プールサイドの人魚姫 -92ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


ロッキー


インドネシアの密林から探し出して来た今度の対戦相手は、まだあどけなさが残る19歳の少年だった。初回でKOするだろうと思っていたが、かなり手こずっていた様に思う。ボクシングに慣れてきた亀田興毅は、デビューしたばかりの頃に見られた獲物を倒す時のような鋭い眼光は消えうせていた。

一撃で相手をリングに沈めるパンチも見受けられない。リズミカルなパンチの連打は高く評価できるものの、試合を見ているファンはKOを早く見たいと思っているし、それが亀田の持ち味でもある。八百長と罵られた試合も既に過去の物。何時までも引き摺っている訳にはいかないが、新たな八百長疑惑で揺れる相撲と同様でファン或いは視聴者の記憶は以外と根強く残っているもの。

KOから随分遠ざかっている自分に対しても興毅自身が一番焦っている様にも思える。TBSに踊らされる亀田一家の運命や如何に。さて、どうせならTBSさんよ、引退が囁かれている辰吉に花向けとして亀田興毅VS辰吉丈一郎のカードを実現させてみたらどうかな。むちゃな話しではあるが、TV局の得意なドラマとしては申し分ないだろう。

階級などこの際関係なく、これまでボクシング界に貢献して来た辰吉も興毅のパンチを浴びてリングを去るなら本望ではないだろうか。99%あり得ないだろうが、1%の可能性として辰吉が勝ったらそれはそれで大いに盛り上がる。視聴率も破格の勢いであがるだろうし、ランダエタ戦をも遙かに凌ぐだろう。ボクシングを娯楽番組にしてきたTBSなんだから最後まで娯楽だと押し通せ、その位の根性で番組を作れと言いたい。


通勤 今年1月何とか就職先が見つかり、4年ぶりに社会復帰を果すことが出来た。それを目標にしてこれまで毎日心のリハビリを続けて来たのであるが、世の中はそう甘くはない。虚ろな眼で天井を見詰めていた日々を懐かしく思うこの頃ではあるが、気持ちが先行して身体がついて来ない。先週は5年ぶりの本格的な残業を味わいつつ、40に差し掛かる頃毎晩残業に明け暮れていた時代を思い出していた。年月が流れいつしか体力も衰えて行った。自分はまだ若い…?一体何歳なのか年齢不祥のままここまで来てしまったような気さえする。通勤電車の人ごみに漸く慣れてきて、大地を踏みしめる感触も戻ってきたところだった。溜まった疲れが土日にかけて荒波の如く一気に押し寄せて来た。幾ら寝ても睡魔が襲う。想像以上に身体と脳は疲れていたようだ。働いてお金を得る事の大変さと、財布が少し潤う嬉しさが同居していた。疲れた身体は休めなければならない。ブログから少し距離を置き、体力と気力の回復に努めた。消耗しきった身体はベッドに吸い込まれ、果てしない眠りに落ちた。気が付くと月曜日の午後4時…。昨夜の記憶さえ消えかかっていた。そして覚醒、睡眠が如何に大切か、疲れた時は眠るに限る。今更ながらそれを感じていた。もう二度と失敗はしない、3度目はないと自分にいい聞かせ、今日も満員電車の通勤ラッシュを楽しみに変えてやった。環境が変われば当然それなりのストレスはある。しかし、今までの自分とは違う事を身体に記憶させる事に専念しようと思う。


パパ 大人の都合に合わせたような結果を招く事は設置当初から懸念されていた事だったが、それが早くも現実となってしまい真に残念である。父親に付き添われてポストに投函された赤ちゃんは既に3歳であった。
この年齢に達していれば善悪の判断も多少は理解でき、大人との意思疎通も問題なく出来る。既に人間としての基本的な人格は整いつつあるこのような子どもがポストに預けられた事について、関係者のみならず、擁護派、反対派の意見を持つ人々に今後の赤ちゃんポストの運営に一抹の不安を抱く結果となった。
この先も同じ様な事例が増加するとなれば、日本は育児放棄大国になってしまう。親がいない或いは育てられる環境にない場合、その子どもを受け入れる施設は昔から存在している。わたしは小学校低学年の時、孤児院に預けられそうになった経験がある。
家庭と呼べる環境になかった子ども時代、過去の記事でも書き連ねているので知っている方も多いと思う。父はわたしが生まれた時から既に育児放棄に走っており、祖母が病気で亡くなった後の父との二人暮らしは想像を絶するものだった。それに見かねた福祉課の職員がある日突然やって来て父と話し込んでいた。わたしは庭の奥で遊んでいたが、父が大声で「とし坊ちょっと来い」と呼ぶ。大きな声でなければ聞こえないほど庭は広かった。
スーツ姿の男が二人微笑みを浮かべながら声を掛けて来る。「俊樹君、少し話しがあるんだけど…」父は縁側に座り込み既に酔っていた。酒の力を借りなければ話しが出来ないほどの内容だったのだろうと思った。銀縁眼鏡の奥で怪訝そうな視線を投げかける職員たち。
父との間では話しが既に着いているようだった。父が言った「とし坊、みかたっぱらへ行ってみるか?」これまでに幾度となく聞いた言葉、酔うたび或いはわたしが悪戯した時には必ずといってよいほど「みかたっぱらへ入れちまうぞ」と脅すのだ。その言葉を耳にする度わたしの心は霜柱のように凍り付き、酷く痛んだ。職員が説明をする。「俊樹君、三方ヶ原は知っているよね?」「俊樹君の為と思って話すんだけど…」父も職員もぐるになっているとわたしは思った。三方ヶ原には親のいない子どもを預かる施設がある。
「とし坊、どうする?」赤ら顔の父は酒に酔いながらも穏やかな口調で話しかける。日本酒の臭いがツーンと鼻の奥にまで届く。結果はわたし次第なのだと思った。そして一つ返事で何の躊躇もなく「いやだ!」と答え、庭の奥へと走り去った。
確かに父はだらしなく仕事もせず満足に食事すら与えてくれない。しかしわたしにとってはたった一人の肉親。そして紛れもなく父親だった。わたしはこんな父でも離れて暮らす事の方が辛いと思っていた。酔って殴る蹴るの暴力で痣だらけになっても、父の事を大好きだった。
子どもの視線から大人(親)をみればそれに取って代わる存在はない。誰しも最初から子育てに自信がある者などいない。そして愛し方も人それぞれ違う。人間の数だけ愛し方があり、育て方もある。手本などは要らないし、いい子に育てる必要もない。親になる事は人生の通過点の一つ。一生が勉強だと思えばよい。欲をかくな、汗を流せ。子どもを産んだら最後まで責任を持て。それが人間の本来在るべき姿なのだ。時には自分を捨てる覚悟も必要なのだ。

 


ムスダン

風薫る5月は寒暖の差が激しく、時には初夏を思わせるように額から汗が滲み出る日もあるなど、過ごし易い季節ではあるものの体調を崩す人も多い。大型連休が明けた後の日々は仕事に追われ残業の日が続き、睡眠不足であくびばかりしておりますが、とりあえず元気です。
さて、北の将軍様はよほどミサイルが好きらしく、新型の武器製造が生き甲斐にもなっているようだ。先月25日に行われた軍事パレードの中に、新型と思われるミサイルが公開されていた事を米国の偵察衛星がキャッチした。「ムスダン」と命名されたその新型ミサイルの詳細は明らかではないが、最も気になる射程距離は約5千キロと広く、米国の領土であるグアム島もすっぽり入ってしまう(IRBM)中型弾道ミサイルらしい。
新型と呼ばれるからにはノドン、テポドン等に比べ射程距離は別にしても最新のテクノロジーを搭載し、米軍兵器の如くピンポイント攻撃が可能だとしたらかなりの威嚇になるが、おもちゃの核兵器しか作れないような軍事技術ではほぼ不可能だろう。新型と言うよりは旧ソ連或いは中国製のミサイルにペンキを塗って偽装した程度のものではないだろうか。
ミサイルが恐いのはその射程距離にあるが、目標地点に到達する以前に燃料切れで太平洋に吸い込まれるロケット花火だったら、まさしく張子の虎。武器ばかり製造してもそれを飛ばす燃料が北朝鮮に在るとは思えない。見た目だけ勇ましくとも中身が伴わない代物は何ら脅威に成らず。ただし、ひとつ不安に思えるのは、偽札作りの技術力が非常に高い事から推測するに、我々が思っているより意外と精度は高い可能性も捨てきれない。
一国を守る者として出来る事は「飛んで来る物を叩き落す」それしか道はないだろう。


母の日 母さん…覚えていますか?あなたがよく口ずさんでいた歌。春日八郎の「赤いランプの終列車」わたしも好きでした。
 ――白い夜霧の 灯りに濡れて
   別れ切ない プラットホーム
   ベルが鳴る ベルが鳴る
   さらばと告げて 手を振る君は
   赤いランプの 終列車――
 その歌を口ずさみながら洗濯物を干すあなたを見詰め、白い素足にじゃれつくわたしをあなたは優しく抱き起こしてくれました。
 母さん…あなたの歌はわたしに届きましたよ。でもわたしの歌はあなたに届かなかった。
 母さん、聞こえませんでしたか、ほらいつもわたしが歌っていたあの歌を。仕事に出掛け階段を降りる時、母さんの後姿に向かっていつも歌っていた「俺は待ってるぜ」。三歳の幼いわたしが一生懸命覚えた石原裕次郎の名曲ですよ。
 でもあの時だけはきっと耳を塞いでいたのですね。黒っぽい服を着て大きなバッグを提げ、ゆっくりと振り向きもせず階段の軋みと一緒に降りて行きました。母さんわたしはいつもの通り帰ってくるものと思っていましたよ。
 黒い後ろ姿だけをわたしの脳裏に刻み込んだまま母さんは帰って来ませんでしたね。その五年後にあなたは自ら命を絶った。もう二度と戻らぬ人となった。酔った父が泣いているのも知らずに…。

 


禁煙車

大型連休明けの一週間が残業続きで、ブログの更新が遅れた事をお詫び致します。但し来週も多忙なので毎日の更新は無理かと思いますのでご了承下さいませ。身体の方は多少睡眠不足気味ですが元気ですp(^o^)qガンバ。さて前置きはこの位にして本題に入ります。
愛煙家を奈落の底に突き落とすようなデータが、先日厚労省から発表された。人間が生きている上で最も気になるひとつの寿命について。厚労省によれば非喫煙者に比べ禁煙者の寿命は3~5年短いというもの。これは統計的なデータなので、全ての喫煙者に当てはまる訳ではないが、気持ちのよいものではない。
煙草が健康に及ぼすリスクは「百害あって一利なし」と言われているように、全ての面で害悪とされており、特に肺癌を誘発する影響が非常に高いとされている。
年々喫煙者は減る傾向にあるが、全ての人が健康志向に傾いているとは思えない。煙草以外にも悪影響を及ぼす嗜好品或いは食品などが氾濫している現代において、煙草さえ止めれば健康になるかと言えばそうでもない。
禁煙に成功した代わりに甘党になり、間食が増え体重増加や肥満に悩む人も増えて来ている。ストレスは溜まる一方で発散する方法が見つからず、生活習慣病を招く結果になってしまっては折角煙草を止めても、健康からほど遠い生活を送っていたのでは意味がない。
煙草だけが特に悪者扱いされている傾向が目立つ昨今であるが、空気中に漂う埃、眼には見えない浮遊物の中には健康を害する物質が多数ある。都会では車の排気ガス、地方へ行けばパルプ工場の煙突からもくもくと白い煙が風に靡いている。
化学物質は排気ガスと同様に空気を汚し、深呼吸することさえ躊躇してしまう。人間も二酸化炭素を吐き出している点からいえば、空気を汚す張本人かも知れない。喫煙者のマナー昔に比べてみればかなり改善されて来ていると思うが、それでもモラルの欠く人間はいる訳で煙草に限らず自己中心型人間が増加傾向にあっては、マナー違反者は減るどころか逆に増えて来ているとも思える。さて、タイトルにもあるように禁煙をしたくても出来ない、途中で挫折する等といった経験を持っている人は大勢いるのではないだろうか。何事ににも共通する事だが、一気に事を済ませようとすれば失敗する可能性は大きい。
スポーツ選手が激しいトレーニングの後クールダウンするように、ある程度時間をかけて身体を普段の状態に戻すことによって体調を整える事が出来る。煙草もこれと同じ。ニコチン中毒に侵された身体は、一度に止めようとすれば拒否反応を起こし、場合によって(稀であるが)は死に至るケースもあり得る。やはり計画を立てて実行すべきではないだろうか。まあこの程度のことは誰でもがやっている事だと思うので、そう深く追求はしないで置く。
もうひとつの止め方は人間の思い込みを利用した方法。簡単に言ってしまえば自己催眠の一種かも知れない。イメージトレーニングである。煙草を吸いたくなったら頭の中に煙草を吸っている自分の姿を思い浮かべて見ること。早い話しが吸ったつもりになる事である。眼を閉じ、何度か深呼吸しいつも吸っている煙草の銘柄を思い浮かべる。そしていつもやっていた通りの事を頭の中で実行してみよう。これならば場所や時間など気にせず何処でも煙草が吸える。煙草の煙や味なども加味してみよう。口や鼻から吐き出される煙の向こうにきっと禁煙成功の4文字が見えるだろう。


高速道路
ゴールデンウィーク中、避けて通れないのが事故。その中でも交通事故が非常に多い。アメーバニュースで話題を呼んでいる高速道路上で起こった事故では二人が死亡。内容についてはアメーバニュースを参照して欲しい。
ハンドルを握る意味を良く考えて運転していないドライバーがどれほど多いことか。自分だけが安全運転をしていても相手がいる場合は、予想不可能な事故に巻き込まれる事も多い。高速道路などでは追い越しが頻繁に起きる。禁止車線でなければ、違反にはならないが、中には気の短いドライバーもいて、追い越された事に腹を立てついかっとなって更にその車を追い越そうとする。そんな怒りのハンドルがとんでもない事故を招くのである。
それが後続車にまで飛び火する。そして大惨事となるわけだ。飲酒運転も一時期に比べれば多少減ってはいるものの、飲酒事故のニュースもいまだ耳にする。ハンドルを握ると性格が一変するドライバーも中にはいるようだが、冷静さを欠いてしまった者に正しいハンドル操作は出来ない。自動車教習所で教わった時のように、常に初心に返り気持ちの余裕と譲り合う精神を忘れない事で、交通事故は防げるものだと思う。
深夜の高速道路はその殆どが大型トラックである。決められた時間内に荷物を届けなければならない、長距離ドライバーの気持ちに焦りがないと言えば嘘になるが、車社会が加速し何処の運送会社も生き残る為、過度な競争を繰り返し、コスト削減がもたらすつけは個々のドライバーに重くのしかかる。
命がけの運転とそのハンドルには家族を支えるため必死に走る孤独なドライバーの汗が染み付いているだろう。自由社会が生み出した利益追求型の現代では常に安全は後
回しにされ、安全と引き換えに命を捧げなくてはならないような利己的社会にもう終止符を打ちたいと思わずにはいられない。


ジェットコースター 誰もがその惨劇を幻想だと思ったに違いない。起こる筈のない事故。しかし運命とは皮肉なもので、人間の想像を遙かに超える事態が待ち受けていた。
5月5日子どもの日にその事故は起こってしまったのである。大阪府吹田市の万博記念公園内にある遊園地「エキスポランド」でのジェットコースター事故は過去に類を見ない遊園地での惨劇となってしまった。大型連休のゴールデンウィークともなれば、どこの遊園地も書き入れ時で多くの乗り物にモーターが焼き切れるのではないかと思うほどフル回転を続ける。
遊園地によっては従業員だけでは対応できず、アルバイトを雇ってその場を凌いでいる所も少なくはない。遊園地で最も人気の高い乗り物がジェットコースターで、最近ではその種類も数多く登場し更に刺激を求めてスリル満点の遊具が次々と新登場している。
遊園地を運営する側も集客が命だらかそれぞれの遊園地では売り物を前面に出し、庶民の関心を引く事にやっきになっている状態。それに追いつかないのが安全管理である。点検の回数は運営側に寄ってまちまちではあるが、危険度の高い乗り物については一日一回は点検をする必要があると思う。
確かに技術の進歩により昔の乗り物に比べれば安全性は確保されて来たとは言え、所詮相手は機械。いつ何が起こるかは誰にも予想はつかない。ボルト1本が緩んでいた為に大惨事手前まで行った飛行機事故もあるように、あらゆる場面を想定して安全な遊園地を作り上げて行ってもらいたいものである。
折角の休日を奪われた人たちにとってみれば、もうこんりんざい遊園地に足を運ぶ機会はなくなったのではないだろうか。亡くなった方にはご冥福を祈るばかりである。


鯉のぼり 屋根より高い鯉のぼり。5月5日近くになると一般家庭だけでなく、様々な場所で見かける鯉のぼり。江戸時代から始まったこの習慣は、元々武家の間で男児の出世に願いを込めて家の庭先に飾られるようになった。

それが裕福な庶民にも伝わり雛人形と同様の意味を持つに至った。少子化が進む現在では、都会でのマンション暮らしの家庭が多く殆ど鯉のぼりの泳ぐ姿は見られない。

鯉のぼりは謂わば家族のシンボルでもある。子どもの頃、高々と5月の空にたなびく鯉のぼりを見ながら、家にもあったらいいなと思っていた。確かに裕福な家庭で立派な庭があり、家族の多い家庭のシンボルにも見えた。わたしは一人っ子なので、兄弟、姉妹がいる事の感覚が掴めない。その代わり、友人は多くいるので友人対する思いは家族同様に思っている。

子どもの日は「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかる日。」とあるが、近年起こった子どもが被害にあう事件を見ると、人格や幸福どころかそれ以前に大人が親である立場を放棄している現状が余りにも多すぎる。

子どもと共に親が何であるかを学ぶ事が子育てである。完璧な親などいないし、良い親の定義も存在しない。同じ子どももいなければ、同じ親も存在しない。

自分の子どもにとって良い親とは何か。それは風を身体一杯に受けて勢い良く泳ぐ鯉のぼりが教えてくれている。家族で同じ方向を見詰め合うことではないだろうか。


ノック 何度ノックしてももう彼は返事をしない。「ノックは3回」なんて言うドーンのヒット曲もあったが、「漫画トリオ」で一世風靡した横山ノック氏。これも突然の訃報である。彼の生き方も波乱に満ちた人生だった。
大阪を代表する漫才芸人としては現在のお笑いブームの原点に位置する人物だったかも知れない。漫才から足を洗った後、政界からデビューする事になるが、人気者だけに政治の扉は1回ノックしたのみで当選。参議院議員からそして大阪府知事へと一気に彼は政治の頂点に立った。芸人としての地名度が高い事は選挙を有利に進め得票数も桁外れだったが、有頂天に立った時の人間には必ず何処か隙が出来るもの。
本人に取って見れば些細な事だったかも知れない「女子大生セクハラ事件」結果的にこの問題が引き金となり、彼の政治家人生は歯車が大きく狂ったと言わざるを得ない。この程度の事は今の自民党内の議員からセクハラとも取れる発言が多く飛び出している。しかし、現状は本人が頭を下げてそれで揉み消されてしまい、それ以上の追求はない。
党(国)に守られている政治家たちのモラル低下はいま始まった事ではないが、横山ノック氏のセクハラ事件が当時は大きくマスコミに晒され、所詮芸人と一蹴され政治家たちからは芸人に政治など出来る筈もないなどと陰口を叩かれていたのも事実だろう。しかし現在そのまんま東氏が宮崎県知事として当選したように、国を代表するプロの政治家に嫌気が指した国民が藁をも掴む思いで、自分達の国や地域を何とか良くしたいと本気で考え始めた今、自分達の代表は常に市民或いは国民に背を向けない政治家を望んでいる事は間違いない。
横山ノック氏自身はおそらく、最後の復活に闘志を燃やしていたかも知れない。もうそんなに頑張らなくてもよいのに。病魔は人の夢まで容赦なく食い尽くして行く。頑張っても勝てない時もある。心からご冥福をお祈り致します。