第3回 テコンVとフランケンシュタインコンプレックス

 

 

目次

 
 

3-1 メリーの歌

 

 

映画の歴史は、無声映画から始まった。すなわち、映画は音がなくても成立する。視覚先行の文化である。そして映画の中でもアニメーションは、「絵を描く人」が製作現場で権力を持って一切を取り仕切るジャンルである。どうしても「絵」だけに注意が行きやすい。しかし、「絵」がしっかり描けていても、「音」の部分がダメだと、なかなか優れたアニメ映画にはならない。「音」への意識を高め、高品質な「音」が付けられるようになって、はじめてアニメは総合芸術へと進化する。

 

韓国アニメ『ロボット テコンV』は、「♪タルリョラ タルリョ ロボトゥヤ…」のフレーズで始まる有名な主題歌や、カントン(缶々)ロボット・チョルのテーマソングである「カントンロボットの歌」をはじめ、印象深い楽曲が非常に多い。それもそのはずで、本作の音楽は、韓国初の創作ミュージカル『サルチャギ・オプソイェ』(살짜기 옵서예 済州島方言で「こっそりいらっしゃって下さい」の意)の作曲家であり、映画音楽でも既に1975年に『森浦(サムポ)へ行く道』(삼포가는 길)で大鐘賞音楽賞を受賞していたチェ・チャングォン(최창권)という人が担当している。

 

■ミュージカル『サルチャギ・オプソイェ』より、歌曲「サルチャギ・オプソイェ」 

歌:キム・スヨンとスカラオペラ合唱団

 

■映画『森浦へ行く道』

 

新人映画監督の児童向け作品にはオーバースペックなほどの大物を、キム・チョンギ監督は自身のデビュー作の音楽監督に選んだ。

 

もともとキム・チョンギ監督はキリスト教放送のラジオを熱心に聞いていた関係で、若いころからクラシック音楽に親しんでおり、音楽には造詣が深かった。趣味程度には自らギター演奏もたしなんだ。そして、彼の漫画家時代の元弟子が彼の影響を受けて始めたジャズギターで大成しており、チェ・チャングォンの下で働いていた。『ロボット テコンV』の楽曲の制作をチェ・チャングォンに依頼した背景には、こうした不思議な因縁があったという。

 

チェ・チャングォンが小学6年生の息子チェ・ホソプに歌わせたのが、韓国の国民的アニメソングとも言うべき『ロボット テコンV』の主題歌だ。チェ・チャングォン自身にとってもこの曲は、それまでの彼の多大な実績をも凌駕する代表作的な位置づけの作品となった。

 

 

 

 

キム・チョンギ監督は、アニメ作品におけるBGMやアニメソングの重要性を明確に認識していた。良質な主題歌・挿入歌のための投資を惜しまなかった。ディズニーアニメ鑑賞によって育てられた彼の感性の、大きな長所だったと言えるだろう。テコンV以上に露骨な盗作キャラクター物として最も強い非難を受け続け、キム・チョンギ監督自らも「黒歴史」と斬り捨てた『スペースガンダムV』(1983年)ですら、「主題歌だけは良かった」という高評価がよく聞かれる。韓国アニソン女王チョン・ヨジンの代表曲の1つとして、『スペースガンダムV』の主題歌は今もファンに愛され続けているのである。

 

韓国アニソン史におけるキム・チョンギ監督作品の卓越性は、もちろん、当時既に韓国に入ってきていた日本アニメの成熟したアニソン主題歌文化による影響もあったであろう。しかし彼のアニメ映画の場合、オープニング部分に作曲家渾身の良曲を投入する一方、曲に伴う映像のほうは、動かないキャラクターの止め絵とクレジットだけのオープニング映像が多い。『ロボット テコンV』でも、比較的単調な本編のハイライトシーンとスタッフクレジットがダラダラと続く。他作品でも日本のTVアニメのように、凝った動きと編集でオープニング映像を独立した一個の作品にまで仕上げようとする考え方はあまり見られない。この点、日本のアニメよりもむしろ、古典ディズニースタイルとの強い近似性を感じさせる。


テコンVシリーズ第2作『ロボットテコンV第2弾宇宙作戦』で人造人間の少女メリー(메리)が歌っていた場面の曲も、やはりチェ・チャングォンの作詞・作曲である。JASRACと提携しているAmebaブログの利点を活かして、ここにその歌詞全訳を日本のテコンVファンの皆様にご紹介しておこう。

 

歌詞をお読み頂ければ一目瞭然だと思うが、この歌は、キム・チョンギ監督の「ディズニー志向」を最も強く反映したアニメソングである。ディズニーアニメやアメリカン・ミュージカルの序盤演出の定番である「I want song」(主人公の願望をそのまま作品の主題として歌わせる歌)の形式を、忠実に踏襲して作られているのだ。

「負けヒロイン」的ポジションにも挫けずに人形大の姿で空を飛び回ってキム・フンを必死に助ける『宇宙作戦』のメリーは、『ピーターパン』のティンカーベルさながらであった。「人間になりたい」と切なく願う彼女の姿は、まさに『ピノキオ』そのものだった。

 

 

 

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「人間になりたい」(インガニ テゴパ 인간이 되고파)
作詞・作曲:チェ・チャングォン(최창권)歌:イ・ジヘ(이지혜)

 

ヘンボギラン ムオッシルッカ? オットンゴシルッカ?

행복이란 무엇일까? 어떤 것일까?

幸せって何? どんなものなの?

 

プンホンセギルッカ?パランセギルッカ?

분홍색일까? 파란색일까?

ピンク色かな? 青いのかな?

 

ヌネ ボイヌンゴシルッカ?

눈에 보이는 것일까? 
目に見えるのかな?

 

キップミラン ムオッシルッカ?オットンゴシルッカ?

기쁨이란 무엇일까? 어떤 것일까? 

喜びって何? どんなもの?

 

トゥングンゴシルッカ?モナンゴシルッカ?

둥근 것일까? 모난 것일까? 

丸いのかな? とがってるかな?

 

ソネ チャビヌンゴシルッカ?

손에 잡히는 것일까? 

手でつかめるかな?

 

ヌンカムゴ セギョブァド

눈 감고 새겨봐도

目を閉じて心に刻んでも 

 

ナヌン アルス オムネ

나는 알 수 없네 

私には分からない

 

チャムダウン インガンドゥルマニ 

참다운 인간들만이

本当の人間だけが

 

アルス インヌンゴシルッカ?

알 수 있는 것일까? 

分かるのかな?

 

ナド イジェヌン インガニ テゴ シプンデ

나도 이제는 인간이 되고 싶은데 

私も今は 人間になりたいけど

 

オンジェナ テルッカ?キドヘ ボルッカ?

언제나 될까? 기도해 볼까? 

いつなれるかな? 祈ってみようかな?

 

チャムデン インガニ テゴパ

참된 인간이 되고파

本当の人間になりたい

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3-2 もう1人の主人公

 

1976年に相次いで公開された韓国アニメ映画のテコンVシリーズ第1作『ロボット テコンV』(7月24日公開)と、続く『ロボットテコンV第2弾 宇宙作戦』(12月13日公開)において、最もドラマチックなキャラクターはキム・フンでも「勝ち組ヒロイン」のユン・ヨンヒでもなく、人造人間の少女メリーであろう。

 

絶対領域とポニーテールにオルチャンメイクのタレ目顔という先進的な外見に加え、自分自身もロボットなのに搭乗型ロボットの「メリーロボット」を愛機として与えられ、キム・チョンギ監督の漫画家としてのルーツに繋がる「フェンシング」の使い手でもあるという破格の設定優遇っぷりも、彼女の魅力を一段と輝かせている。

 

■『ロボット テコンV』における三幕構成の分析

 

本作の主人公キム・フンは、第1作の物語が始まる時点で既に、父から教わったテコンドーで世界屈指の強豪にまで成長しているテコンドーの達人である。父の殺害をきっかけに遺されたテコンVに乗って戦うようになり、クライマックスではテコンVから降りてテコンド―で戦う。

第2作でも冒頭は宇宙人ピコや日本人マサオとテコンドーで腕比べをしており、アルファ星からの攻撃に応戦してテコンVに乗り込み、地球滅亡の危機を救う。

父の死という一大事を経験してテコンVを継承したことを除き、キム・フンは物語の最初と最後で思想・行動や能力に基本的な変化が何も見られない。いわゆる「俺TUEEE系」の元祖、「変わらない主人公」である。

 

一方、メリーは第1作序盤では、悪のスパイ要員として造られた人造人間である。それが善と悪の間を揺れ動くようになって、人間になりたいという願望が生まれ、クライマックスでは善の側に立って、自己犠牲で散華する。

第2作では残っていた人工心臓を活用してミニサイズで再生させられ、小さな体でキム・フンを助けて奮闘し、最後は体に浴びたアルファ星からの謎の光線の影響で人間となる。

ストーリー展開と連動して本人が思い悩み、決断しながら劇的な変化を遂げてゆく。「成長する主人公」キャラクターの典型である。

 

メリーこそは紛れもなく、この2本の映画の「もう1人の主人公」なのだ。

 

■『ロボットテコンV第2弾 宇宙作戦』における三幕構成の分析

 

キム・チョンギ監督は必ずしも最初からSFロボットアニメを作りたかったわけではなく、『白雪姫』に触発され、「韓国のディズニー」を志してアニメの道に入った人だった。彼は、自身の長編映画監督デビュー作となったSFロボットアニメの中に、やや場違いな「ディズニープリンセス的ヒロイン」として、メリーを登場させているわけである。

 

さて、メリーは「機械の身体を持つ人造人間」であった。ロボットの分類の中では、人間によって直接操縦される「遠隔操作型ロボット」や「搭乗型ロボット」と異なり、与えられた人工知能の範囲で自ら思考・判断し行動することができる「自律型ロボット」に属する。彼女の高度な人工知能は人間と遜色ないレベルであり、明確な意志や感情もある。既にして人工の肉体を持った生命体、新種の「人間」と言えはしないか?

 

メリーはなぜ、「本当の人間になりたい」と願わねばならなかったのか?

 

そしてなぜ、映画第1作『ロボット テコンV』のラストで、「自爆」をしたのだろうか?

あの時、既にプルグン帝国の首領マルコム将軍は脱出済みであり、テコンVからの度重なる「光子力ビーム」空爆によるダメージの影響で、ピラミッド基地の崩壊は時間の問題だった。普通に考えればメリーも崩壊前にさっさと逃げればよいはずであって、わざわざ我が身もろとも基地を爆破する必然性はなかったはずだ。

 

 

テコンVシリーズ第1作と第2作のストーリーの中でメリーがたどった運命には、SF作品が自律型ロボット・人造人間を描写する時に避けては通れない「フランケンシュタインコンプレックス」と呼ばれる問題と、そして当時の韓国軍事政権の表現規制をめぐる特殊事情が、複雑に絡んでいる。ユ・ヒョンモクとキム・チョンギという『ロボット テコンV』を生み出した2人のクリエイターは、これらの課題をどのように解決しようとしたのだろうか?

 

 

3-3 フランケンシュタインか、ピノキオか

 

メアリー・シェリーによるゴシック・ホラー小説『フランケンシュタイン』(1818年)は、科学研究に没頭して新たな生命体の創造に成功したヴィクター・フランケンシュタインが、その「怪物」と呼ばれた生命体の醜さに心底嫌気がさして、「怪物」を育てる義務の一切を放棄した結果、その復讐を受けて家族も親友も妻も全部殺されていき、最後は自身が「怪物」の手にかかって息絶える物語である。

 

外見至上主義の弊害、植民地支配や身分・階級の上下関係などの「疑似的親子関係」の危うさを皮肉った社会派小説の側面、出産・育児に対する女性の不安と権利の主張、生まれたらそれで終わりという旧思考のダメ男が出生をコントロールしたがるパターナリズムへの告発、そしてBL要素・百合要素など、様々な角度から読み尽くされてきた。

 

この傑作から、後にSF作家アイザック・アシモフが「フランケンシュタインコンプレックス」という造語を生み出した。人間が自らの手で自律型ロボット・人造人間を創造することへの憧れと、その自律型ロボット・人造人間がいつか人間に牙を剥くのではないかという恐れを表わした言葉である。

 

 

 

 

 

キリスト教文化圏において「フランケンシュタインコンプレックス」は、科学の発展が宗教的生命倫理を脅かす問題として捉えられ、SF先品における重要テーマとして頻繁に採り上げられる。自然な出産に依らずして人間が好き勝手に生命を弄び、創造しようとすることは、造物主たる神の権限を侵す大罪だと伝統的には考えられてきた。その大罪の報いは、自律型ロボット・人造人間による「人間への反乱」としてしばしば表現される。アシモフは「フランケンシュタインコンプレックス」を解決する思考実験として、自身の小説の中で「ロボット三原則」を提唱した。

  1. 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  2. 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
  3. 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

-出典:アイザック・アシモフ著、小尾芙佐訳『われはロボット』 早川書房ハヤカワ文庫版P5

 

しかしアシモフ作品の中では、この三原則の矛盾を突き詰めた結果、自律型ロボットによる殺人や反乱が結局起きたりもするのである。

 

キム博士の殺害に関わり(止めようとはしていたが)、キム・フンとユン・ヨンヒのことも本気で殺そうとし、最後は自分を造ったカープ博士を裏切ったメリーも、まさに女フランケンシュタインの一面を持っている。聖書の教えに出来る限り忠実であろうとするユ・ヒョンモクやキム・チョンギにとって、SFジャンル参戦早々に早速ぶち当たった「フランケンシュタインコンプレックス」の問題は、大きな悩みどころであった。ディズニーに思い入れ深いキム・チョンギ監督がメリーのロールモデルとして真っ先に参照したのは、やはりディズニーアニメの『ピノキオ』(1940年)であったと思われる。メリーに「人間になりたい」というピノキオ的な願いを持たせることによって、その願いが叶うまでの過程を描くというストーリーラインの柱がようやく生まれたのだ。

 

 

映画『ピノキオ』の原作であるカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』(1882年)は、キリスト教道徳に忠実な児童文学として知られる。

ピノキオもまた自律型ロボット・人造人間の一種と言えるのに、なぜそれを作った話が「キリスト教的に正しい」とされるのか?

 

ピノキオはあくまでも、「操り人形」として作られた物だったからである。

 

人形職人のゼペット爺さんは息子がわりに精巧な「操り人形」を作ろうとしただけで、生命創造に関わる神の権限まで侵す意図はなかった。ただ、材料の丸太が心を持つ木であったために、結果的に自由意志を持つ操り人形としてピノキオが生まれたのである。むしろキリスト教的に言えば、材料である心を持つ木を作ったのは造物主たる神であるから、ピノキオ誕生も神の御業の範囲内だったということになる。

 

ピノキオは何度も悪事をやらかしては悲惨な目に遭うが、最後は改心する。勧善懲悪がストーリーの根幹である。子が父に背いて家を飛び出し、最後に父の元に帰ってきて受け入れられ更生を果たすのは、新約聖書のルカの福音書にある「放蕩息子」のたとえ話が下敷きとなっている。

 

■レンブラント・ファン・レイン『放蕩息子の帰還』

 

 

父なるゼペット、子なるピノキオ、聖霊の働きを表わすコオロギと、キリスト教の三位一体論を示す役者が揃っている。さらに聖母マリア的な存在として、仙女さまもいる。ピノキオが大魚の腹に飲まれてゼペット爺さんと再会し、大魚からゼペット爺さんを助け出して家に連れ帰った結果、ピノキオがついに「良い子」として認められ、願いが叶って本当の人間になれたというあの結末も、旧約聖書『ヨナ書』の、大魚の腹の中で三日三晩過ごしたという預言者ヨナの物語が元ネタである。

 

『ヨナ書』の預言者ヨナはある日、イスラエルの敵であるアッシリア帝国の都、ニネヴェの町へ行けと神に命じられる。行って、40日の間に悔い改めないと滅ぶと人々に説いてこいというのだ。敵国に行って反省を迫れという無茶な命令に全くヤル気が出ないヨナは、アッシリアとは反対方向に向かって旅を始め、海に突き当たると船賃を払って船に乗り、海へと逃げ出す。途中で嵐が起き、災いを招いた原因が自分であることを悟ったヨナは、船乗りたちに自分を海中へ放り込ませた。ヨナは大魚に飲み込まれ、その腹の中で三日三晩祈り続ける羽目となった。

 

大魚の口から吐き出されて命が助かり、ついに観念したヨナがイヤイヤながらニネヴェに行って教えを説いてみると、意外なことにニネヴェの人々はすぐに悔い改めて殊勝にも断食などを始め、ニネヴェの滅亡は回避されたという。

 

このヤル気のない預言者・ヨナの物語は、キリスト教的には「3日後の復活」という共通点から、イエス処刑後の復活の奇跡の予兆として解釈される。また、旧約聖書の中では珍しく「神の命令に背いた者も許されること」、「選民思想は誤りで、神はイスラエルの民以外も救うこと」、そして「行動しだいで運命は変えられること」を示している点で、教義変遷史上の大きなターニングポイントとなっている。

 

■ピーテル・ラストマン『ヨナと鯨』

 

操り人形が悲惨な体験を経て人間に生まれ変わる『ピノキオ』は、『ヨナ書』を経由してイエスの復活譚とも通じており、「神はイスラエルの民以外も救う」=「人間だけでなく操り人形も神は救いうる」という、神の愛の普遍性・平等性を敷衍した物語であったのだ。

 

このように考えて行くと、『ピノキオ』を下敷きにしたテコンVのメリーというキャラクターも、そもそも彼女の名前を横文字で綴ればMary、つまり『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリー(Mary Shelley)と同じファーストネームであり、さらに言えばMaryとは「マリア」の英語名でもあるという事実に、改めて大きな注目を払わずにはいられない。「マリア」は言わずと知れたイエスの母の名であり、また、「罪深き女」と呼ばれながらイエスの一行に付き従い、イエス復活の証人となった女性「マグダラのマリア」にも繋がる名前でもある。

 

『ロボット テコンV』第1作のラストでメリーがストーリー上いまいち必然性の薄い自爆を遂げた謎も、『ヨナ書』から解けてくる。一般的にユダヤ教・キリスト教で自殺はタブーとされるが、『ヨナ書』では、その教義に少しブレが出てくるのである。ヨナが悔い改めるためには、自ら願って海中に放り込まれるという自殺的行為が必要であったからだ。同様に、メリーも本当の人間になるためには、一度バラバラに壊れてティンカーベル風のコンセプトに改造されるという過程を経る宗教上の必要があったのだ。

 

ユン博士が技術力不足でメリーを元のサイズのままで作り直せなかったお詫びに頼んでもいない飛行能力オプションを追加してしまうというトンチキな伏線がなければ、メリーが宇宙空間を飛び回っている最中にアルファ星の光線を浴びるという展開も生まれなかった。ピラミッドと共に爆散したはずの人造人間メリーが「復活」して最後に本当の人間になれたのは、神がヨナを大魚の腹の中に飲み込ませて三日三晩の後に吐き出させ、ニネヴェの異邦人たちを助けたのと同じことである。そしてそれは、イエスの死後の「復活」の奇跡のあかしでもある。これならば「フランケンシュタインコンプレックス」とも矛盾なく、メリーの話を締めくくることができる。ファンタジーに寄り過ぎた微妙なオチという感想を言われがちな『ロボットテコンV第2弾 宇宙作戦』だが、あのような形で話に始末をつけたのは、キム・チョンギ監督にとっては必然以外の何ものでもなかっただろう。

 

以上の説を裏付けるその証拠にユン・ヨンヒは、『宇宙作戦』のラストで人間になったメリーを見つめながら、このような台詞を口にしている。

 

ハヌニム トウショッソ…

하느님 도우셔어..

「神様が、お救い下さった…」

 

 

そして、その場にいたチョルもフンも、ヨンヒの言葉に何も反論しないまま映画は終わる。

 

アルファ星からの光線による作用はあくまでも物質界の出来事に過ぎず、メリーが人間になれたことも大局的に見るならば全ては神の御心だったのだと、キム・チョンギ監督はヨンヒの口を借りて語らせ、その言葉を以って、2本の映画に及ぶ「I want」ヒロイン、メリーの物語の結論としたのである。

 

 

3-4 反乱するロボットたち

 

ここまで、「自律型ロボット」と「人造人間」という言葉をあえて併記しながら話を進めてきた。しかし、もともと「ロボット」(Robot)という言葉は、カレル・チャペックが1920年に発表した戯曲『R.U.R.』が初出である。チェコ語のrobota(強制労働)やスロバキア語のrobotonik(労働者)から作られた造語だ。『R.U.R.』のロボットは、化学合成した原形質を培養して作られたもので、機械人形ではない。「ロボットはあくまでも機械で、有機質の肉体を持つものを人造人間と呼ぶべきだ」といったような俗説は、明白な誤りである。人の造りしものである限り、両者に本質的区別はない。

 

そして宇賀伊津緒が1923年に『R.U.R.』の日本語翻訳版を出した時、「ロボット」に対応する日本語の訳語を「人造人間」としたのである。キリスト教圏特有のフランケンシュタインコンプレックスを踏まえた良訳だったと私は思っている。エヴァンゲリオンのことを庵野秀明監督が長年「人造人間」と言ってきた一方で、ある時「ロボット」とも呼んだことが、ファンの間に波紋を招いたことがある。しかし恐らくは庵野秀明監督も、『R.U.R.』を熟知した上でそういう表現をしているのであろう。

 

■カレル・チャペック著『R.U.R.』の宇賀伊津緒による邦訳『人造人間』(1923年)

 

『R.U.R.』では、自律型ロボットを大量生産して一切の労働を任せた人間はやがて生殖能力まで失ったあげく、ロボットたちに反乱を起こされて滅亡する。しかしロボットたちも自己を再生産する方法が分からず、年月の経過と共に次々と壊れて行く。ラストではロボットの男女2体が「愛」に目覚め、人類最後の生存者がそれを見て祝福する。

 

「行け、アダム、イヴ、何處へでも。お前達の世界だ!」 

 

ここでも、作品の裏テーマには聖書がある。

 

ドイツ映画『メトロポリス』では、キリスト教モチーフは一層濃くなる。繁栄する未来都市メトロポリスはバベルの塔である。支配者である上層階級と地下に住む労働者階級の分断が描かれ、調停者を自負する女性マリアが労働者の心をつかむが、支配者側に拉致されてしまう。

 

■『メトロポリス』(1927年)

 

労働者の団結を崩すためにアンドロイドの偽マリアが地下に送り込まれるが、かえって偽マリアが労働者を扇動するようになってしまい、大規模な反乱が起きてメトロポリスに破局が訪れる。聖書に由来する「マリア」というヒロインのネーミングが、『テコンV』のメリーを想起させる。

 

キリスト教の影響が比較的薄い日本においては、自律型ロボットはどのように表現されてきただろうか。『鉄腕アトム』では、アトムを作った天馬博士とアトムの関係が、フランケンシュタインと怪物の関係を彷彿とさせる。しかし、天馬博士がアトムが見捨てて以降、お茶の水博士がゼペット爺さんのような愛情でアトムに接する。

 

『フランケンシュタイン』のヴィクター・フランケンシュタインは、怪物に「せめて伴侶となる同類の女を作ってくれ」と要求され、拒絶した。その結果、破滅を招いた。アトムのためにウランやコバルトなどの疑似家族ロボットを後から製造して贈る行為は、『フランケンシュタイン』のやり方の逆を行くものでもある。「原子力」を肯定的に扱ったように見えるキャラクター名といい、「ロボット法」によってロボットに一部の市民権が認められている世界設定といい、アトムたちが人類との共生を実現していく明るい未来が描かれたかに見えた。

 

だが1963年から始まったテレビアニメ第1作の最終話「地球最大の冒険」は、アトムが一人で太陽へ特攻する自己犠牲で話が終わった。そして、その後日譚である漫画「アトムの最後」では、結局ロボットが人類を支配するようになったディストピアが描かれた。まるでイエスのように復活を遂げたアトムも、既に旧型なのであまり役には立たないという、文明の進歩に対する絶望感に満ちたやり切れない幕切れになっている。

 

 

『鉄腕アトム』には複数の最終回があり、「アトムの最後」だけが単一の結末ではない。だが、敬虔なクリスチャンではなかったもののキリスト教をテーマとした作品を多く手掛けてきた手塚治虫は、やはり科学の発展に対して楽観的な考えばかりを抱いていたわけではなさそうである。

 

韓国でも、『鉄腕アトム』は1970年からTVで放送された。例によって日本アニメであることは隠して放映していたので、サッカーKリーグの浦項(ポハン)スティーラーズは、1985年から1994年までの間は「思い出のアニメキャラ」として鉄腕アトムをマスコットに採用し、「浦項アトムズ」(포항 아톰즈)と名乗っていた。そういった珍事も起きてしまう程度には、アトムは人気キャラだったようだ。

 

 

横山光輝の漫画『バビル2世』(1971年)では、暗黒の帝王・ヨミが様々な自律型ロボット兵器を繰り出して超能力少年バビル2世に挑む。バビル2世に従う「三つのしもべ」をヨミが操ってしまう展開が出てくるところにも面白みがあった。本作はキム・チョンギ作品に大きな影響を与えている。『バビル2世』は、基本設定を徐々に明かしていくのではなく、物語の早い段階で、聖書の「バベルの塔」のことを現存する建物であり宇宙人の遺物なのだと一気に畳みかけて断定する叙述法を使っているが、『ロボットテコンV第2弾 宇宙作戦』でも同様に、映画の冒頭でインカ帝国・ナスカ地上絵・古代マヤの宇宙飛行士絵画などの「世界の七不思議」系豆知識を列挙して、宇宙人・UFOと関連付けながらナレーターが説明を加えている。2017年の韓国映像資料院のインタビュー(口述採録)で、キム・チョンギ監督はこう述べている。

 

「オープニングシーンでそういうことをはっきり言ってやれば、本当みたいに聞こえるじゃないか。 そう、私の、実際『テコンV』の時もインカ文明みたいなものをそっとオーバーラップさせたでしょ? だからこそ、一段と何か実感があるように見えて、事実感があって。」

 

どんな荒唐無稽な設定でも最初に言い切っておけば、妙な説得力が生まれてくると考えたわけだ。これは『バビル2世』に学んだ手法だったと思われる。

 

『黄金の翼』シリーズは『バビル2世』を大いに参考にしており、『ロボットテコンVと黄金の翼の対決』(로보트 태권V와 황금날개의 대결)に「バベルの塔」が出てくるのも『バビル2世』の影響であったことは、キム・チョンギ監督も上記のインタビューの中で認めている。

 

■『ロボットテコンVと黄金の翼の対決』(1978年)

 

1970年代の韓国で『バビル2世』正規版の翻訳コミックはなく、TVアニメも放映されてはいなかったが、海賊版コミックは流通していた。なお、『ロボット テコンV』シリーズのコミカライズを担当したキム・ヒョンベ(김형배)は、後に『バビル3世』なる漫画の著者にもなっている。

 

『テコンV』のメリーのような「善と悪のはざまで悩む自律型ロボット」という設定それじたいは、それほど斬新なものではない。実写特撮も作られヒットした石ノ森章太郎『人造人間キカイダー』の原作漫画第1巻は、『ピノキオ』の絵本を読み聞かせるシーンから始まる。

 

 

 

悪の誘惑に何度も負けてなかなか人間になることができなかったピノキオの物語が、不完全な良心回路で苦しむキカイダーのその後の運命を暗示している。

 

「テコンVはマジンガーのパクリ」と言いたい向きの方は、『テコンV』第1作・第2作をきちんと見た上で、TVアニメ『マジンガーZ』第61話と第67話あたりとガッツリ比較した方が面白いのではないかと私は思う。

 

『マジンガーZ』第61話には、ローレライというドイツ系の美少女転校生キャラが出てくる。

彼女はハインリッヒ・シュトロハイム博士という科学者の娘である。

 

 

シュトロハイム博士は独立独歩のマッドサイエンティストで、マジンガーZを作った亡き兜十蔵博士に激しいライバル心を燃やす一方、ドクターヘルにも逆らっていた。主人公・兜甲児の弟シローがローレライとイイ感じになって淡い初恋を経験するが、実はローレライの正体は、シュトロハイム博士が生涯を賭けた自信作・機械獣ラインX1の頭脳部分に当たるアンドロイドだった。あしゅら男爵にラインX1の引き渡しを要求されて断ったシュトロハイム博士は殺害される。ローレライは止めるシローを振り切り、シュトロハイム博士の遺志を継いでラインX1と合体。マジンガーZに最強ロボ決定戦を挑んで敗死する。

 

正義側サイドの人物と心を通わせた女性の自律型ロボットが、敵に回る展開。

自律型ロボットに操縦される、搭乗型ロボット。

鞭のようにしなる、巨大女性ロボットのポニーテール型武器。

『ロボット テコンV』のメリーとメリーロボットの原型は、明らかに『マジンガーZ』のローレライとラインX1にある。

 

 

『マジンガーZ』第67話で、主人公・兜甲児は鉄仮面軍団に追われていた女性を助ける。エリカと名乗る彼女は、教会で祈っていたら突然襲われたこと以外の過去の記憶を全て失っていた。甲児とエリカは次第に惹かれ合うようになるが、エリカの正体は、あしゅら男爵がスパイとして送り込んだ人造人間エスピオナージR1だった。甲児の殺害を命じられるエリカ。しかし、彼女の甲児に対する思い、そして「人間になりたい」と神に捧げた祈りは本心からのものだった。結局エリカは自分の身を犠牲にして、甲児を窮地から救う。

 

 

ラストシーンで甲児は「神様なんているわけないのに」と涙ながらに吐き捨て、エリカの形見の十字架を海に向かって投げ捨てた。十字架は海には落ちず、空へ昇って星となる光景が映し出される。そばにいた弓さやかは「やっぱり神様はあの人の願いを聞いて下さったのね」と、甲児の言葉を真っ向から否定する発言をしてみせる。『魔王ダンテ』『デビルマン』の系統を継いだ永井豪作品である『マジンガーZ』は、この回でも「神」に対する見解は否定・肯定どっちつかずの「両論併記」のままで終わらされている。ここが『ロボットテコンV第2弾 宇宙作戦』のラストとの大きな違いである。

 

『マジンガーZ』第67話の悲恋の物語をキム・チョンギ流にアレンジしていくところから、女スパイロボット・メリーの設定も構想が練られていったのではないだろうか。

 

 

 

3-5 『鉄人三国志』の呪縛

 

韓国アニメにおける自律型ロボットの歴史はパク・ヨンイル監督の『黄金鉄人』(1968年)に出てくる敵キャラの「青銅ロボット」から始まった。1971年にはヨン・ユス監督が日本アニメの鉄腕アトムから題名だけパクってきた『稲妻アトム』 번개아텀 を発表したが、この作品のアトムは超能力を持ったオーロラ星の王子であって、自律型ロボットではなかった。

 

■『稲妻アトム』(1971年)

 

 

前回記事で解説した通り、1973年の第4次映画法改正によって『黄金鉄人』や『稲妻アトム』のような娯楽性一辺倒のSFアニメ映画は製作が難しくなった。

 

一方、朴正煕政権は出版界においても表現規制を強力に推し進め、「俗悪漫画」はその攻撃の格好の標的とされた。大きなきっかけとなったのが、1972年のチョン・ビョンソプ君自殺事件である。1972年1月31日、当時国民学校(小学校)の6年生だったチョン・ビョンソプ君が、自ら命を絶った。軍事政権の息がかかった御用マスコミは自殺の原因を彼の愛読書だった漫画『鉄人三国志』だと断定して、一斉に漫画バッシング報道を繰り広げた。

 

■チョン・ビョンソプ君の自殺を報じる朝鮮日報1972年2月2日号。

「死を招いた 漫画の真似」 「“生き返り”実演 国民学校生徒」

「この地から不良漫画を追放せよ」との見出しが躍る。

 

『鉄人三国志』は、三国志の武将たちを自律型ロボットにした漫画だったという。ロボットなので、作品内では死んだ武将があっさり生き返る。生前、ビョンソプ君が「自分も死んで生き返りたい」と漏らしていたことがあると、ビョンソプ君の姉が新聞社の取材に答えた。この証言を唯一の根拠として、自殺の原因は漫画だと決めつけられた。新聞はここぞとばかりに漫画を叩き、社会には漫画焚書運動の嵐が吹き荒れた。こうして地ならしが済んだところで、軍事政権による漫画出版業界への統制が一気に進められた。

 

この出来事が、その後長らく韓国の漫画・アニメ界における「自律型ロボット」表現を萎縮させる方向にも働いた。『鉄腕アトム』のTV放映もこの年で打ち切りになった。「自律型ロボット」は禁止ではないにせよ、やはり『鉄人三国志』の轍を踏むのは避けたいという恐れが作家たちを縛った。そもそも考えてみれば、『R.U.R.』や『メトロポリス』以来、自律型ロボットというのは「意志を持って目覚めた労働者階級」の比喩でもあった。国民の自由を抑圧しまくっている軍事政権側にとって面白い表現であるはずがなかった。

 

ユ・ヒョンモクがユープロダクション製作で科学教育名目の国産SFアニメを作ろうと企画を立てた時に、主人公側のマシンを自律型ロボットではなくマジンガー風の搭乗型ロボットにしようと考えたのは、こうした経緯を考えれば極めて自然な流れだったと言える。そして、『ロボット テコンV』の成功に追随して、5か月後の1976年12月には東亜広告が『鉄人007』(ハン・ハリム監督)というガッチャマンを模倣したアニメ映画を公開したが、この作品にも、取ってつけたようにガイキングもどきの巨大搭乗型ロボットが出てきた。

 

■『鉄人007』(1976年)

 

こうして、韓国にも搭乗型ロボットアニメの群雄割拠時代が幕を開けた。

 

では、メリーはなぜ、あえて「自律型ロボット」というキャラクター設定を付与されることになったのか。キム・チョンギ監督によれば、それも「検閲を避けるため」であったという。フンとヨンヒとの間に三角関係を形成する女スパイを出したかったが、そのスパイが人間の少女で、しかも盗みや人殺しにまで加担するとなると、当時の韓国の表現規制の下で映画公開に漕ぎつけるのは実現困難と思われた。そこで、『鉄人三国志』以来みんなが避けていた「自律型ロボット」を正義側でなく悪の側に配置して、そのロボットに共産主義の女スパイの属性をかぶせることによって、検閲通過を狙ったわけだ。そこから始まって、上述の通りフランケンシュタイン、ピノキオ、マジンガーZなどの先行作品を参照しながら独特のストーリーとキャラクターが組み立てられていったのである。

 

キム・チョンギ監督の作戦は当たり、『ロボット テコンV』は無事に上映許可を受けて1976年7月24日に公開された。映画館には家族連れが押し寄せた。ちょうど、TVでも海外ドラマ『600万ドルの男』(韓国では1976年7月9日放送開始)が大ヒットし始めた時期だった。『600万ドルの男』は、主人公のスティーブ・オーステインやヒロインのジェミー・ソマーズ(スピンオフ作品『地上最強の美女バイオニック・ジェミー』の主人公)などのサイボーグ戦士が活躍するアクション作品である。メリーという女性ロボットキャラクターが事実上「裏主人公」を演じたテコンVシリーズの第1作・第2作は、完全に時流にフィットした。

 

だが、キム・チョンギ監督じしんは、メリーというキャラクターを、『テコンV』の成功要因として果たしてどの程度認識していたのだろうか?テコンV第3作『水中特攻隊』に、メリーは登場しなかった。ジ・サンハクが書いたテコンVシリーズ第4作用のシナリオ『地下大脱出』ではメリーが再登場する(そしてユンヒの正妻的ポジションが確定する…)。しかし、『地下大脱出』は映画化がとうとう実現しないまま今日に至っている。メリーの退場が、その後のシリーズの人気低下を招いてしまった印象は拭えない。

 

韓国漫画・アニメ業界における「自律型ロボット」キャラクターへの微妙な取り扱いは、その後もしばらく続いた。テコンVシリーズの第1作・第2作では作画スタッフの中心メンバーとして活躍したイム・ジョンギュ監督の『電子人間337』(전자인간337、1977年)には、『600万ドルの男』のオマージュで総工費「33億7千万ウォンの男」という設定の自律型ロボット・電子人間337が主人公格で登場するが、作中、電子人間337よりも、電子人間337に変装したテコンドー少年マルチのほうが活躍してしまうという不思議な展開になっている。

 

■『電子人間337』(1977年)

 

 

パク・スンチョル監督の『宇宙少年ケーシー』(우주소년 캐시、1979年)に至ってようやく、『鉄腕アトム』タイプの普通の自律型ロボットヒーローアニメが作られるようになった。

 

■『宇宙少年ケーシー』(1979年)

 

しかし、『鉄人三国志』の呪縛が解けて、軍事政権が「自律型ロボット」表現に特に目くじらを立てなくなっても、相変わらずキム・チョンギ監督は、自身のキリスト教的な生命観を作品の中へと入れ込むことに余念がなかったようだ。

 

『スペースガンダムV』(1983年)で悪役宇宙人ハデスは、ネズミやクモを巨大化させて兵器として使うという、まさに「造物主たる神の領域」を侵す大罪に手を染めている。そしてハデス打倒のために呼び出されたスペースガンダムVは、十字架にかけられたイエスのような格好で岩から出てくる。

 

 

『'84テコンV』(1984年)は、わが子に先立たれた親が、子の身代わりにロボットを作ってしまうという、『鉄腕アトム』をなぞった所から物語が始まる。この映画もキム・チョンギ監督作品らしく、強烈なフランケンシュタインコンプレックスに満ちている。80年代に入っても、監督にとって「心」を持った自律型ロボットを作る行為は、神への反逆だと映っていたのだ。少女漫画家出身のチャ・ソンジン(차성진)が作画を担当した本作の原作コミック『ロボットテコンVとロボットカンガ』とは異なり、キム・チョンギ監督は映画の中で、当時の韓国アニメでは珍しい女性科学者キャラのチョ博士にこの「大罪」の業を背負わせている。

 

■チャ・ソンジン『ロボットテコンVとロボットカンガ』

 

『'84テコンV』でテコンVとキム・フンは、シンクロした瞬間に十字のポーズを取る。南斗鳳凰拳天翔十字鳳よりも1年早い。やはりこれも『スペースガンダムV』と同様、科学万能主義に対するアンチ表明としての十字架のポーズだったであろう。

 

 

結局チョ博士は、自分自身が作ったロボットに殺されて死ぬ。

映画のラストでは、チョ博士は神の怒りを買ったのであるという唐突なお説教が入る。

 

 

 

『テコンV』第1作・第2作の場合、自律型ロボットを作ったカープ博士は、「神の怒り」を免れなかった。

しかし、「作られた側」のメリーは許された。

これは、プロデューサーであるユ・ヒョンモク特有の、神学校で教えられる神学とはやや異った、実存主義的なキリスト教理解がシナリオに反映されたものと考えられる。

 

実存主義とは、何か?

「実存は本質に先立つ」ということである。哲学者サルトルの有名な言葉だ。

 

ざっくり簡単に説明すると、今・ここに現実に存在している個人(=実存)が、他の人たちと関わりながら社会の中でどう生きていくかが何より大切であるという考え方。

そして、「私は〇〇だ。だからこうすべきだ」「〇〇だからこうあるべきだ」といったように、先に「私は〇〇だから」「あなたは〇〇だから」というその人の「本質」を定義することに夢中になっているようではダメなんだという考え方。

これが、いわゆる実存主義である。

 

本質にこだわることがどうしてダメなのかと言うと、実は「存在には本質がない」からである。「男」と「女」とか「親」と「子」とか、「日本人」「韓国人」、あるいは「人間」といったような言葉ひとつで括られてしまうような、個性のない、純粋な本質だけの存在というのは本当はどこにもいない。現実に存在しているのは、あくまでも今・ここに生きている個々の人生だけである。

 

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というボーヴォワールの格言をもじって言うならば、『ロボット テコンV』におけるメリーは、「人はロボットに生まれるのではない、ロボットになるのだ」という実存主義的人間観を実践した登場人物であったとも言えよう。

 

 

メリーが人間ではなく自律型ロボットとして造られたこと、それじたいに罪はない。「ロボット」であり「子」であるのに、「人間」であり「親」であるカープ博士に背いたこと、それじたいも罪には問えない。そうした「本質」からの議論に意味はない。大事なのはメリーがどう生きようとしたか、これからどう生きるのかである。過去の罪を悔い改めて滅亡を避けた『ヨナ書』のニネヴェの民のように、行動しだいで運命は変えることができるはずだ。そのような独特の思想が、メリーの物語には込められていた。

 

メリーというキャラクターの魅力について、思いつくままに長文を綴ってみた。続いて、もう1人のヒロイン、ユン・ヨンヒの作品内での扱いについても考えてみたい。併せて、製作陣側のキリスト教思想・反共思想や政権側の科学教育振興に関する思惑と並んで、『ロボット テコンV』を生み出すに至るもう1つの原動力だった朴正煕政権の体育政策についても振り返っていきたいと思う。以下、次回に続く。