の何事にも無頓着な性格だろう。 世間から見られる体裁はどうでも良かった・・・しかし、それは組織内活動に於いては、身勝手で協調性が薄いと捉えられたのかもしれない。 日露戦争の勝利に貢献した元二郎の活躍話も、陸軍の同僚が好んで話題にすることも無かった。 「無頓着」とは自分自身の感情であり、誰かを傷つけることでもないので、悪い言葉では無いが・・・。
もう一つは陸軍内部にスパイ活動軽視の風潮があったこと。 これは日本の武士道精神に根幹があるのか・・・元寇の役の時のこんな話がある・・・モンゴルの兵と対峙したときのこと、当時の日本の武士は「やあ やあ 我こそは〇〇国の住人・・・」と名乗りを挙げ一対一で戦うことが基本だった。 しかし、モンゴル兵は名乗りも無くいきなり大勢で襲い掛かって来たので、日本兵が戸惑ったと言う話し。 つまり、日本の武士道では正々堂々と戦うことが基本の教えとなっていて、陰でコソコソ探る(諜報活動)とか、後ろから斬りつける(ゲリラ活動)などは恥ずかしい戦法としている・・・幕末・維新から数十年しか経っていない陸軍の幹部にも、まだまだそんな正々堂々派がいたのか? 或いは、元二郎が日露戦争で活躍したとされるスパイ活動そのものを評価したくない雰囲気が陸軍内部にあったのか・・・。
明石元二郎は日露戦争終結後に、欧州での諜報活動の実態についての細かい報告書「落花流水」を提出している。 この活動報告書が、その後のスパイ活動教書になる筈だったが・・・何れにしても、陸軍内部ではその後もスパイ活動軽視の風潮が続いた。 一方、敗戦国のロシア(ソビエト連邦)はスパイ活動(敵国の情報収集)を重視し、第一次世界大戦(1914年~1918年)までに「ソビエト連邦国家保安省(後のKGB)」を設立した。 英国も1909年に戦争省の中に秘密情報局(後のMI6)を置いている。 各国は「MI=Military Intelligence(軍事諜報)」の重要性を重視し、スパイの養成を強化している。
日本陸軍のスパイ活動軽視が、太平洋戦争に突入させたのではないかと言われている。 日本海軍(山本五十六)は米国の軍事力を細かく分析していて、開戦すべきではないと訴えていた。 陸軍は第一世界大戦後の世界の動きを正しく把握していなかったのではないか。 日本が情報戦略をしっかり捉えていれば戦争を回避して、違った結果になっていたかも・・・。 開戦間際での陸軍中野学校創設は遅すぎた。 加えて、日清・日露戦争に勝利した驕りが万延していたことも、スパイ活動軽視に繋がっている。 それらはもう終ったことだが・・・現代での不安は、東京は活動している他国のスパイの数が世界で一番多い都市らしい・・・中国ほど神経質になることもないけど・・・心配だ。
■ 香椎宮参道にあった豪華な「明石邸」
香椎に住む高齢者のほとんどは、香椎宮参道(勅使道)一の鳥居近くに「明石邸」と呼ばれた豪華な洋館があったことを知っている。 昭和5年(1930年)、鉄筋2階建(地下1階)の洋館が建った時には、香椎の住民はびっくりしたそうな。 たちまち観光名所になって香椎宮への参拝客も増えた、との話も残っている。 この「明石邸」については、香椎に於いても情報が錯綜している。 明石元二郎が建てた家だと言う人も居れば、元二郎の親戚の家だと言う人も居る。 よくよく考えれば、「明石邸」が建てられた昭和5年(1930年)には、元二郎は既に亡くなっている・・・。
明石邸
↓ 下の写真は現在の鹿児島本線踏切側から香椎宮方向の参道(一の鳥居)を撮っている。 その明石邸の玄関は写真鳥居の左側にあって、先のライオンズマンション辺りまで敷地(1800坪)が広がっていた。
現在の「一の鳥居」は、明石元二郎が亡くなった大正8年(1919年)に建てられた。
↓ 下の写真は参道(勅使道)にクスノキが植栽された翌年の昭和2年(1927年)に撮られた。 添木がされたクスノキの若木が参道両側に確認できる。 左側に明石家のものと思われる立派な塀が見える。 洋館の「明石邸」は昭和5年(1930年)に建てられたとのことなので、ここに写っている塀はそれ以前の木造屋敷の時のものか、或いは洋館建築中時なのかもしれない。
↓ 下の写真は昭和10年~12年前後で、鹿児島本線踏切近くの参道(勅使道)の南西側の丘から撮られている。 南西側の丘には、未だビルや家屋は何も建っていない。 一の鳥居の東側(写真中央)に昭和5年に建てられた「明石邸」が見える。 参道両側のクスノキが大きく育って来ている。 写真中央上部の香椎駅に、左は博多方面から鹿児島本線が、右は宇美方面から香椎線(博多湾鉄道)が走る。
僕が40歳代で香椎地区に越してきた時には明石邸は既に無かったような・・・ただ、僕の友人は昭和50年代までは見た記憶があると言う。 昭和20年(1945年)終戦の9月、福岡で一番早く米軍が進駐して来たのが香椎だった。 明石邸は早速 米軍に接収され、上級幹部の宿舎として使用されたとか。
それでは香椎の「明石邸」は、黒田藩明石家の誰が建てたのか?
ブログ「明石元二郎 ② 黒田藩明石家の系図」で黒田藩明石家の始祖とそのルーツについて示している。
黒田藩に於ける明石家の系図
明石家は「島原・天草の乱」に出陣した折の活躍により、藩主・黒田忠之から二つの分家が認められた。 明石元二郎 陸軍大将は、三男・明石安貞の末裔となる。 本家・明石正利の末裔に、明治時代に生まれた明石東次郎がいる。 香椎の「明石邸」は、この明石東次郎が建てた。
明石東次郎は明治中期の生まれなので、元二郎とは少し歳の差がある。 元二郎と同じく陸軍士官学校から砲工学校に入学して火薬製造を学んだ。 半島・大陸での陸軍砲部隊の所属を経て、砲兵大佐まで進級している。 陸軍砲兵大佐を退役後は、満州国安東市(現・中国遼寧省丹東市)で石炭採掘用の火薬を供給する満州鉱山薬株式会社の経営者の一人として成功した。 香椎に「明石邸」を建てたのはこの頃で、東次郎が実際に「明石邸」に住んだのは後年戦時中(昭和17年頃)の僅かな期間だけだった。
米軍による接収解除後は明石本家当主の明石正和 氏(東次郎長男・当時香椎在住)が継いだが、いつしか第三者の手に渡ったようだ。 現在、明石邸敷地跡の大部分にはライオンズマンションが建っている。 1階に有名な「宇宙軒(中華料理)」が入っているマンションだ。
日本に於いて「スパイ」と言う言葉は馴染みが薄いが、それでも諜報工作活動によって日露戦争を勝利に導いた元二郎の功績は讃えられる。 また、統治時代の台湾を今日の親日友好国に導いた元二郎の努力も忘れてはいけない。
明治6年~8年 福岡 大名(大明)小学校時
明治16年 東京 陸軍陸軍士官学校卒業 19歳 陸軍少尉
明治28年 31歳 陸軍少佐 進級
大正7年 54歳 陸軍大将
「明石 元二郎(あかし もとじろう) ①~⑧」 完
長いあいだ、元二郎のブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。
■ 参考資料 「情報将軍 明石元二郎」 著者:豊田穣 光人社 発行
「明石元二郎 上・下巻」 著者:小森徳治 台湾日日新報社 発行
うっちゃんの歴史散歩
飲酒運転撲滅!