プールサイドの人魚姫 -72ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

北島 オリンピックはいつからメダル獲得合戦になったのだろう…。
オリンピック中継を横目で見ていると、とにかく「メダル、メダル…」の声ばかりが聞こえて来る。
もちろんアスリートたちにとって見ればメダルの価値は大きく、そして応援する国民たちのメダル獲得への期待が選手の後押しをしているに違いないのだが、オリンピックは「メダル」の祭典ではなく、スポーツの祭典だと言うことを忘れてしまったかのような、連日のメダル獲得報道に興醒めしているのはわたしだけだろうか。
そんな愚痴を言いたくなるような中で、水泳が今、最も熱く一人の日本人アスリートがプールを独占してしまった。
11日に行われた男子100メートル平泳ぎで、日本の期待を一身に浴びながら金メダルを獲得した北島康介選手。
世界新記録樹立というおまけ付きでの優勝に、会場はどよめきたった。
わたしは心臓が悪いので、水泳は最も苦手なスポーツの一つに入る。泳げないわけではないが、長く続かないのである。
だから、魚のように泳いでいる人たちを見ると、羨ましくて仕方がない。
人間は母親の胎内にいる時、水の中で魚のごとく泳いでいるし、祖先は水の中で生活していたという証が、指の付け根に水かきとして残っている。
だから生まれ付き泳げない人はいないわけであるが、水に対する恐怖心などがあったりすると水を敬遠しがちになってしまう。
体力がなかったり、喘息などの病気を持っている子どもを、小さい頃から水泳教室に通わせたりしている親も多い。
わたしの息子が保育園を卒業する時、「将来は水泳教室の先生になりたいです」と大勢の親たちが見ている前で話していたのを思い出す。
どんなスポーツをするにも必ず切っ掛けがあり、いずれオリンピックで金メダルを取るという大きな夢を抱くのもよいだろう。
水泳の場合ならば、人より早く泳げるようになるために練習と努力を欠かさず、毎日積み重ねて行かなければならない。
スピード水着の選択もあるだろうが、やはり必死の覚悟が自分を先へと進めて行くのである。
北島康介も大きな試練を乗り越えた結果が今に結びついている。
人間は常にチャレンジャーであるべきだと教えてくれた金メダルのニュースであった。

北京 北京五輪を標的にしたテロの怪情報が飛び交う中、華々しく北京オリンピックがどうやら無事に開幕した。
北京の夜空に煌びやかな花火が三万発。
NHKのライブ映像を見た人はかなりの数に登ると思われる。
とりあえず妨害する情報は今のところは入っておらず、中国の思惑通りの開会式だったようである。
オリンピックも回を重ねるねごとに目立つのは、その圧倒的なパフォーマンスである。
わたしは途中まで見ていたのだが、飽きてしまい聖火リレーをみることなく、TVを消してしまった。
正直なところ、余りにも華やか過ぎて、この祭典の掴みどころが大きくずれていたような気がしてならない。
目だったのは中国の歴史を紀元前にまで遡り、如何に中国が歴史が古く、様々な発明により世界各国に多くの影響を与えて来た、偉大な国である事を前面に押し出した格好のアピールとなった事は間違いない。
しかしその影で国取り物語に明け暮れていた時代は影を潜め、「和」を最も前面に押し出した言わば、オリンピックの歴史を返り見た時、スポーツを通し、世界の民族が友好を深める絶好の機会としてのオリンピックを前面に押し出しす事に終始力を注ぎ、莫大な資金を使って今までにないオリンピックを成功させようとする中国当局の思惑が見え隠れする開会式だったような気がしてならない。
パフォーマンスそのものは相当な訓練を重ねてきた結果の集大成ではあったが、わたしは最後まで見る気がしなかった。
オリンピックはスポーツを通した平和の祭典、或いは、世界の民族の祭典とも取れるが、文明を築いた民族の祭典に過ぎない。
地球上にはオリンピックすら知らない、関係のない民族も多数存在している。
地球温暖化に対する「鳥の巣」と称したスタジアムは破壊されつつある自然を取り戻すための小細工に過ぎない。
文明を築いた国の人間だけが、民族ではない。地球上の至るところに残る秘境の地には、現代の文明を拒否するが如くに自然と共存している部族がいることを忘れてはならない。
先進国が築いた文明が自然を破壊し、未開の地にまで足を踏み入れることが果たして、地球環境の保護と言えるだろうか。
北京五輪の会場は選手団もかなりリラックスした表情を見せてはいるものの、内心は果たして如何なものか。
会場の外では中国の軍隊が戦場の如く、テロリストたちからの不気味な警告に戦々恐々としながら、会場をガードしていることだろう。
「戦場のピアニスト」「戦場のメリークリスマス」などと言った名作映画もあったが、まさしく北京は戦場のオリンピックと言っても言いすぎではないだろうと思う。
開幕した以上何事もなく無事に終わって欲しいと思うのが本音である。
今回の北京オリンピックを一言で表すとすれば、「世界に向けた中国の豆まきである」。


シェー

漫画家 赤塚不二夫氏が亡くなったことを知った時「シェー」と、つい叫んでしまった。
1960年代この「シェー」が大ブームとなり、一億総シェーの時代だったような気がする。
わたしが最初読んだ漫画雑誌は、「少年マガジン」「少年サンデー」「少年キング」この三冊だった。
当時のわたしは小学校低学年。一冊30円するこの週刊漫画雑誌を購入するお金などなかった。
今のようにコンビニなどという便利な店もないし、本屋も町にそう沢山あるわけでもなかった。
この頃、貸本屋というのがあり一冊10円で一週間?借りることが出来た。
もちろん、新刊を借りることは出来なかったが、それでも充分役に立ち重宝したものである。
鉄腕アトム、鉄人28号、スーパージェッター、エイトマン、ハリスの旋風、墓場の鬼太郎、伊賀の影丸、サブマリン707…好きな連載漫画を上げれば限がない。
ヒーロー物や根性物などが流行っていた中で、一際輝いて見えたのが「おそ松くん」「天才バカボン」などいわゆるギャグ漫画であった。
特に「おそ松くん」は大好きで、登場するキャラクターが個性的で、誰もが主人公のように見えた。
チビ太、イヤミ、ハタ坊、レレレのおじさん、ニャロメ、ケムンパス…など。
勉強嫌いのわたしの教科書、ノート、下敷き、学校の机はこれらを描いた落書きだらけだった。
将来漫画家になりたいと思ったのはこの頃であり、赤塚不二夫作品に出会ってからであった。
他の漫画家にもかなり影響を受けているが、ケムンパス、ニャロメは特に気に入っていた。
ギャグ漫画の良さは徹底的にデフォルメされたシンボルの新鮮さ、何回見ても飽きの来ない起承転結の激しいストーリーにあるだろう。
子どもは直感でそれを感じ取る。その子どもの心を掴んで離さない「赤塚不二夫」はギャグ漫画の天才とも言える。
子ども時代に受けた影響は、大人になっても色褪せることなく、鮮烈な過去物語として現在も生き続けているのだ。
天国で「おそ松くん」をもう一度描いて欲しいと思う。

改造内閣 改造内閣を「安心実現内閣」に掲げ、新しい福田内閣がスタートを切った。
国民の期待が僅かながら反映し、支持率がアップ。
しかし期待は常に裏切られる。魑魅魍魎の棲む着く政治の世界で、信頼出来るものなど何一つないと言うのがわたしの意見だ。
新内閣の顔ぶれを見ても、一癖二癖ありそうな人物ばかりのご登場。
ここに一体何の期待を寄せると言うのだ。
拉致問題ひとつ取っても担当大臣が変わったところで、明るい未来が待っているとは到底思えない。
過去に散々人が入れ替わり対応してきたが、いまだ北朝鮮に操られる人形の如く、手も足も出ない。
国家の重大犯罪に対し、日本政府の決断力の無さが招いた拉致消極論。
原油高騰に伴う物価高、景気低迷など直面する課題が山積みの中、国民に向け何を根拠に『安心実現内閣』を謳うのか福田首相の言葉は相変わらず他人顔。
唯一救いと言えそうなのが、幹事長に選ばれた麻生太郎氏くらいのものだろう。
麻生氏がどれほど実力を発揮し、率先して新内閣をリードして行くかが、今後の展開の鍵となるのは間違いない。
何れにしても顔ばかり一新しても中身が伴わなければ、支持率はあっという間に落ちる。
税金の無駄遣いを止めてくれるような政府を、わたしたち国民は望んでいるし筋道の通る使い方をしてくれれば、誰も文句は言わない。
政治家として真摯に国を思い、身を投げ打って政治に没頭してくれるような人物は存在しないのだろうか。


チャンプ 7月30日、東京・代々木第1体育館は暑さを吹き飛ばす観衆のどよめきにに揺れていた。
WBC世界フライ級チャンピオン内藤大助は、WBC13位の清水智信の挑戦を受けた。
変則ボクシングVS正攻法というスタイルの違う試合であったが、清水はアマチュア時代に鍛えた、ジャブを武器に序盤から中盤とチャンピオン内藤を苦しめ続けた。
自分のボクシングスタイルが相手に効果がない時、別の戦法を考えることも必要だが、内藤はあくまで自分を押し切った形となった。
清水はチャンピオンの試合運びをよく研究しており、その成果が随所に見られた。
試合途中に採点が発表され、清水が一歩リード。
このまま行けば判定勝ちに持ち込め、新しいチャンピオンの登場がにわかに現実めいてきていた。
途中判定の結果を耳にした場合、差がなければ特に心配する必要もないが、リードされているとなればやはり気は焦る。
挑戦者にとってみれば、絶好のチャンス。逃してなるものかと更に追い討ちをかけてくる。
しかし終盤ドラマが起こった。
内藤大助の放った左フック一発に、崩れ落ちた清水。
倒れた瞬間、悔しそうにリングを叩く姿があったが、焦っていたのは挑戦者だった。
喰らってはならない一発。十分気をつけてきたパンチを受けてしまったことに対する悔しさだろう。
そしてたたみかける連打によってそのまま、挑戦者の夢は消え去った。
劣勢に回りながらも、それを跳ね返すチャンピオン内藤大助の強さが光った試合だった。
スタミナと打たれ強さ。そしてリング上で見せるタフな精神力。
年齢を感じさせない彼の、真骨頂だっただろう。
試合終了後、反省の弁を述べる内藤大助。謙虚さと他人への思いやりを兼ね備えた人情ボクサーとも言えるだろう。
アナウンサーからインタビューを受けている最中、突如現れた亀田興毅。
TBSのお膳立てかどうかは知らないが、日本ボクシング界から追放されて、メキシコに戦いの場を求めた亀田家の長男。
ストーカーのように内藤選手に付き纏う。
TBSが散々利用してきただけに、今回の登場についても予想出来ていたので、特に驚きもしなかった。
この場に登場した亀田の背中が寂しく見えたのはわたしだけだろうか。
彼は既に過去のものになりつつある。
ボクシングの魅力を見せてくれるなら別だが、このままでは遅かれ早かれ、亀田のボクシングを見ることはないだろう。
生まれ変わった自分を見せるために、もう一度ファンの心を掴むことが必要だ。


雷 7月も残すところ後僅か。連日続く猛暑でクーラーなしでは眠れない日々が続く。
大気が不安定になるのもこの時季の特徴。
夕方近くになると青空がいつの間にか雷雲に覆われる。
青い閃光が走り、行き成り落ちてくる大粒の雨。
真っ黒な空の下では蜂の巣を突付いたような慌てぶりを見せる人間たちがいる。
これも夏の風物詩のうちで済んでくれればよいのだが。
先日、荒れる狂う自然の猛威が近畿地方を襲った。この時季には特に珍しくない集中豪雨であるが、それが痛ましい事故を引き起こしてしまった。
神戸市灘区の都賀川で発生した「鉄砲水」で4人の幼い命が奪われた。
河川敷の公園が悲鳴と共に、流れ落ちてきた濁流によってのみ込まれていった。
大雨・洪水警報などは天気予報やTVのテロップなどで知ったとしても、外にいる人たちなどには通じない。
この警報が役に立つのはこれから外出する人、洗濯物を干している主婦層あたりだろう。
水辺で遊ぶ子どもたちや、大人たちには届かない。
警報は一体何のためにあるのだろうか。警報によって命が救われるのならば、各自治体が気象庁だけに頼らず、自ら率先して誰にでも届くような警報音を流す、或いはアナウンスで街中の人に呼び掛ける。
警察によるパトカーでの見回りなどして、注意を促すくらいのことはしてもよいのではないだろうか。
政治家が使う無駄な税金を削れば、それ位の費用は十分出来るだろ。
これからの季節、水難事故は増えて行くばかり。毎年大勢の命が水と共に消えていく。
それに対して事故を減らす対策を取らない政府に憤りを感じてならない。

ナベアツ 浮き沈みの激しい芸能界。特に顕著なのがお笑い芸人の世界だろう。
次々と登場する芸人たちが繰り広げる笑いの世界は実にバラエティに富んでいる。
視聴者たちから如何に笑いを取るかが命運を分ける。
現在最もブレイクしているお笑い芸人が二人いる。ご存知の通り、ピン芸人として活躍中の「エド・はるみ」そして「世界のナベアツ」。
エドはるみは「木村陽子」の芸名で、日テレ所属のアナウンサーだった「木村優子」のパロディで「エンタの神様」などに出演したが、今ひとつ花を咲かすことが出来なかった。
しかし、個性が豊か過ぎる芸人たちの中ではかなり異色の新人?としてインパクトはあった。
ただ、笑いを誘うには少し物足りなさを感じたのは、わたしだけでなく皆さんも同意見であろうかと思われる。
その後「エド・はるみ」としてスタートを切った彼女の大活躍は説明するまでもない。
笑いネタよりも何ゆえ「お笑い界」に身を投じたのかと言った、彼女への疑問が幾つも浮かんでくることの方が多く、そちらも話題の種である。
さて、「世界のナベアツ」であるが、彼の芸風・顔を見る前に芸名の方を先に耳にしたわたしは、何処かで聞いたことがあると思った。
世界のナベアツ…これは渡辺貞夫「世界のナベサダ」のパクリなのかなと思いつつ実際に見てみると、ナベサダと言うより、どちらかと言えば「世界のヒノテル」だと笑ってしまった。
(ヒノテルとはわたしが勝手に省略した日野 皓正のこと)。
笑いを二つに大別すれば、一般受けするものとマニアック向けのものがあると思う。
身体で表現するものと話術そして両者を足したもの。小道具を使ったものなど様々であるが、中には「下品で下らない」と一蹴されるものもある。
これら全てを一括して「笑芸」と呼ぶ。
世界のナベアツは数字と顔の掛け合わせで笑いを取ったが、これら芸人たちの「笑い」に対するひた向きな努力は言葉で表現出来るほど簡単なものではない。
笑いの世界に限らず、どの世界にも必ず偉大な先駆者が存在する訳で、音楽で例えるならビートルズ。
音楽の既成概念を払拭したのは彼らが持ち込んだ「不協和音」である。
笑いの頂点を極めた者の代表として「チャールズ・チャップリン」が有名だが彼は喜劇王として呼ばれている。
彼の笑いの世界は芸術品としての完成された作品である。
このようにお笑いの世界をかいつまんで見ても、一瞬で消える芸から歴史として永遠に残るものまで、実に幅が広い。
現在活躍しているお笑い芸人のネタを作品として別な角度から見てみるのも案外面白いかも知れない。


爆破 オリンピックを目前に控えた中国で起こった「バス連続爆破事件」。これは明らかにオリンピックを妨害するための無差別テロであると思われる。
世界中に恐怖を植え込むには十分過ぎるほど効果があった。
中国当局は懸賞金まで出して犯行グループを突き止めようとしているが、かなり動揺している事は隠せない。
多民族国家の基盤がこれほど脆く、危うい面が露骨に表面化した結果かも知れない。
北京からはかなり離れた雲南省昆明市で起こった事件であっても、距離の問題ではない。
これがオリンピックを狙ったテロの予行演習だったとしたら不安は更に広がり、オリンピックに参加する選手や開催を見学する人たちにとっても大きな打撃である。
仮に犯行グループが逮捕されても、テロリストたちはボウフラの如く次々と湧き出てくる。
いくら叩いても焼け石に水である。
今回の犯行グループがアルカイダ組織に加担するグループだとしたら、更に事は厄介。
オリンピックに向けて自爆テロを計画しているとしたら、平和の祭典はまさに地獄の祭典と化するだろう。
オリンピック会場を中国人民軍の兵士でバリケードでも作って守る積りなのだろうか。
そんな中で競技が開催されても、選手たちは不安でベストタイムなど出るはずがない。
食の安全や環境問題はおろか人命に関わるような事態が次々と起こる国で、オリンピックは果たして成功するのだろうか。
開催中に何が起こるか分からないような国でのオリンピックはごめん蒙りたいと言うのが本音である。

時をかける少女

画像(動画)のサイズがかなり大きく、これだけ見てもかなりインパクトがあると思う(^o^)。
サイズを小さくしたのだが、これ以上は無理。主人公の靴が欠けてしまうから。
さて、となりのトトロに引き続き土曜プレミアムでは、地上波初登場の大人気アニメ版「時をかける少女」が公開された。
この作品は過去に何度もリメイクされてきたが、最も人気が高かったのがこれである。
わたしが初めて「時をかける少女」に触れたのは、1983年に公開された実写版であった。
大林宣彦監督作品、主演は原田知世。スクリーンでは彼女が実に初々しく、はまり役だなと思った。
彼女自身が歌う主題歌も大ヒットしたが、作詞作曲を手がけた松任谷由実も後に歌っている。
誰にでも、もう一度過去に戻ってやり直したい事は山ほどあるのではないだろうか。
人生とは失敗と懺悔の繰り返しであると言ってもよい。
神様から一回だけやり直す機会を頂けたなら、わたしは何と言っても健康な身体を手に入れたい。
だから心臓病に罹患する前の自分である。
小学生の頃だからかなり昔にタイプスリップすることになるが、それがもし適うとしたら嬉しいと思うが、それは時間を捻じ曲げてしまうことになる。
自分の人生が大きく変わるということは、他の人の人生をも大きく変えてしまうことになる。
極端な言い方をすれば、地球の存亡に関わるような事態になっているかも知れない。
過去は未来の為にあらず。現在こそが未来の明暗を握っているのだ。
過去は教訓として活かし、ジャンプステップの踏み台にすること。
これが賢い人間の生き方である。

トトロ 昨夜の金曜ロードショー「となりのトトロ」をご覧になった人は多いと思う。
数あるジブリ作品の中では、最も家族向けアニメ作品として人気が高い。
この作品が劇場公開されたのは、1988年だから既に20年もの歳月が流れていることになるが、時間の経過を感じさせず、色褪せることもなく、つい最近公開されたような印象さえ持つ。
宮崎 駿 監督の持つ世界観は今更述べるまでもなく、独創的且つ情緒溢れる作品が多く、これまであったアニメの既成概念をことごとく塗り替えてきた結果が、この「となりのトトロ」現象ではないだろうか。
自然破壊、戦争の惨さなどメッセージが込められているのも事実で、わたしたちはジブリ作品から多くのことを学ぶことが出来た。
子どもの心は純真で、何ものにも束縛されず、何色にも染まっていな無垢な心が創り出す世界は、大人の入り込めない子どもたちだけのファンタジーであろう。
誰にでもあった子どもの頃を振り返ってみれば、そこに眠る純粋な魂が微かな寝息を立てて、今でも貴方の遊び心をくすぐるだろう。
となりのトトロに登場する猫バスなどは、言い換えれば化け猫であるが、好奇心と冒険心が旺盛だった小学生時代、よく遊んだお寺の境内の縁の下に、足が八本ある化け猫がいると何処からともなく噂が広まった。
中には「見た見た」と自慢する奴まで現れた。そして皆が集まって化け猫探しなるものをやったことがある。
子どもたちの想像力は無限であり、わたしたち大人が忘れてしまった大切な自然回帰を思い起こしてくれるような気がしてならない。