夜通し降り続いた雨も漸く上がり、厚い灰色の雲に覆われた梅雨空の合間を縫って初夏の陽射しが緑の木々に降り注ぎ、活き活きと葉音を奏でている。今年の夏も例年以上に暑くなりそうだと、早朝のラジオが伝えていた。
昨夜は雨音のせいもあってか余り良く眠れなかったが、眠れぬ理由が他にあった事を信夫は知っていた。午前6時30分起床、7時の点呼までに布団をたたみ、身の回りの簡単な掃除を済ませる。点呼の最中は正座か安座の姿勢で全員が終わるのを待つ。
点呼が終わると同時に係りが忙しなく配食の準備に入る。此処での食事もいよいよ今日が最後だと思うと、その喜びもひとしおであった。
「信さん、いよいよ今日ですね…」
隣の席で食事をしていた同僚が蚊の鳴くような小声で話し掛けて来た。
「あっ…まあなんとか…」
刑務所内での受刑者同士の会話は余暇時間以外は固く禁止されていたので、信夫も小声で喉を詰まらせながら答えた。
「息子さんか誰か迎えに来るんですか?」
「いや、それはちょっと分からないですよ」
父親が服役中である事を息子が知っている筈もないから、迎えに来るとすれば舎弟の勇次だろうと思っていた。
朝食が終われば後は出所を待つのみであったが、これまで仲良くしてくれた仲間たちにお礼の言葉の一つも掛けたい気持ちを抑えつつ刑務官の姿を待っていた。
信夫の服役は今回が初めてではなく、過去に何度も世話になっていたので、入所から出所に至るまで刑務所内での決め事は身体が自然に覚えてしまっていた。
時計の針が8時丁度を指すと、迎えの刑務官がやって来た。6人部屋の舎房から処遇管理棟へと移動し、案内された部屋に入ると着替えが用意されていた。約2年間慣れ親しんだグレーの舎房着から入所した時と同じ私服に着替える。
服役中の受刑者に対しての刑務官は非常に厳しい態度で臨むが、一旦出所が決まった者に対しては親しみの情を込めた優しい笑顔さえ見せて接してくれる。
「信夫さん、あんたも懲りない人だけれど、今度こそこれを最後にね…」
満面の笑顔を覗かせながら刑務官が優しく言葉を掛けた。
「はい、ありがとうございます、もう二度と戻るような事は致しません」
照れ笑いを浮かべながらそう呟くと、軽く頭を下げ刑務官に向かって一礼した。
服役中に購入しておいた黒いボストンバッグに私物を詰め込み、出所の準備を整えた。刑務官の案内で出所式の行われる部屋に移動する。
式場には既に副所長と幹部職員数人が整列して待っていた。出所式は何度経験してもやはり最も緊張する場面だった。信夫の額から大粒の汗が見る見る内に流れ出していた。
少し震えながら宣誓文を読み上げる信夫。
「他人を脅しめる行為を一切行わない事をここに誓います…」
「今後再犯を繰り返す事なく、社会人としてしっかり生活の基礎を築くよう最大限努力致します」。
上ずった声が式場に木霊し、宣誓文を持つ両手は震えが止まらず、信夫の身体は緊張の沸騰点に達しているようだった。
形式だけの決まり切った宣誓文を全て読み終えると、信夫の顔に安堵の色が広がった。額から滴り落ちる汗を拭おうともせず、視線は真っ直ぐ副所長の口元に注がれている。
その場の緊張した空気を解きほぐすかのような柔らかい口調の、然し重厚な副所長の式辞に耳を傾ける信夫。そして式辞が終わり、釈放通知書が交付され出所式は終了した。副所長と幹部職員たちが退室した後に、朗読した宣誓文に署名指印を押す。そして次に会計担当が報奨金と領置金の精算をしてくれた。
服役中の労働に対して報奨金が受刑者に支払われるが、その金額は非常に少なく、1日当たり3~40円で、一年間無休で働いたとしても僅か1万4千円程度にしかならなかった。
信夫が会計担当から受け取った金額は領置金と合わせて1万6千円ほどであったが、故郷の藤枝に帰る交通費と食費代としては十分な金額だった。
「2年間、お世話になりました」と告げて深々と頭を下げる。
「戻って来るんじゃないよ…」
刑務官の優しい励ましの声に背中を押されながら出口へと向かう。一人の受刑者をその罪から解放するかのように、重い金属の扉の向こうには2年振りとなる娑婆が広がっている。静岡にいるであろう息子の顔を早く見たいと、心は既に息子の事で一杯に溢れ返っていた。
ギィイイ…。鈍い金属音と共に分厚い鉄の扉が開く。開放を待ちわびたかのように、眩い光が一斉に注がれる。信夫の身体が娑婆の光に包まれた瞬間だった。まっさらな白いタオルをバッグから取り出すと、漸く額の汗を丁寧に拭った。
(後半に続く…)。
