死んでも護国の鬼となり、台湾の民を鎮護する

明石元二郎 ① 日露戦争を勝利に導いた男

明石元二郎 ② 黒田藩明石家の系図」   

明石元二郎 ③ 大名小学校から東京へ」 

明石元二郎 ④ 明治を突っ走った福岡の同胞」 

明石元二郎 ⑤ 欧州での諜報工作活動」   の続きです。

 

 

明治38年(1905年)、日露戦争が終結すると、明石元二郎は欧州から日本へ帰国した。 元二郎の欧州でのスパイ(諜報工作)活動は、ロシア国内を撹乱し、日本に勝利をもたらした要因となった。 しかし、スパイ活動は地味な活動から表ではほとんど評価されず、乃木希典東郷平八郎のように英雄として迎えられることは無かった。 陸軍参謀本部に戻った元二郎は、そんな事は意に介さず黙々と次の仕事に向かった。

 

日本は日露戦争に勝利すると、韓国(朝鮮半島)に統監府を置き、外交権を握った後、韓国軍隊を解散させ、保護国化を徐々に進めて行った。 当然、抗日運動が激しくなったが、日本は軍事力で抑えてしまう。 

 

日本は明治42年(1909年)、前の韓国統監だった伊藤博文が韓国の運動家・安 重根によって暗殺されたことから、完全な植民地化(韓国併合:明治43年)を強行する。

韓国併合」について・・・以前の教科書や参考書では「日韓併合」となっていた。 韓国の人々に対して、両国が友好的に対等に合併したことを強調していたのだ。 近年の教科書は「韓国併合」となっているが、これが事実で・・・日本が韓国の主権を奪い植民地化したことに間違いない。

伊藤博文

ソウル(漢城 ⇒ 京城)に赴任していた明石元二郎大佐は、朝鮮憲兵隊司令官と統監府警務隊長を兼務し、憲兵・警察の制度や機構強化を図り、抗日運動結社の摘発や暴徒の鎮圧に取り組んだ。

 

韓国併合(植民地)時代の半島統治が、現在でも韓国民の反日気質につながっている。 実際には、伊藤博文は鉄道の敷設、小学校の設置、道路整備など多くの施策も打ち出して実行させていたのだけど・・・植民地統治の難しさを様々な角度から考えさせられた元二郎にとって、これらの事は後年の台湾総督就任時に生かされることになる。

 

大正元年(1912年)、元二郎は49歳。 陸軍中将に任じられた。 妻・国子との間には長女・次女・長男を授かっていて、母・秀子も福岡から東京に呼び寄せていた。 

 

気性が激しく外見に無頓着な鼻たれ小僧を、商売人や勤め人は無理だとして、軍人に薦めたのは母の秀子だった。 その秀子でさえ、元二郎が陸軍中将まで出世するとは思ってもいなかった。 いや、その後、てっぺんの陸軍大将まで上り詰めたのだった・・・。

明治6年~8年 福岡 大名(大明)小学校時

 

明治16年 東京 陸軍士官学校卒業 19歳 陸軍少尉

 

明治28年 31歳 陸軍少佐 進級

 

大正4年(1915年)、陸軍参謀本部次長として熊本の第六師団長に転じる。

 

大正7年(1918年)、元二郎(54歳)は七代目台湾総督に任じられた。陸軍大将に進級する。

大正7年 54歳 陸軍大将 

 

明治28年(1895年)、日清戦争勝利後の下関条約によって、台湾清国から日本へ割譲された。 日本は台湾を統治するための出先官庁として「台湾総督府」を設置した。

旧・台湾総督府=現・中華民国総統府

 

台湾統治の初めは、韓国併合の時と同じで、居住民による激しい抗日運動が繰り返されていた。 初代総督の樺山資紀は海軍出身であるが、二代目総督からは陸軍の中将または大将で占められ、抗日運動の抑圧は軍事力をもって強硬な姿勢で行われた。 

 

大正7年(1918年)、元二郎は第七代 台湾総督として台北に赴任するが、彼の頭の中は朝鮮憲兵隊司令官時代の軍による強硬統治の在り方が、疑問として渦巻いていた。 

 

元二郎は台湾総督としての基本姿勢を「台湾の人々の生活を日本と同等の環境にする(同化政策)」として臨んだ。 着任早々、総督室で執務することは少なく、台湾各地を廻り多くの住民と接し、地域の状況を視察した。 元二郎は、総督自ら徹底して現地事情の把握に努めたのだ。 元二郎の現地視察回数は、在任期間(1年4ヶ月)が短かったのにも係わらず、歴代総督の中で最多であったことが彼の心意気の強さを証明している。 

 

台湾の人々の生活向上のために、「まずは産業を強く興すこと」と決した元二郎は矢継ぎ早に政策を打ち立てた。 

 

まず、起業用資金の流れを円滑にするために「華南銀行(現在 台湾最大級)」を設立した。

次に、工業生産を高めるためには発電用ダムの建設が急務と考え、「日月潭水力発電所」の建設を決め工事を開始した。 このダムの完成は後年の1934年(昭和9年)になるのだが、発電量10万KW(当時東洋一)は画期的な事業となった。 以後、台湾の工業生産は上がり、人々の生活向上に大きく貢献している。 ダムの工事によって、日潭と月潭がつながり海抜748mに台湾最大の淡水湖(日月潭 にちげつたん)が生まれた。 現在はリゾート景勝地として日本からも多くの観光客が訪れている。

日月潭 (にちげつたん)   「Taiwan days」 より

 

産業の向上、人々の生活向上には物資・機械・食料のスムーズな輸送が求められる。 元二郎は幹線道路の整備に加え、鉄道貨物輸送を強化するために海岸線(竹南駅~彰化駅間90kmの新線)の鉄道敷設を命じた。 海岸線とは何か? 当時の国鉄の新線計画は軍部が仕切っていて、主要幹線路の敷設は敵艦砲射撃から逃れるために、内陸の山間部ルートを採るよう決められていた。 現在の肥薩線(人吉を経由する八代~鹿児島間が当時の鹿児島本線)は、東シナ海からの艦砲射撃を恐れて建設された。 しかし、元二郎は台湾の貨物輸送力強化を優先し、平坦な海岸部ルートでの線路敷設を総督として決定したのだった。

 

「台湾の人々の生活を日本と同等の環境にする(同化政策)」・・・この想いを達成するために、学校教育制度の整備にも力を注いだ。 日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正し、新教育法を公布施行した。 このことによって台湾人も日本の帝国大学への進学が可能となった。 後年に第4代中華民国総統となった李 登輝(1923~2020没 97歳)も、青年時代に京都大学へ入学している。 日本の統治が終了するまでの間に、多くの台湾の青年が日本の大学で学ぶことが出来た。

第4代中華民国総統 李 登輝(1923~2020)

 

その他にも、都市部の上下水道整備森林保護の促進や、台湾最大の華南平原に大水路を建設し不毛の地を穀倉地帯にする大事業にも元二郎は尽力している。 これらの同化政策の取り組みは後の総督にも引き継がれ、抗日感情は極端に緩和され、台湾の中でも日本の統治と政策を信じる人々が増えた。 

 

日本の台湾統治と英国のインド統治には大きな違いがあったと言われている。 どちらも宗主国が総督を派遣し直接統治していたが・・・日本の同化政策に対して、英国はインドから産品や人的資源を収奪する独占政策だった。 それに反発するインドの人々を、英国は次々に差別法を制定し武力を含めて強硬に弾圧していた。 

 

同化政策による日本の統治が台湾の人々に認められかけた頃が、元二郎自身にとっては最高の生き甲斐を感じ取っていた時代ではなかったか。 しかし、その元二郎にとっての最高の時代は突然幕を閉じることになってしまう。 大正8年(1919年)10月13日、元二郎は公務(外務省との打ち合わせ?)のため、船で台湾を離れた。 船は門司から瀬戸内海を大阪へ、そこから汽車で東京へ向かう予定ルートだったと思われる。 船が東シナ海の五島列島を過ぎた洋上で、元二郎は突然に倒れ発病した。 

 

船は急きょ、九州帝国大学医学部が設置されていた博多に入った。 陸軍大将が入院する病室として、大名町の松本健次郎の別邸(後の西鉄本社 → 現在の西鉄グランドホテル)が当てがわれた。 病名(死因)については、定かにされていない。 大酒飲みになっていたことによる脳出血肝硬変が有力視されていたが、当時、台湾で流行っていたスペイン風邪(インフルエンザの一種)ではなかったかとも言われている。

 

10月19日、台湾総督府に明石総督危篤の報が入った。 そして、10月24日午前6時30分、元二郎は静かに息を引き取った。 天神(現在のアクロス)で生まれ、12歳で福岡を発ち、陸軍軍人としての生涯を海外を含む別地で過ごした元二郎が、10日ほどでも福岡の大名町に滞在し最後を迎えられたことは強い因縁が働いたとしか思えない。 

印:元二郎生誕の地(三男分家 現在アクロス) 

印:元二郎終焉の地 (現在西鉄グランドホテル)

 印:明石家本家 印:明石家次男分家  :福岡市役所 :中央区役所

 

病床でのもうろうとした頭の中で、元二郎は死を覚悟した。 台湾の人々のために予定している事業の完成が見届けられないことが無念でならない。 最後の死の床で「余の体は台湾に埋葬せよ。 実行方針の中途で倒れるは千載の恨事なり。 余は死んでも護国の鬼となり、台湾の民を鎮護する」と言い残した。 遺言に従い、元二郎の亡骸は船で台湾に戻り、人々の悲しみに送られながら埋葬された。

 

 

現在、日本と台湾の交流は、政府間のみならず民間レベルでも親しく続いている。 台湾の人々との親しい交流感情は、同化政策を打ち出した明石元二郎らの統治時代に始まっていたのは間違いない。 1月23日のニュースで、台湾の民間だけによる能登半島地震への寄付金が5日~19日までの間で25億6千万になったと発表されていた。 台湾の皆さん、本当にほんとうに有難うございます。 

 

 

明石 元二郎(あかし もとじろう) ⑦」に続く。  戦後の昭和まで香椎宮参道(鹿児島本線踏切近く)にあった豪華な洋館「明石邸」も取り上げたいと思います。

 

■ 参考資料 「情報将軍 明石元二郎」 著者:豊田穣 光人社 発行

                    「明石元二郎 上・下巻」 著者:小森徳治 台湾日日新報社 発行

 

 

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