プールサイドの人魚姫 -25ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

慕情


いっそこのまま 何処までも

流れ流され 夢の果て

交えぬ心が 泣き出しても

咲かせてみたい 浮世花

 

行く手遮る カモメの群れに

流れ呼び寄せ 祈ります

僅かばかりの 残り香に

あの方恋しや 神田川

 

手首辿って 傷付けて

恋の数だけ 流れ行く

心乱れて 夜の窓

一人漂う 神田川

 

叶わぬ想いと 知りつつも

流れに任せた 恋化粧

おぼろ月夜の 神田川

揺らり揺られて あの方へ


手錠

 
 注文したアメリカンが届き、テーブルに二つ並べられた。それに早速口を付ける父。カップを持つ手が小刻みに震えている。駅前で呑んだ日本酒の効果は既に切れているようだった。父の横に置いてある黒いバッグに眼をやると、とっての所に黄色い小さな札がある事に気付いた。その札には「
Air Line」と白く印刷されている文字があった。私は疑問に思い訊いてみた。

 「飛行機で帰って来たの?」

 「網走からの帰りだ」

 その言葉に私は耳を疑った。府中刑務所からの帰りだと知っていたので、父が何故そんな嘘を言うのか不思議であったが、妙にプライドの高い父は服役する刑務所にまで拘っていたのかも知れない。

 「高倉建じゃあるまいし、任侠映画の見過ぎなんだよ…」と言ってやりたかったが、口には出さず黙っていた。

 「ラーメン屋はどうなったの?うまく行ってたんじゃないの?」

 「いってたよ、最初はな、途中で板前が止めちまって…」

 コーヒーを啜りながら息子の質問に答える父の顔が少し厳しくなった。

 「新聞に載ってたの見たよ、人相が悪すぎたけど…」

 「なんだ、そうか…じゃあ知ってたんだな…」

 「うん、見た時は驚いたけどね…、どうせまた父ちゃんのせいじゃないんでしょ?」

 「まあな…、仕方なかったんだ…」

 父のお人好しは昔から有名で、それを知っている男たちが、父を何度も利用して来た過去があった。最初の服役は私が3歳の頃で、静岡刑務所だったと記憶しているが、その時の窃盗罪を父が仲間を庇うために罪を被ったか、それとも冤罪だったのか定かではなかったにしろ、無実の罪で服役を繰り返す父の本当の姿を知っている者は限られていた。

 信夫の前で勇次が涙を流しながら土下座していた。人の良い父を言葉巧みに利用する連中は多かったが、義理堅い勇次は父を裏切るような行為をする男ではなかった。

 「勇次…、いいから顔を上げろ、お前には腹の大きな嫁さんがいる」

 勇次を庇うように信夫が声を掛ける。俯いたまま顔を上げない勇次にしてみれば、父の顔をまともに見られる状態ではなかったのだろう。信夫の人情の深さに涙さえ浮かべて頭を下げる勇次の姿を一体誰が想像出来ただろうか。やり過ぎてしまった事への反省の念もあったのだろう。

 「仕事を手伝えないなら、金を出せ!」と金品を要求したのはまずかった。本心ではなかったにしろ、勢いに任せて口走ってしまった事への代償は大きかった。おそらくその場に信夫が居たとすれば、事は丸く収まっていたかも知れない。信夫の留守中に起こってしまった事だったので、気の短い勇次が勝手に暴走したのである。

 寺下勇次の実家は長楽寺の門前の直ぐ近くにあり、美容院を営んでいた。勇次の嫁である「美奈子」がその店を手伝っており、腕の良い美容師として人気があった。

 美奈子が懇願するように信夫に言った。

 「信夫さん、私、心配で心配で、夜もろくに眠れないんです。あの人、いつかとんでもない事をやらかすんじゃないかって…」

 勇次とは嫁の美奈子よりも付き合いが長かったので、時折、美奈子の相談相手にもなっていた。

 「美奈ちゃん、勇次の性格はあんたよりずっと分かっているつもりだ。美奈ちゃんを不幸にするような真似はさせないから安心しな…」

 肝心な自分の息子の事はほったらかしにして、よその家の事になると親身になって世話をする父…。絶えず不安を抱きながら眠る息子の事は二の次だったのである。

 「勇次、お前を前科者にする訳にはいかん、産まれて来る子の事をよく考えろ…」

 「兄貴、それとこれとは話しが別ですよ…」

 「今度の件は俺にも責任の一端はある。山崎を見つけたのは俺だしな」

 「まさかあいつがポリ公に訴えて出るとは思わなかったんで…」

 「まあいいさ、俺はもう務所暮らしは慣れっこだ。この先また前科が増えた所で気にもならん。勲章がまた一つ増えるってことさ…」

 信夫は笑いながら勇次に言った。信夫の両腕に食い込む銀色の手錠が鈍い光を放っている。二人の刑事に連行されて車に乗り込む信夫が言う。

 「美奈ちゃんを泣かせるんじゃないぞ…」

 信夫を乗せた車が遠ざかって行くのを、勇次は見送りながら頭を下げるのだった。
(続く・・・)

 

山口


教室であなたは

土屋に向かって

白いチョークを投げましたね

それが土屋の額に当たり

あなたは目を丸くして

驚いていました

当てようと思って投げた訳ではない

白いチョークが

ものの見事に当たってしまい

その後の苦笑いが

今でも忘れられません

青春ドラマを地で行くあなたは

かっこよかった

鍛えられた見事な肉体を白衣に包み

わたしたちは皆

あなたの健康体に憧れていました

なのにあなたは

わたしたちより先に逝ってしまった

白衣をなびかせ

天使のように

今でもあなたは

わたしたちに白いチョークを

投げていることでしょう

この広い空のどこかで

優しい苦笑いを浮かべながら

 

 

※天竜養護学校に在籍中お世話になった体育教師の山口先生が、自宅で首を吊って自殺をした。風の便りに先生の死を知った時、余りにも切なく胸が痛みました。弔いの意味も込めて書いた詩です。

 

通り魔

 今月3日、千葉県柏市で起こった「連続通り魔事件」は、容疑者と見られる男「竹井聖寿(24)」が逮捕された事で急展開をみせ、事件発生現場となった柏市の住宅街に安堵の色が広がり平穏な日常生活が戻りつつある。

 逮捕の決め手となったのは防犯カメラやDNA鑑定によるもので、コンビニや逃走ルートの割り出しで掴んだ場所などに設置された防犯ビデオ等を徹底解析し、その結果事件発生から2日後と言うスピード逮捕に繋がった。

 関東地方のベッドタウンとして人気の高い柏市、長閑な佇まいが広がる住宅地で、その事件は起こった。3日の深夜に差し掛かった時間帯、柏市あけぼのの路上で短時間の間に男性4人が刃物のようなもので立て続けに襲われ、その内2人が死傷すると言う凶悪犯罪が発生。

 柏警察署は「連続通り魔事件」と断定し、犯人検挙のため約7万枚にも及ぶ似顔絵を作成し、情報提供を住民らに呼び掛けた。

 容疑者として浮上した男は事件発生現場近くのマンションに住む24歳の青年で、その素顔にはまだ少年の面影を残すほどのあどけなさがあった。

 犯行の動機について、竹井容疑者からの供述で「金銭目的」「社会に不満があった」などが判明しており、事件の裏付け捜査も佳境に入っているものと思われるが、24歳の青年を狂気に走らせたその背景にある「社会への不満」とは一体何だったのか最も気になる部分であり、青年の犯行心理も含めてこの事件の全容解明が待たれる所でもある。

 今回のような青少年による凶悪犯罪が起こる度に思い出すのは、2008年6月に起きた「秋葉原通り魔事件」である。当時、私は「不安定狭心症」の為、秋葉原近くにある三井記念病院に緊急入院していた。CCUのベッド上で絶対安静だった私の耳に事件発生の情報など入る筈もなかったが、面会に来ていた家族からその事件の全容を知らされ、外は大変なパニック状態に陥っていると聞かされた。

 当病院にも被害者一人が救急車で運び込まれたが、残念ながら既に死亡していたと言う。秋葉原事件の容疑者もやはり25歳の青年であり、犯行動機や事件の背景なども今回の事件と酷似しているように思えるのである。

 勝ち組や負け組といった言葉が流行りだし、孤独感と社会的孤立に陥る若者たちが増幅し、就職活動も思うようにならず正規雇用とは程遠い「登録型派遣労働」と言う経済的にも不安定な環境を強いられ、精神的・経済的にも追い詰められて行くその過程で、人生の歯車が大きく狂いだし犯罪の道へと手を伸してしまうと言った「経済型社会不安」が少なからず事件の根底に根付いているような気がしてならない。

 それにしても閑静な住宅街でまさかこのような凶悪犯罪が発生するとは、誰もが想像しなかったのではないだろうか。普段、私たちは平穏な日常の中で日々の暮らしを営んでいるが、危険は常に隣合わせであると今回の事件は教えてくれているように思う。

 いつ何処で事件・事故に巻き込まれるか分からない複雑な人間模様と現代社会の中にあって、「自分の身は自分で守る」この言葉を心の片隅に忘れず忍ばせておきたいものである。

雪の精


あたし 哀しい 雪の精
吹雪く 夜空を 舞い踊る
凍える あなたに 降り注ぎ
氷河の想い 恋吹雪

白いブーケは 契の証
溶けぬ心は 雪の晶
失せる事なく 燿き続け
あなたの空で 雪になる

あたし やっぱり 雪の精
諦めきれぬ 想いの果てに
吹雪く心は 北から届き
オーロラ奏でる 恋の精



2014入院

 2014年の正月を無事に迎える事が出来、今年こそは入院0を目指そうと意気込んでいたその矢先の事だった。それは僅かな歯の痛みから始まったが、それがやがて緊急入院の切っ掛けになるとは思いもしなかった。

 1月20日、昨年末に予約しておいた三井記念病院の歯科外来へ行き、痛みのある奥歯の事を伝え、一週間後に神経の治療をする事になり、痛み止めのロキソニンと抗生剤を三日分処方して貰った。翌日の朝、左顎に違和感があり少し腫れているように思ったが、さほど気にも止めず処方された薬を服用してやり過ごしたが、22日の朝、鏡を見ると左の頬が昨日の倍ほどに大きく腫れ上がり、口を大きく開ける事もままならなかった。

 痛みはそれほどでもなかったが、その腫れ具合からして尋常ではない事が起こっていると察しが付いた。夜になってから流石に心配になり救急外来へ電話を入れると、明日朝一番に歯科外来へ連絡するようにと告げられた。

 この時、既に入院の予感が脳裏を掠めたので心の準備だけはしておいた。翌朝8時30分丁度に電話を入れると、「腫れてしまいましたか…」と、予想していたかのような返答だった。直ぐに来院する事と入院の可能性もあるとの事だったので、入院グッズをバッグに詰め込み支度を済ませた。

 体重も増えて心不全の兆候もあったが、顎の腫れで救急車を呼ぶ訳にもいかず、かと言って電車で行く元気もなかったのでタクシーを呼んだ。

 歯科外来の待合室にいる時、看護師がやって来て顔の腫れ具合を確かめて行った。1時間ほど待った後、診察室に入るといつもの担当医が「かんべさん、ごめんなさいね…」と頭を下げて来た。担当医はわたしが心不全を繰り返し何度も入院している事を知っているし、心臓の事を気遣ってこれまで歯の治療をしてくれていたのだが、今回の腫れを起こした炎症が心不全の切っ掛けにもなっているのだろうと責任を感じている様子に見えた。

 「入院になりますので、内科と連携して治療に当たります…」

 昨年と同様に12階の一般病棟へと緊急入院、心不全も併発している事から、担当医は歯科と内科の二人が付いた。左蜂窩織炎(ほうかしきえん)での入院となる為、循環器ではなく、一般内科のようであるが、治療方針は前回と同様、ヘパリンに加え抗生剤の点滴、そして体重を落とす為に利尿剤のラシックス投与となり、先ずは「左蜂窩織炎」と心不全の治療が優先される事となった。

 炎症を起こしている部分や歯全体の検査をした結果、残存不可能な奥歯が親知らずも含め3本ある事が分かりその3本とも抜歯しなくてはならず、炎症が収まり心不全が軽快した時点で抜歯手術を受ける事となった。

 2月5日、心不全が軽快した為、一旦内科を事務手続き上退院となり、翌日6日に病棟もベッドもそのままで今度は歯科・口腔外科での再入院となる。手術は6日の夕方5時頃を予定していたが、2時間ほど早まり午後3時半頃に手術室からお呼びが掛かった。

 薄いブルーの手術着に着替え、点滴のヘパリンは外して車椅子で看護師一人に付き添われ7階にある中央手術室へと向かった。手術室へ入るのはこの病院で「僧帽弁置換術」を受けて以来26年振りの事となるが、今回は意識を完全に保ったままの入室である。

 7階入口に到着すると、執刀医や麻酔科医、手術室看護師ら数人が笑顔で出迎えてくれた。その横には既に手術を終えた患者が一人、ストレッチャーに乗せられて病棟へと戻る所であった。ドアが開き中へと入って行く。

 物々し医療器材があちこちに見受けられたが、そこから更に部屋が幾つかに別れており、私はその中の第9手術室へと運ばれた。約15畳ほどあるかと思われる空間の丁度真ん中辺りに小さな手術台があり、その上から手術用の照明器具である「無影灯」が満月の様に白く輝いていた。

 その周りを囲うように立ち並ぶ医療器材の数々はどれも見覚えのあるものばかりだったが、人工心肺だけは見当たらなった。車椅子からその小さく狭い手術台へと移り、仰向けになった。顔が動かぬ様に頭の部分が枕で固定され目隠しをされた後、口の部分だけが大きく開いた布らしき物が顔に被せられた。

 バイタルチェックの準備も整い、執刀医や第一助手が優しく声を掛けて来る。

 「麻酔を数本打ちますからね~、ちょっと痛いけど御免なさいね…」

 「直ぐ傍にスタッフがいますから何かあれば合図して下さいね」

 「メリメリ、ミシミシ…」「はーい、一歩抜けました」それは想像していたより遥かに容易く抜けてくれたようで安心したのと、ワーファリンの影響でかなり出血するのではと不安が募るばかりであったが、そんな不安も取り越し苦労に終わってくれた。

 続けざまに、2本3本とトラブルもなく予想時間の2時間を大幅に短縮して抜歯手術は終わった。

 「麻酔が切れるとかなり痛みますよね…」私はその後の事が気になっていたので訊いてみた。

 第一助手が抜いた歯を3本小さなケースに入れて渡しながら言った。

 「48時間が痛みのピークです、個人差はありますが痛み止めもありますから…」

 私は抜けた自分の歯を見詰めながら、小さく頷くと車椅子に移り「これからが大変かな?」と独り言を呟いた。部屋の外に出ると病棟の看護師が笑顔で待っていた。

 「随分早く終わりましたね~、出血も殆どなくて良かったですね~」

 「想像していたより簡単に終わってくれたみたいで安心したよー」と私も笑顔で言葉を返した。ベッドに戻り暫くすると抜いた部分にジワジワと鈍痛が走り出した。様子を伺いに来た看護師にすかさず痛み止めをお願いした。処方された痛み止めは私が予想していたロキソニン等と違って「カロナール」と言う薬だった。それを2錠服用し痛みの去るのを待ったが、時間が経っても一向に痛みは治まらない。

 薬が効かない事を告げると次は「ペンタジン」の点滴が始まった。抗生剤の「ヒクシリン」も始まっていたので、点滴瓶を2本ぶら下げる事となった。然し、そのペンタジンも効果がなく痛みは治まってくれない。

 その内に今まで出血していなかった傷口から夥しい出血が始まる。殆どの患者が寝静まっている病棟で、私だけが痛みと出血に悩まされ続けていた。止血はガーゼを傷口に押し当てるしか方法がない。然し、痛みでガーゼをまともに噛む事すら出来ず、うがいとガーゼ交換でまる二日眠る事が出来なかった。

 ガーゼが役に立たない事から、抜いた部分を型どって透明の止血プレートを作り、それを被せて漸く出血は収まって行ったが、出血の原因は痛みにより血圧が急激に上昇した為であった。痛み止めの定番と言えば、ロキソニンやボルタレン座薬であるが、腎機能が低下している私にはそれを使えない為、それに代わる痛み止めを何種類か試したが結局どれも役立たず、最後の手段として「モルヒネ」の投与となった。

 まさか此処で「モルヒネ」のお世話になるとは想像だにしていなかったが、さすが「麻薬」だけの事はあり、その効き目は抜群で、それまでの痛みが嘘の様に跡形もなく消えて行った。然し、内科の担当医はそのモルヒネを使うにあたり、かなり慎重で中々首を縦に振ってはくれなかった。

 痛みが去ってしまうと抜歯後の回復も早く、体調を見て抜糸した後に退院となる筈だったが、結局抜糸は次回外来時に行う事となり、東京に二度目の大雪が降り始めた14日の午前中に退院となった。心不全から開放され、息切れもなく足取り軽くいつもの道を闊歩し、途中好きな「神田川」で記念撮影をして普通に歩く事の出来る有り難さを満喫しながらそぼ降る雪の中を家路へと急いだ。

 結局の所、今年も例年通りの入院で始まってしまったが、それでも生きている喜びを噛み締めて、どんな状況下にあっても希望と笑顔は絶やさず前向きで歩んで行きたいと思った。多くの善意ある人たちに背中を押されている自分に気付けば、やはり自分も誰かの背中を押したりさすったりして生きているんだとつくづく思う。

 今回のブログ休止で訪問者の皆さまには大変ご心配をお掛けした事お詫びするとともに、急遽お見舞いに駆け付けて下さった、女流詩人のKさん、後輩の村木剛、そして「茜の海」著者の高林夕子さん、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。




1月23日、三井記念病院に緊急入院しました。
詳細は退院後にお知らせ致しますが、現在、抗生剤とへパリンを点滴中です。

管理人:神戸俊樹

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体調


体調不良につき、ブログを暫くお休み致します。読者の皆さまにはご心配とご迷惑をお掛け致しますが、回復までお時間を頂けると有難いです。
どうぞ宜しくお願い致します。

管理人:神戸俊樹


ひとめぼれ

 静岡市在住の息子、勇樹から届いた年賀状に米を送ると書いてあったので、おそらく誕生日プレゼントの事だろうと思っていた。米がプレゼントと言うのも何だか色気のない話しであるが、人間、食わなければ生きて行けないと言う意味では最上の贈り物かも知れない。

 7日の誕生日に届くものだとばかり思っていると、5日の夜に宅配業者から電話が掛かって来た。「もしもし、かんべさんですか?これからお荷物お届けに伺いたいのですがよろしいでしょうか?」。数分後、ドアのチャイムが鳴った。

 ドアを開けるとヤマト運輸の若いお兄さんが「ハァハァ」と息を切らしながら大きな袋のような物を抱えて立っていた。

 「はい、お届け物です、ここに置いちゃっていいですか?」

 「あ、はい、どうもご苦労様…」

 年賀状には何キロ送るとまでは書いてなかったので、せいぜい5キロか10キロだと思っていた。それ以上の米は貰った事がなく、昨年の夏頃だったか養護学校時代の仲良しだった女性から5キロ届いた事があった。

 大きな袋に一体どれだけの米が入っているのか見当も付かず、兎に角重たいので玄関に置いたまま動かす事もままならなかった。早速、息子にメールを入れるとすぐさま電話が掛かって来た。

 「おーい、米ありがとう、一体これ何キロなんだ?」

 「父さん、それ30キロだよ!」

 「えーっ、30キロ!!、宅配の兄さんがゼェゼェ息きらしてたぞー」

 米の話しで盛り上がり、二人で大笑いした。息子の大きな笑い声を聞くのも久しぶりである。昨年は脳梗塞や心不全で心配ばかり掛けてしまい、息子の顔から笑顔がすっかり消えてしまっていた。

 「5キロ10キロは当たり前だから、30キロにしてみた」

 青森県十和田市から送られて来た「ひとめぼれ」30キロ…、予想を見事に打ち砕くその30キロ、これが本当の「重い遣り」ではないだろうか(*゚▽゚*)

 皆さま、本年もどうぞ宜しくお願い致します。


喪中

 先ずは新年早々、喪中の記事でスタートする事になってしまい申し訳なく思います。昨年12月15日、故郷の藤枝にいる伯母の「ふさ枝」が他界致しました。訃報が従姉から届いたのは年の瀬も押し迫る暮れ近くの事でした。

 従姉の話しでは、風邪をこじらせ暫く床に臥せっていたようですが、苦しむ事なく眠るように逝ったとの事。働き者で病気一つした事のない丈夫だった伯母の思い出は尽きませんが、わたしの事を自分の子どもたちと区別する事なく我が子のように可愛がってくれた事。

 小学生になって初めての母親参観に来てくれたのも伯母でした。綺麗な着物を着飾って後ろの方からわたしに微笑み掛けてくれた姿が今でも鮮明に心に焼きついております。わたしの大好物だったカレーライスの時は必ず家に招いてくれ、お腹がはち切れるほど食べさせてくれました。

 家に米がなくひもじい思いをしている時などは、それを察して袋に3合の米を入れ持たせてくれました。父の葬式の時もわたしの傍らに寄り添い、子どもの時と同じように優しい言葉を掛け頭を撫でてくれたのです。わたしはもう18歳だと言うのに伯母からみればわたしはやはり我が子同然だったのかも知れません。

 伯母の存在のお陰で母の居ない寂しさを紛らわす事が出来たのだと思います。大好きだった人たちが次々とこの世を去って行く、それはとても悲しい事ではありますが、大切な思い出となって心の中に生き続けてくれる事でしょう。

 皆さん、大好きな人はいますか?いますよね…。いつまでも大切にしてあげて下さいね。慌ただし中で自分が喪中であった事をすっかり忘れてしまい連絡が遅れてしまった事をこの場を借りてお詫び致します。