第8章 千香子と重夫(追加編集版)。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-千香子


 私の姿に気付いた父が、「よおっ!」と手を上げ近づいて来る。二年以上会っていない父の姿だったが、特に懐かしさは感じなかった。私の姿を大きな眼で「ギョロッ」と見詰めるなり「なんだ、その頭は、俺のように短くしろ!」。肩まで伸びた長い髪が相当気に食わなかったようだ。

 「久しぶりに息子に会って第一声がそれなの」と私は思ったが、言葉には出さず堪えていた。そう言えば、志太病院を退院した後、長く伸びた髪を切る為に「床新(行きつけの床屋)」へ散髪に行った時、いつもならお決まりの「坊ちゃん刈り」なのだが、終わってみると父と同じ角刈りだった。これには私も流石に驚いたが、父が事前に「俊樹が来たら俺と同じ髪型にしてやってくれ」と店主に頼んでおいたのだろう。

 「じゃあ、何処かお店に入ろうか」

 そう言って、父を案内した場所は静岡駅地下街にある「エリーゼ」と言う大衆喫茶だった。この店を私は度々利用しており、彼女とも時々ここで会話を楽しんだ。店内は広く、凡そ百人は一度に利用出来、静岡市内にある喫茶店では最大級の店であったが、1980年(昭和55年)に起きた『静岡駅前地下街爆発事故』により、跡形もなく消えてしまった。

 どの席に座ろうか迷ったが、私は出来るだけ目立ちたくなかったので、店の一番奥まった所に空席を見つけ、その周りにも殆ど人がいない事を確かめてから座った。父と私は顔が良く似ているため、誰が見ても親子だと直ぐに分かる。

 何故目立ちたくなかったのかと言えば、私は父と一緒に外出する事が嫌いな子どもだった。勿論、父が家にいれば安心出来たし、酒を飲んでいない父は大好きだった。矛盾していると思われるが、子どもながらに世間体を気にしていたのである。仕事もまともにしていない父に劣等感を抱いていたし、世間の眼を幼いなりに気にしていたからだ。

 中学生になったばかりの頃に、一度だけ父と一緒に行った場所があった。藤枝の隣街、焼津市にあった健康ランド。父と二人だけでなく、仕事仲間も一緒だった。父は当時、山岸と言う男が立ち上げた「山岸組」と言う土建業の会社で働いており、東海道新幹線の開通工事や、スーパー布袋屋などの新築工事を請け負っていた。

 父が唯一まともな稼業(警察官時代を除く)に就いていた時期でもあったが、実は、この山岸と言う男は食わせ者で、後に「給料持ち逃げ事件」を起こした張本人である。

 「とし坊、明日焼津に行くが付いてくるか?」

 「明日?学校だよ、何言ってるの?」

 「ああ、そうか、休んじまえ」

 登校拒否を何度も繰り返していた小学生時代の事が頭にあったので、学校を休む事に強い罪悪感を私は抱いていたが、結局、次の日は父とそして山岸組のメンバー数人と焼津へ行く事になった。その中には、あの人斬り慎司もいたが、勇次は何故かいなかった。

 翌朝、杉山慎司が数人の仲間を連れてやって来た。

 「兄貴、お早うございます」

 信夫が軽く頭を下げながら慎司に言った。

 「みんなもう揃っているのか?」

 「はい、慎司の兄さん、揃ってますよ」

 慎司の問い掛けにすかさず応えたのは信夫ではなく、お調子者で愛想の良い山岸だった。とても自分の事務所「山岸組」を率いている組頭には見えなかったが、争い事を嫌い何事も丸く収める独特の雰囲気を持っている事だけは確かであった。山岸が話しだすと周りが明るい雰囲気になり、酒の席には最も必要なタイプの男で、そんな所が他の男たちから好かれている理由だったのかも知れない。但し、この時はまだ誰も山岸の本性を知る者はいなかったのであるが…。

 「よーし、タクシー呼べ!3台呼べ!」

 慎司の掛け声一つで、黒塗りの静鉄タクシーが実家の前に並んだ。そしていかつい男たちが次々と車に乗り込んで行く。その光景は暴力団幹部たちの集会にも見えた。そんな中に一人の女性が混じっていた。「杉山英津子」慎司の嫁さんで、信夫や他の男たちから「姉さん、姉さん」と慕われていた。

 慎司と英津子の間には二人の子どもがおり、上の娘である千香子は4歳だった。私と顔を合わせる度に、「おい、俊樹、元気か」と無邪気な笑顔を見せて来る。

 生意気な口の利き方は父親譲りなのだろう。もう一人は弟の重夫。この重夫が生れて早々、どんな経緯があったか知らないが、父は慎司に無償で八畳ほどの部屋を貸し与えた。そして生れて間もない重夫と英津子との3人暮らしが暫く続く事になる。

 一人っ子の私にしてみれば思いがけない重夫の来宅は、家族が増える事の嬉しさで大歓迎だった。慎司は夫婦で屋台の飲み屋を営んでいたため、夜になると英津子も手伝いに出掛けて行く。その間、重夫は一人になってしまうのだが、英津子の代わりに私が重夫の世話をする事はよくあった。

 重夫が腹を空かせて泣き出す頃を見計らって、母親は一旦家に戻って来るが、親と子のタイミングが合わない事はよくある事だった。ましてや重夫は一歳にも満たない赤子だから、何が起きるか分からない。

 「ウンギャー、ウンギャー」と突然大声で泣き出す重夫。その傍らで漫画を読んでいた俊樹が慌て始める。英津子はまだ戻っていない。

 「どうしよう、どうしよう、お腹かな、おしめかな…」十一歳の子どもに、赤子の泣く声は魔法の呪文のように意味不明だったが、英津子から聞かされ、教えて貰った事を実行してみる。壊れはしないかと、恐る恐る重夫を抱き上げる。赤子の重さがずっしりと身体中に伝わって来る。自分の腕の中で真っ赤な顔をして鬼のように泣く赤子を見詰める少年の眼は、父親のように優しく輝いていた。

(続く…)。