はなたれ小僧だったが、学業成績は一番

明石元二郎 ① 日露戦争を勝利に導いた男

明石元二郎 ② 黒田藩明石家の系図」    の続きです。

 

陸軍大将・明石 元二郎(あかし もとじろう)は、幕末の元治元年(1864年)8月1日、福岡藩の天神で父・明石貞儀(ただのり)と母・秀子の次男として生まれた。 三つ年上の長男・がいた。 時は幕末の激動の中だった。

明石 元二郎(あかし もとじろう)


福岡藩の家臣は、家老中老大組(おおぐみ)・馬廻組無足組城代組足軽の順に分けられていて、「明石三家」は黒田官兵衛如水公の母(岩姫)の家系だったことから、代々「大組」待遇の上級藩士として扱われていた。 その大組の明石貞儀(ただのり)は男子2児に恵まれ、これからと言う時の慶応2年(1866年)、29歳で突然に自害(切腹)する。 長男のが5歳、次男の元二郎が2歳の時だった。 

 

記録の中で、明石貞儀(ただのり)の切腹の理由ははっきりとは解らない。 ただ、幕末の時代背景から仮説は考えられる。 前年の慶応元年(1665年)は11代藩主・黒田長博が佐幕派に舵をきり、藩内の筑前勤皇党(尊皇攘夷派)に大弾圧を加えている。(乙丑の獄

翌年、幕府軍による第二次長州征伐が始まるが、逆に長州軍は各地で幕府軍を撃破して行く。 福岡藩の佐幕派は再び勢いを失くして行く中で、明石貞儀の切腹が行われている。 しかも、切腹場所は城下から離れた遠賀郡の芦屋だった。 これは藩内の混乱を隠したかったのではないか。 明石貞儀は筑前勤皇派に近かったとの有力な説もあるので、彼の切腹は「乙丑の獄」に関連していたのではないかと考えられる。

 

嫡男の元二郎は未だ幼かったので、家督を相続することが出来ない。 25歳で未亡人となった秀子は、子供を連れて天神の屋敷を離れ、浜の町の実家(吉田家)に戻った。 この年の慶応2年(1866年)、薩長同盟が結ばれ、戊辰戦争へと突き進んで行く。 幕末の混乱で生活は苦しいが、秀子は得意の針仕事で得た収入で二人の子供の養育に勤めた。 秀子は、貧しさによって子供たちが卑しい心を持った人間にならないか・・・それだけが気懸りだった。

 

「武士の子はどんなに貧しくても、金銭をごまかすな」

「黒田藩の名門の家名を汚すことがないよう、いつも志を高く持て」

 

秀子は針仕事のかたわら、二人を厳しく仕付けた。 しかし元二郎は、父の顔を知らないまま逆境のなかに育ったせいか、腕白小僧で根性の鋭い少年に育っていった。 それでも、頭は良かった。 それらの性格が将来の諜報員(スパイ)として活躍する上で、プラスの要素になったと評する歴史小説家も多い。

幼少の頃の明石元二郎

 確かに目つきがきつい腕白小僧に見える。 

 

やがて、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、明治5年に学制が発布された。 その翌年(明治6年)、福岡では学校番号1番で市内最古の大名小学校が開校した。

平成24年(2014年)、141年の歴史を閉じた大名小学校 校舎は残された 

(2023年1月撮影)

 

 大名小学校の場所と近辺を、現在と福博古図の中に記してみた。

↓ 印=明石家本家、印=中央区役所、印=西鉄グランドホテル=元二郎 終焉の地。
 

 

明治6年に開校した時の大名小学校は、現在の場所(大名ガーデンシティ )ではなく、にあった。 福博古図で確認すると、の場所は、中老の斎藤蔵人(さいとうくらうど)の屋敷跡だった。 この地図が作成された直後に火事で焼失。 藩はこの跡地に「郡役所」を建てた。 郡の農政を担当する役人が、城内からここに移り実務を執っていたが、廃藩置県後、この郡役所建物を改装し福岡で1番目の小学校として開校した。 開校当初の文字は「大明小学校」だった。 地に移転したのは明治27年(1894年)、未だ木造校舎で、現在残されている三階建て鉄筋コンクリートの校舎は昭和4年(1929年)に竣工している。 アール・デコ調の意匠が施された、当時としては超モダンな学校建築だった。 戦後の昭和22年(1947年)、大明小学校から大名小学校に改称している。

大名小学校

 

大明小学校が開校した明治6年(1873年)、元二郎は9歳。 母・秀子は旧福岡藩士の子息として、直と元二郎を大明小学校に入学させた。 秀子の実家の吉田家は大明小学校の北西の「浜の町」なので、通学時間は徒歩で7~8分ほどだったろうと思う。

 

元二郎の小学校時代については、何れの書籍・資料でも同じ内容が書かれている。 元二郎は、いつも鼻水をたらしていたので、仇名は「はなたれ」であった。 服装はよれよれで、はだしで登校することも度々であった。 外見については、元々が無頓着な性格だったようだ。 ただ、気性は激しく戦闘的で、相手の気持ちを無視するなど、9歳とは思えないほど子供ばなれしていた。 それでも、学科の成績はクラス一番で、それには教師も驚いていたようだ。

 

母の秀子は、そんな元二郎を見ながら心配はしていた。 しかし、三歳上の兄・があまりにも凡庸なので、逆に元二郎からは大物の片鱗を感じていた。 

 

母・秀子元二郎に転機が訪れたのは、明治9年(1876年)の元二郎12歳の時であった。 福岡藩士で、戊辰戦争後に政府の海軍兵学校に学んでいた石田五六郎がいる。 石田は噂で大明小学校の元二郎のことを聞きつけ、帰省中に秀子を訪ねて来た。 石田は元二郎を東京で海軍の勉強をさせたらどうか、と秀子と元二郎に薦めた。 秀子は話を聞きながら、迷いが吹っ切れたように何回か頷いた。 元二郎には、商売人や勤め人は無理だが、軍人だったら頑張るだろう、と考えたのである。 12歳になった元二郎も、そろそろ自分自身を考える年齢になっていて、東京で勉強出来ることを望んだ。

 

母子の意見が一致し、石田五六郎は東京へ戻る時に元二郎を連れて行くことになった。 出発に際し、母・秀子は光雲(てるも)神社筥崎宮香椎宮の三社のお守りを元二郎を持たせた。 武士の子と言っても、まだ12歳は子供だ。 秀子は気丈な女であったが、それでも母親として、本当は息子の旅立ちを心配し、また別れを悲しんだのだろう、と思う。 後年・・・秀子元二郎が脳出血で死去した3年後の大正11年(1922年)に、東京の屋敷にて78歳で逝った。

 

海軍の勉強をするために上京した元二郎が、何故、陸軍大将に???

 

明石 元二郎(あかし もとじろう)④ 明治を突っ走った福岡の男たち」に続く。

 

 

■ 参考資料 「情報将軍 明石元二郎」 著者:豊田穣 光人社 発行

                    「明石元二郎 上・下巻」 著者:小森徳治 台湾日日新報社 発行  他

■ 使用古地図 「古地図の中の福岡・博多」 福岡アーカイブ研究会 海鳥社

 

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