2021年は韓国アニメ『ロボット テコンV』45周年!

 


この節目の年を記念して、私も韓国アニメ『ロボット テコンV』(로보트 태권V)について、今まであまり語られて来なかった視点から、個人的な感想を全5回にわたってシリーズ投稿しておきたい。全5回のメニューは、以下の通りである。


第1回 テコンVと外見至上主義
第2回 テコンVとキリスト教的反共主義
第3回 テコンVとフランケンシュタインコンプレックス
第4回 テコンVとテコンドー
第5回 テコンVとマジンガーZ

 

最後の「テコンVとマジンガーZ」にしか、ご興味のない方も多いことだろう。

…なので、その話は一番最後の「取って置き」にさせて頂くw 

 

第1回 テコンVと外見至上主義

目次

 

 

1-1.「キャラクター外見至上主義」を超えて

 

韓国ロボットアニメを代表するシリーズ、『ロボット テコンV』の映画第1作は、1976年に公開された。

監督はキム・チョンギ(김청기)監督。

韓国の国技テコンドーの達人であるキム・フン(김훈)青年が、科学者である父親の作ったロボット「テコンV」に乗り込んで、テコンドーの技を駆使しながら、世界の平和を脅かすプルグン帝国と戦う物語である。

 

 

さて、本作の主人公メカであるテコンVに対しては、長い間、1つの非難が浴びせられてきた。

テコンVは日本アニメ『マジンガーZ』のパクリではないかという疑惑である。

この問題は前述のとおり第5回で詳しく見て行くので、今回は概要だけを説明しておく。

『マジンガーZ』は、韓国では1975年にテレビ放送されている。『ロボット テコンV』の公開はその1年後である。

このため、マジンガーZを盗用してテコンVというキャラクターが作られたのではないかと言われているわけである。

たしかに、『ロボット テコンV』のテコンVとマジンガーZの見た目は良く似ている。

キム・チョンギ監督自身も、先行作品であるマジンガーZの影響は認めている。

 

・テコンV

 

・マジンガーZ

 

 

テコンVとマジンガーZは、特に手足と胴体の配色がほぼ同じだ。

胸の赤いV字型の飾りがある所もそっくりだが、ただしVの形には明確な違いがある。

マジンガーZのVは左右離れており、テコンVのVはくっついている。

しかしそれも、テコンVの独自性の証明とはならない。

マジンガーZの後継キャラであるグレートマジンガーも、Vのマークの左右がくっついているからだ。

 

・グレートマジンガー

 

グレートマジンガーは、日本でのテレビ放送ではマジンガーZ第92話(最終回)に初登場し、そのまま翌週から始まった新たなTVアニメシリーズ『グレートマジンガー』の主人公メカとなっている。

 

ただし韓国では、1975年から1976年にかけての『マジンガーZ』テレビ放送では第92話は放映されないまま放送が終了した。翌週からすぐに『グレートマジンガー』が始まることもなかった。グレートマジンガーが韓国のテレビに正式に登場したのは、『ロボット テコンV』の映画公開よりも、ずっと後のことである。

それでも海賊版コミックなどによって、韓国のアニメ・漫画業界関係者や熱心な漫画読者の間では、グレートマジンガーのデザインじたいは『ロボットテコンV』の企画段階当時から広く知られていた。

したがってテコンVのVマークの左右がくっついているのは、やはりオリジナリティの証明ではなく、単なるグレートマジンガーの影響だったことがほぼ明白であると言えよう。

テコンVのキャラクターデザインを完成させるに当たって、マジンガーZやグレートマジンガーと出来るだけ似ないようにキム・チョンギ監督が工夫に工夫を重ねたと言えそうな部分を挙げるならば、テコンVの頭部・顔の部分がそれに当たるだろう。

 

・テコンV

 

頭部と顔も、マジンガーZやグレートマジンガーとの共通点は非常に多い。しかし、全くのトレース絵・同一キャラではない。

そう言えるだけの最低限の差別化は図られている。

 

・マジンガーZ

 

・グレートマジンガー

 

全くの同一キャラではないとは言え、「パクリ」という非難はテコンVには常につきまとってきた。

確かに当時の韓国アニメの水準的限界を示すキャラクターデザインであったことは間違いない。韓国アニメにあまり興味のない一般の人が「テコンVはマジンガーZのパクリ」と、パっと見の外見だけで判断して話を終わらせようとしてしまうのも無理からぬことと言えるだろう。

 

しかし私個人について言えば、漫画やアニメをもう少し深堀りしたい性癖であるし、映像よりもストーリー重視で見ているので、漫画やアニメのキャラクターを見た目の印象だけで判断する「キャラクター外見至上主義」的な態度は、作品評価のやり方としてあまり好みではない。

 

現実の人間を見た目で判断する態度は、「外見至上主義」「ルッキズム」と呼ばれる。既に先進国では、「外見至上主義」「ルッキズム」を公言することは恥ずべき差別・偏見であるとみなす社会的通念がだんだん広がりつつある。人間には、1人1人に心があり、背負ってきた人生がある。見た目だけで全てを判断してはならない。現代社会のごく一般的な道徳の一部と言えるだろう。

 

しかしアニメや漫画のキャラクターに対しては、「キャラクター外見至上主義」的な態度が、いまだに大手を振って罷り通っている。もちろんアニメや漫画のキャラクターは、現実に生きる人間とは異なる。しょせん作者が作った世界の中だけで生きる仮想の存在だ。そうは言っても、キャラクターごとに性格設定があるし、ストーリーもある。やはりきちんと設定を理解して、実際の作品を観た上でなければ、キャラクターの本当の良し悪しは軽々に判断できないと私は考える。

 

 

1-2.カープ博士の悲劇

 

「キャラクター外見至上主義」的な考え方をする人々によって、テコンVは、「マジンガーのパクリ」の一言で、しばしば全存在を否定されてきた。かかる悲劇の作品である『ロボット テコンV』のストーリー構造に詳しく目を向けてみると、実はこのアニメじたいが、「外見至上主義」の問題を真っ向から取り扱い、悪しきものとして告発しようとしていた映画であることが分かる。

 

本作に悪役側のキャラクターの1人として、カープ博士(카프 박사)という人物が出てくる。彼は主人公キム・フンの父キム博士の元友人で、天才的頭脳の持ち主だが、背が極端に低い。そして頭が非常に大きく、髪は禿げ上がっており、全体的に見た目の冴えない中年男性として描かれている。

 

 

いくら「アニメはデフォルメである」と言っても、カープ博士の身長描写は全くもってシャレにならない。

映像を見る限り、身長はおおよそ1メートル前後。明らかに彼は、疾患として低身長症を抱えているものと推測される。

世界科学者大会の席上、身長があまりにも低かった彼は、キム博士が用意した椅子の上に立って聴衆の前で発表することとなる。

 

 

ところが発表の途中、カープ博士は椅子から足を踏み外し、床へ転げ落ちて頭を強打する。後に入院するほどの重傷を負ったカープ博士だったが、その時、彼を助け起こそうとする者は誰もいなかった。友人であったはずのキム博士さえも、すぐに駆け寄ろうとはしなかった。満場の科学者たちは無様に引っくり返った彼の姿をバカにして、延々と笑い続けたのである。

 

 

このような人生崩壊級の屈辱を経験したカープ博士は、自分を笑った科学者たちを謝罪させたい、思い知らせてやりたいという当然の怨みを抱く。そして燃え盛る復讐の思いから、ついには彼の持つロボット技術を世界征服のために役立てて、全世界を破壊し、屈服させてやろうという暗い考えを持つまでに至る。

 

悪役であるカープ博士ですらも「絶対悪」ではなく、ある程度同情すべき事情があることを描いている。「外見差別」、ないし「障害者差別」という社会の歪みが彼を追い詰めて悪に落とした、我々がカープ博士を産み出しているのだという筋立てである。1976年、軍事独裁政権下の韓国という、子供向けの映画にはとにかく分かりやすい勧善懲悪ストーリーのみが求められていた時代背景を考えれば、このように善悪をあくまでも相対的なものとして描き出したキャラクター描写は、かなりギリギリの所を攻めた大胆な表現だったと思う。

 

 

1990年代以降、韓国では社会的格差の拡大と競争原理の激化に伴って、「外見」の面でも何かと序列をつけられ、他人との競争を日々強いられる「外見至上主義」の風潮が、大きな社会問題としてクローズアップされてきた。

『私は整形美人』『外見至上主義』『女神降臨』などの韓国ウェブトゥーン(Web漫画)、『白雪姫の赤い靴と7人のこびと』などの韓国アニメでも、作品のメインテーマとして「外見至上主義」批判が採り上げられるようになってきている。

 

 

 

中でも、ウェブトゥーン『奇々怪々』を原作とするホラーアニメ映画『整形水』においては、肥満体型で容姿にコンプレックスを持つ女性主人公イェジが道ばたで派手に転んだ時、そばにいた人間が全く彼女を助けようとしないという、『ロボット テコンV』に酷似したシーンが登場する。

 

 

イェジがその後、ダーティーヒロインとなって悪の道に突き進んでいく展開まで、実は『整形水』は、『ロボット テコンV』のカープ博士の軌跡をそのままなぞっている。『整形水』はいま、社会派アニメとして受容され、国際的な高評価を受けつつあるが、その問題意識を既に40年以上早く先取りしていた作品こそが、何を隠そう韓国アニメの古典中の古典、『ロボット テコンV』だったわけである。

 

 

1-3 ヤカンロボット・チョル

 

カープ博士が外見差別の被害者意識から悪に走った存在だとするならば、『ロボット テコンV』には、これと好対照を為すキャラクターが正義側にも存在する。カントン(缶々)ロボットのチョルである。

 

 

ロボットとは言っても、その正体は主人公キム・フンの弟、キム・チョル(김철)少年が頭からヤカンをかぶってロボットのコスプレをしている姿に過ぎず、戦闘力はほぼ0に近いギャグキャラである。

 

 

子ども同士のケンカのレベルならばチョルのコスプレも大いに威力を発揮するが、巨大ロボットがぶつかり合う実際の戦場においては、チョルは敵に遭遇すれば見た目で侮られるし、味方の軍隊にも、見た目から敵ロボットと誤認されて攻撃を受けてしまう。チョルもカープ博士と同様、外見のせいで不当な扱いを受けがちな存在として描かれている。それでもチョルはめげることなく、小さな体で巨大ロボットを相手に大立ち回りを演じ、意外にも善戦を重ねて、兄が乗るテコンVをしっかりアシストしていくのである。

 

 

子ども向けヒーロー作品に観客が感情移入しやすい少年キャラの活躍シーンを入れるのは日本の漫画・アニメ・特撮でも頻繁に使われてきた手法であるし、キム・チョンギ監督がロボットテコンVの8年前に動画マンとして参加した韓国初の巨大ロボットが登場するアニメ映画『黄金鉄人』(1968年、パク・ヨンイル監督)においても、少年キャラクターが主人公を助けて武器を取り、戦う展開が見られた。

 

 

チョルというキャラクターも、これらの影響を受けて生まれたものであろうと第一義的には考えられる。しかし、ヤカンをかぶった外見の突出したコミカルさと、その内側に秘められた知恵と勇気と正義の心という、チョルの鮮やかな二面性の描き方は、キム・チョンギ監督独特のものである。

 

 

テコンVシリーズ以外のキム・チョンギ監督の映画でも、たとえば『トリ将軍』シリーズでは、半裸の少年が民衆を救うヒーローとなって、独裁者に抵抗する。

 

 

 

 

『宇宙から来たウレメ』シリーズでは、知的障害者が超能力を持つ変身ヒーローである。

 


「小さき者」に向けるまなざしの温かさ、世間から軽く扱われがちな「弱者」に対するキム・チョンギ監督の応援と共感の心を、これらの作品の中に私は強く感じ取るのである。

 

 

1-4.宗教アニメ『ダビデとゴリアテ』

 

『ロボット テコンV』に始まるキム・チョンギ監督の一連の映画には、「弱者」「小さき者」への共感、力強い「アンチ外見至上主義」の立場表明が常に見られた。それは一体何に由来するものだったのだろうか。今までのところ、キム・チョンギ監督本人の口からは、この問いに対する明確な答えは何も出ていない。しかし監督の思考の動きを探る上で、大きなヒントになりそうな作品が1つある。キム・チョンギ監督が1983年に自ら脚本を書いて監督したキリスト教アニメ映画『ダビデとゴリアテ』(다윗과 골리앗)である。

 

 

監督が自身の宗教的信念をストレートに表現しようと、それまでの娯楽的作品で得た利益を投じて製作したライフワーク的キリスト教映画の題材が、イエス伝でもモーゼ伝でもなく、旧約聖書のサムエル記上に伝えられるダビデとゴリアテの伝説、小さな少年ダビデが巨人ゴリアテを打ち倒すという物語であったことは、大いに注目に値するだろう。「小さき者」「見下された者」に対する彼の強い愛情と思い入れが、ここにもはっきり表れている。

 

『ロボット テコンV』を理解する上で非常に重要なので、少々長くなるが、映画『ダビデとゴリアテ』のストーリーをここで詳しく追っていきたい。舞台は西暦紀元前1020年ごろの古代イスラエル。エジプト新王国の支配下で奴隷として酷使されていたユダヤ民族は、指導者モーゼに率いられてエジプトを集団脱出する(出エジプト)。モーゼの後継者ヨシュアが約束の地カナンに攻め込み、以後、士師(しし)と呼ばれる宗教的指導者たちの下でユダヤ人は異民族を次々に征服して、だんだんと国としての形を整えていく。

 

最後の士師と呼ばれる預言者サムエルの時代、民衆はサムエルに「他の国と同じように王を選んでほしい」と強く頼む。サムエルは仕方なく神のお告げに従って、人々の中で身長が最も高く、誰よりも容姿が美しかったサウルという男をイスラエル王国の初代国王に選んだ。

 

 

高身長でイケメンだから、王様に選ばれる。まさに「外見至上主義」である。ところがサウルは、実は「心が正しくない」男であった。「心が正しくない」と言っても世間の道徳的観点から悪人ということではなく、聖書の立場から見た話である。要するにサウルは「神様の命令に無条件で従う」ということをしなかった。聖書の教えでは、それはとんでもない過ちとされるわけである。

 

異民族であるアマレク人との戦争で、神はサムエルを通して、アマレク人に関わる物は人も家畜も全部滅ぼせと、相変わらずの残虐な皆殺し作戦・ジェノサイドを命じる。しかしアマレク人との戦いに勝利を収めたサウルは神の命令を無視して、見栄えのいい羊や牛を選んでそのまま戦利品として取っておき、アマレク人の王アガクも生け捕りにして、命を助けようとした。

 

なぜサウルはアガクを殺さなかったか?

 

聖書にも、映画『ダビデとゴリアテ』にも、はっきりとした理由は描かれていない。余談であるが俗説では、やはり「アガクは見栄えが良かったから」ではないかと言われている。西暦1世紀にローマ帝国へ降伏したユダヤの軍人出身である歴史家フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で、「普通なら憐れみをかけてしかるべき乳飲み子も殺さねばならない状況で、美しさに感心して災いの元になった王を生かすのは情けではなく不適切な行為」だったと、匂わせBL的な解説をしている。

 

 

神はサウルの命令違反に怒り狂い、サムエルもサウル王を見限った。いや、あなたたちが王に選んだんだろうとツッコミたくなるが、ともかく、サムエルはそれ以後二度とサウル王に会うことは無かった。サウルを王に選んだのは宗教的には大失敗だったということで、神はエッサイという人の息子たちの中に新しい王がいるから会いに行けとサムエルに命じる。しかしエッサイのもとを訪れたサムエルは、エッサイの息子たちの中にエリアブという身長の高いイケメンがいるのにさっそく目をつけ、彼を王に選ぼうとして神に叱られる。サムエル記上 16章7節に「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という神の拒絶の言葉が書かれている。

 

「外見」へのとらわれを神に指摘されて反省したサムエルは、最後に呼ばれた末っ子である幼いダビデを見て、彼こそが神の選んだ新しい国王候補だと悟る。サムエル記上16章12節にはダビデの容姿について「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」と記録している。この一節が「イケメン・美少年」と解釈されて、後世の人々がミケランジェロの有名なダビデ像のような「イケメンダビデ」、あるいはドナテッロのダビデ像のような「美少年ダビデ」といったイメージを抱くに至る典拠となっている。竪琴を弾き、詩を歌うアーティストでもあったと伝えられるダビデ。文字通りの大人気ボーイズ「アイドル」(=偶像)の元祖と言えよう。

 

 

 

外見で人を選ぶなとさんざん説教しておきながら、神が選んだダビデも結局イケメン・美少年だったかのようにサムエル記上の作者が書いているのは、どうにも話の流れが破綻しているような気もする。「外見至上主義」という人間の業はつくづく深いものである。もっとも、「外見差別」は、「醜い者」だけでなく、「美しい者」もしばしばその被害者となりうる。サウルのように無闇に持ち上げられて人生が狂ったりするし、悪人からも狙われやすくなる。悪の道への誘惑も多くなる。重要なことは、ダビデの兄弟の中にもイケメンがいたのに、兄弟は神に選ばれず、外見の良し悪しとは関係なしに宗教的な心の正しさからダビデが選ばれたということである。だからダビデの外見が仮に美しかったとしても、人を見た目だけで判断しないよう戒めることがこの話の教訓であることじたいは変わらない。

 

 

1-5.『ロボット テコンV』から『ダビデとゴリアテ』へ

 

では、われらがキム・チョンギ監督のダビデ観はどうだったか?

 

映画『ダビデとゴリアテ』の主人公ダビデは、多くの場面で非常にコミカルな動きと表情を見せる。決して、イケメン・美少年ではない。小さな体で縦横無尽に画面を走り回りながら日々奮闘する「頑張り屋さん」として描かれている。

 

 

要は、『ロボット テコンV』におけるチョルの描き方とほとんど同類型のキャラクターである。ギャグキャラではあるが、自分よりも強大な敵と勇敢に戦う、正義の心を秘めた子供である。逆に言えば、チョルこそは旧約聖書のダビデを、監督のダビデに対する個人的イメージを投影したキャラであったということが、『ダビデとゴリアテ』を観ると分かってくる。

 

 

 

ダビデがサムエルと最初に出会うシリアスなシーンの作画と演出では、キム・チョンギ監督のダビデに対する見方が一層はっきりと表れる。「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」という聖書の記述を監督なりに解釈して、ダビデの作画は「血色が良く」、すなわち子どもらしい顔立ちで、「目は美しく」、クリクリッとした大きな目にある種の目力(めぢから)を秘めた少年として描かれており、また、「姿も立派」ということで堂々と落ち着いた態度でサムエルの前に進み出てくる演出とはなっていたものの、このシーンでもやはりダビデは、イケメン・美少年として描かれることはついぞなかったのである。

 

 

映画のクライマックスでは、このダビデが巨人ゴリアテと戦う。イスラエル王国とペリシテ人との間の戦いで、ペリシテ側は身長3メートルもあるという豪傑ゴリアテを繰り出し、サウル王の軍隊はゴリアテを恐れて攻めきれず大苦戦する。

 

 

その時、戦場に現れた少年ダビデが、ゴリアテとの一騎打ちを買って出る。歴戦の勇士であるゴリアテをそなたのような子供が倒すことは無理だとサウル王は止めるが、ダビデの熱意にとうとう根負けして、鎧兜を着せて重装備で戦場に送り出す。

 

 

しかしダビデは鎧兜を脱ぎ捨て、身軽な格好で巨人ゴリアテに立ち向かっていく。『ロボット テコンV』のラストでキム・フンがテコンVからわざわざ降りてきて、自分より体が大きいプルグン帝国の首領マルコムに素手で挑むシーンが思い出される。

 

 

 

 

ダビデの幼い外見を見てゴリアテは侮るが、ダビデはすばやく石投げ器で石を放ち、巨人ゴリアテの額へ見事に命中させる。どうと倒れたゴリアテからダビデは剣を奪い取って、その剣でゴリアテの首をはね、剣先に首を突き刺して頭上に高々と掲げ勝どきを上げる。こうしてダビデは英雄となり、サウル王が亡くなった後に、イスラエル王国の新たな王として即位する。

 

 

このように、サムエル記上の記述を忠実に映画化した『ダビデとゴリアテ』は、高身長イケメンのサウルをイスラエルの王に選んだら大失敗で、サムエルが新王候補として探し出してきたちびっ子ダビデが巨人ゴリアテを倒して国を救うヒーローとなり、神の寵愛を失った高身長イケメンのサウル王もやがて死んで、ダビデが新しい王になるというあらすじになっている。

「肉に依ってはならない」「見た目に惑わされてはならない」という、物質重視的な考え方や外見差別への戒めが、宗教説話としての本作の核なのである。

 

キム・チョンギ監督作品に繰り返し見られる「小さき者・見下された者の心の中にこそ真のヒーローがいる」という思想は、彼が篤く信仰していたキリスト教の聖書に由来するものであった。それを創作に活かした原点が『ロボット テコンV』であり、テコンVで本当に監督が伝えたかったことをそのままの形で結実させたのが『ダビデとゴリアテ』であったと言えよう。

 

ちなみに『ダビデとゴリアテ』には、夢の中でダビデと少女ミカエラがキャッキャウフフと手を取り合いながら空を自由自在に飛び回って楽しいひとときを過ごすという、『ロボット テコンV』においてやはり空想の中でフンとメリーが演じたのとほぼ同じコンセプトのディズニー風味なファンタジーシーンが存在することも付け加えておきたい。次回で詳述するが、キム・チョンギ監督はディズニーの『白雪姫』を観てアニメを志した人であり、『白雪姫』もまた外見至上主義がテーマの物語である。

 

 

 

『ロボット テコンV』では、後の『ダビデとゴリアテ』へと繋がる「外見至上主義」批判の要素以外にも、キム・チョンギ監督のクリスチャンらしいアイデアが随所に見て取れる。たとえば、『ロボット テコンV』の敵組織の名前はプルグン帝国(붉은제국)、つまり「赤い帝国」という意味を持つ名称で、シンボルマークは赤い星である。共産主義のイメージカラーである赤色、韓国と相容れない北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の脅威と、プルグン帝国がはっきり重ね合わされている。政府から具体的に指示されたわけでもなかったのにここまで強く「反共」を自主的に打ち出したのは、単なる政権への迎合というだけにとどまらず、キム・チョンギ監督自身のキリスト教的立場から来る共産主義への反感の表現でもあったことだろう。

 

 

次回は「テコンVとキリスト教的反共主義」と題して、朝鮮戦争を経験した監督個人の生い立ちと、軍事独裁政権下で国民の自由を規制しながら北朝鮮に対抗していた当時の韓国の特殊な政治事情が『ロボット テコンV』の成立に与えた影響について検証する。お楽しみに。