第4回 テコンVとテコンドー

目次

 

 

4-1 マジンガーテコン

 

 

1975年の終わりごろ、韓国の映画製作会社ユープロダクションを率いる映画監督ユ・ヒョンモクは、今までとは違う新しい国産アニメ映画の製作に向けて動き始めた。韓国映画界では1972年以降、長編アニメ作品の製作がしばらく途絶えていた。維新体制の下で独裁強化を進める朴正煕政権が、「文化映画」(政策宣伝や教育・芸術などの意義付けが認められる映画)以外の新作アニメ映画の製作を、許可しなくなったからである。ユ・ヒョンモクは、この表現規制の嵐を逆手に取る賭けに出た。他にライバルとなるアニメ作品が一切存在しない今、「文化映画」の規制の枠組みを守りながら優れた長編アニメ映画を作り上げることに万が一成功すれば、巨大なビジネスチャンスが生まれる。

 

まずアニメ映画のシナリオを、その年の東亜日報「新春文芸」で入選したばかりのソウル大学出身の新人作家、ジ・サンハク(지상학 、池相學)に書かせた。タイトルは『マジンガーテコン』だった。後の『ロボット テコンV』である。

 

■ジ・サンハク『アニメーションシナリオ選集』

 

なお、この『ロボット テコンV』以後13編のアニメ映画シナリオを書いてデビューを飾ったジ・サンハクはその後、実写映画でも頭角を表わし、『学生府君神位』『恐怖の外人球団』で韓国のアカデミー賞と言われる大鐘賞を獲得。80-90年代を代表する名脚本家となった。韓国シナリオ作家連盟理事長を経て、2021年現在は韓国映画人総連合会の会長という地位に就いている。

 

ジ・サンハクが受賞した時の「新春文芸」の審査委員の1人が、他ならぬユ・ヒョンモクだった。彼はジ・サンハクの傑出した文才をいち早く見抜いていた。受賞後しばらくしてから、「日本のアニメ『マジンガーZ』に惹かれている韓国の子供たちのために、私たちの魂が込められた創作アニメのシナリオを書いてみて欲しい」という企画コンセプトを説いて依頼を持ちかけたのだ。

 

■YTNの番組でインタビューに答えるジ・サンハク

 

韓国でも大ヒット中だったTVアニメ『マジンガーZ』のキャラクターを使って劇場用映画を作って欲しいという地方興行スポンサーたちの商売上の思惑をそのまま反映すると同時に、「もっと韓国の文化に密着した『韓国版マジンガー』を作ってやろう」という、『マジンガーZ』への違和感と対抗心を秘めた企画でもあった。

 

『マジンガーテコン』の「マジンガー」は、無論『マジンガーZ』からそのまま取ってきたものだ。

では、「テコン」はどこから来たのか?

 

「テコン」も、これまた当然ながら、格闘技テコンドーの「テコン」である。後にキム・チョンギ監督は『マジンガーテコン』から「マジンガー」の名前を外させたが、韓国的要素である「テコン」の部分はそのまま残して、決定版タイトルを『ロボット テコンV』とした。

 

しかしそもそも、一体誰がなぜ、巨大ロボットアニメにテコンドー要素を混ぜようなどということを、思いついたのだろうか?

 

『マジンガーテコン』の元となった企画を立案してユ・ヒョンモクを動かしたその男の名を、キム・イルファン(김일환)という。

 

キム・イルファンは、映画の企画・製作の分野で60年代から活躍してきた人だった。だが、厳しい検閲と国産映画低迷の流れの中、『二兄弟』(두 형제)のプロデューサーを1973年に務めて以降は、丸2年間のブランクが続いていた。

 

その頃の彼は日曜になると、朝の運動のためにソウル・北漢山国立公園の殉国戦列墓まで足を運ぶのが常だった。そこでは市民向けにテコンドーの無料講座が毎週開かれていた。チョ・ビョンオク(조병옥、趙炳玉:独立運動家。第5代内務長官)の墓の横でテコンドーを教えていたのは、王虎(왕호 ワンホ)体育館という道場から来ていたユ・スンソン(유승선)師範だった。現在の王虎体育館館長である。

 

■ユ・スンソンの手技指導動画

 

 

1950年代から「韓国の国技」として政府主導で普及が進められてきたテコンドーは、国民の間でも徐々に人気が高まり始めていた。

 

ダンスのように人目を惹きつける華麗な動作のユ・スンソン師範から指導を受けるうちに、「マジンガー風のロボットアニメに、テコンドーの要素を加えてみてはどうだろうか?」という考えがキム・イルファンの脳裏に浮かんだ。文化映画の製作のためにテコンドーの型と動作について協力を仰ぎたいというキム・イルファンの願い出をユ・スンソン師範も快諾し、テコンドー演武の撮影依頼にも応じた。こうしてまとめられた企画案が、ユ・ヒョンモクの目に止まって採用され、製作決定の運びとなったわけである。

 

1967年に王虎体育館を設立したチョン・ビョンファ(정병화)初代館長は元々は陸軍の輸送隊長で、軍隊でテコンドーを学び、1959年からはテコンドー指導者の1人となった。除隊後はソウル・龍山へ道場を開き、サムスングループ創業者の長男イ・メンヒ(이맹희、李孟熙)の知己を得て支援を受けた。

 

チョン・ビョンファ初代館長もユ・スンソン師範も、別に『ロボット テコンV』のキム・フンのような世界チャンピオンのタイトル保持者だったわけではない。どちらかというと、この野外教室での普及活動に象徴されるように、テコンドーのスポーツ化・大衆カルチャー化に積極的な流派だった。そんな王虎体育館とキム・イルファンが偶然出会ったことから、本物のテコンドー師範がアニメ映画のロボットの動きを監修するという、当時の韓国としては奇想天外なアイデアによる作品『ロボット テコンV』が生まれた。

 

キム・チョンギ監督に、テコンドーの経験は全くなかった。そこで、ロボットをテコンドーで戦わせろという依頼を受けて彼が選択した作画方法は、彼のアニメ道の原点であり目標であるディズニーアニメが『白雪姫』以来、得意技として長年使ってきた技術、「ロトスコープ」だった。

 

■ディズニーアニメにおけるロトスコープの使用例

 

 

「ロトスコープ」とは、まず実写でモデルの動きをカメラ撮影し、撮影したフィルムを1コマずつトレースしながら絵を描いてアニメーションを作っていくという、非常に手間と金のかかる技法である。現代の3DアニメやVtuberなどで、モデルの表情や動きをそのまま取り込んでCGに変換する「モーション・キャプチャー」技術のいわば手作業アナログ版であり、原型とも言える。

 

ロトスコープもモーションキャプチャーも、「実写をそのまま絵に変換すれば良いアニメーションになるのでは?」という発想から生まれたものだが、実際に最初から最後までロトスコープやモーションキャプチャーだけでアニメーション作品を作ってみると、何となく気持ちの悪い映像になりやすい。ヒトはしばしば、自分たちとあまりにもそっくりな動きをする人工物を見て、ふと嫌悪感を感じることがある。これを「不気味の谷」現象と呼ぶ。


「不気味の谷」という語は近年になって提唱され始めたものだが、「ロトスコープ」を生み出したフライシャー兄弟は、この「不気味の谷」的な感覚を何となく認識していたようだ。むしろその不気味さを積極的に活用しながら、シュールな雰囲気のアニメーションを数多く産み出していった。

 

一方、フライシャー兄弟の特許切れを待ってから「ロトスコープ」を遅れて導入したディズニーの場合、実写映像をそっくりそのままトレースするのではなく、動きの要所要所を選択的にトレースしながらキャラクターに当てはめ、動きのリアルさとデフォルメされた絵柄のバランスを取っていく戦略の下でこの技術を使い、「不気味の谷」を巧みに回避した。

 

キム・チョンギ監督は、映画の最重点セールスポイントとも言えるテコンVのテコンドー格闘シーン、そして主人公キム・フンたちが生身の人間の姿でテコンドーを使うアクションシーンにおいて、ユ・スンソン師範らによる演武を撮影した映像を1コマずつトレースしながら作画していく「ロトスコープ」技法を採用した。

 

『マジンガーZ』に対抗し、「韓国のディズニー」になりたいという彼の大それた野心から生まれたとも言えるこのチャレンジによって、本来予定されていた枚数を大幅に超える作画枚数が必要となり、製作予算はたちまちショートした。監督の私財から大幅な支出が発生した。シン・ドンホン監督やパク・ヨンイル監督らの先輩が歩んだ道をなぞって、とうとうキム・チョンギも自宅を失う羽目になった。妻は、「テコンVであなたは名前を残したけど、私たちは家を失った」と彼を責めたという。

 

しかしその結果、作品内では、テコンドー独特の躍動的で素早い蹴り技の動きがアニメーションで鮮やかに再現された。特に、キム・フンが出場した世界テコンドー大会の試合シーンは、素晴らしい出来となった。

 

 

見せ場となるテコンドー場面にだけディズニー伝来のロトスコープを使うというキム・チョンギ監督の「選択と集中」は、収益性はともかく、作品性の点では多くの人々の記憶に残る名場面を産み出すことに一定の成功を収めたと言えるのではないだろうか。

 

 

4-2 体育立国の夢

 

今も激しい韓国の受験戦争は、李氏朝鮮時代から始まった。中国を見習って筆記試験で官吏を選ぶ科挙を導入し、最高教育機関として成均館を置いた。日本は植民地朝鮮を近代化すると言いながら、近代的な大学教育機関の設置は京城帝国大学1校だけしか認めなかった。

 

祖国独立によって、もともと高かったこの地の民の教育熱は一気に噴き出し、大学ブームが花開いた。当時、大学のことを俗に、「象牙の塔」ならぬ「牛骨の塔」と呼んだ。子供の立身出世のためには牛を売ってでも大学に入れてやれという意味である。朝鮮戦争期を経て、解放10年後の1955年には、韓国政府支配下の朝鮮南部だけでも大学の数は71校にまで増えていた。大学に入れば徴兵が延期となったので、兵役忌避を狙って大学に入る者も多かった。私立大学はどこも経営上の理由から定員を遥かにオーバーする学生を受け入れ、大学生の数は年々増えていった。

 

知性が重んじられる時代となり、李承晩初代大統領は、キリスト教的教養を身につけ博士号を持った国際的知識人として尊敬を受けた。しかしその「李博士」が、最後は皮肉なことに知識階層である大学生たちのデモによって1960年の4.19革命で倒された。

 

翌年の5.16クーデターで権力を奪取したのは朴正煕陸軍少将で、その政権の本性は軍事独裁政権だった。職業軍人は肉体を日々鍛錬して戦いに備えることが本職で、多少なりとも「体育会系」的な気質を持っている。朴正煕少将もスポーツを好み、学生・知識人を警戒していた。彼は仏教徒で、キリスト教勢力とも距離感があった。彼の目に、4.19革命とその後の政界の混乱は、頭でっかちの西洋的インテリたちの軽薄さを示すものとして映った。新政権も「李博士」と同じ末路をたどらない保証があるだろうか?今こそ民族の「正気」を取り戻さねばならないと彼は感じた。

 

それなりに貧困打破の理想に燃えて決起した朴正煕少将は、祖国の現状に憤激していた。今や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)よりも経済的に立ち遅れ、世界の最貧国にまで落ちているのに、私立大学が乱立して文系偏重のカリキュラムで学生を集めて金儲けに走り、街には兵役忌避を狙う大学生や、大学を出ても自分にふさわしい仕事がないと言って定職に就かない若者が溢れている。

 

彼が構想する経済政策は労働集約型産業による迅速な工業化で、学歴がなくても社会に出て働く人々による安価な労働力の大量供給が必要だった。「祖国近代化」に高等遊民は無用の存在と見えた。そこで軍事革命政権は「教育に関する臨時特例法」を布告し、大学の統廃合、大学の入学・卒業の国家管理を掲げ、教育界から大きな反発を受けた。大学と大学生の数を絞り、大学に行きたがる者を減らして受験戦争による国民の活力浪費を抑制しようとしたのである。

 

とは言え、結局のところ軍人は政治や学問の素人であって、実務面では学歴エリートの力を借りねばならなかった。「体育会系」が支配する国を作りたい、しかし知的エリートたちの力は欲しい。この矛盾が、以後の彼の教育政策の限界を規定していくこととなる。

 

■朴正煕大統領

 

1962年に軍事革命政権は民政へと移行し、第三共和国となった。大統領選挙を経て、朴正煕大統領が誕生した。失敗した「教育に関する臨時特例法」から軌道修正し、段階的な教育改革に取り組んでいくこととなった。

 

1965年に大学学生定員令を出して定員厳守を徹底させ、文系の定員を減らして理工系の定員を増やすよう政策的に誘導した。経済発展の基礎としての科学教育重視、教育の質の確保と多様化、地域格差是正のための地方大学増加が図られた。

そして、貧富の差による教育機会の不平等是正と受験戦争の鎮静化を図るため、1968年には中学平準化、第四共和国時代の1974年には高校平準化政策が始まった。中学受験・高校受験が原則廃止されて地域ごとの学群制となり、進学する者は住んでいる学群内のいずれかの中学・高校に振り分けられて通うことになったのである。

 

このような改革によって1975年には理工系学部の大学生の割合は59.7%に達し、文系偏重の是正には成功したが、民衆の大学教育熱は収まらず、受験戦争は十分に緩和されなかった。有名大学の定員抑制は競争を激化させ、地方大学が増えてもSKY(ソウル大・高麗大・延世大)を頂点とするソウル一極集中の大学間の序列は崩れなかった。

中学平準化・高校平準化は受験戦争を大学受験という一発勝負に集約して余計に過熱させただけで、特に居住地域内の高校に進学先が振り分けられる高校平準化制度は、SKYへの合格者を多数出している有名進学校があるソウル市内の学群へ集中して富裕層が住むようになり、子どもの将来のために中間層も無理をしてでもそこに住もうとするという、いびつな人口移動と地価高騰現象を生み出した。

 

反共と経済発展を貫徹した兵営国家建設によって北朝鮮を圧倒し「民族の正統な代表者」たらんことを目指した朴正煕政権は、徴兵忌避を厳罰化した。知育偏重を批判して学校教育に介入し、愛国心涵養のための「反共」道徳教育に、多大な教育現場のリソースを割かせた。1968年には日本の教育勅語まがいの「国民教育憲章宣言」、1972年には「国旗に対する誓い」が制定され、子供たちは学校でそれらを暗記させられた。1969年からは高校と大学に軍事的な「教練」の時間が導入された。そして、学校体育の大幅な充実が図られた。

 

■国民教育憲章宣言

 

 

「体力は国力だ」と、朴正煕大統領は語った。北朝鮮から国を守るにも、経済建設のための労働も、その一切の基礎は体力であると考えたのである。また彼は、「人間改造」というスローガンを掲げた。物騒な言葉だが、要は国民1人1人が腹いっぱい食べられるようになり、肉体を鍛錬すれば、共産主義や低俗文化にも流されなくなり、高度な精神文明が生まれるだろうという発想である。「衣食足りて礼節を知る」、「健全な精神は健全なる肉体に宿る」といった格言の素朴な信奉者だったわけだ。

 

朴正煕大統領は自らの体育立国政策の総仕上げとして、韓国でのオリンピック開催実現という大きな夢を抱いた。オリンピックこそは経済発展した韓国が先進国の仲間入りを果たした証明であり、北朝鮮に対する韓国の国際的優位性と正統性をアピールする決定打となる。


手始めに、1970年のアジア大会開催をソウルへ誘致することに成功した。しかし、その結果は惨憺たるものとなった。なんと、準備不足と財政難で開催返上に追い込まれたのだ。人生最大級の屈辱を彼は経験した。

 

■1966年、バンコクで開かれたアジア大会閉幕式での次回開催地表示

 

 

70年代を通じて朴正煕政権は、アジア大会の再誘致とオリンピック誘致を目指し、国内のスポーツ文化整備に取り組んだ。学校体育の強化に加えて民間スポーツ団体の運営も行政が支援し、スポーツの大衆化を進めた。

1977年には国立の韓国体育大学が設置され、国家規模でスポーツエリートを育成していく体制の基礎が固まった。アジア大会やオリンピックでのメダリストに対する終身年金制度が制定されたのも朴正煕政権時代である。

性急な成果を求めたこれらの施策は、国民全体の体力向上という当初の理念から、スポーツエリートを育てて国威発揚を図ることに主眼がズレていった。国際試合での韓国人選手の活躍は新聞各社が大々的に報道し、スポーツへの熱狂が煽られ、ナショナリズム高揚による国民統合が図られていった。

 

その核として政策的に宣伝されたのが、「国技」としてのテコンドーだった。大韓テコンドー協会は1973年にソウルで第1回世界テコンドー選手権大会、75年にもソウルで第2回大会の開催に成功していた。

 

 

また、『ロボット テコンV』が公開された1976年にはインスブルック冬季五輪・モントリオール夏季五輪が予定されており、既に50%近くに達していた白黒テレビの普及も相俟って、スポーツ全般への国民的関心も上昇していた。

 

『ロボット テコンV』が教育目的の「文化映画」という名目で検閲を突破するために、反共的かつ道徳的なストーリーが含まれているとか、SF要素で科学技術に対する子供の興味を誘うというだけでは、まだまだアピールポイントが弱かった。しかしここに、民族文化の粋であるテコンドーの普及に貢献するという要素が加わったことで、製作陣と政府側の思惑がようやくピッタリ一致した。

 

『ロボット テコンV』のラスト付近で、カープ博士は後悔の言葉を口にする。

「どんなに強いロボットを作っても、 韓国のテコンドーにかなうわけがなかったんだ!」 と。

 

 

すなわち、核兵器よりも、光子力ビームよりも、どんなロボットよりもテコンドーは強い!というのが本作の結論になっている。科学教育アニメだろうが玩具販促アニメだろうが、およそ主人公が搭乗型ロボットに乗る子供向けアニメ作品であるならば、ロボットへの夢を壊すこんなセリフは普通は禁じ手である。しかし、テコンドーというもう1つの柱があったからこそ、このセリフでも辛うじてストーリーは崩壊することなく持ちこたえているのだ。

 

『ロボット テコンV』は、未来を担う子供たちに「テコンドーは国技」「テコンドーは最強」という意識を植え付け、スポーツへの興味を高めるという、当時の韓国政府の喫緊の政策的需要に完全に合致した企画だった。だからこそ、4年ぶりの国産アニメ映画製作許可をかちとることが出来たわけである。

 

『ロボット テコンV』の公開から2年後の1978年のソウル・江南(カンナム)が舞台となった韓国映画『マルチュク青春通り』では、主人公の父親はテコンドーの道場主である。江南は今後有望な地域になるという父親の読みから、主人公親子は江南へと引っ越す。

 

この設定の時代背景には、五輪誘致を悲願とする韓国政府が、オリンピックタウン候補として江南地区を選定したという歴史的経緯があった。軍事政権は農民を暴力的に追い出し、大規模な開発に着手した。

 

この地域に住む子供たちは江南8学群と呼ばれる学群内の高校に通うことになっていたが、地域開発の一環として新興住宅地の造成が進むのに伴い、70年代から80年代にかけて、ソウル大への合格者ランキングで1位と2位を占めていた京畿高(경기고)とソウル高(서울고)、さらに徽文高(휘문고)、京畿女子高(경기여고)、淑明女子高(숙명여고) などのランキング上位の高校が江北から江南へ続々と移転させられた。有名進学校の移転によって江南8学群は一気に大学受験に有利な地域となり、地価が上がって富裕層が集まり、商業エリアとしても活性化していった。現在の江南の繁栄をもたらした原点である。

 

『マルチュク青春通り』の主人公が入学した高校は江北から来た進学校ではなく新設校だったので、映画の中で功を焦る学校側は、軍事政権が禁じている能力別クラス編成授業を隠れて実施したりしている。

 

■『マルチュク青春通り』(2004年)


「体育会系の国」を作ろうと目論んだ韓国軍事政権の高校平準化政策とオリンピック誘致計画は、結果的に江南を「富裕層が住む、大学受験に有利な地域」へと押し上げただけで、教育格差と受験戦争の根本的解消には繋がらなかった。受験戦争の合わせ鏡としてスポーツ界も競争至上主義となった。今や様々なスポーツ分野で韓国は世界的な強豪となっているが、その割には、国民に広くスポーツ文化が浸透しているとは言えない。韓国の高校生の大多数にとって、「運動部は中学校までに辞めるもの」である。高校生活は大学受験が何よりも大事だからだ。高校の運動部は基本的に、国家代表やプロを目指す少数のスポーツエリートのためだけにあるものなのだ。

 

『ロボット テコンV』公開から3年後の1979年10月26日、アジア大会と夏季オリンピックの誘致活動に取り組んでいたソウル市当局は、江南の松坡区蚕室洞に建設中だった国立競技場の周囲141万坪の土地を新たに「美観地区」とし、さらなる市街開発を進めると発表した。

 

 

しかし、まさにこの10月26日、朴正煕大統領は金載圭KCIA部長に暗殺され、「体育立国」の志半ばで世を去ったのである。

 

 

 
4-3 テコンドー小史
 
韓国の国技と呼ばれるテコンドーには、世界的に大きく分けて2つの系統がある。
WT(ワールドテコンドー)と、ITF(国際テコンドー連盟)である。
 
WT(ワールドテコンドー)は、2017年まではWTF(世界テコンドー連盟)と名乗っていた。世界200か国以上に拠点があり、オリンピック競技として採用されているのもWTのテコンドーである。
 
ITF(国際テコンドー連盟)は創始者チェ・ホンヒ(최홍희、崔泓熙)総裁の死後に団体が分裂したが、北朝鮮・韓国を含む100か国以上に広まっており、独自の体系を守っている。
 
WTテコンドーはスポーツ的、ITFテコンドーは武道的と言われる。両者には昇級・昇段試験用の型で共通したものがないし、理論も動きも、テコンドーの歴史に関する説明もかなり違う。
 
韓国国内で現在圧倒的に広まっており、オリンピックルールにも採用されているWTテコンドーの側から言わせれば、朴正煕時代は、『テコンV』のような映画もヒットして、テコンドーが大発展を遂げた時代である。しかしITFテコンドーからすれば、朴正煕大統領こそがテコンドーを弾圧した張本人である。いったい、なぜこのような話になっているのだろうか。

 

WT本部である韓国・ソウルの国技院(국기원)の公式サイトを見ると、「テコンドーは檀君以来韓民族と長い歴史を共にしてきた韓国伝統武芸である。韓国武芸の発達は紀元前2333年、朝鮮半島初の国家である古朝鮮が建国されて本格化した」とか、「三国時代には武治主義の理念と尙武精神が強調され、テコンドーを含む様々な武芸が大きく発展した。高句麗は舞踊塚と安岳3号墳の壁画から分かるように」(以下略)などと、「万能壁画」と呼ばれてよくネタにされている高句麗時代の安岳3号墳の壁画を根拠にして、テコンドーは檀君以来のものという主張を展開している。

 

■安岳3号墳の壁画

 

 

一方、ITF系団体である国際テコンドー連盟日本協会の公式ブログでは「テコンドーは1955年4月に、当時韓国の陸軍少将であった故・崔泓熙(チェ・ホンヒ)氏[1918~2002]によって唐手(空手)や朝鮮古武道(テッキョン)も参考にしつつ、研究開発され体系化された近代武道です。​​​​」と、空手との関係を特に隠してはいない。

 

国技院の主張にはさすがに無理があると私は思う。テコンドーのベースが空手なのは、直線的な動きを見ても、祖国解放後にテコンドーを創始した人々が全て空手家だったことからしても、明白だからだ。空手の中に中国武術や、朝鮮時代から舞踊・遊戯として伝わるテッキョンの足技などを部分的に取り入れながら、蹴りを中心とした韓国独特の新たな格闘技として創始されたのがテコンドーであるというのが本当の所だろう。

 

足は拳よりもパワーがあり、リーチも長い。回転によってパワーを倍加できる。したがって非力な者でも足をうまく使えば腕力の強い者に勝てる。蹴り合いになった時は足を高く上げている方が勝ちやすいので、足を蹴り上げる練習が重要視される。背が低いなら、『ロボット テコンV』でキム・フンが多用するような飛び蹴りで高さを稼ぐ手もある。こうしたところに、テコンドーが既存の空手と一線を画するユニークネスが確かにある。

 

 

本来、格闘技というのは強くなれればそれで良いのであって、たとえ外国産の競技でも他門流の技術でも有用なら学んで自分のものにしていくという、文化の交流と進歩に対する柔軟で合理的な姿勢が必要とされる世界である。空手(唐手)が沖縄武術から生まれたのと同様、空手からテコンドーが出来たとしても、何ら恥じることは無い。ここに、国技・オリンピック競技としての権威付けにこだわって「韓国独自文化」としての起源主張をしてしまうWTと、実戦性を重んじるITFの考え方の違いが出ている。

 

第二次大戦中の朝鮮には、朝鮮人が運営する唯一の空手道場として青涛館があった。館長はイ・ウォングク(李元国)と言い、日本の中央大学留学中に日本の船越義珍から松涛館流の空手を学んだ人であった。

祖国解放に伴い、植民地時代に空手を学んだ人たちが続々と自分の空手道場を開いた。ノ・ピョンジク(盧秉直)も船越義珍の弟子で、1946年に松武館を設立した。この他に、チョン・サンソプ(田祥燮)の智道館、ユン・ピョンイン(尹炳仁)の彰武館、ファン・ギ(黄琦)の武徳館などが生まれた。


ITFテコンドーの創始者となったチェ・ホンヒは1918年に朝鮮半島北東端の咸鏡北道に生まれ、日本の中央大学留学中に松涛館空手で二段を取得した人で、他にテッキョンも学んでいたようだ。学徒出陣で日本陸軍少尉となり平壌の歩兵第41連隊補充隊(42部隊)に配属されたが、そこで反乱を計画して逮捕、投獄された。解放後に38度線を越えて南へ行き、1946年1月軍事英語学校に入って韓国陸軍少尉に任官。韓国陸軍創設時メンバー110人の中の1人となった。

チェ・ホンヒは松涛館空手を発展させた「蒼軒(チャンホン)流空手」と名乗る自分の格闘術体系を部下たちに教え、肉弾戦技術の大家としてその地位を固めて行った。

 

■チェ・ホンヒ

 

 

なお、後に対立することになった朴正煕は満州国軍中尉で、1917年生まれとチェ・ホンヒよりも年上だったが、韓国軍に入ったのは1946年9月の国防警備隊士官学校2期入学からなので、韓国軍の軍歴上はチェ・ホンヒのほうが朴正煕よりも少し先輩ということになる。軍隊では軍歴上の先輩後輩間の上下関係は強力であった。朴正煕は権力を握るまではチェ・ホンヒに頭が上がらなかった。

 

1950年に朝鮮戦争が勃発し、韓国空手界の勢力図も激動の時を迎えた。青涛館のイ・ウォングクは徴兵を拒否して日本に亡命し、智道館のチョン・サンソプは北朝鮮に渡った。残る民間の空手界の代表たちが臨時首都の釜山に集結し、空手界統一のために「大韓空手道協会」が設立された。

 

一方、1954年に陸軍少将にまで出世していたチェ・ホンヒは、李承晩大統領の前で格闘術の集団演武を披露した。空手を知らない李承晩大統領は、朝鮮古武術のテッキョンがここに残っていたかと深く感動し、この素晴らしい格闘術を全軍に普及させるようにと命じた。反日精神旺盛な李承晩大統領に、今さら蒼軒流空手でしたなどとは言えない。かといって、テッキョンとも明らかに異なる。第一、自分たちがテッキョンの継承者を僭称するのは、全くの別物として現存しているテッキョンにも失礼である。悩みに悩んだチェ・ホンヒ将軍は1955年に入って、同じく軍隊内にいた青涛館出身の空手指導者ナム・テヒ(南太煕)らと協議しながら新しい民族武術の名称を「テコンドー(태권도,跆拳道)」と決め、李承晩大統領から認可を受けた。チェ・ホンヒとナム・テヒは軍人用道場として吾道館を設立し、全国に勢力を伸ばしていった。

 

1959年、吾道館の勢力と軍人としての権力をバックに、チェ・ホンヒは大韓空手道協会を大韓テコンドー協会に改称させた。韓国中の空手道場のほとんどが、一夜にしてテコンドー道場に看板を掛け変えることになったのである。

 

ところが1960年にチェ・ホンヒの後ろ盾だった李承晩大統領が失脚し、1961年に朴正煕が5.16クーデターで権力を握る。チェ・ホンヒも当時の韓国軍人らしく、4.19革命後の混乱した世相を憂えており、腐敗した金権政治を一掃して貧民を救うにはもうクーデターしかないと、以前から後輩の朴正煕少将と何度か語り合ったことはあった。しかし5.16当日、論山訓練所長だったチェ・ホンヒには何の相談もなく、突然クーデターが起きた。チェ・ホンヒは、この決起はチョン・ドヨン(張都暎)参謀総長の下に陸軍の総意として行われたものと考え、クーデター支持を表明して司令部に駆け付けた。朴正煕少将が喜色満面で出迎えて言った。「先輩!ソウルでもし失敗していたら、先輩を頼るつもりでした」。

 

■大韓ニュース314号「5.16軍事革命」

 

しかし「軍事革命委員会委員長」「国家再建最高会議議長」として当初名前が出ていたチョン・ドヨン参謀総長は、実は無理やり担ぎ出された存在でしかなかった。7月には議長を解任されて反革命容疑で逮捕され、後釜に座った朴正煕議長が一切の権力を掌握した。結局、あのクーデターは朴正煕が自分で天下を取りたいがための抜け駆けでしかなかったのだと、チェ・ホンヒは大きく失望した。以後、朴正煕政権に対する強力な反対者となった。

 

その頃、大韓テコンドー協会では内紛が起きていた。新政権は大韓テコンドー協会の団体登録を一旦無効とし、再登録を求めた。これを契機に、チェ・ホンヒに押し付けられた「テコンドー」の名称にひそかに反発してきた国内の道場各派から、長年慣れ親しんだ「空手」の名称を活かしたいという動きが起こった。議論の末、テコンドーの「跆(テ)」と「空手」の「手(ス)」をミックスした「跆手道(テスドー)」という新名称が決められ、大韓テコンドー協会は「大韓テスドー協会」に改名された。会長となったのはチェ・ミョンシン(蔡命新)中将だった。軍人が会長ということで、チェ・ホンヒ系統の軍隊式テコンドーの命脈じたいは辛うじて保たれることになったが、チェ・ミョンシンは朴正煕に近い人物でもあった。

1962年、朴正煕大統領はチェ・ホンヒの軍務を解いてマレーシア大使に任命し、国外へ厄介払いした。

 

しかしチェ・ホンヒが外交官としての地位を得たこと、チェ・ミョンシンやナム・テヒがベトナム戦争に出征してベトナムで軍隊式テコンドーを広めたことなどにより、海外普及が急速に進むこととなった。

 

1965年、帰国したチェ・ホンヒは大韓テスドー協会第3代会長となり、団体名を再び「大韓テコンドー協会」に改めさせた。翌年、チェ・ホンヒは他道場との対立を深め、不信任決議で会長を解任された。しかし松武館のノ・ピョンジクが第4代会長となって以降も「大韓テコンドー協会」の名称はそのまま維持され、現在に至っている。結局、「テスドー」は定着せず、名称問題はチェ・ホンヒの「テコンドー」の名が残ったのだ。

 

1966年、チェ・ホンヒはテコンドーの世界組織としてITF(国際テコンドー協会)を結成した。自分を追放した大韓テコンドー協会の上位に立とうとしたのである。

1967年、大韓テコンドー協会はチェ・ホンヒ系統の型を排除した新しい型(プムセ)の体系を定める。WTとITFの型に全く共通点がなくなってしまったのはこれが原因である。

1968年、大韓テコンドー協会は国際委員会を組織し、ITFの存在を真っ向から否定しにかかる。

1971年、朴正煕政権は外交部のキム・ウンヨン(김운용、金雲龍)を大韓テコンドー協会会長に送り込み、テコンドー界の直接支配を目論む。

 

■「国技 テコンドー」と書かれた朴正煕大統領の揮毫

 

1972年、韓国政府が「国技」たるテコンドーを統括するための機関として、国技院が設立された。

 

朴正煕政権は社会の隅々にまで強権支配を年々強めたが、その弾圧の手はITFテコンドーにも及んだのだ。

チェ・ホンヒの独裁批判もますます激しくなった。

 

1972年3月、ついにチェ・ホンヒはカナダに亡命した。ITFの本部もカナダに移転した。同年10月、朴正煕大統領は大統領特別宣言を発表して憲法も国会もぶっ潰し、非常戒厳令を発布して自分を事実上の終身大統領とする体制を作り上げた。いわゆる「十月維新」である。

 

こうした情勢の中で1973年の第1回世界テコンドー大会がソウルで開催され、大韓テコンドー協会会長のキム・ウンヨンを総裁としてWTF(世界テコンドー連盟)が発足した。キム・ウンヨンはロビー能力に長けていた。ここからわずか15年で、ITF側を大きく圧倒する巨大国際組織を作り上げた。韓国オリンピック委員会副委員長・IOC副委員長を歴任してソウルオリンピック招致にも貢献し、ソウルオリンピックで公開競技としてWTテコンドーを採用させることにまで成功した。

 

■キム・ウンヨン

 

朴正煕政権によるテコンドー界への政治介入は、チェ・ホンヒが基礎を築いた軍隊テコンドーのネットワークを最大限活用して普及の基礎を作り、複数の空手道場を起源としていたために内紛が絶えなかったテコンドー界を統一と安定に導いた。外交力に優れたキム・ウンヨンを抜擢することで、将来のオリンピック招致成功とテコンドー競技採用への道筋を作り出した。国内・国外に「テコンドーは韓国の国技」と絶え間なくプロパガンダを続けることで、国民のスポーツナショナリズム的感情の中心的地位をWTテコンドーに与え、チェ・ホンヒのITFテコンドーが直ちに北朝鮮の手に渡ってしまうことを鋭く牽制した(結局行き場を失ったチェ・ホンヒは北朝鮮に接近するが、それは80年代に入ってからのことだった)。

 

そして、『ロボット テコンV』のようなロボットアニメ作品を「テコンドー普及」という政策上の思惑からあえて「文化映画」として許可し、停滞していた国産アニメ業界を奇跡的に復活させるという副次的効果をも生み出したのである。

 

しかし、「テコンドー」の名を制定した功労者チェ・ホンヒを国外脱出に追いやり、テコンドーから実戦性と武道色を弱めて、「国技」「オリンピック競技」として使い勝手が良いようにスポーツ化を進めさせ、奇怪な「テコンドーは檀君の時代から」説を主張して空手の影響を隠そうとするWT指導部を生み出し、真の伝統武術だったテッキョンまで貶める状況をもたらした責任も、多くは朴正煕大統領にある。

この点、評価が分かれるところだろう。

 

朴正煕大統領という人にとって文化とは、テコンドーとは、「体力は国力」とは、一体何だったのだろうか。

 

 

4-4 副操縦士、ユン・ヨンヒ

 

ユン・ヨンヒ(윤영희)は『ロボット テコンV』のヒロインの1人だ。しかし、作画が少々不安定である。何しろ、場面ごとに顔が違うので、ボーッと見ていると、果たして同一人物なのかどうか自信がなくなってくる。カチューシャの色まで同じ場面で黄色になったり赤になったりする。昔、韓国語が全く出来ない時にはじめてネットの違法動画で字幕も無しに『ロボット テコンV』を観た時は、「Vの字のシャツを来た女は一体何人出てくるんだろう?」などと思ってしまった。

 

 

 

テコンVに主人公キム・フンとユン・ヨンヒが乗る時は、まず2人でチェビ号(제비호)に乗って飛んでいき、テコンVの頭部に着陸して内部へ格納される。降りる時もチェビ号に乗って降りてくる。

 

 

 

テコンVのコクピットは胸部にあり、通常はキム・フンだけがコクピットへ降りて行って、ユン・ヨンヒはチェビ号で待機している。かと思えば、2人ともコクピットで一緒にいることもあるし、ヨンヒだけチェビ号に乗って、テコンVから分離飛行することも出来る。

 

 

 

『ロボットテコンV第2弾 宇宙作戦』の序盤では、ヨンヒが1人でテコンVを操縦して戦っていた。しかし宇宙人ピコの合体ロボットに負けてしまう。ラスト付近では、またチェビ号をテコンVから分離飛行させて、巧みな空中戦を演じた。何の役に立っているのかすら謎の存在だった第1作のヨンヒと違って、第2作の彼女はとても勇猛果敢だ。しかし、分離中にもしチェビ号に何かあったら、フンも一生テコンVから降りられなくなるのではないだろうか。

 

 

観れば観るほど仕組みが良く分からなくなるが、ともかく、ヨンヒはテコンVの副操縦士で、テコンVは男女共同パイロット制なのだ。この時期の韓国アニメ映画にしては、妙にジェンダーバランスが良い。これは何故だろうか。

 

第一義的には、『マジンガーZ』の弓さやかの模倣であろう。カチューシャを付けたロングヘア―に、主人公ロボの開発者ではない良く分からない博士の娘さんという立ち位置、嫉妬深い性格までそっくりコピーされている。

 

 

と同時に、『ロボット テコンV』がWTテコンドー普及・スポーツ振興を目的とした文化映画として製作許可を受けることを狙った作品であることも深く関係しているものと思われる。

 

軍事政権が政権維持をスポーツナショナリズムに依存し、アジア大会やオリンピックを招致して国威発揚を図ろうとするのならば、女性の力を無視することは出来ない。女子スポーツも男子スポーツに劣らず、しっかり育成する必要が出てくる。国際大会のメダルは男子が獲ろうと女子が獲ろうと、メダルには違いないからだ。テコンドーのオリンピック競技採用を目指すなら、当然、女子テコンドーの振興も図らなくてはならない。女にテコンドーは不要などと言っていては、国際社会の後押しなど到底得られない。スポーツに興味を持つ女性を増やし、女性のテコンドー競技人口の裾野を広げることは政策的急務だった。

 

そのために、『ロボット テコンV』の映画を観た女の子が感情移入しやすいヒロインキャラクターとしてユン・ヨンヒを出し、副操縦士としてテコンVに乗せて、「男女平等」らしい外形を整えたのであろう。

 

『ロボット テコンV』の前に、1970年から連続ラジオドラマで『テコン童子マルチ』という作品がヒットしていた。兄マルチと妹のアラチが共にテコンドーを駆使して戦う物語で、タイトルにはマルチの名しか出て来ないものの、男女ダブル主人公に限りなく近い内容となっている。同年、韓国初の女性テコンドー選手と言われるキム・ヨンスク師範によって、女性専用のテコンドージムが初めて設立された。ラジオで『テコン童子マルチ』が流され、子供に人気を博していたまさにその時、それまで男の世界だったテコンドーの、女性に対する本格的な普及活動が始まっていたのである。

 

■キム・ヨンスク師範

 

『テコンV』に女性パイロットとしてユン・ヨンヒが出てきた原因には、もちろん弓さやかの影響が大きいだろうが、当時の韓国で男女主人公物の先行コンテンツとして『テコン童子マルチ』があったこと、女子テコンドーの普及が図られ始めた社会的背景があったことも決して見逃すべきではないと思う。

 

 

4-5 『マルチアラチ』との対決

 

ユン・ヨンヒは、テコンV第1作ではメリーとの確執シーンで華麗な三角飛びを披露したし、第2作ではテコンVに乗り込んでロボット格闘戦を戦った。だから、テコンドーも相当な実力の持ち主であるはずだが、彼女が生身の体でテコンドーを使って戦う場面は、第1作・第2作を通じて出て来なかった。テコンドー場面はあくまで主人公キム・フンやユン博士などの男性の専売特許だった。弓さやかですら道着を来て鍛錬していたのに、ヨンヒは道着を着なかった。

 

第3作『ロボットテコンV 水中特攻隊』では、ヨンヒとメリーの二大ヒロインを出さなかった。その代わりに、前髪パッツンでヨンヒ以上に外見を弓さやかに寄せた、ユリというテコンドー使いの新キャラを出した。ユリにおいてようやく、テコンVシリーズにおける女子テコンドーの場面が出てきた。だが、その中身が問題だった。

 

 

最初の登場シーンでユリはキム・フンをいきなり襲い、テコンドーで派手に暴れながら、ひたすらパンチラを披露しまくるのだ。恐らく、男子の世界チャンピオンであるキム・フンは、きっとユリの奇襲など余裕で見切って、最初から手加減しながら応対していたことだろう。そもそも、男女には体力差がある。男と女のテコンドー選手が直接対決するシーンを描くのは「男女平等」の称揚にはならない。むしろ、女性はどうやっても男性にかなわないという無力感を煽ることにつながりかねない。このシーンを見た女の子が、果たしてテコンドーをやりたいと思うだろうか。

 

一方、ラスト付近ではフンとユリがタッグを組んで海底人たちをテコンドーでなぎ倒す見せ場が用意されたが、この場面の映像は圧倒的にフンの分量が多い。ユリは同じ映像の繰り返しが多く、活躍した印象がほとんど残らない。拉致された彼女の父親を捜しに行くのも第1作と変わり映えのしない展開だし、彼女とフンの間に恋愛要素も別に進展しないし、フンは人魚姫のリリアの方と仲良くなるしで、いよいよ彼女はパンチラ要員以外の意味で一体何のためにこの映画に出てきたのか分からない。こうしたところにキム・チョンギ監督の時代とのズレ、女性キャラに対する扱いの軽さが出ていると思う。

 

こうして1977年夏に公開された『ロボットテコンV 水中特攻隊』は、同時期に公開されたイム・ジョンギュ(임정규)監督の『テコン童子 マルチアラチ』と客を奪い合って対決することとなった。『テコン童子 マルチアラチ』は、前述のラジオドラマ『テコン童子マルチ』のアニメ映画化作品である。アニメ版では、アラチの名前もタイトルに入れて、男女ダブル主人公物であることが強調された。これが大きく当たり、『テコン童子 マルチアラチ』は1977年の韓国映画として第3位の興行記録を残した。アラチにもパンチラシーンはあったが、ユリのようにそれがメインにはなっていない。単なるマルチの付け合わせではなく、1人の女性テコンドー戦士としてアラチは描かれた。

 

■『テコン童子 マルチアラチ』(1977年)

 

イム・ジョンギュ監督は1943年生まれで、キム・チョンギ監督の2歳年下である。ディズニー映画『ピーターパン』を見てアニメーターを志した彼は、日本アニメ『黄金バット』『妖怪人間ベム』の下請製作が東洋放送で始まった時に採用試験に応募。高い競争率をくぐり抜けて正式採用され、森川信英の薫陶を受けた。キム・チョンギは外注アルバイトだったが、イム・ジョンギュは東洋動画正規メンバーの1人だったのである。

 

その後世紀商事に移って、キム・チョンギと共に『黄金鉄人』で動画、『宝島』で原画を担当した。キム・チョンギが世紀商事を去った後もイム・ジョンギュは残り、『王子好童と楽浪公主』『稲妻アトム』『怪獣大戦争』でも原画を担当して長編アニメの経験をさらに積んだ。

 

ソウル動画設立時にキム・チョンギ監督の下へ合流し、『ロボット テコンV』『ロボットテコンV 水中特攻隊』に製作スタッフとして参加した彼は目覚ましい活躍を見せた。キャラクターデザインと原画はイム・ジョンギュが中心になって作業した。キム・チョンギは監督として絵コンテ・演出・編集に専念することができた。

 

■イム・ジョンギュ監督

 

 

 

しかしイム・ジョンギュは、テコンV第3作には参加せず、『テコン童子 マルチアラチ』で監督デビューを果たした。

 

そして、『ロボット テコンV』の企画担当だったあのキム・イルファンもここで再び登場する。キム・イルファンは『ロボット テコンV』の後でユープロダクションを辞めて独立し、WTテコンドーをより一層テーマの中心に据えたアニメとしてラジオドラマ『テコン童子 マルチ』の映画化企画を立案した。『テコン童子 マルチアラチ』も、企画はキム・イルファンだったのだ。

 

また、『テコン童子 マルチアラチ』でも、『ロボット テコンV』と同じく、テコンドー指導はユ・スンソン師範に依頼された。

 

『ロボット テコンV』が、キリスト教ヒューマニズム、反共主義、ディズニー、ロボット、テコンドーとストーリーの中に色々な素材をテンコ盛りにしすぎているのに対して、『テコン童子 マルチアラチ』の話はかなりシンプルである。この物語の悪役・青の骸骨13号は、肉体を捨てて頭だけで浮遊している科学者という設定である。頭でっかちの知的エリートの象徴なのだ。この軽佻浮薄の近代文明の権化に対し、取り戻すべき身体性として「テコンドー」を置く。フンがカープ博士を打倒するのと構造は同じだが、テコンVよりもマルチアラチの方が余計なノイズがない分、テーマを明快に表現できている。

 

 

1977年と言えば、韓国ではTVで海外ドラマ『ワンダーウーマン』の放送が始まり、大ヒットを収めた年である。『ワンダーウーマン』は日本でも同時期に放送されているが関東ローカルの深夜番組だったのに対し、韓国ではTBCで全国放送、土曜18:00-19:00という良枠だった。韓国アニメ『Green Days 大切な日の夢』にも70年代回顧ネタとして『ワンダーウーマン』が出てくる。当時の韓国の大衆は、強い女性ヒーロー像をひそかに求めていたのだろう。それが『テコン童子 マルチアラチ』と『ワンダーウーマン』のヒットとして現れている。

 

■『Green Days 大切な日の夢』(2011年)に出てくる
TVドラマ『ワンダーウーマン』のオ―プニング場面

 

イム・ジョンギュが抜けた『ロボットテコンV 水中特攻隊』以降のテコンVシリーズの出来を見ると、彼の力がいかに大きかったかということが分かる。キム・チョンギ監督が右腕とも頼んだイム・ジョンギュの監督デビュー作、『テコン童子 マルチアラチ』。これを迎え撃った『ロボットテコンV 水中特攻隊』は、グレンダイザーからの安易な模倣が目立つような有様で、結局、夏休み子供映画興行は『テコン童子 マルチアラチ』の圧勝に終わった。

 

 

グレンダイザーパクリネタが出てきたところで、そろそろテコンVとマジンガーZについて論じていこうと思う。

次回が、いよいよ最終回となる。