第9章 国定忠治。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


国定忠治

 焼津健康ランドは、大崩海岸の上の方にあり、見晴らしの良い観光名所となっていた。眼下には駿河湾を望み、浜当目の海水浴場も近かった。温泉と豊富な海の幸を堪能しながら、大衆演劇を見られる所として有名であった。藤枝から焼津市内まで車なら十五分もあれば充分である。黒塗りのタクシーが三台、列を作って焼津へと向かった。

 現地に到着すると、入口の所に「山岸組御一行様」と書かれた黒い板が掛けられていた。山岸組…とても土建業とは思えず、明らかに暴力団関係者だと施設側の人々は思っていたかも知れない。現代のように暴力団に対する厳しい規制がなかった時代だったので、極道と呼ばれている者たちも大きな顔をして世間を渡り歩いていたが、堅気には手を出さない事と、義理と人情が脈々と熱く生き残っていたのも事実であった。

 今回の行楽は山岸の提案によるもので、世間的には慰安会と同類であった。幹事も勿論山岸自身。人を纏める事に長けている男なので、山岸自ら幹事を買って出た。

 「ほーい、皆さん、ちょっと集まって…」

 山岸の大きな声が広いロビーに響き渡り、よその客までが山岸の方に視線を投げた。各々が勝手気ままにあちこちへと散らばっている。まるで小学生の遠足風景だ。それを纏めるのが山岸先生と言ったところだろう。

 「宴会までにはまだ少し時間があるので、風呂に入りたい人はお先にどうぞー」

 「宴会は何処でやるんだ?」

 慎司が山岸に訊いた。

 「はい、大広間に席を設けてあります、そこで演劇も見られるらしいですよ」

 「ほお、そうか、それは楽しみだな」

 「兄さん、ここの温泉は肩凝りに効くそうなんで、ひとっぷろ浴びて来て下さいよ」

 「じゃあそうするか、おい、英津子!風呂行くぞ」

 「兄さん、混浴じゃないですから…」

 そう言って山岸は大きな声で笑った。

 「兄貴、お背中流しましょうか…」

 「おう、頼む」

 慎司の背中には鯉の入れ墨が彫られており、その彫り物の少し下に約十五㎝ほどの古傷があった。おそらく、彼が「人斬り慎司」と呼ばれるようになった理由と、その傷は何か関係があったのだろう。

 客たちの宴会場となっている大広間は、凡そ六十畳ほどの広さがあり、正面が演劇の舞台となっていた。 駿河湾で採れた新鮮な食材が大きな皿の上に盛り付けされ、所狭しとテーブルの上に次々と並んで行く。ビール、日本酒、焼酎など、酒類も皿の合間を埋め尽くして行った。

 山岸が得意げな表情を見せて音頭を取る。

 「さあさあ皆さん、全員揃ったところで乾杯と行きましょう」

 この慰安会を盛り上げ仕切っている事への満足感で、山岸の顔はいつも以上に和やかだった。

 「信さん、ひと言お願いしますよ」

 山岸が信夫を立てるように話しを振った。

 「俺?俺はいいよ…」

 酒の一滴も入っていない時の信夫は、借りて来た猫のように大人しい。一杯引っ掛けて勢いをつけないと何も出来ない弱さも持っていた。

 「それでは山岸組の今後の繁栄を祝って乾杯!」

 コップとコップがぶつかり合って、宴会場に時を告げているようだった。酒類ばかりがずらりと並ぶその中で、私の頼んだオレンジジュースがみにくいアヒルの子に見えた。学校をさぼってこんな所にいる自分に罪の意識を感じていたのは確かだった。

 その日は平日と言う事もあり、客足も少なく宴会場は山岸組の貸切状態のようであった。酒が進むにつれて、男たちの声も大きくなり始めていく。仕事の話しから賭け事、そして女の話題へと尽きる事なく会話が弾む。

 そんな大人たちの会話に耳を傾ける事もなく、私はただひたすら食べる事だけを考え夢中になっていた。舞台上では既に本日の演目が始まっている。三度笠を被り、股旅姿の男が台詞を語っているところだった。

 「赤城の山も今夜限り、生れ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨てて、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる道途(かどで)だ…。」

 国定忠治…江戸末期に活躍した渡世人で、強気を挫き弱気を助ける侠客として人気があり、その活躍は講談や舞台などで現在も語り継がれている。

 舞台は最も注目する場面に差し掛かっていながら、誰一人その役者に視線を投げている者はいなかった。そんな中、一人だけふらりとその宴席から立ち上がる男がいた。右手に日本酒、もう一方の手に空のコップを握りながら舞台の方へと歩いて行く。

 相当酒が入っているらしく、千鳥足で前後左右もままならない。一升瓶の中で酒が波を立てて揺れている。私はじっとその後ろ姿を見詰めていたが、舞台に向かって「この大根役者が!」と怒鳴り散らす声が聞こえて来る気がして、内心は不安でならなかった。

 舞台に向かう信夫の姿に気付いている者は私以外に誰もおらず、他の男たちは会話に夢中のようだった。もし何か事が起こったら、真っ先に飛び出す覚悟はしていた。舞台の真下で何やら声を掛けているようだったが聞き取れなかった。

 空のコップに日本酒を並々と注ぎ、それを役者に向かって差し出す信夫。

 「まあ、一杯やんなよ、いい顔してるね」

 「お客さん、ありがとうございます。芝居の最中なんで、お気持ちは有難いですが…」

 「まあまあ、そう言わずに、一杯だけでも」

 信夫のあまりのしつこさに役者の方が根負けし、コップを受け取ると「グイっ」と一気に飲み干した。

 「いよっ!いい飲みっぷり、千両役者!」

 そう言って機嫌を良くした信夫が笑みを浮かべつつ宴席へと戻って来た。私の心配は取り越し苦労に終わったが、ホっと胸を撫で下ろしていた。窓の方に眼をやると、燃えるような夕陽が西に傾きかけ、駿河湾を真っ赤に染め上げていた。

(続く…)。