プールサイドの人魚姫 -25ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


2014入院

 2014年の正月を無事に迎える事が出来、今年こそは入院0を目指そうと意気込んでいたその矢先の事だった。それは僅かな歯の痛みから始まったが、それがやがて緊急入院の切っ掛けになるとは思いもしなかった。

 1月20日、昨年末に予約しておいた三井記念病院の歯科外来へ行き、痛みのある奥歯の事を伝え、一週間後に神経の治療をする事になり、痛み止めのロキソニンと抗生剤を三日分処方して貰った。翌日の朝、左顎に違和感があり少し腫れているように思ったが、さほど気にも止めず処方された薬を服用してやり過ごしたが、22日の朝、鏡を見ると左の頬が昨日の倍ほどに大きく腫れ上がり、口を大きく開ける事もままならなかった。

 痛みはそれほどでもなかったが、その腫れ具合からして尋常ではない事が起こっていると察しが付いた。夜になってから流石に心配になり救急外来へ電話を入れると、明日朝一番に歯科外来へ連絡するようにと告げられた。

 この時、既に入院の予感が脳裏を掠めたので心の準備だけはしておいた。翌朝8時30分丁度に電話を入れると、「腫れてしまいましたか…」と、予想していたかのような返答だった。直ぐに来院する事と入院の可能性もあるとの事だったので、入院グッズをバッグに詰め込み支度を済ませた。

 体重も増えて心不全の兆候もあったが、顎の腫れで救急車を呼ぶ訳にもいかず、かと言って電車で行く元気もなかったのでタクシーを呼んだ。

 歯科外来の待合室にいる時、看護師がやって来て顔の腫れ具合を確かめて行った。1時間ほど待った後、診察室に入るといつもの担当医が「かんべさん、ごめんなさいね…」と頭を下げて来た。担当医はわたしが心不全を繰り返し何度も入院している事を知っているし、心臓の事を気遣ってこれまで歯の治療をしてくれていたのだが、今回の腫れを起こした炎症が心不全の切っ掛けにもなっているのだろうと責任を感じている様子に見えた。

 「入院になりますので、内科と連携して治療に当たります…」

 昨年と同様に12階の一般病棟へと緊急入院、心不全も併発している事から、担当医は歯科と内科の二人が付いた。左蜂窩織炎(ほうかしきえん)での入院となる為、循環器ではなく、一般内科のようであるが、治療方針は前回と同様、ヘパリンに加え抗生剤の点滴、そして体重を落とす為に利尿剤のラシックス投与となり、先ずは「左蜂窩織炎」と心不全の治療が優先される事となった。

 炎症を起こしている部分や歯全体の検査をした結果、残存不可能な奥歯が親知らずも含め3本ある事が分かりその3本とも抜歯しなくてはならず、炎症が収まり心不全が軽快した時点で抜歯手術を受ける事となった。

 2月5日、心不全が軽快した為、一旦内科を事務手続き上退院となり、翌日6日に病棟もベッドもそのままで今度は歯科・口腔外科での再入院となる。手術は6日の夕方5時頃を予定していたが、2時間ほど早まり午後3時半頃に手術室からお呼びが掛かった。

 薄いブルーの手術着に着替え、点滴のヘパリンは外して車椅子で看護師一人に付き添われ7階にある中央手術室へと向かった。手術室へ入るのはこの病院で「僧帽弁置換術」を受けて以来26年振りの事となるが、今回は意識を完全に保ったままの入室である。

 7階入口に到着すると、執刀医や麻酔科医、手術室看護師ら数人が笑顔で出迎えてくれた。その横には既に手術を終えた患者が一人、ストレッチャーに乗せられて病棟へと戻る所であった。ドアが開き中へと入って行く。

 物々し医療器材があちこちに見受けられたが、そこから更に部屋が幾つかに別れており、私はその中の第9手術室へと運ばれた。約15畳ほどあるかと思われる空間の丁度真ん中辺りに小さな手術台があり、その上から手術用の照明器具である「無影灯」が満月の様に白く輝いていた。

 その周りを囲うように立ち並ぶ医療器材の数々はどれも見覚えのあるものばかりだったが、人工心肺だけは見当たらなった。車椅子からその小さく狭い手術台へと移り、仰向けになった。顔が動かぬ様に頭の部分が枕で固定され目隠しをされた後、口の部分だけが大きく開いた布らしき物が顔に被せられた。

 バイタルチェックの準備も整い、執刀医や第一助手が優しく声を掛けて来る。

 「麻酔を数本打ちますからね~、ちょっと痛いけど御免なさいね…」

 「直ぐ傍にスタッフがいますから何かあれば合図して下さいね」

 「メリメリ、ミシミシ…」「はーい、一歩抜けました」それは想像していたより遥かに容易く抜けてくれたようで安心したのと、ワーファリンの影響でかなり出血するのではと不安が募るばかりであったが、そんな不安も取り越し苦労に終わってくれた。

 続けざまに、2本3本とトラブルもなく予想時間の2時間を大幅に短縮して抜歯手術は終わった。

 「麻酔が切れるとかなり痛みますよね…」私はその後の事が気になっていたので訊いてみた。

 第一助手が抜いた歯を3本小さなケースに入れて渡しながら言った。

 「48時間が痛みのピークです、個人差はありますが痛み止めもありますから…」

 私は抜けた自分の歯を見詰めながら、小さく頷くと車椅子に移り「これからが大変かな?」と独り言を呟いた。部屋の外に出ると病棟の看護師が笑顔で待っていた。

 「随分早く終わりましたね~、出血も殆どなくて良かったですね~」

 「想像していたより簡単に終わってくれたみたいで安心したよー」と私も笑顔で言葉を返した。ベッドに戻り暫くすると抜いた部分にジワジワと鈍痛が走り出した。様子を伺いに来た看護師にすかさず痛み止めをお願いした。処方された痛み止めは私が予想していたロキソニン等と違って「カロナール」と言う薬だった。それを2錠服用し痛みの去るのを待ったが、時間が経っても一向に痛みは治まらない。

 薬が効かない事を告げると次は「ペンタジン」の点滴が始まった。抗生剤の「ヒクシリン」も始まっていたので、点滴瓶を2本ぶら下げる事となった。然し、そのペンタジンも効果がなく痛みは治まってくれない。

 その内に今まで出血していなかった傷口から夥しい出血が始まる。殆どの患者が寝静まっている病棟で、私だけが痛みと出血に悩まされ続けていた。止血はガーゼを傷口に押し当てるしか方法がない。然し、痛みでガーゼをまともに噛む事すら出来ず、うがいとガーゼ交換でまる二日眠る事が出来なかった。

 ガーゼが役に立たない事から、抜いた部分を型どって透明の止血プレートを作り、それを被せて漸く出血は収まって行ったが、出血の原因は痛みにより血圧が急激に上昇した為であった。痛み止めの定番と言えば、ロキソニンやボルタレン座薬であるが、腎機能が低下している私にはそれを使えない為、それに代わる痛み止めを何種類か試したが結局どれも役立たず、最後の手段として「モルヒネ」の投与となった。

 まさか此処で「モルヒネ」のお世話になるとは想像だにしていなかったが、さすが「麻薬」だけの事はあり、その効き目は抜群で、それまでの痛みが嘘の様に跡形もなく消えて行った。然し、内科の担当医はそのモルヒネを使うにあたり、かなり慎重で中々首を縦に振ってはくれなかった。

 痛みが去ってしまうと抜歯後の回復も早く、体調を見て抜糸した後に退院となる筈だったが、結局抜糸は次回外来時に行う事となり、東京に二度目の大雪が降り始めた14日の午前中に退院となった。心不全から開放され、息切れもなく足取り軽くいつもの道を闊歩し、途中好きな「神田川」で記念撮影をして普通に歩く事の出来る有り難さを満喫しながらそぼ降る雪の中を家路へと急いだ。

 結局の所、今年も例年通りの入院で始まってしまったが、それでも生きている喜びを噛み締めて、どんな状況下にあっても希望と笑顔は絶やさず前向きで歩んで行きたいと思った。多くの善意ある人たちに背中を押されている自分に気付けば、やはり自分も誰かの背中を押したりさすったりして生きているんだとつくづく思う。

 今回のブログ休止で訪問者の皆さまには大変ご心配をお掛けした事お詫びするとともに、急遽お見舞いに駆け付けて下さった、女流詩人のKさん、後輩の村木剛、そして「茜の海」著者の高林夕子さん、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。




1月23日、三井記念病院に緊急入院しました。
詳細は退院後にお知らせ致しますが、現在、抗生剤とへパリンを点滴中です。

管理人:神戸俊樹

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体調


体調不良につき、ブログを暫くお休み致します。読者の皆さまにはご心配とご迷惑をお掛け致しますが、回復までお時間を頂けると有難いです。
どうぞ宜しくお願い致します。

管理人:神戸俊樹


ひとめぼれ

 静岡市在住の息子、勇樹から届いた年賀状に米を送ると書いてあったので、おそらく誕生日プレゼントの事だろうと思っていた。米がプレゼントと言うのも何だか色気のない話しであるが、人間、食わなければ生きて行けないと言う意味では最上の贈り物かも知れない。

 7日の誕生日に届くものだとばかり思っていると、5日の夜に宅配業者から電話が掛かって来た。「もしもし、かんべさんですか?これからお荷物お届けに伺いたいのですがよろしいでしょうか?」。数分後、ドアのチャイムが鳴った。

 ドアを開けるとヤマト運輸の若いお兄さんが「ハァハァ」と息を切らしながら大きな袋のような物を抱えて立っていた。

 「はい、お届け物です、ここに置いちゃっていいですか?」

 「あ、はい、どうもご苦労様…」

 年賀状には何キロ送るとまでは書いてなかったので、せいぜい5キロか10キロだと思っていた。それ以上の米は貰った事がなく、昨年の夏頃だったか養護学校時代の仲良しだった女性から5キロ届いた事があった。

 大きな袋に一体どれだけの米が入っているのか見当も付かず、兎に角重たいので玄関に置いたまま動かす事もままならなかった。早速、息子にメールを入れるとすぐさま電話が掛かって来た。

 「おーい、米ありがとう、一体これ何キロなんだ?」

 「父さん、それ30キロだよ!」

 「えーっ、30キロ!!、宅配の兄さんがゼェゼェ息きらしてたぞー」

 米の話しで盛り上がり、二人で大笑いした。息子の大きな笑い声を聞くのも久しぶりである。昨年は脳梗塞や心不全で心配ばかり掛けてしまい、息子の顔から笑顔がすっかり消えてしまっていた。

 「5キロ10キロは当たり前だから、30キロにしてみた」

 青森県十和田市から送られて来た「ひとめぼれ」30キロ…、予想を見事に打ち砕くその30キロ、これが本当の「重い遣り」ではないだろうか(*゚▽゚*)

 皆さま、本年もどうぞ宜しくお願い致します。


喪中

 先ずは新年早々、喪中の記事でスタートする事になってしまい申し訳なく思います。昨年12月15日、故郷の藤枝にいる伯母の「ふさ枝」が他界致しました。訃報が従姉から届いたのは年の瀬も押し迫る暮れ近くの事でした。

 従姉の話しでは、風邪をこじらせ暫く床に臥せっていたようですが、苦しむ事なく眠るように逝ったとの事。働き者で病気一つした事のない丈夫だった伯母の思い出は尽きませんが、わたしの事を自分の子どもたちと区別する事なく我が子のように可愛がってくれた事。

 小学生になって初めての母親参観に来てくれたのも伯母でした。綺麗な着物を着飾って後ろの方からわたしに微笑み掛けてくれた姿が今でも鮮明に心に焼きついております。わたしの大好物だったカレーライスの時は必ず家に招いてくれ、お腹がはち切れるほど食べさせてくれました。

 家に米がなくひもじい思いをしている時などは、それを察して袋に3合の米を入れ持たせてくれました。父の葬式の時もわたしの傍らに寄り添い、子どもの時と同じように優しい言葉を掛け頭を撫でてくれたのです。わたしはもう18歳だと言うのに伯母からみればわたしはやはり我が子同然だったのかも知れません。

 伯母の存在のお陰で母の居ない寂しさを紛らわす事が出来たのだと思います。大好きだった人たちが次々とこの世を去って行く、それはとても悲しい事ではありますが、大切な思い出となって心の中に生き続けてくれる事でしょう。

 皆さん、大好きな人はいますか?いますよね…。いつまでも大切にしてあげて下さいね。慌ただし中で自分が喪中であった事をすっかり忘れてしまい連絡が遅れてしまった事をこの場を借りてお詫び致します。


闘病2013

 新年を故郷や海外で迎える人たちの帰省ラッシュがピークを迎えている。それぞれの想いを抱えた2013年がもう直ぐ終を告げる。そこに待ち受ける新しい産声を聞く為に、その声に新たな希望を託して人はまた未来に向けて歩き始める。

 今年もいよいよ数日を残すのみとなりました。街角ではカウントダウンの鐘が鳴り響いている事でしょう。年賀状の投函も済ませ、後は除夜の鐘を聞くのみと言った所ではないでしょうか。私の場合、詩は兎も角として小説などは自分を追い込んでギリギリになるまで書かない性格なのですが、それが持病にまで影響し、心不全を発症しているのにギリギリまで我慢してしまうんですね。

 もう限界となった時点で漸く救急車を呼ぶ…、搬送先の病院で看護師に「もっと早く来なければ駄目ですよ」といつも怒られてばかり、まるで子どものようです。

 2013年を振り返ると、やはり闘病の一年でした。病気が治る訳ではないので闘病自体死ぬまで続くのですが、今年は特別でした。正月早々心原性脳梗塞で倒れた時の事がトラウマになっております。深夜1時、部屋の灯りを消す為にベッドから起き上がろうとした所、身体が全く動かない…、初めての経験で、それは言葉に出来ないほどの恐怖でした。

 自分の身体に何が起こっているのかその時はまだ理解しておらず、動かない手足を何とかしようともがいている内にベッドの下に転落。その時かなり強く打った為、今でもその打撲痕が消えずに残っています。

 右半身の感覚が全くないため痛みは感じませんでしたが、骨折しなかったのが不思議な位で、右腕がどんな状態になっていたのか想像すると恐ろしくなります。ベッドの下で一時間ほどもがいていたでしょうか…、兎に角助けを呼ばなければと思い、自由に動く左腕のみを頼りにベッドへと戻りました。そして左手で携帯を握り締めたまではよかったものの、右腕を必死に携帯の所に持って行こうとするのですが、全く力が入らず成す術もないまま携帯を見詰めておりました。

 「万事休す」人生の終わり、つまり「死」を悟った瞬間でした。声も出ず助けも呼べず、孤独と絶望に打ちひしがれた正月の深夜…。流れ出るのは鼻水と涙とだらしなく開いた口元からの唾液のみ。然し、そうやって地獄の淵に佇む私に向かって、またしても幸運の女神が微笑んだのです。

 入院から10日後には脳梗塞の後遺症も全くなく、奇跡の復活を遂げた訳です。この様な「九死に一生」体験をすると、その年は運が悪い大凶と思ったりしますが、結果を見ると「大吉」ではないかと考え直し前向きの姿勢に修正出来たりするものです。

 脳梗塞の後、立て続けに起こった「心不全」によりまたしても救急搬送され、今年前半は病院生活に費やされてしまった訳ですが、病気を活力の源と置き換える事が出来れば、闘病生活の中に希望の光を見出す事が出来るのではないでしょうか。

 絶望からスタートした2013年も終わり、何はともあれ生きている事の喜びを噛み締めて、来年は希望からのスタートにしたいものと思っております。この一年、私のブログに訪問して頂いた皆さま方全ての人に幸多き年となるよう心からお祈りし感謝致します。

 今年一年ありがとうございました。そしてまた来年もどうぞよろしくお願い致します。

 

管理人:神戸俊樹

プールサイドの人魚姫-サンタ
 

クリスマスは理屈抜きで楽しむもの。

不景気なんて関係なく 苦しい時だからこそ 

笑顔を絶やさず せめて心に平和のツリーを灯せ

今宵は 誰もが サンタクロース

さあ みんな 踊るサンタに合わせて

ステップ踏もう

聖なる夜に 感謝を込めて
メリークリスマス

 

 

初掲載 2008.12.24 19:48

 

久能海岸

 ウェイトレスが水とおしぼりを持って注文を聞きに来た。

 「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」

 「うーん、アメリカン」

 「父ちゃん、何にするの?」

 「そうだな、同じのでいいや」

 「じゃあ、アメリカン二つね」

 テーブルを挟んで父と向かい合わせで座るのは初めてだった。熱いおしぼりで顔を拭きながら父が言った。

 「仕事はどうなんだ、順調か?」

 「残業が多くて、結構きついよ、それより何で電話番号知ってるの?」

 「ああ、兄貴に聞いたからな」

 やっぱりそうか…と私は思った。清水の訓練所にいた時もいきなり電話を掛けて来たので驚いたが、あの日の事も克明に覚えていた。

 波打際に並んだテトラポットに、駿河湾の荒波が音を立てて砕け散っている。国道150号線を走る車の列が、吹き荒ぶ潮風に煽られていた。時計が午後3時を少し回った頃だった。午後の授業を休んだ私は、自分のベッドで横になり週刊誌を読んでいた。

 「額田(ぬかだ)さん、電話ですよ」

 職員が部屋まで呼びにやって来た。額田は母方の姓で、私は17歳のある時点まで戸籍上は「額田俊樹」であった。小学校時代は神戸姓で通したが、中学生になり天竜養護学校に転校した際、額田と神戸の両方を使い分けると言った複雑な環境に置かれていた。学校では神戸と呼ばれ、病棟に戻って来ると「額田」になったりした。但し、「額田くん」と呼ばれた事は一度もなかったが、自分のベッドや配膳室の名札が、ある日突然「額田」に変わっていたりして、それに気付いた友人たちから奇異な視線を浴びせられ、とても嫌な思いをした事がある。

 私自身も「額田」と名乗る事には抵抗があった。生まれた時から「神戸俊樹」と呼ばれて育って来た訳で、紛れもなく自分は「神戸」であると思っていた。これもまた父の優柔不断が招いた一つの悲劇だったかも知れない。

 呼びに来た職員は電話の相手が誰なのか言わなかったので、私は「さて、誰からだろう?」と疑問だらけになったが、其処に父の顔は浮かんで来なかった。施設から徒歩6,7分も歩けば150号線(久能街道)に出る。その向こうには駿河湾の波が打ち寄せる久能海岸が広がっており、東の方向(三保の松原)に眼をやれば見事な富士山の姿を見渡す事が出来た。

 「もしもし…、電話変わりました」

 「おう、とし坊か、父ちゃんだけどさ、今な近くのバス停に居るんだ、悪いけど千円貸してくれないか…」

 「はぁ?…」返す言葉がなかった。父が何故、この施設の事を知っているのか?何故、いま近くに来ているのか?疑問が疑問を呼び、私は混乱してしまった。

 「分かった、じゃあ、ちょっと待ってて直ぐ行くから」そう伝えて電話を切った。

 「済みません、10分ほど出掛けて来ます」

 職員にそう伝えると、自分の部屋に戻り、財布から千円札一枚を取り出すと、ズボンのポケットに突っ込み、急いで施設を後にした。なだらかな舗装されていない坂道を登ると、久能街道に出た。

 潮風が顔に当たり、長い髪が後ろに靡いて行く。左方向に眼をやるとバス停があった。茶色く錆び付いたトタン屋根が強い海風に煽られて、「バタン、バタン」と音を立てている。その直ぐ横にある電話ボックスの中に父の姿があった。

 私は大きく手を振って父に呼び掛けた。「おーい、父ちゃーん」。私の姿を確認し、電話ボックスから出て来た父は、疲れた顔で肩をすぼめ少し震えているように見えた。初夏とはいえ、厚い灰色の雲に覆われたその下では海からの風がビュンビュンと音を立てながら吹いている。上着すらなく、長袖のYシャツだけではまだ寒すぎる季節だった。

 「父ちゃん、どうしたの一体?」

 「いやなぁ、実はさ、昨日仲間たちと富士市まで飲みに出掛けたんだ」

 「うん、それで…」

 「夜中まで飲んでてな、朝気付いたら誰も居なくて父ちゃん一人だったんだ」

 「何それ?どういう事なの?」

 「うーん、俺にもよく分からんが、仕方ないので富士市からずっと歩いて来たんだ」

 「えっ!…ここまで歩いて来たの?」

 私は父の話しに驚き、そして呆れ返っていた。富士から清水の距離と言えば約40キロはある。それを父は一人で歩いて来たと言う。父が疲れきった表情をしていたのはその為だった。

 「はい、千円ね、ちゃんと帰んなよ」

 父を諭すように言うと、私はポケットから千円札を取り出し、父に渡した。

 「悪いな、とし坊…」か細い声で父が礼を言った。清水駅行きのバスが来ると、父は安心仕切った様子でバスに乗り込んだ。その父が乗ったバスに手を振りながら見送ったが、このまま大人しく藤枝に帰る事が出来るのだろうかと不安が過ぎった。

 後で聞いた話しであるが、案の定、その不安は的中し、静岡に着いた父は私の上げた千円を飲み代に使ってしまい、静岡県警のパトカーで藤枝に帰ったと言う。つまり父はパトカーをタクシー代わりに使ったのである。如何にも父らしい話しだとつくづくそう思った。

(続く…)。


国定忠治

 焼津健康ランドは、大崩海岸の上の方にあり、見晴らしの良い観光名所となっていた。眼下には駿河湾を望み、浜当目の海水浴場も近かった。温泉と豊富な海の幸を堪能しながら、大衆演劇を見られる所として有名であった。藤枝から焼津市内まで車なら十五分もあれば充分である。黒塗りのタクシーが三台、列を作って焼津へと向かった。

 現地に到着すると、入口の所に「山岸組御一行様」と書かれた黒い板が掛けられていた。山岸組…とても土建業とは思えず、明らかに暴力団関係者だと施設側の人々は思っていたかも知れない。現代のように暴力団に対する厳しい規制がなかった時代だったので、極道と呼ばれている者たちも大きな顔をして世間を渡り歩いていたが、堅気には手を出さない事と、義理と人情が脈々と熱く生き残っていたのも事実であった。

 今回の行楽は山岸の提案によるもので、世間的には慰安会と同類であった。幹事も勿論山岸自身。人を纏める事に長けている男なので、山岸自ら幹事を買って出た。

 「ほーい、皆さん、ちょっと集まって…」

 山岸の大きな声が広いロビーに響き渡り、よその客までが山岸の方に視線を投げた。各々が勝手気ままにあちこちへと散らばっている。まるで小学生の遠足風景だ。それを纏めるのが山岸先生と言ったところだろう。

 「宴会までにはまだ少し時間があるので、風呂に入りたい人はお先にどうぞー」

 「宴会は何処でやるんだ?」

 慎司が山岸に訊いた。

 「はい、大広間に席を設けてあります、そこで演劇も見られるらしいですよ」

 「ほお、そうか、それは楽しみだな」

 「兄さん、ここの温泉は肩凝りに効くそうなんで、ひとっぷろ浴びて来て下さいよ」

 「じゃあそうするか、おい、英津子!風呂行くぞ」

 「兄さん、混浴じゃないですから…」

 そう言って山岸は大きな声で笑った。

 「兄貴、お背中流しましょうか…」

 「おう、頼む」

 慎司の背中には鯉の入れ墨が彫られており、その彫り物の少し下に約十五㎝ほどの古傷があった。おそらく、彼が「人斬り慎司」と呼ばれるようになった理由と、その傷は何か関係があったのだろう。

 客たちの宴会場となっている大広間は、凡そ六十畳ほどの広さがあり、正面が演劇の舞台となっていた。 駿河湾で採れた新鮮な食材が大きな皿の上に盛り付けされ、所狭しとテーブルの上に次々と並んで行く。ビール、日本酒、焼酎など、酒類も皿の合間を埋め尽くして行った。

 山岸が得意げな表情を見せて音頭を取る。

 「さあさあ皆さん、全員揃ったところで乾杯と行きましょう」

 この慰安会を盛り上げ仕切っている事への満足感で、山岸の顔はいつも以上に和やかだった。

 「信さん、ひと言お願いしますよ」

 山岸が信夫を立てるように話しを振った。

 「俺?俺はいいよ…」

 酒の一滴も入っていない時の信夫は、借りて来た猫のように大人しい。一杯引っ掛けて勢いをつけないと何も出来ない弱さも持っていた。

 「それでは山岸組の今後の繁栄を祝って乾杯!」

 コップとコップがぶつかり合って、宴会場に時を告げているようだった。酒類ばかりがずらりと並ぶその中で、私の頼んだオレンジジュースがみにくいアヒルの子に見えた。学校をさぼってこんな所にいる自分に罪の意識を感じていたのは確かだった。

 その日は平日と言う事もあり、客足も少なく宴会場は山岸組の貸切状態のようであった。酒が進むにつれて、男たちの声も大きくなり始めていく。仕事の話しから賭け事、そして女の話題へと尽きる事なく会話が弾む。

 そんな大人たちの会話に耳を傾ける事もなく、私はただひたすら食べる事だけを考え夢中になっていた。舞台上では既に本日の演目が始まっている。三度笠を被り、股旅姿の男が台詞を語っているところだった。

 「赤城の山も今夜限り、生れ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨てて、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる道途(かどで)だ…。」

 国定忠治…江戸末期に活躍した渡世人で、強気を挫き弱気を助ける侠客として人気があり、その活躍は講談や舞台などで現在も語り継がれている。

 舞台は最も注目する場面に差し掛かっていながら、誰一人その役者に視線を投げている者はいなかった。そんな中、一人だけふらりとその宴席から立ち上がる男がいた。右手に日本酒、もう一方の手に空のコップを握りながら舞台の方へと歩いて行く。

 相当酒が入っているらしく、千鳥足で前後左右もままならない。一升瓶の中で酒が波を立てて揺れている。私はじっとその後ろ姿を見詰めていたが、舞台に向かって「この大根役者が!」と怒鳴り散らす声が聞こえて来る気がして、内心は不安でならなかった。

 舞台に向かう信夫の姿に気付いている者は私以外に誰もおらず、他の男たちは会話に夢中のようだった。もし何か事が起こったら、真っ先に飛び出す覚悟はしていた。舞台の真下で何やら声を掛けているようだったが聞き取れなかった。

 空のコップに日本酒を並々と注ぎ、それを役者に向かって差し出す信夫。

 「まあ、一杯やんなよ、いい顔してるね」

 「お客さん、ありがとうございます。芝居の最中なんで、お気持ちは有難いですが…」

 「まあまあ、そう言わずに、一杯だけでも」

 信夫のあまりのしつこさに役者の方が根負けし、コップを受け取ると「グイっ」と一気に飲み干した。

 「いよっ!いい飲みっぷり、千両役者!」

 そう言って機嫌を良くした信夫が笑みを浮かべつつ宴席へと戻って来た。私の心配は取り越し苦労に終わったが、ホっと胸を撫で下ろしていた。窓の方に眼をやると、燃えるような夕陽が西に傾きかけ、駿河湾を真っ赤に染め上げていた。

(続く…)。


ムジカ02

 師走に入り、寒さも一段と増しつつある今日この頃。12月24日のクリスマス・イブに発売予定の『大衆文藝ムジカ創刊号』であるが、今年7月に刊行された『創刊準備号』が、今もなお、紀伊國屋書店新宿本店にて平積みされている。

 これは取りも直さず書籍が売れている事の証しだろう。平積みされた本がある程度時間が経ち、客足も途絶えがちとなってくれば、平積みから棚差しへと書籍の陳列方法は変わって行くのが通例である。

 名もなき港から革新の帆を掲げ、文藝の海へと船出した『ムジカ』は、無限の可能性を秘めた創作者たちの手によって、大航海を始めたばかりである。ムジカが商業誌である以上、そこに求められるものはクオリティの高さである。

 創刊号においては、準備号よりも寄せられた作品に対し、審査基準が更に厳しくなっているのは致し方ない事。読者あっての書籍であるし、読者が求める書籍の姿を追求するとなれば、必然的に答えは見えて来る。

 他の文藝雑誌とは明らかに一線を画す雑誌として、多くの作品をムジカから輩出する事により、沈滞気味の日本文学界に新しい風を送り込む。それが私たちやあなたたちに課せられた使命なのではないだろうか。

 さて、創刊号であるが、目玉はなんと言っても、テレビドラマ・映画化されて話題となった漫画『鈴木先生』の著者である武富健治氏とムジカ代表の葛原りょう氏による誌上対談が実現した事である。

 このご両人による対談、一体どんな話しが飛び出し、聞かせてくれるのか楽しみである。

 武富氏は現在、『惨殺半島赤目村』執筆中!(「月刊コミック アース・スター」で好評連載中)。

※大衆文藝ムジカは全国の紀伊國屋書店並びに、武甲書店で購入可能。まだお買い求めでない方は是非この機会に「芸術の書」としてあなたの本棚に一冊追加してみて下さい。

 ムジカでは、プロ・アマ問わず新たな書き手を随時募集しております。既出作品でも構いません。是非あなたの鮮烈な言霊をムジカにぶつけてみませんか。ジャンル不問。書評・俳論・歌論などお待ちしております。

 原稿はこちら→「大衆文藝ムジカ事務局 」へお送り下さい。