雨上がりの少し湿った朝の空気が頬を軽く撫でて行く。信夫は大きく息を吸い込んだ。身体中が娑婆の空気で満たされて行くのが分かる。酒と煙草に晒されていない身体が健康そのもののように思えたが、それを拒むかのように手の震えは止まっていなかった。
刑務所の直ぐ近くには、緑の樹木が鬱蒼と生い茂る大きな公園があり、余暇を楽しむ人たちの憩いの場所でもあったが、平日のためか人影も殆どなかった。湿り気を含んだ梅雨空の風で樹木たちがざわついている。
まるで数年前のあの日を思い出せと言わんばかりに――。
「兄貴、申し訳ない、本当にすまなかった…」
「世話ばかりかけやがってまったく、迎えに来るのはこれが最後だと思えよ」
出所の出迎えに来た亨が、刑務官の眼も気にせず半ば怒鳴るように言った。
「俊樹も一緒だ、外で待ってるぞ」
「俊坊も連れて来てくれたのか…」
「ああ、連れて来たくはなかったんだが、良一爺さんが連れて行ってやれと煩くてな…」
信夫が服役中、息子の面倒を見てくれていたのは亨ではなく、親戚である神戸良一の一家だった。藤枝警察署に拘留されている時、息子の面倒を誰が見るのかでかなり揉めていた時があった。
面会時、良一と福治が俊樹の世話係りを巡って口論となったが、性格の穏やかな良一爺さんが面倒を見る事で決着がついた。
「いいか、信よ、俊樹の事は責任持ってわしが面倒見るから、刑期が終えたら二度と馬鹿な真似はするんじゃないぞ、分かったな…」
その言葉を耳にするなり信夫は良一と福治の前で声を荒げて号泣した。
あの時に流した涙に嘘はなかったが、酒好きとお人好しの性格が災いして、何度も刑務所の門をくぐっている。今度こそはといつも自分に言い聞かせて来たが、酒の誘惑に勝てず、妻の雪子でさえもが自分から去って行った。その雪子も数年前に亡くなった。
雪子が残して行った息子が今は唯一自分の生き甲斐である筈なのに、俺は父親らしい事を何一つして来なかった。まるで禅問答のように信夫は自分に問いかけるのだった。
亨と並んで刑務所の外に出る。外は快晴、ギラギラと焼け付く太陽の光で眼を開けていられないほどだった。
「俊坊は何処に?」
「ほら、あそこで待ってるよ」
刑務所の門から約100メートルほど離れた公園の中に一人ポツンと佇む少年の姿があった。息子の姿を確認した信夫の眼が潤むと同時に笑顔が溢れた。
「声を掛けてやれよ…」
息子の姿を眼にして口を開かぬ信夫に対し、すかさず亨が言った。
一年振りに見る息子の姿であったが、服役中、息子がどれほど淋しい思いをしていたかと思うと、どう声を掛けたらよいものか迷っていた。
「おーい、俊坊、父ちゃんだぞー…」
ゆっくりと歩きつつ手を振って声を掛けたが、少年は微動だにもせず公園の緑の中に埋もれてしまいそうだった。おそらく距離が離れ過ぎていて父親の声が届いていなかったのかも知れないが、父親に向かって駆け寄って来る素振りも見せなかった。
一年振りに聞く父の声とそしてその姿が少年にとって嬉しい筈がない。嬉しくて大声で泣きたいほどであっただろう。駆け寄って抱きつきたい、父にその腕でしっかりと受け止めてもらいたい…。僅か9歳の幼い少年が、それでもそうしなかったのは、父親譲りのプライドのせいだったのだろう。
「俊坊、いいか、男はな人前で涙を見せるものじゃない、泣きたい時は誰もいない所で泣け…」
酒が入れば雪子の話しをしながらぼろぼろと涙を流し、顔をくしゃくしゃにする父の矛盾した言葉であっても、息子にとって父の存在は絶対的であった。
あの日のように公園に息子の姿はない。辺りを見回したが、勇次の姿も見当たらなかった。バッグからハガキを一枚取り出し、内容を再度確認するように眼を通した。
――拝啓 神戸信夫様 この度の服役、本当にご苦労さまです。本来であれば舎弟分の私がおつとめしなければならない所でしたが、兄貴の温情に甘え罪を被せてしまう形となってしまった事、心よりお詫び申し上げます。(中略)。出所時には必ずお迎えに上がりますので、出所日が決まり次第連絡を下さい――。
勇次に手紙を出したのは、出所が決まる一ヶ月ほど前の事だった。杯を交わした舎弟分であっても世話になる事に些か抵抗を感じていた事もあり、「出迎え不要」と返事を出したが、義理堅い勇次の事だから、断ってもあいつなら出所日を聞き出してやって来るかも知れないと思っていた。
然し、迎えに来ないとなると却って勇次に何かあったのではと不安になったが、今ここであれこれ考えても仕方のない事と思い直し、バス停へと歩を進めた。
府中刑務所から徒歩5分程度の所に「晴海町」のバス停がある。国分寺駅までバスで行き、そこから国鉄・中央線に乗り、東京駅に出て東海道本線・静岡行きに乗り換える。各駅止まりだから静岡に着くのはおそらく午後3時頃だろうと思っていた。
「父ちゃん、ほら見て、東京タワーだよ」
雨に煙る薄暗い空にそびえ立つ東京タワーを見て、息子が大喜びした時の事が昨日の出来事のように脳裏を過ぎった。
「今度、東京に来たら一緒に登ろうな…」
「えっ!本当?今度いつ来るの?絶対だよ、約束だからね」
そんな約束を息子は覚えていただろうか…。息子との約束など一度も守った事のない自分を信夫は今更のように恥じた。
(更に続く…)。
