プールサイドの人魚姫 -26ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


闘病2013

 新年を故郷や海外で迎える人たちの帰省ラッシュがピークを迎えている。それぞれの想いを抱えた2013年がもう直ぐ終を告げる。そこに待ち受ける新しい産声を聞く為に、その声に新たな希望を託して人はまた未来に向けて歩き始める。

 今年もいよいよ数日を残すのみとなりました。街角ではカウントダウンの鐘が鳴り響いている事でしょう。年賀状の投函も済ませ、後は除夜の鐘を聞くのみと言った所ではないでしょうか。私の場合、詩は兎も角として小説などは自分を追い込んでギリギリになるまで書かない性格なのですが、それが持病にまで影響し、心不全を発症しているのにギリギリまで我慢してしまうんですね。

 もう限界となった時点で漸く救急車を呼ぶ…、搬送先の病院で看護師に「もっと早く来なければ駄目ですよ」といつも怒られてばかり、まるで子どものようです。

 2013年を振り返ると、やはり闘病の一年でした。病気が治る訳ではないので闘病自体死ぬまで続くのですが、今年は特別でした。正月早々心原性脳梗塞で倒れた時の事がトラウマになっております。深夜1時、部屋の灯りを消す為にベッドから起き上がろうとした所、身体が全く動かない…、初めての経験で、それは言葉に出来ないほどの恐怖でした。

 自分の身体に何が起こっているのかその時はまだ理解しておらず、動かない手足を何とかしようともがいている内にベッドの下に転落。その時かなり強く打った為、今でもその打撲痕が消えずに残っています。

 右半身の感覚が全くないため痛みは感じませんでしたが、骨折しなかったのが不思議な位で、右腕がどんな状態になっていたのか想像すると恐ろしくなります。ベッドの下で一時間ほどもがいていたでしょうか…、兎に角助けを呼ばなければと思い、自由に動く左腕のみを頼りにベッドへと戻りました。そして左手で携帯を握り締めたまではよかったものの、右腕を必死に携帯の所に持って行こうとするのですが、全く力が入らず成す術もないまま携帯を見詰めておりました。

 「万事休す」人生の終わり、つまり「死」を悟った瞬間でした。声も出ず助けも呼べず、孤独と絶望に打ちひしがれた正月の深夜…。流れ出るのは鼻水と涙とだらしなく開いた口元からの唾液のみ。然し、そうやって地獄の淵に佇む私に向かって、またしても幸運の女神が微笑んだのです。

 入院から10日後には脳梗塞の後遺症も全くなく、奇跡の復活を遂げた訳です。この様な「九死に一生」体験をすると、その年は運が悪い大凶と思ったりしますが、結果を見ると「大吉」ではないかと考え直し前向きの姿勢に修正出来たりするものです。

 脳梗塞の後、立て続けに起こった「心不全」によりまたしても救急搬送され、今年前半は病院生活に費やされてしまった訳ですが、病気を活力の源と置き換える事が出来れば、闘病生活の中に希望の光を見出す事が出来るのではないでしょうか。

 絶望からスタートした2013年も終わり、何はともあれ生きている事の喜びを噛み締めて、来年は希望からのスタートにしたいものと思っております。この一年、私のブログに訪問して頂いた皆さま方全ての人に幸多き年となるよう心からお祈りし感謝致します。

 今年一年ありがとうございました。そしてまた来年もどうぞよろしくお願い致します。

 

管理人:神戸俊樹

プールサイドの人魚姫-サンタ
 

クリスマスは理屈抜きで楽しむもの。

不景気なんて関係なく 苦しい時だからこそ 

笑顔を絶やさず せめて心に平和のツリーを灯せ

今宵は 誰もが サンタクロース

さあ みんな 踊るサンタに合わせて

ステップ踏もう

聖なる夜に 感謝を込めて
メリークリスマス

 

 

初掲載 2008.12.24 19:48

 

久能海岸

 ウェイトレスが水とおしぼりを持って注文を聞きに来た。

 「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」

 「うーん、アメリカン」

 「父ちゃん、何にするの?」

 「そうだな、同じのでいいや」

 「じゃあ、アメリカン二つね」

 テーブルを挟んで父と向かい合わせで座るのは初めてだった。熱いおしぼりで顔を拭きながら父が言った。

 「仕事はどうなんだ、順調か?」

 「残業が多くて、結構きついよ、それより何で電話番号知ってるの?」

 「ああ、兄貴に聞いたからな」

 やっぱりそうか…と私は思った。清水の訓練所にいた時もいきなり電話を掛けて来たので驚いたが、あの日の事も克明に覚えていた。

 波打際に並んだテトラポットに、駿河湾の荒波が音を立てて砕け散っている。国道150号線を走る車の列が、吹き荒ぶ潮風に煽られていた。時計が午後3時を少し回った頃だった。午後の授業を休んだ私は、自分のベッドで横になり週刊誌を読んでいた。

 「額田(ぬかだ)さん、電話ですよ」

 職員が部屋まで呼びにやって来た。額田は母方の姓で、私は17歳のある時点まで戸籍上は「額田俊樹」であった。小学校時代は神戸姓で通したが、中学生になり天竜養護学校に転校した際、額田と神戸の両方を使い分けると言った複雑な環境に置かれていた。学校では神戸と呼ばれ、病棟に戻って来ると「額田」になったりした。但し、「額田くん」と呼ばれた事は一度もなかったが、自分のベッドや配膳室の名札が、ある日突然「額田」に変わっていたりして、それに気付いた友人たちから奇異な視線を浴びせられ、とても嫌な思いをした事がある。

 私自身も「額田」と名乗る事には抵抗があった。生まれた時から「神戸俊樹」と呼ばれて育って来た訳で、紛れもなく自分は「神戸」であると思っていた。これもまた父の優柔不断が招いた一つの悲劇だったかも知れない。

 呼びに来た職員は電話の相手が誰なのか言わなかったので、私は「さて、誰からだろう?」と疑問だらけになったが、其処に父の顔は浮かんで来なかった。施設から徒歩6,7分も歩けば150号線(久能街道)に出る。その向こうには駿河湾の波が打ち寄せる久能海岸が広がっており、東の方向(三保の松原)に眼をやれば見事な富士山の姿を見渡す事が出来た。

 「もしもし…、電話変わりました」

 「おう、とし坊か、父ちゃんだけどさ、今な近くのバス停に居るんだ、悪いけど千円貸してくれないか…」

 「はぁ?…」返す言葉がなかった。父が何故、この施設の事を知っているのか?何故、いま近くに来ているのか?疑問が疑問を呼び、私は混乱してしまった。

 「分かった、じゃあ、ちょっと待ってて直ぐ行くから」そう伝えて電話を切った。

 「済みません、10分ほど出掛けて来ます」

 職員にそう伝えると、自分の部屋に戻り、財布から千円札一枚を取り出すと、ズボンのポケットに突っ込み、急いで施設を後にした。なだらかな舗装されていない坂道を登ると、久能街道に出た。

 潮風が顔に当たり、長い髪が後ろに靡いて行く。左方向に眼をやるとバス停があった。茶色く錆び付いたトタン屋根が強い海風に煽られて、「バタン、バタン」と音を立てている。その直ぐ横にある電話ボックスの中に父の姿があった。

 私は大きく手を振って父に呼び掛けた。「おーい、父ちゃーん」。私の姿を確認し、電話ボックスから出て来た父は、疲れた顔で肩をすぼめ少し震えているように見えた。初夏とはいえ、厚い灰色の雲に覆われたその下では海からの風がビュンビュンと音を立てながら吹いている。上着すらなく、長袖のYシャツだけではまだ寒すぎる季節だった。

 「父ちゃん、どうしたの一体?」

 「いやなぁ、実はさ、昨日仲間たちと富士市まで飲みに出掛けたんだ」

 「うん、それで…」

 「夜中まで飲んでてな、朝気付いたら誰も居なくて父ちゃん一人だったんだ」

 「何それ?どういう事なの?」

 「うーん、俺にもよく分からんが、仕方ないので富士市からずっと歩いて来たんだ」

 「えっ!…ここまで歩いて来たの?」

 私は父の話しに驚き、そして呆れ返っていた。富士から清水の距離と言えば約40キロはある。それを父は一人で歩いて来たと言う。父が疲れきった表情をしていたのはその為だった。

 「はい、千円ね、ちゃんと帰んなよ」

 父を諭すように言うと、私はポケットから千円札を取り出し、父に渡した。

 「悪いな、とし坊…」か細い声で父が礼を言った。清水駅行きのバスが来ると、父は安心仕切った様子でバスに乗り込んだ。その父が乗ったバスに手を振りながら見送ったが、このまま大人しく藤枝に帰る事が出来るのだろうかと不安が過ぎった。

 後で聞いた話しであるが、案の定、その不安は的中し、静岡に着いた父は私の上げた千円を飲み代に使ってしまい、静岡県警のパトカーで藤枝に帰ったと言う。つまり父はパトカーをタクシー代わりに使ったのである。如何にも父らしい話しだとつくづくそう思った。

(続く…)。


国定忠治

 焼津健康ランドは、大崩海岸の上の方にあり、見晴らしの良い観光名所となっていた。眼下には駿河湾を望み、浜当目の海水浴場も近かった。温泉と豊富な海の幸を堪能しながら、大衆演劇を見られる所として有名であった。藤枝から焼津市内まで車なら十五分もあれば充分である。黒塗りのタクシーが三台、列を作って焼津へと向かった。

 現地に到着すると、入口の所に「山岸組御一行様」と書かれた黒い板が掛けられていた。山岸組…とても土建業とは思えず、明らかに暴力団関係者だと施設側の人々は思っていたかも知れない。現代のように暴力団に対する厳しい規制がなかった時代だったので、極道と呼ばれている者たちも大きな顔をして世間を渡り歩いていたが、堅気には手を出さない事と、義理と人情が脈々と熱く生き残っていたのも事実であった。

 今回の行楽は山岸の提案によるもので、世間的には慰安会と同類であった。幹事も勿論山岸自身。人を纏める事に長けている男なので、山岸自ら幹事を買って出た。

 「ほーい、皆さん、ちょっと集まって…」

 山岸の大きな声が広いロビーに響き渡り、よその客までが山岸の方に視線を投げた。各々が勝手気ままにあちこちへと散らばっている。まるで小学生の遠足風景だ。それを纏めるのが山岸先生と言ったところだろう。

 「宴会までにはまだ少し時間があるので、風呂に入りたい人はお先にどうぞー」

 「宴会は何処でやるんだ?」

 慎司が山岸に訊いた。

 「はい、大広間に席を設けてあります、そこで演劇も見られるらしいですよ」

 「ほお、そうか、それは楽しみだな」

 「兄さん、ここの温泉は肩凝りに効くそうなんで、ひとっぷろ浴びて来て下さいよ」

 「じゃあそうするか、おい、英津子!風呂行くぞ」

 「兄さん、混浴じゃないですから…」

 そう言って山岸は大きな声で笑った。

 「兄貴、お背中流しましょうか…」

 「おう、頼む」

 慎司の背中には鯉の入れ墨が彫られており、その彫り物の少し下に約十五㎝ほどの古傷があった。おそらく、彼が「人斬り慎司」と呼ばれるようになった理由と、その傷は何か関係があったのだろう。

 客たちの宴会場となっている大広間は、凡そ六十畳ほどの広さがあり、正面が演劇の舞台となっていた。 駿河湾で採れた新鮮な食材が大きな皿の上に盛り付けされ、所狭しとテーブルの上に次々と並んで行く。ビール、日本酒、焼酎など、酒類も皿の合間を埋め尽くして行った。

 山岸が得意げな表情を見せて音頭を取る。

 「さあさあ皆さん、全員揃ったところで乾杯と行きましょう」

 この慰安会を盛り上げ仕切っている事への満足感で、山岸の顔はいつも以上に和やかだった。

 「信さん、ひと言お願いしますよ」

 山岸が信夫を立てるように話しを振った。

 「俺?俺はいいよ…」

 酒の一滴も入っていない時の信夫は、借りて来た猫のように大人しい。一杯引っ掛けて勢いをつけないと何も出来ない弱さも持っていた。

 「それでは山岸組の今後の繁栄を祝って乾杯!」

 コップとコップがぶつかり合って、宴会場に時を告げているようだった。酒類ばかりがずらりと並ぶその中で、私の頼んだオレンジジュースがみにくいアヒルの子に見えた。学校をさぼってこんな所にいる自分に罪の意識を感じていたのは確かだった。

 その日は平日と言う事もあり、客足も少なく宴会場は山岸組の貸切状態のようであった。酒が進むにつれて、男たちの声も大きくなり始めていく。仕事の話しから賭け事、そして女の話題へと尽きる事なく会話が弾む。

 そんな大人たちの会話に耳を傾ける事もなく、私はただひたすら食べる事だけを考え夢中になっていた。舞台上では既に本日の演目が始まっている。三度笠を被り、股旅姿の男が台詞を語っているところだった。

 「赤城の山も今夜限り、生れ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨てて、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる道途(かどで)だ…。」

 国定忠治…江戸末期に活躍した渡世人で、強気を挫き弱気を助ける侠客として人気があり、その活躍は講談や舞台などで現在も語り継がれている。

 舞台は最も注目する場面に差し掛かっていながら、誰一人その役者に視線を投げている者はいなかった。そんな中、一人だけふらりとその宴席から立ち上がる男がいた。右手に日本酒、もう一方の手に空のコップを握りながら舞台の方へと歩いて行く。

 相当酒が入っているらしく、千鳥足で前後左右もままならない。一升瓶の中で酒が波を立てて揺れている。私はじっとその後ろ姿を見詰めていたが、舞台に向かって「この大根役者が!」と怒鳴り散らす声が聞こえて来る気がして、内心は不安でならなかった。

 舞台に向かう信夫の姿に気付いている者は私以外に誰もおらず、他の男たちは会話に夢中のようだった。もし何か事が起こったら、真っ先に飛び出す覚悟はしていた。舞台の真下で何やら声を掛けているようだったが聞き取れなかった。

 空のコップに日本酒を並々と注ぎ、それを役者に向かって差し出す信夫。

 「まあ、一杯やんなよ、いい顔してるね」

 「お客さん、ありがとうございます。芝居の最中なんで、お気持ちは有難いですが…」

 「まあまあ、そう言わずに、一杯だけでも」

 信夫のあまりのしつこさに役者の方が根負けし、コップを受け取ると「グイっ」と一気に飲み干した。

 「いよっ!いい飲みっぷり、千両役者!」

 そう言って機嫌を良くした信夫が笑みを浮かべつつ宴席へと戻って来た。私の心配は取り越し苦労に終わったが、ホっと胸を撫で下ろしていた。窓の方に眼をやると、燃えるような夕陽が西に傾きかけ、駿河湾を真っ赤に染め上げていた。

(続く…)。


ムジカ02

 師走に入り、寒さも一段と増しつつある今日この頃。12月24日のクリスマス・イブに発売予定の『大衆文藝ムジカ創刊号』であるが、今年7月に刊行された『創刊準備号』が、今もなお、紀伊國屋書店新宿本店にて平積みされている。

 これは取りも直さず書籍が売れている事の証しだろう。平積みされた本がある程度時間が経ち、客足も途絶えがちとなってくれば、平積みから棚差しへと書籍の陳列方法は変わって行くのが通例である。

 名もなき港から革新の帆を掲げ、文藝の海へと船出した『ムジカ』は、無限の可能性を秘めた創作者たちの手によって、大航海を始めたばかりである。ムジカが商業誌である以上、そこに求められるものはクオリティの高さである。

 創刊号においては、準備号よりも寄せられた作品に対し、審査基準が更に厳しくなっているのは致し方ない事。読者あっての書籍であるし、読者が求める書籍の姿を追求するとなれば、必然的に答えは見えて来る。

 他の文藝雑誌とは明らかに一線を画す雑誌として、多くの作品をムジカから輩出する事により、沈滞気味の日本文学界に新しい風を送り込む。それが私たちやあなたたちに課せられた使命なのではないだろうか。

 さて、創刊号であるが、目玉はなんと言っても、テレビドラマ・映画化されて話題となった漫画『鈴木先生』の著者である武富健治氏とムジカ代表の葛原りょう氏による誌上対談が実現した事である。

 このご両人による対談、一体どんな話しが飛び出し、聞かせてくれるのか楽しみである。

 武富氏は現在、『惨殺半島赤目村』執筆中!(「月刊コミック アース・スター」で好評連載中)。

※大衆文藝ムジカは全国の紀伊國屋書店並びに、武甲書店で購入可能。まだお買い求めでない方は是非この機会に「芸術の書」としてあなたの本棚に一冊追加してみて下さい。

 ムジカでは、プロ・アマ問わず新たな書き手を随時募集しております。既出作品でも構いません。是非あなたの鮮烈な言霊をムジカにぶつけてみませんか。ジャンル不問。書評・俳論・歌論などお待ちしております。

 原稿はこちら→「大衆文藝ムジカ事務局 」へお送り下さい。


プールサイドの人魚姫-千香子


 私の姿に気付いた父が、「よおっ!」と手を上げ近づいて来る。二年以上会っていない父の姿だったが、特に懐かしさは感じなかった。私の姿を大きな眼で「ギョロッ」と見詰めるなり「なんだ、その頭は、俺のように短くしろ!」。肩まで伸びた長い髪が相当気に食わなかったようだ。

 「久しぶりに息子に会って第一声がそれなの」と私は思ったが、言葉には出さず堪えていた。そう言えば、志太病院を退院した後、長く伸びた髪を切る為に「床新(行きつけの床屋)」へ散髪に行った時、いつもならお決まりの「坊ちゃん刈り」なのだが、終わってみると父と同じ角刈りだった。これには私も流石に驚いたが、父が事前に「俊樹が来たら俺と同じ髪型にしてやってくれ」と店主に頼んでおいたのだろう。

 「じゃあ、何処かお店に入ろうか」

 そう言って、父を案内した場所は静岡駅地下街にある「エリーゼ」と言う大衆喫茶だった。この店を私は度々利用しており、彼女とも時々ここで会話を楽しんだ。店内は広く、凡そ百人は一度に利用出来、静岡市内にある喫茶店では最大級の店であったが、1980年(昭和55年)に起きた『静岡駅前地下街爆発事故』により、跡形もなく消えてしまった。

 どの席に座ろうか迷ったが、私は出来るだけ目立ちたくなかったので、店の一番奥まった所に空席を見つけ、その周りにも殆ど人がいない事を確かめてから座った。父と私は顔が良く似ているため、誰が見ても親子だと直ぐに分かる。

 何故目立ちたくなかったのかと言えば、私は父と一緒に外出する事が嫌いな子どもだった。勿論、父が家にいれば安心出来たし、酒を飲んでいない父は大好きだった。矛盾していると思われるが、子どもながらに世間体を気にしていたのである。仕事もまともにしていない父に劣等感を抱いていたし、世間の眼を幼いなりに気にしていたからだ。

 中学生になったばかりの頃に、一度だけ父と一緒に行った場所があった。藤枝の隣街、焼津市にあった健康ランド。父と二人だけでなく、仕事仲間も一緒だった。父は当時、山岸と言う男が立ち上げた「山岸組」と言う土建業の会社で働いており、東海道新幹線の開通工事や、スーパー布袋屋などの新築工事を請け負っていた。

 父が唯一まともな稼業(警察官時代を除く)に就いていた時期でもあったが、実は、この山岸と言う男は食わせ者で、後に「給料持ち逃げ事件」を起こした張本人である。

 「とし坊、明日焼津に行くが付いてくるか?」

 「明日?学校だよ、何言ってるの?」

 「ああ、そうか、休んじまえ」

 登校拒否を何度も繰り返していた小学生時代の事が頭にあったので、学校を休む事に強い罪悪感を私は抱いていたが、結局、次の日は父とそして山岸組のメンバー数人と焼津へ行く事になった。その中には、あの人斬り慎司もいたが、勇次は何故かいなかった。

 翌朝、杉山慎司が数人の仲間を連れてやって来た。

 「兄貴、お早うございます」

 信夫が軽く頭を下げながら慎司に言った。

 「みんなもう揃っているのか?」

 「はい、慎司の兄さん、揃ってますよ」

 慎司の問い掛けにすかさず応えたのは信夫ではなく、お調子者で愛想の良い山岸だった。とても自分の事務所「山岸組」を率いている組頭には見えなかったが、争い事を嫌い何事も丸く収める独特の雰囲気を持っている事だけは確かであった。山岸が話しだすと周りが明るい雰囲気になり、酒の席には最も必要なタイプの男で、そんな所が他の男たちから好かれている理由だったのかも知れない。但し、この時はまだ誰も山岸の本性を知る者はいなかったのであるが…。

 「よーし、タクシー呼べ!3台呼べ!」

 慎司の掛け声一つで、黒塗りの静鉄タクシーが実家の前に並んだ。そしていかつい男たちが次々と車に乗り込んで行く。その光景は暴力団幹部たちの集会にも見えた。そんな中に一人の女性が混じっていた。「杉山英津子」慎司の嫁さんで、信夫や他の男たちから「姉さん、姉さん」と慕われていた。

 慎司と英津子の間には二人の子どもがおり、上の娘である千香子は4歳だった。私と顔を合わせる度に、「おい、俊樹、元気か」と無邪気な笑顔を見せて来る。

 生意気な口の利き方は父親譲りなのだろう。もう一人は弟の重夫。この重夫が生れて早々、どんな経緯があったか知らないが、父は慎司に無償で八畳ほどの部屋を貸し与えた。そして生れて間もない重夫と英津子との3人暮らしが暫く続く事になる。

 一人っ子の私にしてみれば思いがけない重夫の来宅は、家族が増える事の嬉しさで大歓迎だった。慎司は夫婦で屋台の飲み屋を営んでいたため、夜になると英津子も手伝いに出掛けて行く。その間、重夫は一人になってしまうのだが、英津子の代わりに私が重夫の世話をする事はよくあった。

 重夫が腹を空かせて泣き出す頃を見計らって、母親は一旦家に戻って来るが、親と子のタイミングが合わない事はよくある事だった。ましてや重夫は一歳にも満たない赤子だから、何が起きるか分からない。

 「ウンギャー、ウンギャー」と突然大声で泣き出す重夫。その傍らで漫画を読んでいた俊樹が慌て始める。英津子はまだ戻っていない。

 「どうしよう、どうしよう、お腹かな、おしめかな…」十一歳の子どもに、赤子の泣く声は魔法の呪文のように意味不明だったが、英津子から聞かされ、教えて貰った事を実行してみる。壊れはしないかと、恐る恐る重夫を抱き上げる。赤子の重さがずっしりと身体中に伝わって来る。自分の腕の中で真っ赤な顔をして鬼のように泣く赤子を見詰める少年の眼は、父親のように優しく輝いていた。

(続く…)。



 身体に何らかの障害を持つ人たちと、健常者の組み合わせによるライブ・パフォーマンス。それが『チャレンジド・フェスティバル』。
 その目的は、表現活動を通じ障害者の持つ才能および、障害者の存在を幅広く伝えて行く事にある。健常者と障害者が協力し、助け合って差別のない社会を目指す。
 このライブ・パフォーマンスについて知ったのは10月30日、大衆文藝ムジカ代表で詩人の葛原りょう君のブログだった。彼が率いる絶叫朗読バンド『ムジカ・マジカ』も出演するとの事でもあり、ここ暫く『ムジカ・マジカ』のライブから遠ざかっていたので、体調の許す限り鑑賞したいと思った。
 当日の11月9日は薄日こそ射してはいたが、冬の到来を告げる北風が代々木公園の至る所に吹き荒んでおり、風邪を引かぬよう万全の体制で臨んだものの、野外ステージは数十年前の『日比谷野音』で観た『憂歌団』のライブ以来であったため、灰色の天を見詰め、雨さえ降らなければ…と思っていた。
 野外ステージに到着した時には既に開演していたが、ムジカ・マジカの出演時間に合わせて家を出たため、その日のステージ全てを鑑賞するには至らなかったが、半分以上のライブ・パフォーマンスを堪能する事が出来た。
 障害者と一口に言っても様々である。知的障害、視聴覚障害、身体的障害、心の病など精神障害の人もおり、そしてわたしのような内部障害者もいる。重度・軽度の差こそあれ、その障害によって辛酸を舐める経験をした人もいるであろう。
 わたし自身もその中の一人であるが、障害を隠さなくては仕事に就けない時期もあった。障害者手帳を持つ事に抵抗を感じていた30代。今でこそ隠す事なく正々堂々と胸を張って『障害者』を全面に出してはいるものの、やはり世間一般の眼は健常者と障害者をはっきりと区別している現実がある。どんなに仕事が出来ようとも、正社員にはなれない大きな壁が存在し、「働けるだけでも有り難く思う」という帰命頂礼の如くである。
 アップした動画は、高木里華のTaka's Party 。高木里華と「マカローニ」と立川ろう学校の生徒と講座受講生も加わり『仲間』と言う意味が込められている。
 手話とタップダンスを融合したエンターテインメントである。演目は『ゆず』の『虹』。
 『うつ』の副作用?なのか手が震え(寒さではない)画面が揺れて見ずらいのはご容赦願いたい。
※YouTubeにアップしたところ、著作権の関係で音声のみが消されてしまったため、ニコニコ動画に変えました。モバイルの方は見られないかも知れません。

プールサイドの人魚姫-夏の思い出


わたしは 呼び止めは しない

今 旅立つ 君を

わたしは 悲しみは しない

君は もう 大人だから


ただ ひとつだけ お願いがあるの

この 夏の 思い出だけは

忘れずに 閉じておくれ


 

わたしは 振り返りは しない

去りゆく 日々の 暮らしを

わたしは 思い出の中で

君に あえるから


 

ただ ひとつだけ お願いがあるの

この 夏の 思い出だけは

忘れずに 閉じておくれ


作詞/神戸俊樹

作曲/三好清史

歌・演奏/センチメンタル・シティ・ボーイズ(神戸俊樹&三好清史)

※ブルース調のスローバラードです。














プールサイドの人魚姫-コルト

 とにかく古庄駅まで急いで走った。心臓は悪かったが、若さがそれを上回っていたように思う。肩まで伸びた吉田拓郎気取りの長い髪が風に靡く。清水方面から新静岡センター行きの電車は、帰宅時の時間帯でもそれほど混雑していなかった。上は派手な茶系のアロハシャツに、下は当時流行のコッパンで、履物はなんとサンダル。まるでチンピラの服装だ。

 「なんだ、その格好は…」と父に言われそうな気もしていたが、父も対して変わりはないと思っていた。駅に付くと急いで改札を駆け抜ける。往来する人影を左右巧みに避けながら、静岡駅へと向かった。途中、松坂屋に差し掛かった時、「よお、かんちゃん!」と上の方から声がする。会社の先輩たちが催事場作りのため、看板類を搬入してる最中だった。

 私は笑顔で大きく手を振りながら、地下道へと降りて行った。駅前には国道一号線が走っており、向こう側に辿り着くには地下道が最も近道であった。帰宅途中の人波を掻き分けるように地上へと出る。時計は6時を少し回っていたが、辺は辛うじて陽射しが残っていた。

 自販機の横で人の往来に視線を投げている父の姿は、迷う事なく直ぐに確認出来た。白のYシャツにグレーのズボン。そして足元はお決まりの雪駄。当然素足である。父は一年を通して雪駄しか履かない。それ以外の物を履いている所を見た事がなかった。腹巻をしてカンカン帽を被り、首からお守りの札をぶら下げれば映画の「寅さん」にそっくりだろう。刑務所帰りだから当然髪は短いが、渡哲也のようにいつもビシッと角刈りに決めていた。

 父は普段、腹巻を殆どしなかったが、一度だけ晒(サラシ)を巻いている所を見た事があった。晒はドスなどの刃物で腹を刺された時に、内蔵が腹から飛び出すのを防ぐ為のものであり、ヤクザ同士の喧嘩の時などに自分の腹を守る役目もしていた。心臓病で藤枝の志太病院に入院中、こんな光景を目撃した事がある。

 陽も暮れて外来も終わり人気の無くなった一階ロビーで、入院中に知り合った岡本君と二人でふざけながら遊んでいた。私と岡本君は小児科病棟の中でも悪戯っ子として有名で、病棟を二人で抜け出しては、「探検ごっこ」と称して、病院中を駈けずり回っていた。

 「神戸くん、退院は決まった?」

 「ううん…まだまだ、血沈がまだ良くないみたい」

 「岡本くんの方はどう?」

 「来週あたり退院出来そう」

 「本当?良かったねー、あーでも岡本くんいなくなると淋しくなるなぁ…」

 「遊びに来るからさぁ…」

 そんな会話を二人でロビーの椅子に座って話している時だった。「ウウー、ウウー…」けたたましいサイレンの音がロビーの中まで響いて来る。それと同時に、数人の看護婦が慌ただしく病院の玄関口へと走って行った。

 一台の救急車が病院の門前に止まり、一人の男が担架に乗せられて入って来る。真っ白な上下のステテコ姿のその男は顔を苦悶に歪めながら自分の腹を押さえていた。腹に巻かれた晒が真っ赤に染まっている。ドクドクと鮮血が滲み出しているのが分かる。おそらく、ヤクザ同士の喧嘩で腹を刺されたのだろう。

 それは幼い子どもたちにとって余りにもショッキングな光景だったが、私は直ぐに父の顔が脳裏に浮かんだ。夜になると何も告げず出掛けて行く父を、不安そうに見詰めながら送り出す。「どうか無事で帰ってきますように」と心で呟きながら…。

 晒を巻きながら、信夫が秋坊に向かって言った。

 「ハジキは持って行くなよ…」

 「はい、兄貴、分かりました」

 秋坊とは、小林秋雄の事で、20代前半の若者であったが、身長が180㎝もある長身で、寺下勇次の次に喧嘩が強く、父の事を「兄貴、兄貴」と慕っていた。その秋雄の弟が処分に困り果てた末に父の所に持ち込んだのがコルト45だった。若干19歳の若者が一体何処で拳銃を入手したのだろう。

 その銀色に光る拳銃は洋服箪笥の引き出しに閉まってあり、それを私は見つけてしまい、本物だとは知らず握ってしまったのである。小学生の手には重すぎるし、最初は玩具だと思っていたが、怖くなって直ぐに元の引き出しに戻した。

 茶色のグリップの所に包帯がグルグルと何重にも巻かれてあり、それはおそらく滑り止めだったのではないだろうか。その拳銃が実際に使われたかどうか私は知らなかったが、いつの間にか家から消えていた。

(続く…)。



プールサイドの人魚姫-洗面器

 足取りは縺れ、進む方向が一向に定まらない。車の往来が激しい日中であれば、立ち所に車に跳ねられ病院送りとなっているだろう。

 父の帰りをすっかり待ちくたびれた息子は、布団に包まり夢の中。漸く家に辿り着き、立て付けの悪い玄関の扉を力任せにこじ開けた。物音に気付いた息子が父の気配を感じ取ったのか、もぞもぞと寝返りを打ち始めている。

 「うっふう…あうう」何を言っているのか全く聞き取れない声を発しながら、千鳥足で座敷に上がると、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。父が帰って来る事を予想してその部屋だけは明かりが点っていた。

 布団は一つしかなかったので、父と私はいつも一緒に寝ていた。何も起こらなければ、夜は静かに更けて行き、朝日を待つだけなのだが、酔った父の静かな夜などあり得なかった。

 「と、とし、とし坊…」父の呼ぶ声に気付いた俊樹が布団から身を乗り出した。

 「ちょっと、おい、洗面器…洗面器持って来てくれ」

 部屋の明かりを点けると、どう言う訳か私は洋服箪笥の引き出しを開け、必死に何かを探し始めた。自分では洗面器を探しているつもりだったが、寝ぼけていたため洗面器のあるお勝手(台所)と箪笥の区別も付かなくなっていた。

 「おい、早く、早く洗面器…」

 だらしなく横たわる父を、部屋の明かりが照らし出す。真っ赤な顔と半分開いた口から唾液が流れ出ていた。

 「うぇーっ…」それは声と言うより、獣の慟哭であった。洗面器は間に合わず、父の願いは胃袋の中身と一緒に畳の上に容赦なく吐き出された。

 部屋中に酒の匂いが立ち込めてむせ返るほどだった。息子が漸く洗面器を持ち、父に歩み寄った時は既に遅しで、胃の内容物が所狭しと広がっていた。その嘔吐物の中に埋まった顔は眼を覆いたくなる光景だったが、吐いてすっきりしたのか、父はそのまま眠っているかに見えた。

 呑んでは吐きを繰り返す父の姿は、まるで摂食障害の患者にも似ていた。息子には散々ひもじい思いをさせておきながら、自分は何処かの小料理屋で仲間たちと深夜まで飲み歩き、美味い物もたらふく食べて来るのである。

 そしてそれを息子の前で全部吐き出してしまう父だったが、時には手土産を持って帰って来たりもした。それは次の日の息子の弁当へと姿を変えて行く。息子にとってはそれが唯一の楽しみだったのかも知れない。

 酔って寝ている大人の身体は普段よりも数倍重くなる。その身体を10歳の子どもが全力を振り絞って動かすのである。明日の学校の事など頭にはなく、今、眼の前に在る父親の身体を何とかしようと必死に戦っている。

 両足を同時には持ち上げられないから、方足ずつ持って嘔吐物から離して行く。そして汚れた顔をタオルで丁寧に拭き、新聞紙を使って嘔吐物を拭き取って行く。何度も同じ事の繰り返しだからそんな作業もすっかり身に付いていた。

 「酔っ払いの介抱なら僕に任せて!」そんな冗談をクラスの友達に言う小学生だった。

 全ての作業が終わった時、時計は午前3時を過ぎていた。父の身体に布団を掛けると、「ふーっ」とため息を付きながら寝床へと戻って行った。

 人の往来など気にも留めず、小刻みに震える指先でワンカップの蓋を開ける。その手の中で波打つ日本酒が喉を潤すのに数分も要らなかった。「ゴクッ、ゴクッ…」喉を鳴らして父にとっての薬が流れ込んで行く。まさに水を得た魚である。五臓六腑に染み渡ると言うのは、こんな時の事を言うのだろう。

 僅か一合の酒であったが、二年の歳月はやはり父にとっては長かった。そしてこれもやはりキヨスクで買ったショートピース(煙草)に火を点ける。マッチを擦る手はもう震えていなかった。

 子どもの頃、父の煙草を買いに行くのも私の役目だった。

 「とし坊、煙草買って来てくれ」そう言って息子に50円玉を渡す。父のお気に入りは「いこい」だった。50円出せば鮪の刺身が一人前食べられるそんな時代である。だから煙草は高級品だったように思う。

 「じゃあ、済みませんが後をよろしくお願いします」

 時計が5時半を少し回っていたので、途中だった仕事を先輩に任せ、私は父を迎えに行く支度に入った。住んでいるアパートは会社が借り上げた物で、そこに3人ほどの社員たちと共同生活をしていた。ペンキで汚れたTシャツとジーンズから普段着の服装に着替える。アパートから静岡鉄道の「古庄駅」まで徒歩15分、そこから電車で新静岡センター駅まで約20分。約束の6時までにはギリギリかおそらく少し遅れるだろうと思っていた。

(続く…)。