ウェイトレスが水とおしぼりを持って注文を聞きに来た。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「うーん、アメリカン」
「父ちゃん、何にするの?」
「そうだな、同じのでいいや」
「じゃあ、アメリカン二つね」
テーブルを挟んで父と向かい合わせで座るのは初めてだった。熱いおしぼりで顔を拭きながら父が言った。
「仕事はどうなんだ、順調か?」
「残業が多くて、結構きついよ、それより何で電話番号知ってるの?」
「ああ、兄貴に聞いたからな」
やっぱりそうか…と私は思った。清水の訓練所にいた時もいきなり電話を掛けて来たので驚いたが、あの日の事も克明に覚えていた。
波打際に並んだテトラポットに、駿河湾の荒波が音を立てて砕け散っている。国道150号線を走る車の列が、吹き荒ぶ潮風に煽られていた。時計が午後3時を少し回った頃だった。午後の授業を休んだ私は、自分のベッドで横になり週刊誌を読んでいた。
「額田(ぬかだ)さん、電話ですよ」
職員が部屋まで呼びにやって来た。額田は母方の姓で、私は17歳のある時点まで戸籍上は「額田俊樹」であった。小学校時代は神戸姓で通したが、中学生になり天竜養護学校に転校した際、額田と神戸の両方を使い分けると言った複雑な環境に置かれていた。学校では神戸と呼ばれ、病棟に戻って来ると「額田」になったりした。但し、「額田くん」と呼ばれた事は一度もなかったが、自分のベッドや配膳室の名札が、ある日突然「額田」に変わっていたりして、それに気付いた友人たちから奇異な視線を浴びせられ、とても嫌な思いをした事がある。
私自身も「額田」と名乗る事には抵抗があった。生まれた時から「神戸俊樹」と呼ばれて育って来た訳で、紛れもなく自分は「神戸」であると思っていた。これもまた父の優柔不断が招いた一つの悲劇だったかも知れない。
呼びに来た職員は電話の相手が誰なのか言わなかったので、私は「さて、誰からだろう?」と疑問だらけになったが、其処に父の顔は浮かんで来なかった。施設から徒歩6,7分も歩けば150号線(久能街道)に出る。その向こうには駿河湾の波が打ち寄せる久能海岸が広がっており、東の方向(三保の松原)に眼をやれば見事な富士山の姿を見渡す事が出来た。
「もしもし…、電話変わりました」
「おう、とし坊か、父ちゃんだけどさ、今な近くのバス停に居るんだ、悪いけど千円貸してくれないか…」
「はぁ?…」返す言葉がなかった。父が何故、この施設の事を知っているのか?何故、いま近くに来ているのか?疑問が疑問を呼び、私は混乱してしまった。
「分かった、じゃあ、ちょっと待ってて直ぐ行くから」そう伝えて電話を切った。
「済みません、10分ほど出掛けて来ます」
職員にそう伝えると、自分の部屋に戻り、財布から千円札一枚を取り出すと、ズボンのポケットに突っ込み、急いで施設を後にした。なだらかな舗装されていない坂道を登ると、久能街道に出た。
潮風が顔に当たり、長い髪が後ろに靡いて行く。左方向に眼をやるとバス停があった。茶色く錆び付いたトタン屋根が強い海風に煽られて、「バタン、バタン」と音を立てている。その直ぐ横にある電話ボックスの中に父の姿があった。
私は大きく手を振って父に呼び掛けた。「おーい、父ちゃーん」。私の姿を確認し、電話ボックスから出て来た父は、疲れた顔で肩をすぼめ少し震えているように見えた。初夏とはいえ、厚い灰色の雲に覆われたその下では海からの風がビュンビュンと音を立てながら吹いている。上着すらなく、長袖のYシャツだけではまだ寒すぎる季節だった。
「父ちゃん、どうしたの一体?」
「いやなぁ、実はさ、昨日仲間たちと富士市まで飲みに出掛けたんだ」
「うん、それで…」
「夜中まで飲んでてな、朝気付いたら誰も居なくて父ちゃん一人だったんだ」
「何それ?どういう事なの?」
「うーん、俺にもよく分からんが、仕方ないので富士市からずっと歩いて来たんだ」
「えっ!…ここまで歩いて来たの?」
私は父の話しに驚き、そして呆れ返っていた。富士から清水の距離と言えば約40キロはある。それを父は一人で歩いて来たと言う。父が疲れきった表情をしていたのはその為だった。
「はい、千円ね、ちゃんと帰んなよ」
父を諭すように言うと、私はポケットから千円札を取り出し、父に渡した。
「悪いな、とし坊…」か細い声で父が礼を言った。清水駅行きのバスが来ると、父は安心仕切った様子でバスに乗り込んだ。その父が乗ったバスに手を振りながら見送ったが、このまま大人しく藤枝に帰る事が出来るのだろうかと不安が過ぎった。
後で聞いた話しであるが、案の定、その不安は的中し、静岡に着いた父は私の上げた千円を飲み代に使ってしまい、静岡県警のパトカーで藤枝に帰ったと言う。つまり父はパトカーをタクシー代わりに使ったのである。如何にも父らしい話しだとつくづくそう思った。
(続く…)。
