プールサイドの人魚姫 -26ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-千香子


 私の姿に気付いた父が、「よおっ!」と手を上げ近づいて来る。二年以上会っていない父の姿だったが、特に懐かしさは感じなかった。私の姿を大きな眼で「ギョロッ」と見詰めるなり「なんだ、その頭は、俺のように短くしろ!」。肩まで伸びた長い髪が相当気に食わなかったようだ。

 「久しぶりに息子に会って第一声がそれなの」と私は思ったが、言葉には出さず堪えていた。そう言えば、志太病院を退院した後、長く伸びた髪を切る為に「床新(行きつけの床屋)」へ散髪に行った時、いつもならお決まりの「坊ちゃん刈り」なのだが、終わってみると父と同じ角刈りだった。これには私も流石に驚いたが、父が事前に「俊樹が来たら俺と同じ髪型にしてやってくれ」と店主に頼んでおいたのだろう。

 「じゃあ、何処かお店に入ろうか」

 そう言って、父を案内した場所は静岡駅地下街にある「エリーゼ」と言う大衆喫茶だった。この店を私は度々利用しており、彼女とも時々ここで会話を楽しんだ。店内は広く、凡そ百人は一度に利用出来、静岡市内にある喫茶店では最大級の店であったが、1980年(昭和55年)に起きた『静岡駅前地下街爆発事故』により、跡形もなく消えてしまった。

 どの席に座ろうか迷ったが、私は出来るだけ目立ちたくなかったので、店の一番奥まった所に空席を見つけ、その周りにも殆ど人がいない事を確かめてから座った。父と私は顔が良く似ているため、誰が見ても親子だと直ぐに分かる。

 何故目立ちたくなかったのかと言えば、私は父と一緒に外出する事が嫌いな子どもだった。勿論、父が家にいれば安心出来たし、酒を飲んでいない父は大好きだった。矛盾していると思われるが、子どもながらに世間体を気にしていたのである。仕事もまともにしていない父に劣等感を抱いていたし、世間の眼を幼いなりに気にしていたからだ。

 中学生になったばかりの頃に、一度だけ父と一緒に行った場所があった。藤枝の隣街、焼津市にあった健康ランド。父と二人だけでなく、仕事仲間も一緒だった。父は当時、山岸と言う男が立ち上げた「山岸組」と言う土建業の会社で働いており、東海道新幹線の開通工事や、スーパー布袋屋などの新築工事を請け負っていた。

 父が唯一まともな稼業(警察官時代を除く)に就いていた時期でもあったが、実は、この山岸と言う男は食わせ者で、後に「給料持ち逃げ事件」を起こした張本人である。

 「とし坊、明日焼津に行くが付いてくるか?」

 「明日?学校だよ、何言ってるの?」

 「ああ、そうか、休んじまえ」

 登校拒否を何度も繰り返していた小学生時代の事が頭にあったので、学校を休む事に強い罪悪感を私は抱いていたが、結局、次の日は父とそして山岸組のメンバー数人と焼津へ行く事になった。その中には、あの人斬り慎司もいたが、勇次は何故かいなかった。

 翌朝、杉山慎司が数人の仲間を連れてやって来た。

 「兄貴、お早うございます」

 信夫が軽く頭を下げながら慎司に言った。

 「みんなもう揃っているのか?」

 「はい、慎司の兄さん、揃ってますよ」

 慎司の問い掛けにすかさず応えたのは信夫ではなく、お調子者で愛想の良い山岸だった。とても自分の事務所「山岸組」を率いている組頭には見えなかったが、争い事を嫌い何事も丸く収める独特の雰囲気を持っている事だけは確かであった。山岸が話しだすと周りが明るい雰囲気になり、酒の席には最も必要なタイプの男で、そんな所が他の男たちから好かれている理由だったのかも知れない。但し、この時はまだ誰も山岸の本性を知る者はいなかったのであるが…。

 「よーし、タクシー呼べ!3台呼べ!」

 慎司の掛け声一つで、黒塗りの静鉄タクシーが実家の前に並んだ。そしていかつい男たちが次々と車に乗り込んで行く。その光景は暴力団幹部たちの集会にも見えた。そんな中に一人の女性が混じっていた。「杉山英津子」慎司の嫁さんで、信夫や他の男たちから「姉さん、姉さん」と慕われていた。

 慎司と英津子の間には二人の子どもがおり、上の娘である千香子は4歳だった。私と顔を合わせる度に、「おい、俊樹、元気か」と無邪気な笑顔を見せて来る。

 生意気な口の利き方は父親譲りなのだろう。もう一人は弟の重夫。この重夫が生れて早々、どんな経緯があったか知らないが、父は慎司に無償で八畳ほどの部屋を貸し与えた。そして生れて間もない重夫と英津子との3人暮らしが暫く続く事になる。

 一人っ子の私にしてみれば思いがけない重夫の来宅は、家族が増える事の嬉しさで大歓迎だった。慎司は夫婦で屋台の飲み屋を営んでいたため、夜になると英津子も手伝いに出掛けて行く。その間、重夫は一人になってしまうのだが、英津子の代わりに私が重夫の世話をする事はよくあった。

 重夫が腹を空かせて泣き出す頃を見計らって、母親は一旦家に戻って来るが、親と子のタイミングが合わない事はよくある事だった。ましてや重夫は一歳にも満たない赤子だから、何が起きるか分からない。

 「ウンギャー、ウンギャー」と突然大声で泣き出す重夫。その傍らで漫画を読んでいた俊樹が慌て始める。英津子はまだ戻っていない。

 「どうしよう、どうしよう、お腹かな、おしめかな…」十一歳の子どもに、赤子の泣く声は魔法の呪文のように意味不明だったが、英津子から聞かされ、教えて貰った事を実行してみる。壊れはしないかと、恐る恐る重夫を抱き上げる。赤子の重さがずっしりと身体中に伝わって来る。自分の腕の中で真っ赤な顔をして鬼のように泣く赤子を見詰める少年の眼は、父親のように優しく輝いていた。

(続く…)。



 身体に何らかの障害を持つ人たちと、健常者の組み合わせによるライブ・パフォーマンス。それが『チャレンジド・フェスティバル』。
 その目的は、表現活動を通じ障害者の持つ才能および、障害者の存在を幅広く伝えて行く事にある。健常者と障害者が協力し、助け合って差別のない社会を目指す。
 このライブ・パフォーマンスについて知ったのは10月30日、大衆文藝ムジカ代表で詩人の葛原りょう君のブログだった。彼が率いる絶叫朗読バンド『ムジカ・マジカ』も出演するとの事でもあり、ここ暫く『ムジカ・マジカ』のライブから遠ざかっていたので、体調の許す限り鑑賞したいと思った。
 当日の11月9日は薄日こそ射してはいたが、冬の到来を告げる北風が代々木公園の至る所に吹き荒んでおり、風邪を引かぬよう万全の体制で臨んだものの、野外ステージは数十年前の『日比谷野音』で観た『憂歌団』のライブ以来であったため、灰色の天を見詰め、雨さえ降らなければ…と思っていた。
 野外ステージに到着した時には既に開演していたが、ムジカ・マジカの出演時間に合わせて家を出たため、その日のステージ全てを鑑賞するには至らなかったが、半分以上のライブ・パフォーマンスを堪能する事が出来た。
 障害者と一口に言っても様々である。知的障害、視聴覚障害、身体的障害、心の病など精神障害の人もおり、そしてわたしのような内部障害者もいる。重度・軽度の差こそあれ、その障害によって辛酸を舐める経験をした人もいるであろう。
 わたし自身もその中の一人であるが、障害を隠さなくては仕事に就けない時期もあった。障害者手帳を持つ事に抵抗を感じていた30代。今でこそ隠す事なく正々堂々と胸を張って『障害者』を全面に出してはいるものの、やはり世間一般の眼は健常者と障害者をはっきりと区別している現実がある。どんなに仕事が出来ようとも、正社員にはなれない大きな壁が存在し、「働けるだけでも有り難く思う」という帰命頂礼の如くである。
 アップした動画は、高木里華のTaka's Party 。高木里華と「マカローニ」と立川ろう学校の生徒と講座受講生も加わり『仲間』と言う意味が込められている。
 手話とタップダンスを融合したエンターテインメントである。演目は『ゆず』の『虹』。
 『うつ』の副作用?なのか手が震え(寒さではない)画面が揺れて見ずらいのはご容赦願いたい。
※YouTubeにアップしたところ、著作権の関係で音声のみが消されてしまったため、ニコニコ動画に変えました。モバイルの方は見られないかも知れません。

プールサイドの人魚姫-夏の思い出


わたしは 呼び止めは しない

今 旅立つ 君を

わたしは 悲しみは しない

君は もう 大人だから


ただ ひとつだけ お願いがあるの

この 夏の 思い出だけは

忘れずに 閉じておくれ


 

わたしは 振り返りは しない

去りゆく 日々の 暮らしを

わたしは 思い出の中で

君に あえるから


 

ただ ひとつだけ お願いがあるの

この 夏の 思い出だけは

忘れずに 閉じておくれ


作詞/神戸俊樹

作曲/三好清史

歌・演奏/センチメンタル・シティ・ボーイズ(神戸俊樹&三好清史)

※ブルース調のスローバラードです。














プールサイドの人魚姫-コルト

 とにかく古庄駅まで急いで走った。心臓は悪かったが、若さがそれを上回っていたように思う。肩まで伸びた吉田拓郎気取りの長い髪が風に靡く。清水方面から新静岡センター行きの電車は、帰宅時の時間帯でもそれほど混雑していなかった。上は派手な茶系のアロハシャツに、下は当時流行のコッパンで、履物はなんとサンダル。まるでチンピラの服装だ。

 「なんだ、その格好は…」と父に言われそうな気もしていたが、父も対して変わりはないと思っていた。駅に付くと急いで改札を駆け抜ける。往来する人影を左右巧みに避けながら、静岡駅へと向かった。途中、松坂屋に差し掛かった時、「よお、かんちゃん!」と上の方から声がする。会社の先輩たちが催事場作りのため、看板類を搬入してる最中だった。

 私は笑顔で大きく手を振りながら、地下道へと降りて行った。駅前には国道一号線が走っており、向こう側に辿り着くには地下道が最も近道であった。帰宅途中の人波を掻き分けるように地上へと出る。時計は6時を少し回っていたが、辺は辛うじて陽射しが残っていた。

 自販機の横で人の往来に視線を投げている父の姿は、迷う事なく直ぐに確認出来た。白のYシャツにグレーのズボン。そして足元はお決まりの雪駄。当然素足である。父は一年を通して雪駄しか履かない。それ以外の物を履いている所を見た事がなかった。腹巻をしてカンカン帽を被り、首からお守りの札をぶら下げれば映画の「寅さん」にそっくりだろう。刑務所帰りだから当然髪は短いが、渡哲也のようにいつもビシッと角刈りに決めていた。

 父は普段、腹巻を殆どしなかったが、一度だけ晒(サラシ)を巻いている所を見た事があった。晒はドスなどの刃物で腹を刺された時に、内蔵が腹から飛び出すのを防ぐ為のものであり、ヤクザ同士の喧嘩の時などに自分の腹を守る役目もしていた。心臓病で藤枝の志太病院に入院中、こんな光景を目撃した事がある。

 陽も暮れて外来も終わり人気の無くなった一階ロビーで、入院中に知り合った岡本君と二人でふざけながら遊んでいた。私と岡本君は小児科病棟の中でも悪戯っ子として有名で、病棟を二人で抜け出しては、「探検ごっこ」と称して、病院中を駈けずり回っていた。

 「神戸くん、退院は決まった?」

 「ううん…まだまだ、血沈がまだ良くないみたい」

 「岡本くんの方はどう?」

 「来週あたり退院出来そう」

 「本当?良かったねー、あーでも岡本くんいなくなると淋しくなるなぁ…」

 「遊びに来るからさぁ…」

 そんな会話を二人でロビーの椅子に座って話している時だった。「ウウー、ウウー…」けたたましいサイレンの音がロビーの中まで響いて来る。それと同時に、数人の看護婦が慌ただしく病院の玄関口へと走って行った。

 一台の救急車が病院の門前に止まり、一人の男が担架に乗せられて入って来る。真っ白な上下のステテコ姿のその男は顔を苦悶に歪めながら自分の腹を押さえていた。腹に巻かれた晒が真っ赤に染まっている。ドクドクと鮮血が滲み出しているのが分かる。おそらく、ヤクザ同士の喧嘩で腹を刺されたのだろう。

 それは幼い子どもたちにとって余りにもショッキングな光景だったが、私は直ぐに父の顔が脳裏に浮かんだ。夜になると何も告げず出掛けて行く父を、不安そうに見詰めながら送り出す。「どうか無事で帰ってきますように」と心で呟きながら…。

 晒を巻きながら、信夫が秋坊に向かって言った。

 「ハジキは持って行くなよ…」

 「はい、兄貴、分かりました」

 秋坊とは、小林秋雄の事で、20代前半の若者であったが、身長が180㎝もある長身で、寺下勇次の次に喧嘩が強く、父の事を「兄貴、兄貴」と慕っていた。その秋雄の弟が処分に困り果てた末に父の所に持ち込んだのがコルト45だった。若干19歳の若者が一体何処で拳銃を入手したのだろう。

 その銀色に光る拳銃は洋服箪笥の引き出しに閉まってあり、それを私は見つけてしまい、本物だとは知らず握ってしまったのである。小学生の手には重すぎるし、最初は玩具だと思っていたが、怖くなって直ぐに元の引き出しに戻した。

 茶色のグリップの所に包帯がグルグルと何重にも巻かれてあり、それはおそらく滑り止めだったのではないだろうか。その拳銃が実際に使われたかどうか私は知らなかったが、いつの間にか家から消えていた。

(続く…)。



プールサイドの人魚姫-洗面器

 足取りは縺れ、進む方向が一向に定まらない。車の往来が激しい日中であれば、立ち所に車に跳ねられ病院送りとなっているだろう。

 父の帰りをすっかり待ちくたびれた息子は、布団に包まり夢の中。漸く家に辿り着き、立て付けの悪い玄関の扉を力任せにこじ開けた。物音に気付いた息子が父の気配を感じ取ったのか、もぞもぞと寝返りを打ち始めている。

 「うっふう…あうう」何を言っているのか全く聞き取れない声を発しながら、千鳥足で座敷に上がると、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。父が帰って来る事を予想してその部屋だけは明かりが点っていた。

 布団は一つしかなかったので、父と私はいつも一緒に寝ていた。何も起こらなければ、夜は静かに更けて行き、朝日を待つだけなのだが、酔った父の静かな夜などあり得なかった。

 「と、とし、とし坊…」父の呼ぶ声に気付いた俊樹が布団から身を乗り出した。

 「ちょっと、おい、洗面器…洗面器持って来てくれ」

 部屋の明かりを点けると、どう言う訳か私は洋服箪笥の引き出しを開け、必死に何かを探し始めた。自分では洗面器を探しているつもりだったが、寝ぼけていたため洗面器のあるお勝手(台所)と箪笥の区別も付かなくなっていた。

 「おい、早く、早く洗面器…」

 だらしなく横たわる父を、部屋の明かりが照らし出す。真っ赤な顔と半分開いた口から唾液が流れ出ていた。

 「うぇーっ…」それは声と言うより、獣の慟哭であった。洗面器は間に合わず、父の願いは胃袋の中身と一緒に畳の上に容赦なく吐き出された。

 部屋中に酒の匂いが立ち込めてむせ返るほどだった。息子が漸く洗面器を持ち、父に歩み寄った時は既に遅しで、胃の内容物が所狭しと広がっていた。その嘔吐物の中に埋まった顔は眼を覆いたくなる光景だったが、吐いてすっきりしたのか、父はそのまま眠っているかに見えた。

 呑んでは吐きを繰り返す父の姿は、まるで摂食障害の患者にも似ていた。息子には散々ひもじい思いをさせておきながら、自分は何処かの小料理屋で仲間たちと深夜まで飲み歩き、美味い物もたらふく食べて来るのである。

 そしてそれを息子の前で全部吐き出してしまう父だったが、時には手土産を持って帰って来たりもした。それは次の日の息子の弁当へと姿を変えて行く。息子にとってはそれが唯一の楽しみだったのかも知れない。

 酔って寝ている大人の身体は普段よりも数倍重くなる。その身体を10歳の子どもが全力を振り絞って動かすのである。明日の学校の事など頭にはなく、今、眼の前に在る父親の身体を何とかしようと必死に戦っている。

 両足を同時には持ち上げられないから、方足ずつ持って嘔吐物から離して行く。そして汚れた顔をタオルで丁寧に拭き、新聞紙を使って嘔吐物を拭き取って行く。何度も同じ事の繰り返しだからそんな作業もすっかり身に付いていた。

 「酔っ払いの介抱なら僕に任せて!」そんな冗談をクラスの友達に言う小学生だった。

 全ての作業が終わった時、時計は午前3時を過ぎていた。父の身体に布団を掛けると、「ふーっ」とため息を付きながら寝床へと戻って行った。

 人の往来など気にも留めず、小刻みに震える指先でワンカップの蓋を開ける。その手の中で波打つ日本酒が喉を潤すのに数分も要らなかった。「ゴクッ、ゴクッ…」喉を鳴らして父にとっての薬が流れ込んで行く。まさに水を得た魚である。五臓六腑に染み渡ると言うのは、こんな時の事を言うのだろう。

 僅か一合の酒であったが、二年の歳月はやはり父にとっては長かった。そしてこれもやはりキヨスクで買ったショートピース(煙草)に火を点ける。マッチを擦る手はもう震えていなかった。

 子どもの頃、父の煙草を買いに行くのも私の役目だった。

 「とし坊、煙草買って来てくれ」そう言って息子に50円玉を渡す。父のお気に入りは「いこい」だった。50円出せば鮪の刺身が一人前食べられるそんな時代である。だから煙草は高級品だったように思う。

 「じゃあ、済みませんが後をよろしくお願いします」

 時計が5時半を少し回っていたので、途中だった仕事を先輩に任せ、私は父を迎えに行く支度に入った。住んでいるアパートは会社が借り上げた物で、そこに3人ほどの社員たちと共同生活をしていた。ペンキで汚れたTシャツとジーンズから普段着の服装に着替える。アパートから静岡鉄道の「古庄駅」まで徒歩15分、そこから電車で新静岡センター駅まで約20分。約束の6時までにはギリギリかおそらく少し遅れるだろうと思っていた。

(続く…)。


プールサイドの人魚姫-借金

 東西に長く延びた静岡県の地形は、西が浜松、東が熱海とその距離はおよそ150kmにも及び、南北は120kmと広大な県域を保つ。北部には3千m級の山々が連なり、その頂点には日本一の富士山を抱き、南には日本で最も深い駿河湾がある。山の幸、海の幸に恵まれた新鮮で豊富な食材を楽しむ事が出来るだけでなく、その気候も温暖で住み易い県として人気が高い。

 静岡市のベッドタウンとして発展して来た藤枝市は、サッカーの街として有名であり、私の通った藤枝小学校の直ぐ近くには、賞嫌いで有名な作家の小川国夫も卒業した藤枝東高校があるが、実は父の兄もまた藤枝東を卒業している。卒業後は東京外国語大学に入学し、優秀な成績で卒業したものの、残念ながらその秀逸な能力を発揮する間もなく南方で戦死した。

 父の墓参りで帰郷した時に、亨伯父さんが「頭のいいやつほど早死する…」とぼやいていたのを思い出す。おそらく、兄弟の中で一番出来が悪かったのは父だったのかも知れない。

 乗客たちで混雑している人ごみを分け入り改札口へと向かうが、実はあまり乗り慣れていない電車と、駅の改札口を探すのに手間取ってしまい、流れ出る汗をタオルで拭いつつ漸く改札口へと辿り着いた。

 「よお!ご苦労さん、東京も暑ついが静岡も結構暑いね」

 切符を受け取る改札の駅員に気軽に声を掛ける。機嫌が良い時の信夫は言葉も流暢になる。

 「電話は何処にあるんだろう?」

 「あっ、はい、電話はあの自動販売機の横にございます」

 「ああ、あの赤いやつね、サンキュー」

 ズボンのポケットから小銭を何枚か取り出し、十円玉をその口へと落として行く。胸ポケットから一枚の紙切れを出し、数字を確認しながらダイヤルを回した。

 「はい、中央工芸でございます」

 電話口に出たのは、浅田美代子によく似ている遠藤さんという20代の女性だった。

 「あっ、もしもし、お仕事中恐れいります、私、神戸俊樹の父ですが息子はおりますでしょうか?」

 刑務所帰りとはとても思えぬ、丁寧な言葉使いだった。

 「神戸君、お父さんから電話だよ」

 松坂屋の催事場で使う看板の製作に追われ、多忙を極めている時だった。父からの電話と聞き、私は疑問ばかりが先立った。何故なら、中央工芸に就職した事も知らせてなかったし、就職の相談で清水の訓練所に呼び出されたのは父ではなく亨伯父さんで、事実上の父親代わりは伯父だったからである。

 養護学校を卒業する時も迎えに来てくれたのは伯父だった。父がいるのに何故?と私は不思議で堪らなかったが、その理由を憚れる思いに駆られていたのは確かだった。

 それはあの夜の事だった。卒業して清水に行くまでは藤枝の実家で暫く過ごしていた。家には父と伯父が住んでいた。兄弟仲は悪く、顔を合わせる度に伯父の罵声が飛び交ったが、父は伯父に対し罵るような事は一切なかった。然し、それにはそれなりの理由があった。父は伯父に頭が上がらないような事ばかりして来たからで、その極めつけは家の権利書を担保にして借金を作ってしまった事。その金額はなんと5百万円。

 昭和40年代の5百万だから桁の大きさは想像が付くと思う。その借金を伯父は一人で返し、権利書を取り戻したのである。言い方を変えればつまり家を守ったと言う事になる。だから父に対し、伯父の怒りがどんなに時間をかけても収まる事はなかった。

 父は一体その5百万もの大金を何に使ったのだろう…。一つの布団で私と一緒に寝ている伯父が言った。

 「俊樹、俺が父親だったらお前を高校に行かせてやったのにな…」

 その直ぐ横には酔った父が赤い顔で、あぐらをかきながら二人を見つめていた。息子を取られてしまったような、少し悲しい眼差しの奥にはうっすらと涙が滲んでいるように見えた。父と伯父との間で私の今後について何か話し合いがあったのだろうか…。

 伯父と一緒に寝た事のない私は、何処か他人と寝ているような気がして、安らかな眠りに付けないでいた。伯父がどんなに優しく接してくれても、眼の前で飲んだくれている父の方が気になって仕方がなかった。父親である事を放棄した男の涙でその夜は音もなく更けて行った。

 ペンキだらけの手を洗い、受話器を取った。「もしもし…」

 「おう俊坊、久しぶりだな、今な静岡駅にいるんだ」

 「駅?なんでまた駅にいるの?」

 「まあ、いいからさ、ちょっと迎えに来てくれよ」

 ははぁ、なるほど、そういう事か…。私は事の次第を直ぐに理解した。

 「仕事が忙しくて、今日は木曜日でしょ、残業になると思うよ」

 父との会話を横で聞いていた課長の平岡さんが、頷きつつ右手でOKのサインを出しながら言った。

 「かんちゃん、定時で終わっていいからね」

 「仕事は5時半に終わるので、駅に行けるのは多分6時頃になると思うよ」

 「おう、そうか、何時でもいいから来てくれよ」

 「今4時でしょ、だいぶ待つ事になるから何処か店にでも入って時間潰してて」

 「分かった、じゃあ、6時頃に駅の改札辺りにいるから」

 「はい、じゃあね…」

 「忙しい時に済みません、ありがとうございます」

 電話を切って、平岡さんにお礼を言ったが、私は未成年だったので、残業をする義務もなく、会社の方も残業を強制させる訳には行かなかったが、残業は日常的にあり、徹夜した事もあった。但し、残業代は専務から直接手渡しで受け取っていた。タイムカードには記録が残っていないのでその金額は殆どがどんぶり勘定だったと思う。

 電話を切った後、信夫はキヨスクで購入しておいたワンカップ大関をバッグから取り出した。2年振りとなる酒である。

 「金輪際、酒は止めるから…」親戚縁者が集まる中で何度も頭を下げた。傍らには痣だらけの息子が小さく震えていた。私は子どもの頃、酒を「きちがい水」と呼び、この世から無くなってしまえばいいと思っていた。父を狂わせる酒が憎くて憎くて仕方がなかった。

 父が酒を止められなかったのは、意思が弱いとかそう言った類のものではなく、父にとってみれば、酒は薬そのものだったのかも知れない。

 深夜、泥酔状態で帰って来る父の面倒をみるのは常に私の役目だった。柱の時計は既に午前0時を回っており、辺は物音一つせず、時折走る車の音だけが暗闇の国道に吸い込まれて行った。ポツポツと点在する街灯が頼りない光を放つその下で、男が身体を左右に揺らしながら家路に着こうとしていた。

(続く…)。


プールサイドの人魚姫-島倉千代子

 大衆に最も愛され続けた昭和の時代を代表する歌手の一人、島倉千代子さん(75)が、先日の8日に肝臓がんのため死去した。

 島倉千代子さんについてここで多くを語る必要もないだろうが、実はわたし自身が島倉さんに個人的思い入れがある。それはわたしの母の妹である倭江(まさえ)叔母さんの顔が島倉さんによく似ていたからである。

 島倉さんを初めて見たのは8歳の頃だったと記憶している。その頃のテレビ番組の中でも、音楽番組として最も人気の高かった『ロッテ歌のアルバム』に、島倉千代子さんと守屋浩さんがデュエットで出演し、「星空に両手を」という曲を歌っていた。

 昭和の名司会者である玉置浩さんが、番組の冒頭にロッテのCMソングである「小さな瞳」がBGMとして流れる中で「お口の恋人、ロッテ提供…」そして流行語にもなった「1週間のご無沙汰でした。玉置でございます」で番組は始まるのだが、そのナレーションは当時の子どもたちの間でも人気で物真似をする者が続出していた。

 島倉さんと守屋浩のデュエットは、島倉さん自身が強く希望した為に実現したのであるが、当時、甘い歌声の男性人気歌手として多くの女性ファンを魅了した彼を島倉さんが口説き落として実現した「夢のデュエット」として話題をさらっていた。

 その番組で島倉さんを見た時に、「誰かに似ているなぁ…?」と思い、浮かんで来たのが倭江叔母さんであった。母ではなく叔母を連想したのは、自分の中に母の存在が殆どなかったからだと思う。写真でしか母の顔は知らなかったし、いつもわたしを可愛がってくれたのが倭江叔母さんだったから…。

 その叔母は長い間、精神病院に入院していたが、病院を脱走して行方不明になったままである。生きているのか死んでしまったかそれすら分からない。

 だから、島倉さんをテレビで見る度に今でもその叔母の顔を思い出す。島倉さんの言うとおり、人生いろいろであるが、わたしの周りは余りにも色々あり過ぎて「人生いろはにほへと」である。

 「俊樹だよ、おっ母さん」と言って、母を東京に招きたかった…。

 慎んで島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

プールサイドの人魚姫-入れ墨

 「父ちゃん、勇次が来たよ」

 私は幼い頃から勇次の名前を呼び捨てにしていたが、それは父の影響もあったのだと思う。

 「なんだ、俊樹いたのか…」

 父に用事があって来た勇次が、まるで父の存在を無視するかのように私を睨み付けて来た。勇次の強さはその腕っ節だけでなく、その鋭い眼付きにもあった。街のチンピラ程度ならば、手を上げる必要もなく、その威圧的な眼光だけで相手を震え上がらせるほどの威力を持っていた。

 私は勇次の姿を見ると、つい口ずさみたくなる歌があった。「唐獅子牡丹」高倉建主演の任侠映画で主題歌も高倉建が歌っていた。 

 ――義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹――

 この曲を僅か10歳の幼い少年が、高倉建の真似をしながら焼酎の空瓶をマイク替わりにして歌うのである。この歌の内容を理解していたとは思わないが、勇次の背中から腕にかけて彫られていた入れ墨がまさに唐獅子牡丹だった。

 「お前、父ちゃんを殴ったんだって?」

 私はその場に立ち尽くしたまま無言で俯いてしまった。俯いた丁度その足元には、畳に染み付いた血痕が生々しく昨日の出来事を物語っていた。

 父が昨日の事を勇次に話したのは間違いなかったが、私に殴られたと話したのにはそれなりに理由があったのかも知れない。もし仮に私ではなく相手が何処かのチンピラだと話していれば気性の荒い勇次の事なので、その輩を探し出して半殺しにしてしまうだろう。勇次の性格を知り尽くしている父の判断だったのか、それとも成長した息子を自慢したかっただけなのか、父と勇次との間でどんな会話が交わされたのか、全く知る由もなかった。

 親子喧嘩はどんな家庭にもあるだろうが、暴力沙汰となれば一歩間違えると殺人事件に発展してしまう恐れがある。バット殺人事件などはその典型だ。息子に殴られ怪我を負った父親が、その事を正直に他人に話すものだろうか?場合によっては子どもを庇ったり、出来るだけ隠しておきたいと思うような気がする。

 父がこれまで誰かに殴られ怪我をしたと言う話は聞いた事もなかったし、ヤクザ同士の喧嘩に巻き込まれた後の姿を何度か見て来たが、持ち出した木刀が折れた程度で、父自身は返り血すら浴びていなかった。だからそれが本当だとすれば、私の放った拳が父にとってみれば記念すべき初めての一発だったのかも知れない。

 私の前で仁王立ちになった勇次が、ドスの利いた声で言った。

 「自分の親を殴る息子がどこにいるか!謝ったのか?」

 それは私に非があるような言い方であったが、自分に問いかけてみても答えが出て来なかった。

 「謝ってないよ…」

 幼い頃に返ったような子どもの声で私は小さく答えた。

 「まあまあ勇次、もういいからさ…」

 間髪入れず、父の声が宥めるように言った。どんな理由があるにせよ、やはり殴った私が悪かったのだと思う。だから勇次はそれを父の代わりに咎めようとしたのだろう。それにしても、めっぽう喧嘩も強く散々相手を殴って来たであろう勇次に言われたのにはどことなく抵抗感があった。

 極道の世界を理解しようなどと思ってもいなかったが、子どもの頃からずっと見て来た父や勇次たちの姿が眼に焼き付いて忘れる事は出来なかった。

 「それで兄貴、例の仕事の話なんだけど、車の手配がついたので」

 「おお、そうか、じゃあ後は調理師だな」

 「俺がやってもいいけど、即席ラーメンって訳にはいかんわな」

 笑いながら冗談半分に言う父だったが、父の作るラーメンが結構美味い事を私はよく知っていた。

 「調理師の方は何とか俺の方で探してみるから」

 「じゃあ、そっちの方はよろしく頼みます」

 二人の会話を聞いていて、どことなく違和感があったので訊いてみた。

 「父ちゃん、本当にラーメン屋やるの?」

 「ああ、やるよ。車で移動式のな」

 「へぇー、なんだか想像付かないよ」

 息子にとってみればその疑問は当然だった。これまでの父の職歴を振り返れば、警察官以外は全て土建業だったからである。但し、職に就いていた期間は限定的なものであり、無職時代の方が遥かに長かった。

 帰り際、勇次が私に言った。

 「俊樹、ちょっと手を見せてみな」

 「はぁ?…」何の事かさっぱり分からなかったが、取り敢えず右手を勇次の前に差し出した。

 「手を握ってみな」

 その握った手を見つつ触って来た。大きな勇次のゴツゴツした手の中に私の手はすっぽり収まって行く。

 「云々」と頷きながら「いい拳してるわ、これなら一発でノックアウトも仕方ないか」

 「ふふっ」と笑みを浮かべ納得したように「気を付けて帰れよ」と私を送り出してくれた。私はその勇次の言葉が嬉しくて仕方なかった。それも当然だろう、藤枝で一番喧嘩の強い勇次に認められたのだから…。

 清水の訓練所には約1年半いたが、職員の計らいで就職先が決まり9月から静岡市沓谷にある「中央工芸静岡支社」で働き始めた。若干16歳の少年が社会人として新たな一歩を踏み出した場所であった。

 父から連絡があったのは、働き始めてから9ヶ月後の事で、私は17歳になっていた。

 「しずおかー、しずおかー、お降りの際はお忘れ物のないようご注意願います。次の停車駅は島田ー」

 駅員のアナウンスが構内に響き渡っていた。約2年振りに見る静岡の街並みは殆ど変わっておらず、真新しい物と言えば登呂遺跡で有名な登呂博物館がオープンしたくらいのものだった。

 「やれやれ、やっと着いたか…」独り言を呟きながら座席を立つ。止まり木から果てしなく広がる空に向かって飛び立つ鳥のように、広げた両手は翼の如く掴んだ自由を満喫しているかのようだった。

(続く…)。


プールサイドの人魚姫-バイタリス

 私は父が逮捕された事を知っていた。藤枝の町はそれほど広くはない、だから噂は直ぐに広まった。ましてや暴力団同士の諍いとなれば立ち所に住民の耳に入る。

 「長楽寺の信さんがまた何かやらかしたらしいよ」

 「あれ、今度は何だね?どうせまた酒飲んで暴れたんじゃないかね?」

 噂が噂を呼び、事の真相とは大きくかけ離れて噂だけが一人歩きしていたが、そんな噂も流石に清水市内にまでは飛び火して来なかった。

 私は天竜養護学校を卒業した後、心臓病のため高校進学は諦め清水市内にある療養型職業訓練所へ入所した。其処で商業簿記3級の資格を取り、将来の為に役立てようと思っていた。施設の入所者は殆どが60歳を超える老人ばかりで、病院で面倒が見切れなくなった者たちが行き場所を失い、家族にも見捨てられた、謂わば現代版姥捨て山のような所であった。

 少し遅めの朝食を終えて、テーブルの上にある新聞に眼を通していた。最後の3面記事に差し掛かった時、思わず「ええっ!」と声を上げてしまったのである。

 ――静岡県警藤枝署は15日、同県藤枝市本118、住吉会系組織暴力団極東会桜組み幹部・神戸信夫(39)を恐喝容疑で逮捕した。取り調べによると、調理師である山崎忠雄さん(29)に調理の仕事を依頼したが断わられた為、再三に渡り因縁を付け仕事を手伝わなければ金を出せと脅したと言う――。

 活字のみの表記であれば逮捕された人物を父だと特定には至らなかったかも知れないが、楕円の顔写真付きで載っていた為に、紛れもない事実なんだと受け入れるしかなかった。

 然し、その記事に寺下勇次の名前が載っていなかった事に疑問を抱いていた。藤枝に帰った時、勇次と二人で的屋をやる話しは聞いていた。軽車両を使って移動式のラーメン屋を始める内容だった。

 父は酒癖が悪いと言っても、普段は実に大人しく人当たりも良い方だし、近所の人たちからは「信さん、信さん」と慕われていた。酒を飲んだにしても酔って暴れるのは殆ど私の前だけであったし、酔って他人を傷つけたと言う話(ヤクザ同士の喧嘩以外)は一度も聞いた事がなかった。

 そんな性格の父が人を脅すなんて事をするだろうか?疑問は尽きなかったが、おそらく寺下勇次の差金に違いないと思っていた。勇次は気性も荒く、喧嘩っ早くて有名だった。いざこざの仲裁に父が呼び出される事は度々あったし、尻拭いをするのはいつも父の役目だったような気がする。

 勇次の度胸と腕っ節の強さは、父が「兄貴、兄貴」と慕っていた人斬り慎司の異名を持つ杉山慎司(私はシンちゃんと呼んでいた)も一目置いていたほどである。そんな勇次から私は一度だけ思い切り怒鳴られた事があった。

 清水の訓練所に入所してから半年あまり経った頃、初めての外泊許可が出た。入所したばかりの頃は頭髪も短く中学生の素顔もまだ抜け切れなかったが、半年も経つと髪も大分伸びてきており、それなりに色気付いてくるものである。大人の真似事をして、初めて買った整髪料がライオン化粧品のバイタリスだった。

 その整髪料をべったりと塗付け、櫛を使って髪型を整えると、意気揚々と藤枝の実家に帰ったのである。家に帰る事を事前に連絡しておかなかったのは、突然帰って、父や伯父たちを驚かせてやろうと言う魂胆だったが、その辺はやはりまだまだ子どもじみていたと思う。

 父は昔から何の予告もなく突然行方知れずになる人だったので、その時も在宅かどうか全く当てにはしていなかった。学校から帰った時のように「ただいまーっ」と玄関をくぐった。すると、いきなり酒の臭いがプーンと鼻を突いた。

 私は思わず「ムッ」として怒りがこみ上げて来た。父が家にいるのは確かだったし、それはそれで嬉しかったのであるが、時計を見ればまだ昼を少し回ったばかり。こんな明るい内から飲んだくれている父に対し、怒りと同時に例えようのない悲しみを押さえる事が出来なかった。

 こんな事は初めてではなかったし、幼い頃に嫌というほど経験している。だからこそ余計に腹が立ったのかも知れない。座敷に上がると案の定、父はあぐらをかいて日本酒を飲んでいた。顔は既に紅く、私を見つめる眼も虚ろで泳いでいた。

 「なんだよ、こんな昼間から酔っ払って…」

 「おう!俊坊、帰って来たのか」

 その後、どんな会話を交わしたか殆ど覚えていなかった。気が付くと父は鬼のような形相で立ち上がり、私の両肩を両手で掴みグッと力を入れて押さえ付けて来た。が、その瞬間だった。咄嗟に放った私の右ストレートの拳が父の口元に見事にヒットし、父は崩れるようにもんどり打って畳に倒れ込んだ。

 うつ伏せに倒れた父の口元から真っ赤な鮮血がドクドクと流れ出していた。酒で充血した眼はカッと開いたままで、畳のある一点を見つめているかのようだった。流れ出した血が見る見る内に畳を赤く染めて行く。

 倒れたまま何も語らぬ父のそんな姿に怖くなり、私は涙を堪えながら急いで家を飛び出し、母の実家がある木町(茶町)へと向かった。後にも先にも父を本気で殴ったのはこれ一回のみであったが、幼少期に散々父に殴られ痣だらけだった少年の姿はもう其処にはなく、父と少年の立場が逆転した瞬間でもあった。

 次の日、父の事が気になっていたので家に寄ってみた。黙ったまま玄関をくぐると、縁側で日向ぼっこを楽しみながら新聞に眼を通している父の姿があった。私は内心ホッとして後ろからそっと声を掛けた。

 「父ちゃん、昨日の事覚えているよね?」

 父は酔うとその日の出来事を忘れてしまうので、確認の意味も込めて訊いてみた。

 「俊坊、いいパンチしてるな、かなり効いたぞ」

 信夫は少し腫れ上がった口元を撫でながら笑みを浮かべつつ言った。それはまるで成長した息子の姿を確信したかのような、喜びに満ちた表情にも見えた。

 「父ちゃん、昨日の事しっかり覚えてる…」私は心の中で呟いた。昨日の出来事が原因で父と子の間がぎくしゃくするような心配は何もなく、私は胸をなで降ろすように安心したが、父が掴み掛かって来た原因が何だったのか全く思い出せなかった。

 「訓練所の暮らしはどうなんだ?」

 「うん、まあまあかなぁ、月5千円小遣いが出るのでそれで日用品とか買ってるよ」

 「三保の松原が近いんだっけ?」

 「うん、まあ近いけどバスで30分くらいかな」

 「清水市内に浅田さんの家があるぞ」

 「浅田さん?親戚なの?」

 「ああ、父ちゃんの従姉妹の家だ、宝くじ3千万当たったって自慢してたから行けば何かくれるかもしれんぞ」

 「へえー、本当?凄いね」

 「ケチで有名だけどな」そう言って父は大笑いしていた。

 そんな笑顔の父が私は大好きだった。柔らかな陽射しと父の言葉に包まれて、私はいつになく幸せな気分に浸っていた。春の到来を告げるかのようにメジロがさえずり、風は優しく幹の小枝を揺らしいた。

 「じゃあ、父ちゃん門限があるのでそろそろ帰るね」

 「おお、そうか、またいつでも帰って来いよ」

 帰り支度と電車の時間を確かめ、立ち上がろうとした時だった。

 「おーい、兄貴いる?」寺下勇次の声だった…。

 (更に続く…)。


プールサイドの人魚姫-タワー

 雨上がりの少し湿った朝の空気が頬を軽く撫でて行く。信夫は大きく息を吸い込んだ。身体中が娑婆の空気で満たされて行くのが分かる。酒と煙草に晒されていない身体が健康そのもののように思えたが、それを拒むかのように手の震えは止まっていなかった。

 刑務所の直ぐ近くには、緑の樹木が鬱蒼と生い茂る大きな公園があり、余暇を楽しむ人たちの憩いの場所でもあったが、平日のためか人影も殆どなかった。湿り気を含んだ梅雨空の風で樹木たちがざわついている。

 まるで数年前のあの日を思い出せと言わんばかりに――。

 「兄貴、申し訳ない、本当にすまなかった…」

 「世話ばかりかけやがってまったく、迎えに来るのはこれが最後だと思えよ」

 出所の出迎えに来た亨が、刑務官の眼も気にせず半ば怒鳴るように言った。

 「俊樹も一緒だ、外で待ってるぞ」

 「俊坊も連れて来てくれたのか…」

 「ああ、連れて来たくはなかったんだが、良一爺さんが連れて行ってやれと煩くてな…」

 信夫が服役中、息子の面倒を見てくれていたのは亨ではなく、親戚である神戸良一の一家だった。藤枝警察署に拘留されている時、息子の面倒を誰が見るのかでかなり揉めていた時があった。

 面会時、良一と福治が俊樹の世話係りを巡って口論となったが、性格の穏やかな良一爺さんが面倒を見る事で決着がついた。

 「いいか、信よ、俊樹の事は責任持ってわしが面倒見るから、刑期が終えたら二度と馬鹿な真似はするんじゃないぞ、分かったな…」

 その言葉を耳にするなり信夫は良一と福治の前で声を荒げて号泣した。

 あの時に流した涙に嘘はなかったが、酒好きとお人好しの性格が災いして、何度も刑務所の門をくぐっている。今度こそはといつも自分に言い聞かせて来たが、酒の誘惑に勝てず、妻の雪子でさえもが自分から去って行った。その雪子も数年前に亡くなった。

 雪子が残して行った息子が今は唯一自分の生き甲斐である筈なのに、俺は父親らしい事を何一つして来なかった。まるで禅問答のように信夫は自分に問いかけるのだった。

 亨と並んで刑務所の外に出る。外は快晴、ギラギラと焼け付く太陽の光で眼を開けていられないほどだった。

 「俊坊は何処に?」

 「ほら、あそこで待ってるよ」

 刑務所の門から約100メートルほど離れた公園の中に一人ポツンと佇む少年の姿があった。息子の姿を確認した信夫の眼が潤むと同時に笑顔が溢れた。

 「声を掛けてやれよ…」

 息子の姿を眼にして口を開かぬ信夫に対し、すかさず亨が言った。

 一年振りに見る息子の姿であったが、服役中、息子がどれほど淋しい思いをしていたかと思うと、どう声を掛けたらよいものか迷っていた。

 「おーい、俊坊、父ちゃんだぞー…」

 ゆっくりと歩きつつ手を振って声を掛けたが、少年は微動だにもせず公園の緑の中に埋もれてしまいそうだった。おそらく距離が離れ過ぎていて父親の声が届いていなかったのかも知れないが、父親に向かって駆け寄って来る素振りも見せなかった。

 一年振りに聞く父の声とそしてその姿が少年にとって嬉しい筈がない。嬉しくて大声で泣きたいほどであっただろう。駆け寄って抱きつきたい、父にその腕でしっかりと受け止めてもらいたい…。僅か9歳の幼い少年が、それでもそうしなかったのは、父親譲りのプライドのせいだったのだろう。

 「俊坊、いいか、男はな人前で涙を見せるものじゃない、泣きたい時は誰もいない所で泣け…」

 酒が入れば雪子の話しをしながらぼろぼろと涙を流し、顔をくしゃくしゃにする父の矛盾した言葉であっても、息子にとって父の存在は絶対的であった。

 あの日のように公園に息子の姿はない。辺りを見回したが、勇次の姿も見当たらなかった。バッグからハガキを一枚取り出し、内容を再度確認するように眼を通した。

 ――拝啓 神戸信夫様 この度の服役、本当にご苦労さまです。本来であれば舎弟分の私がおつとめしなければならない所でしたが、兄貴の温情に甘え罪を被せてしまう形となってしまった事、心よりお詫び申し上げます。(中略)。出所時には必ずお迎えに上がりますので、出所日が決まり次第連絡を下さい――。

 勇次に手紙を出したのは、出所が決まる一ヶ月ほど前の事だった。杯を交わした舎弟分であっても世話になる事に些か抵抗を感じていた事もあり、「出迎え不要」と返事を出したが、義理堅い勇次の事だから、断ってもあいつなら出所日を聞き出してやって来るかも知れないと思っていた。

 然し、迎えに来ないとなると却って勇次に何かあったのではと不安になったが、今ここであれこれ考えても仕方のない事と思い直し、バス停へと歩を進めた。

 府中刑務所から徒歩5分程度の所に「晴海町」のバス停がある。国分寺駅までバスで行き、そこから国鉄・中央線に乗り、東京駅に出て東海道本線・静岡行きに乗り換える。各駅止まりだから静岡に着くのはおそらく午後3時頃だろうと思っていた。

 「父ちゃん、ほら見て、東京タワーだよ」

 雨に煙る薄暗い空にそびえ立つ東京タワーを見て、息子が大喜びした時の事が昨日の出来事のように脳裏を過ぎった。

 「今度、東京に来たら一緒に登ろうな…」

 「えっ!本当?今度いつ来るの?絶対だよ、約束だからね」

 そんな約束を息子は覚えていただろうか…。息子との約束など一度も守った事のない自分を信夫は今更のように恥じた。

(更に続く…)。