第2回 テコンVとキリスト教的反共主義

 

目次

 

 

2-1 ピラミッドからの脱出

 

1976年公開の韓国アニメ映画『ロボット テコンV』では、主人公メカのテコンVに敵対するロボット軍団の名前はプルグン帝国(붉은제국 プルグンジェグク=「赤い帝国」と言う意味)で、そのシンボルマークは「赤い星」だった。

 

 

そして、ルッキズムの犠牲者としての一面も描かれた悪役・カープ博士(카프 박사)の名前にも、きちんと元ネタがあった。

 

 

赤色でカープなら広島かな?などと思ってはいけない。

カープ(카프)とはKAPF、すなわち朝鮮プロレタリア芸術家連盟 Korea Artista Proleta Federacioという、実在したプロレタリア文学者団体の略称だったのである。

 

韓国の体制と相容れない共産主義への敵意を旗幟鮮明にした「反共アニメ」としての側面を、『ロボット テコンV』という作品は持っている。

 

しかしその一方で、この作品の設定におけるプルグン帝国の本拠地は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)やソビエト連邦などの共産主義国家ではなかった。

 

プルグン帝国の本拠地は、エジプトである。

ピラミッドの中に秘密基地があり、そこに人間の科学者やスポーツ選手を拉致しているのだ。

 

 

なぜ、「エジプト」が悪の帝国の本拠地とされたのか?


子供の想像力をかき立てるエキゾチックな「世界の七不思議」的風景として、単にピラミッドを出してみたかっただけという動機も、確かにあっただろう。しかし、第1回の記事をお読み頂いた賢明な読者諸氏は、「人々を奴隷の鎖に繋ぐ悪魔の帝国」として「古代エジプト」を描き出した、もう1つの物語の存在に既にお気づきのことと思う。

 

その物語とは何か。

旧約聖書の「出エジプト記」(エクソダス)である。

神の民を奴隷としていじめ抜いてきた旧約聖書における「古代エジプト」のイメージと、現実の「北朝鮮」の脅威がミックスされて、プルグン帝国にオーバーラップされているのだ。

 

前回記事では『ロボット テコンV』を、同じキム・チョンギ監督作品であるキリスト教アニメ『ダビデとゴリアテ』と比較して、外見至上主義の問題を中心に、監督の聖書解釈が2つの映画へ与えた影響を確認した。今回は、敵組織であるプルグン帝国の設定から、本作製作当時の韓国におけるキリスト教的な反共主義思想の成り立ちと『ロボット テコンV』との関係について、さらに考察を深めていきたいと思う。

 

西暦紀元前13世紀ごろ、新王国時代のエジプトで、弱小民族であるユダヤ人は奴隷とされていた。しかし、神のお告げを聞いて様々な奇跡を示す指導者モーセに率いられたユダヤ民族は、「約束の地」に自分たちの理想の国を建国するため、エジプトを大挙脱出していった。これが、映画『十戒』などによって非キリスト教徒にも広く知られる、「出エジプト」の伝説である。


『ロボット テコンV』では、ヒロインの1人であるユン・ヨンヒの父親、ユン博士がプルグン帝国に拉致される。

そして映画の終盤で、ピラミッドから脱出を図るのである。まさしく、「出エジプト」以外の何ものでもない。

 

 

韓国はカトリックとプロテスタントを合わせれば国民の約3割がキリスト教徒であり、アジアの中ではフィリピンに次いで最もキリスト教の布教が大成功を収めた国である。近現代史において亡国と分断を経験してきた韓国人の歴史は、古代ユダヤの民の「出エジプト」の物語と多少なりとも似通った所がある。聖書の物語に対する情緒的共感が得られやすいことも、布教が進んだ理由の1つだろう。

 

20世紀の韓国人は、主に3つの「古代エジプト的なるもの」による隷属状態に苦しめられてきたと言われる。

 

第1に、「大日本帝国」による植民地統治。

第2に、「北朝鮮」による半島北部の支配と朝鮮戦争における南侵、そして拉致被害。

第3に、「韓国」じしんの政府や軍部・財閥による民衆への圧迫。すなわち、「格差のピラミッド」。

 

この3つの「古代エジプト的なるもの」から逃れようと苦闘し続けた韓国人にとっての「出エジプト」の道のりは、そのまま、韓国におけるキリスト教発展の大きな原動力ともなってきた。

 

・もともと韓国文化の中には民族の始祖・檀君伝説に見られるような一種の救世主待望論が伝統的に存在しており、また、シャーマニズムや儒教の「天」概念が根付いていたことも、キリスト教を現世利益・世直し的な理解の下で熱狂的に受け入れる宗教的な素地となった。

 

・近代朝鮮におけるキリスト教の布教は、西洋人宣教師だけが教会に籠って教えを説くのではなく、現地の民衆に積極的に伝道を任せていく方針が取られ、民衆の口コミパワーによって信徒は年々増加していった。

 

・李氏朝鮮王朝の儒教優遇政策で長い間弾圧を受けた仏教やシャーマニズムは極度に衰退しており、そして李氏朝鮮王朝じたいの弱体化によって儒教も国家的な権威を失っていた。その結果生まれた巨大な宗教的空白の中で、キリスト教は着々と浸透していった。

 

・聖書に記述されるユダヤの民の過酷な歴史は亡国の悲劇に直面した朝鮮の人々の大きな共感をかちとり、日本による植民地支配は結果的に、神社参拝強要への抵抗運動や独立運動を支える理念としての「キリスト教」への民族的信頼感を、飛躍的に高めた。すなわち、日本からの「出エジプト」経験である。

 

・そして何より、キリスト教は韓国人にとって、「西洋的教養」「上流階級」そして「アメリカ」への接続を実現するパイプでもあった。2020年の第21代韓国国会議員選挙で当選した300人の議員のうち、キリスト教徒であると答えた議員の割合は実に68%にも達する(プロテスタント42%、カトリック26%)。一般国民のキリスト教徒の割合に比べて倍以上多い。このことは、韓国におけるキリスト教の立ち位置がどちらかと言えば「支配階層側の宗教」であることを端的に表わしている。

 

韓国独立運動をアメリカから指導した李承晩(이승만 イ・スンマン)初代大統領は、神学校で学んだ経験を持つ熱心なプロテスタントだった。彼の著書『韓国教会の迫害』は、大日本帝国によるキリスト教迫害を全世界に知らせ、アメリカ世論を朝鮮独立運動支持へと転換させた。

 

・李承晩博士『韓国教会の迫害』

 

国会開設の時も大統領就任式の時も牧師を呼んで神に祈りを捧げた彼の、共産主義に対する強烈な憎悪と非妥協的態度は、南北分断の状況を生み出す決定的な要因の1つとして働いた。李承晩政権時代はクリスマスが祝日化されるなど露骨なキリスト教優遇政策が採られ、公務員の採用にもキリスト教徒が有利と噂されるような世相となった。朝鮮戦争勃発時にアメリカが韓国を見捨てることなく迅速な救援に動いたのも、李承晩大統領がアメリカ在住時に築いていたプロテスタント人脈がホワイトハウスを動かした面が大きい。

 

また、米軍と韓国軍が反撃を開始してソウルを奪還し、さらに38度線を越えて北へと進撃していく過程において、北朝鮮当局に協力した疑いをかけられた人々が次々と投獄され虐殺される事件も頻発した。共産主義者ではないことをアピールして米軍や韓国軍による保護を受けるためには、キリスト教に改宗することが手っ取り早い近道だった。戦災で韓国全土が焦土と化し国民生活が窮乏する中、キリスト教会と米軍のコネクションによる物資入手への期待も大きかった。

 

朝鮮半島北部は、もともとは南部よりもキリスト教徒が多く、特に平壌では1945年にはキリスト教徒の割合が人口の13%に達して、「東洋のエルサレム」と呼ばれるほどだった。ソ連占領下で朝鮮労働党の党員がまだ5000人足らずだった時、クリスチャンの曺晩植(조만식 チョ・マンシク)が率いる朝鮮民主党には既に50万人の党員がいた。

 

・曺晩植

 

したがって当初は即時の共産化は無理と考えられ、キリスト教系民族主義者と共産主義者の合作による統治機構樹立が模索されていた。だが、やがて朝鮮労働党による事実上の一党独裁が確立されたことにより、キリスト教徒は共産主義政権から徐々に圧迫を受けるようになった。曺晩植も監禁され、朝鮮戦争の間に処刑された。北のキリスト教徒たちは大挙して故郷を捨て、南の韓国へ移住していった。北から南への「出エジプト」である。彼らの多くは韓国社会において、熱心なキリスト教伝道と共産主義批判の唱道者となった。

 

かくして韓国ではキリスト教が国民の間にしっかり根を張り、爆発的な教勢拡大が起きた。

 

プルグン帝国の本拠が「エジプト」に設定され、また、首領マルコムも「悪魔」の翼を持つ者としてデザインされた背景には、「キリスト教的反共主義」とでも言うべき1つの思想的特徴が深く刻まれていた。それは、当時のキム・チョンギ監督、そしてテコンV誕生のもう1人のキーマンである本作のプロデューサー、ユ・ヒョンモク監督の両者に共通した傾向だったのである。

 

 

 


2-2 キム・チョンギ監督の生い立ち

 

 

『ロボット テコンV』の生みの親、金青基(김청기 キム・チョンギ)監督は1941年4月18日、日本支配下の朝鮮・京城(現在の韓国の首都、ソウル特別市)に生まれた。日本の宮崎駿や富野由悠季と同じ年の生まれである。彼の半生は、韓国映像資料院による2017年のインタビュー(口述採録)の中で詳細に語られている。このインタビューにおける監督の口述を基に、その人生の足跡を以下要約して記す。

 

彼の父親は鉄工場や革工場を経営しており、自宅には映写機があって日本のチャンバラ物の活動写真を上映してくれたという。比較的裕福な家庭の9人兄弟の7番目(三男)として、伸び伸びとした幼少期を過ごしていたようだ。

 

日本の敗戦に伴う祖国の解放後、一家は「敵産家屋」(旧・日本人住宅)に住んだ。その家は、壁が白塗りだった。幼いキム・チョンギ少年はいつもトイレの白い壁に絵を描いて楽しんだという。父親も落書きを一切叱りつけることなく、「良く描けている」「才能がある」と常に絵を褒め、励ました。褒めて育てる父親の教育方針が、「アニメ作家キム・チョンギ」を作り上げたわけである。

 

ところが1950年6月25日に朝鮮戦争が始まり、首都ソウルはわずか3日で陥落して、キム・チョンギ一家が住む町にも北朝鮮の人民軍が入ってきた。キム・チョンギ少年の父親は当時50歳で、地域の青年団長として人民軍との折衝に努めていたが、米軍と韓国軍がソウルを奪還する8日前の夜、家に突然やってきた北朝鮮の内務省職員に父親は連行され、そのまま永遠に行方知れずとなった。

 

・キムチョンギ監督公式Youtubeチャンネルで父親の拉致について監督自らが語った動画:

「[6.25特集]私がトリ将軍を作った本当の理由!」

 

 

あと8日やり過ごしていれば、あるいはあと8日早く米軍が来ていればと悔やむ家族の悲しみは、いかばかりであっただろうか。過酷な運命は、少年と父親の間を無惨にも引き裂いた。この「北朝鮮に父親を拉致された」「優しかった父親を共産主義者に奪われた」という体験が、キム・チョンギ監督の北朝鮮・共産主義に対する一切の感情の出発点であったことは間違いないだろう。

 

前述のとおり、キリスト教が韓国国内で急速に広まったのも、この朝鮮戦争が重要な契機だった。父親を失ったキム・チョンギも、時代の流れの中で信仰を心の支えとしながら、自身の政治的信条として共産主義への反発を固めていったものと見られる。

 

朝鮮戦争休戦後、米軍が捨てたコミック本を読みふけって漫画家になる夢を抱き、見よう見まねの独学で自ら漫画を描くようになったキム・チョンギは、18歳の時にフェンシング漫画『無敵のオフリン』(무적의 오프린)でプロデビューを果たした。公務員になった兄の給料の3倍を稼ぎだす売れっ子漫画家生活のかたわら、ソラボル芸術大学(現在の韓国・中央大学校芸術学部)の絵画科にも通って絵の技術をさらに磨いた。

 

キム・チョンギが漫画家として活躍した60年代前半の韓国は、1960年の4.19革命で学生・市民がデモによって李承晩大統領を国外逃亡に追い込んだ「自由」の気風と、翌1961年の5.16軍事クーデターで政権を握った朴正煕(박정희 パク・チョンヒ)大統領率いる軍部が国民の権利を徐々に締め付けていく「統制」の空気が相半ばする時代だった。

 

漫画界は貸本漫画が隆盛を極めたが、一方で軍部による表現規制も年々厳しくなっていった。

 

たとえば、人が銃を撃つシーンを1つのコマの中に描くだけで、過剰な暴力描写として御法度になった。作家たちは苦肉の策として人と銃を別々のコマに描かねばならなくなった。悪党の台詞でも「이놈(イノム、こいつ)」という言葉はOKだが「이 새끼(イセッキ、この野郎)」や「이 자식(イチャシク、このガキ)」になると教育上有害として削除されるといったように、細かい部分にまで検閲の手が及ぶようになっていったのである。

 

自由に物が描けない時代状況の下で漫画家活動に行き詰まりを感じていたこの頃、キム・チョンギは大韓劇場で公開されていた1937年のディズニーアニメ映画『白雪姫』を観て、大きな感銘を受ける。

 

 

それまでも日本やアメリカのアニメを観たことはあったが、フルアニメーション映像と印象的な歌がストーリーと一体化した総合芸術としてのディズニーアニメの世界に彼は衝撃を受け、完全に魅了された。彼の作品がロボットアニメだろうが聖書アニメだろうが何かとディズニー志向なのは、『白雪姫』体験が原点である。

 

これからはアニメーションの時代だとの思いを強くした彼は「韓国のディズニーにならなくては」という新たな夢を抱いた。

そして、大幅な収入減も厭わず漫画家を休業し、韓国初の長編アニメ映画『少年勇者ギルドン』(1967年、シン・ドンホン監督)を製作・公開した世紀商事へ入社してアニメーターへと転職した。

 

敵産家屋の白い壁への落書きから始まって、ここにようやく「アニメ作家キム・チョンギ」が誕生したのである。

 

 

2-3 『ロボット テコンV』か、『トリ将軍』か

 

世紀商事でキム・チョンギは、パク・ヨンイル(박영일)監督の下についた。パク・ヨンイル監督は弘益大の美術学科出身で、1961年にアニメ劇映画『アリとキリギリス』を製作した人である。『少年勇者ギルドン』(1967年)が韓国初のアニメ映画とよく言われるが、正しくは「韓国初の長編アニメ映画」である。短編ならば、パク・ヨンイル監督の『アリとキリギリス』のほうが6年早い。

 

 

 

当時の韓国アニメ作家の中では最もディズニーに近い欧米的なセンスを持っていた人であり、ジョン・ハラスのアニメーション製作理論を韓国へ輸入紹介した人でもある。キム・チョンギ監督に非常に大きな影響を与えた韓国アニメ草創期の巨匠だった。

 

キム・チョンギが初めて動画マンとして参加したパク・ヨンイル監督のアニメ映画は、『孫悟空』(손오공)だった。

この作品は、韓国のアカデミー賞と呼ばれる「大鐘賞」で1968年の文化映画作品賞を受賞している。

前年の『少年勇者ギルドン』に続き、2年連続でアニメ映画が受賞を果たしたのだった。

 

・『孫悟空』(손오공 1968年)

 

続く『黄金鉄人』(황금철인、1968年)でも動画、『宝島』では原画を担当した。

 

・『宝島』(보물섬、1969年)


また、日本アニメ『黄金バット』の製作にもアルバイトスタッフとして3か月ほど携わった。ただし日本からアニメーション制作を直接受注していた東洋放送の社内での勤務ではなく、森川信英の指導を受けることはできなかったようだ。ソウルの中区、西小門(ソソムン)にあった外注スタジオでの採用だった。とにかく早く自作のアニメ映画を作りたかった彼は、指定された通りに描くだけの下請仕事には大きな興味が持てなかった。

 

彼がロールモデルとして心に思い描くディズニーのクラシックアニメがフルアニメーションだったのに対し、日本のTVアニメが1秒間8枚のリミテッドアニメーションだったことも、当時の彼の目には粗製乱造と映った。この作画枚数への強いこだわりが、作画18000枚の予定で当初計画されていた『ロボット テコンV』が完成時には32000枚にまで膨れ上がってしまった一因だったのかもしれない。


当時の映画界は劇場・配給側の取り分が非常に大きく、また世紀商事という会社もアニメーション作家に対する金払いが良くなかったようで、『少年勇者ギルドン』のシン・ドンホン監督も、『孫悟空』『黄金鉄人』『宝島』のパク・ヨンイル監督も、映画製作に自腹を切ってひと財産潰す結果となり、家が人手に渡るという悲運に見舞われたあげく世紀商事を去った。

 

キム・チョンギも長編アニメ製作スタッフの仕事が途絶え、それに代わって、企業CFや「文化映画」(政府の宣伝や公共広告的な内容の映画、芸術公演の記録映画や教育映画など)用のアニメーション制作の仕事が続いた。その中には、中央情報部(KCIA)の依頼による反共プロパガンダフィルムのアニメーションもあったようだ。

 

韓国映画データベース(KMDB)には、『戦いながら建設しよう』(싸우면서 건설하자、1969年)という上映時間6分の短編反共アニメ映画についての記録がある。 

 

 

製作会社はボリム映画会社、監督はパク・ヨンイルで、「原作」としてキム・チョンギの名前がある。韓国映像資料院にもフィルムは現存していないようで、私も作品の内容は未見だが、当時の検閲資料によれば、「動物に南北朝鮮をたとえ、北塊は南侵を図るが、防衛態勢が完備された南の動物たちが侵入した北の動物たちを一網打尽にして住みやすい国にするという内容で、『戦いながら建設しよう』という国民的なスローガンを漫画で鼓舞する映画」というあらすじだったようだ。あらすじを見る限り、パク・ヨンイル監督がアニメ製作の模範としたジョン・ハラス監督の反共アニメ『動物農場』の影響が顕著なのではないかと推測される。

 

 

 

動物に仮託しながら「共産主義の脅威」を表現する手法と言い、KCIAとのコネクションが生まれた点と言い、後年のキム・チョンギ監督作品『トリ将軍 第3トンネル編』(1979年)の原点と言えるだろう。

 

世紀商事を辞め、ボリム映画会社、先進文化社と広告代理店を渡り歩いたキム・チョンギは、1972年には、韓国映画界で既に押しも押されぬ大監督の地位を築いていたユ・ヒョンモク監督のユープロダクションへと移籍した。引き続き広告CFや文化映画のアニメーションを作るかたわら、ノンクレジットながら「劇映画」(商業映画)にもスタッフ参加した。、撮影絵コンテを作成しながら、実写映画の表現法を貪欲に学んでいった。実写映画で撮影前に緻密な絵コンテを切るという黒澤明映画な手法を、いち早く韓国映画界へ導入した先駆者の中に、実はキム・チョンギがいたのだ。このあたりの現場経験が後に80年代以降になって、『宇宙から来たウレメ』シリーズや『ロボット テコンV90』などの彼の特撮作品で活きた。

 

・ロボット テコンV90(1990年)

 

1973年、韓国は朴正煕大統領の独裁色を一層強めた第四共和国憲法にもとづく「維新体制」へと移行し、映画政策においても維新映画法と呼ばれる第4次映画法改正が強行された。維新映画法の下では、国から許可を受けた少数の会社しか映画製作が出来なくなった。また、アニメーション映画は「劇映画」ではなく「文化映画」に分類され、「文化映画」の規制の枠組みの中でのみ映画製作が許された。つまり、軍事政権の宣伝の片棒を担ぐか、特段の教育的意義づけが主張できない限り、きちんとしたストーリーのある長編アニメ映画の製作は事実上不可能になったわけである。

 

こうして、ヨン・ユス監督の『怪獣大戦争』を最後に、長編韓国アニメ映画の第1次製作ブームは唐突に終わりを告げた。

 

・怪獣大戦争(1972年)

 

 

以後、1976年の『ロボット テコンV』まで4年間、アニメ業界はただの1本たりとも長編アニメ映画が製作されない、冬の時代へ突入する。

 

こうした情勢のため、キム・チョンギが自分の長編アニメ映画を撮る夢を実現するには、「文化映画」の製作許可を得ている会社の傘下に入って製作する必要があった。幸いにしてユープロダクションは、維新映画法体制の下でも文化映画製作権を維持していた。


キム・チョンギはユープロダクションとの関係を保ちつつ、若手アニメーター養成のためのスタジオとして1973年にキープロダクションを設立。その後1974年、パク・ヨンイル監督が独立起業した際に合流して、ソウル動画プロダクションが設立された。パク・ヨンイル監督と共に新しい国産長編アニメ映画を作る体制の基礎がようやく整った。

 

この年、北朝鮮が再度の韓国侵攻目的で掘ったとされる「南侵トンネル」が、非武装地帯内で初めて発見された。父親を北に拉致された当事者であるキム・チョンギはこの南侵トンネルの発見から大いにインスピレーションを受けて、長編反共アニメ『トリ将軍 第3トンネル編』の原型となる企画を既にこの時点で作り上げたという。『ロボット テコンV』以前に、実は『トリ将軍』のほうが構想は先に存在していたわけである。

 

・『トリ将軍 第3トンネル編』(1979年)

 

 

ところが、1975年にパク・ヨンイル監督が急逝した。キム・チョンギはソウル動画プロダクションを急きょ買い取り、新代表の座に就いた。

 

ちょうどその年、テレビではロボットアニメ『マジンガーZ』が放送されていた。搭乗型ロボットという新ジャンルは子供たちの間に爆発的な流行を生んだ。この頃、韓国でも白黒テレビの普及率は既に50%近くに迫っており、日本製アニメ番組の大きな影響力に、「韓国のディズニー」(予定)を自負していたキム・チョンギ監督は、大きな危機感をつのらせた。ユープロダクションのユ・ヒョンモク監督も銀幕人として思いは同じだったのかもしれない。そして街の企業家たちは、何とか「マジンガー」ブームに便乗してひと儲けすることはできないものかと、鵜の目鷹の目で新たな投資先を探していた。

 

年が明け、1976年。ユ・ヒョンモク監督が1本のシナリオを携えて、新作長編アニメ映画製作の企画をついにソウル動画プロダクションへと打診してきた。ジ・サンハクという新人作家の手になるそのシナリオには、『マジンガーテコン』というタイトルが記されていた。

 

依頼を引き受けたキム・チョンギ監督はジ・サンハクとの1か月間の共同作業でシナリオの全面的な書き直しに取り組み、タイトルも『ロボット テコンV』に改めさせた。

 

ここから、テコンVシリーズの全てが始まったわけである。

 

キム・チョンギは、もともとはSFアニメに強い関心はなかったように見える。SFアニメは『マジンガーZ』よりも前から、日本アニメの牙城だった。キム・チョンギが目指していたのはあくまでも「ディズニー」であり、真っ先に作りたかったのは『トリ将軍』だった。それが、ある日突然『マジンガーテコン』なる脚本を持ち込まれたことをきっかけに、SFアニメの中でも搭乗型ロボットという未知の新ジャンルへとウッカリ飛び込むことになった。『ロボット テコンV』の不思議な魅力の大部分は、こうした製作経緯からキム・チョンギ監督が思いもよらず強いられた悪戦苦闘の成果として生み出されてきているように思う。

 

『ロボット テコンV』と、その3年後に製作実現を見た反共アニメ『トリ将軍 第3トンネル編』の共通点と相違点を、ここで整理しておこう。

 

共通点として、いずれの作品も仮想敵は共産主義者であり、「父親」が共産主義者に危害を加えられたり、主人公たちが拉致された「父親」の救出に向かう展開がある。「拉致された父がいつの日か「出エジプト」を果たして韓国に帰ってきてほしい」というキム・チョンギ監督個人の哀切なる願いが、ストーリーの中に組み込まれている。「小さき者」が強大な敵を相手に立ち向かう、『ダビデとゴリアテ』的なストーリー構造がある。また、「ディズニー」を目指すと公言するだけあって、主題歌・挿入歌の製作には非常に力が入っており、明るい曲調で思わず口ずさみたくなる名曲が多い。そして「ディズニー」を意識したキャラクターやシーンも随所に頻出する。

 

半裸の野生児・トリ将軍のキャラ造形の元ネタは、「ターザン」ではない。ディズニーが『ターザン』のアニメを作ったのはずっと後で、1999年のことだ。トリ将軍のモチーフは、ディズニー『ジャングル・ブック』(1967年)のモーグリである。

 

 

しかし『ロボット テコンV』は、ユープロダクション側からの依頼という、キム・チョンギ監督からしてみれば当初は全くの受け身の立場から企画が始まっており、作品の内容について政府から何か具体的な指示を受けて作られたわけでもなかった。「反共道徳教育」「科学教育」と「テコンドー振興」を建前として検閲を通過した「教育用文化映画」として製作されているにもかかわらず、共産主義側のカープ博士にも同情の余地を持たせたり、ロボット産業の発展が切り開くはずの未来に対する不安を描いてしまうなど、監督とプロデューサーのキリスト教ヒューマニズム的な思想性が強い。

これに対して『トリ将軍 第3トンネル編』は、キム・チョンギ監督がもともと長年温めていた取って置きの構想が元になっており、中央情報部(KCIA)から長編アニメの依頼を受けたのを奇貨として製作実現にこぎつけた作品であるため、反共プロパガンダ色が非常に明快であり、軍事政権の広報に徹していて、キリスト教色は薄く、SF要素はない。

こういった部分は、2つの作品を隔てる大きな相違点として指摘できるだろう。

 

 

2-4 テコンVのプロデューサー、ユ・ヒョンモク監督

 

『ロボット テコンV』の製作プロデューサーとしてキム・チョンギ監督に長編アニメ映画監督デビューのチャンスを与えたユ・ヒョンモク(유현목 兪賢穆)は、1925年に朝鮮半島北西部の黄海道沙里院(サリウォン)で生まれた。母親の熱心なキリスト教信仰の影響を受けて育ち、祖国解放後の1946年、単身で38度線を越えて南へ渡った。ソウルで神学校に入ろうとしたが入試に受からず、東国大学で文学を学んで演劇シナリオから映画界へと身を投じた人である。

 

・ユ・ヒョンモク監督

 

朝鮮戦争中、北に残っていた家族のうち、平壌神学校に通う1番目の弟と父親が、皮肉にも国連軍側の迫撃砲の誤射を受けて爆死した。バイオリンを学んでいた兄は人民軍の軍楽隊に入れられて音信不通となった。残った母親と姉と2番目の弟だけが、南への避難を果たしたという。

 

この経歴を見て分かる通り、彼は、「北から南への出エジプト」を自らの身で体験した人であった。

キム・チョンギ監督とは戦争で父親を失った悲しみを共有しており、『ロボット テコンV』においてキム・フンの父親キム博士が殺害され、ユン・ヨンヒの父親ユン博士が「ピラミッド」に監禁されるシナリオ展開には、キム・チョンギ監督だけではなく、プロデューサーであるユ・ヒョンモクの個人史も大きく投影されていたと考えられる。

 

 

映画作家としてのユ・ヒョンモク監督は、まさに60-70年代の韓国映画界の風雲児だった。『カインの末裔』『人間の子』『長雨』など、キリスト教神学をバックボーンとしながら、南北分断などの巨大な運命に翻弄され、理想と現実のギャップに悩み、迷いながら決断していく個人を描いた作品を多く製作した。

 


彼が設立したユープロダクションではセマウル運動(朴正煕政権の農村改良運動)などに関連した政府広報の文化映画も多数受注製作しており、軍事政権の映画政策にある程度協力する姿勢を示していた。しかし表現の自由への彼の強い信念と歯に衣着せぬ発言は、軍事政権や保守勢力との衝突を生むこともしばしばであった。

 

1965年には、彼の監督した映画『春夢』の女性の後ろ姿のみのヌードシーンが猥褻表現とされ、罰金刑を受けた。同年、イ・マンヒ監督の『7人の女捕虜』という映画の中に婦女暴行をはたらく中国人兵士を北朝鮮の人民軍兵士が射殺する場面が出てきたことで、「共産主義者を善玉に描いた」との疑いによりイ・マンヒ監督の身柄が拘束された時、ユ・ヒョンモク監督は「わが国の国是は『反共』ではなく『自由』だ」と声高に抗議して、結局ユ・ヒョンモク監督自身までが反共法違反容疑で法廷に立たされる憂き目に遭った。

 

彼の映画は単純な教義やイデオロギーのプロパガンダ物ではなく、常に複雑なプロットが絡み合う一筋縄ではいかない作風であったため、かえって「反キリスト教映画」「容共映画」と解釈されることも非常に多かった。

 

『殉教者』は、北朝鮮でのキリスト教牧師集団処刑事件をモチーフに、いわゆる「神の沈黙」問題、つまり、現に苦しんでいるキリスト教徒たちに神が救いの手を差し伸べているようには見えないのはなぜか、という神学的な問いを深く掘り下げた作品だった.。

 

・『殉教者』(1965年)

 

 

しかし、当時の韓国の教会はこの作品の中の「神はいない」というセリフ1つを取り上げて激しく反発し、「ユ・ヒョンモクはサタンだ」と書き立ててバッシングを繰り広げた。

 

代表作として名高い『誤発弾』の主人公とその家族は、北朝鮮から韓国に逃げてきた人たちである。

土地改革で農地を奪われ、朝鮮戦争の時に南に避難して、以後はソウルで貧しく暮らしている。

 

・『誤発弾』(오발탄 1961年)

 

彼らが住んでいるのは、ソウル・龍山から南山へ登る途中にある「解放村」(해방촌 ヘバンチョン)である。

高台に建つカトリック解放村聖堂の十字架が見える。

 

 

この地域は朝鮮戦争の混乱の中で北から逃げてきた人々が定住した土地で、その多くは、北での宗教弾圧を逃れたキリスト教徒だった。

ユ・ヒョンモク監督の家族史とも重なる、「出エジプト」のその後の物語である。

 

主人公の母は病の床に伏せて既に正気を失っており、頻繁に「行こう!行こう!」とわめき散らす発作を起こす。

 

「行こう!」という台詞が真に意味するところは、分断の悲劇を嘆いた魂の叫びだ。北から逃げて韓国に来ても、やはり社会は腐敗しており、生活は苦しく、かといって今さら過去に戻ることはできない。主人公一家にとっての「約束の地」、本当の理想の国を目指す「出エジプト」の逃避行は、まだ終わってはいなかったのだ。

 

しかし、これを「北朝鮮に行こうと煽った」と誤解した軍事政権は、上映を一時中止させた。

 

このようにユ・ヒョンモク監督は、右とか左とかの単純な色分けだけでは捉えきれない、自由闊達な作家性に富む映画人だった。

 

しかし、経営者・プロデューサーとして商機を読み取る目も、なかなかにユ・ヒョンモク監督はしたたかであったようだ。1973年から1975年の丸3年間、製作史が断絶していた「長編国産アニメ」という停滞分野に彼が目をつけた理由は、謎に包まれている。

 

当時の新聞記事では、「未来を目指す子どもたちに科学的好奇心と健全な冒険心を鼓舞し、平和守護の強靭な意志と人間の尊厳を植える」(京郷新聞1976年7月15日号)ことが企画意図だったと、ユ・ヒョンモク監督は取材に答えて述べている。

 

 

しかし恐らく実際のところは、維新映画法といういびつな法制度の下において、「文化映画」の枠組みを守りながらアニメ映画を作って評価されれば、大きなビジネスチャンスが生まれるかもしれないとの読みがあったからであろうと思われる。

 

そのビジネスチャンスとは何か?

「外国映画輸入権」である。

 

当時の朴正煕政権の映画政策は、必ずしも強権的な弾圧一辺倒ばかりではなかった。外国映画の輸入は許可制になっており、この「外国映画輸入権」という確実に儲かる利権をアメとして使うことで、国産映画の内容を政権好みの方向にコントロールしながら映画業界の発展を「支援」しようともしていた。

 

国産映画が賞を取ったり、「良い映画」認定を受けるなどの評価を得ると、その映画を製作した会社に褒賞として「外国映画輸入権」が付与された。

 

ユ・ヒョンモク監督の『誤発弾』を始め、キム・ギヨン監督の『下女』(1960年)、初の国産長編アニメ『少年勇者ギルドン』や怪獣映画『大怪獣ヨンガリ』(1967年)など、国産映画文化が一気に花開いた1960年代と打って変わって、1970年代の韓国映画界は表現規制の強化とテレビの台頭により、年々観客を減らしていた。1970年には全国の映画観客動員数は累計1億人以上を記録したが、75年には7000万人台にまで落ち込んでいた。そして国産映画の市場はあくまで小さく、大衆が好んで観ているのは圧倒的にアメリカ映画などの外国映画だった。

 

 

 

 

 

どのみち人気のない国産映画には大して客は入らず、外国映画輸入権を獲得することこそが、映画会社にとっての生命線であり最大のドル箱だと、当時は考えられていた。「国産映画をヒットさせて儲ける」のではなく、「国産映画で良い評価を受けて、外国映画輸入権をもらって儲ける」のがこの時代の韓国映画界の標準ビジネスモデルだった。そしてたとえば大鐘賞には、かつて『少年勇者ギルドン』や『孫悟空』などのアニメが受賞したことのある「文化映画部門」や、ユ・ヒョンモク監督じしんも『カインの末裔』で受賞したことがある「反共映画部門」が存在した。

 

「文化映画」と「反共映画」は、賞を取りやすい狙い目ジャンルだったのだ。

 

他にライバルとなるアニメ作品が一切存在しない今、「反共」を掲げて教育的内容を盛り込んだ「文化映画」として4年ぶりの国産アニメーションを完成させれば、高い評価を受ける可能性は十分にあった。

 

おおよそこういった情勢と経営判断から、ユ・ヒョンモクは人気TVアニメ『マジンガーZ』に便乗したロボットアニメ映画を企画し、身近にいたアニメーターということで、キム・チョンギに監督を依頼したのであろう。

 

しかし、2人のあまりにも濃厚すぎる個性が、単なる「マジンガーのパクリ」にとどまらない、日本アニメと似ているようで全く異なる不思議な味わいのロボットアニメを生み出すに至ったのである。

 

 

2-5 エジプトの肉鍋

現在の韓国と北朝鮮の経済力格差が念頭にあると、しばしば忘れがちになるが、かつて「北朝鮮は、経済的にはいちおう順調に発展している国」だというイメージが、確固として存在した時代があった。

 

朴正煕大統領が政権を握った1961年の時点では、大韓民国こそが世界の最貧国の1つだった。1人当たりGDPでようやく韓国が北朝鮮を追い抜いたのは1970年前後のことで、70年代終盤までは両国の経済力はほぼ拮抗し、大きな差は開かないまま推移した。

 

「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成功させた朴正煕政権の至上命題は、「北朝鮮に追いつき、追い越し、さらに圧倒する」ことであった。それが、彼が革命公約第1号に掲げた「反共」の実質的な意味であった。そのための開発独裁体制であり、1965年の性急な日韓条約締結は、日本からの経済援助獲得を当てにした朴正煕大統領の焦りの表われでもあった。

 

・朴正煕大統領

 

経済・農業・軍事・科学技術・大衆文化・スポーツなど、全てにおいて北朝鮮に張り合おうとしていた。

たとえば1978年まで、朴正煕政権は核兵器開発を極秘裏に進めていた(結局断念して原子力発電に転換)。今までの経済成長の勢いを維持するための科学技術振興に加えて、国家的プロジェクトとしての原子力計画推進まで見据えた、科学者・技術者の大量育成が急務だった。子どもたちに科学立国の夢を抱かせるための教育分野における戦略的プロパガンダの重要性が、一段と増していた。

また、オリンピック誘致も朴正煕時代から始まった。そうなると下準備として国技「テコンドー」を無理やりにでも宣伝して国民の間に浸透させ、普及させる必要性が出てくる。

工業化推進、セマウル運動、国防意識向上、科学教育振興、スポーツ振興などの重点政策に国民を動員するための宣伝手段として、「文化映画」に対する軍事政権の役割期待は実はかなり大きいものだった。

 

映画館には、短編「文化映画」の上映義務が割り当てられていた。その頃の韓国の映画館の一般的な上映プログラムは毎回、広告→愛国歌斉唱→大韓ニュース→短編「文化映画」上映→長編「劇映画」上映の順番で進行するのが通例だった。

 

1983年4月23日のソウル新聞に、「劇場 ニュース・文化映画 長すぎ」と題する批判記事が出ている。

お目当ての劇映画本編が始まるまで、観客は40分以上も待機を強いられた。

 

 

しかし、経済発展強調・軍備増強と科学技術礼賛を是として国威発揚プロパガンダを乱発する韓国政府の公式的立場からの「反共主義」は、実は『ロボット テコンV』を作ったキム・チョンギ監督やユ・ヒョンモク監督らの「キリスト教的反共主義」とは、かなり大きなズレがあった。

 

出エジプト記に由来する、「エジプトの肉鍋」という言葉がある。肉体的・物質的なものだけで満足することを侮蔑した警句である。

 

モーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ民族だったが、すぐには「約束の地」に入ることができなかった。なんと40年もの長きにわたって、シナイ半島の荒野を放浪する羽目になったのである。騙されたと感じた民衆は、モーセに猛然と抗議した。

 

「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」(出エジプト記16章3節)と。

 

エジプトにいた時は肉でもパンでも食うに困ることはなかったのに、「約束の地」などと言われて信じてついてきたら荒野で飢え死に寸前なのは詐欺じゃないかというわけである。歴史学者の最新の研究でも、古代エジプトの「奴隷制」においては奴隷の衣食住などの生活待遇じたいは必ずしも劣悪なものではなかったことが分かっているが、出エジプト記の記述はこれとピッタリ一致する。

 

「エジプト」の生活には、自由はなかったが、物質的な豊かさがあった。

 

では、「出エジプト」とは、いったい何のための脱出行だったのか?

 

肉体よりも精神性が大事であり、物質的な満足よりも自由を選ぶということである。

 

日帝よりも独立を、北朝鮮よりも韓国を選んだ歴史は、韓国のクリスチャンにとって、「エジプトの肉鍋を捨てて荒野を行く」という、モーセ的な決断のあらわれであった。日帝から、そして北朝鮮からの「出エジプト」は、常にそのようなものとして理解されてきた。

 

伝統的なキリスト教徒は、なぜ共産主義を否定すべき思想としてあれほどまでに憎んできたのか。

「物質を重んじて心を軽んじ、科学万能主義を振りかざして、神を否定するから」である。


キム・チョンギ監督は『ロボット テコンV』に自律型ロボットのメリーというキャラクターを登場させた理由の1つとして、

 

「機械は万能じゃない。本当に人間愛的なものこそ最高だ」

(기계가 만능이 아닌 정말 인간애적인 게 최고다 キギェガ マンヌンイ アニン チョンマル インガネジョギンゲ チェゴダ)

 

というメッセージを子どもたちに伝えたかったからだと、インタビューの中で述べている。

 

プルグン帝国がロボット軍団なのも、キム・フンがクライマックスでテコンVを降りてしまうのも、「機械は万能じゃない」という監督のこの言葉の中に、はっきりとその理由が現れている。

 

当時のキム・チョンギ監督の目には、彼の父親を奪い去った共産主義者は、物質万能を唱えて人間愛を理解しない「ロボット」の集団として映っていたのだろう。そしてロボットは本来、人間が自由に乗ったり降りたりする従属物であるべきで、乗っている機械に逆に支配されて人間愛を忘れるようなことがあってはならないし、善良な人間に反乱を起こすようなロボットは、もはや「共産主義者」と同じなのだ。

 

 

キム・チョンギ監督には、メカや兵器に対する強いこだわりを示すような少年時代・青年時代のエピソードはあまりない。テクノロジーに対する無邪気な偏愛や信頼感とは無縁で、元から科学万能主義に対する警戒心の強い人なのである。

 

80年代に入っても、監督のこうした気質は変わらなかった。1983年の『スペースガンダムV』で岩に向かって呼びかけたらスペースガンダムが出てくるシーンは、高度な宇宙人のテクノロジーというよりは、まるでモーセが岩から水を出す出エジプト記17章の記述を思わせるし、作中では悪役ハデスの言葉を借りて、「地球人は生命を弄んでいる」と、科学文明の発展がもたらす害悪を強く糾弾している。

 

『こども発明王』(1984年)は、政府の提案を受けて製作した科学教育振興目的の学習アニメであったにもかかわらず、小学生の主人公が大統領賞欲しさに成長促進剤の自由研究に取り組んでウサギを大量に死なせるという、ドン引きの展開が描かれている。

 

・『こども発明王』(꾸러기 발명왕 1984年)

 

夢の中ではロボットに乗り込んで相も変わらず胸に「赤い星」を付けた敵ロボットと戦うシーンがあり、多岐にわたる科学豆知識が登場人物たちの台詞の中で大量に羅列されているわりには、「科学者・技術者への志を抱く子供を増やす」という肝心の製作目的が、どこかボケた作品になってしまったりもしている。

 

そんなキム・チョンギ監督が初めてロボットアニメの世界に飛び込み、試行錯誤しながら手探りで作り上げた映画であるところにこそ、『ロボット テコンV』の面白みがあると私は思う。

 

次回は、『ロボット テコンV』におけるメリーの扱いと、ロボット描写をめぐる製作当時の韓国の事情について詳説する。乞うご期待。