母の日は来なかった。私小説「届かなかった僕の歌より」 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


母の日 母さん…覚えていますか?あなたがよく口ずさんでいた歌。春日八郎の「赤いランプの終列車」わたしも好きでした。
 ――白い夜霧の 灯りに濡れて
   別れ切ない プラットホーム
   ベルが鳴る ベルが鳴る
   さらばと告げて 手を振る君は
   赤いランプの 終列車――
 その歌を口ずさみながら洗濯物を干すあなたを見詰め、白い素足にじゃれつくわたしをあなたは優しく抱き起こしてくれました。
 母さん…あなたの歌はわたしに届きましたよ。でもわたしの歌はあなたに届かなかった。
 母さん、聞こえませんでしたか、ほらいつもわたしが歌っていたあの歌を。仕事に出掛け階段を降りる時、母さんの後姿に向かっていつも歌っていた「俺は待ってるぜ」。三歳の幼いわたしが一生懸命覚えた石原裕次郎の名曲ですよ。
 でもあの時だけはきっと耳を塞いでいたのですね。黒っぽい服を着て大きなバッグを提げ、ゆっくりと振り向きもせず階段の軋みと一緒に降りて行きました。母さんわたしはいつもの通り帰ってくるものと思っていましたよ。
 黒い後ろ姿だけをわたしの脳裏に刻み込んだまま母さんは帰って来ませんでしたね。その五年後にあなたは自ら命を絶った。もう二度と戻らぬ人となった。酔った父が泣いているのも知らずに…。