プールサイドの人魚姫 -24ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

創刊号

 
 書籍の紹介をする前に先ず、ムジカ代表の葛原りょう氏に祝辞の言葉を贈りたいと思う。去る3月11日、俳句の芥川賞と言われる『芝不男新人賞』の副賞を葛原氏が受賞。俳人で著名な『対馬康子奨励賞』である。

 彼の快挙に思わず身体が震えてしまったほどで、同じ文学界の中で生きようとしている同胞からの知らせは他人事とは思えず、食い入るように彼のフェイスブックを何度も見詰めてしまった。

 苦節16年、殆ど無所属で俳句の世界に身を置きながら、半ば諦めにも似た哀愁さえ漂う中での今回の受賞は、他の俳人たちにも大きな夢と希望を齎してくれたものと確信する。

 葛原りょう君、受賞おめでとうございます。お祝いの言葉が遅れてしまい申し訳なく思いますが、貴殿の今後の活躍を陰ながら応援させて頂きます。

 そして更に嬉しい知らせが届き、私も少し興奮気味である。5月13日の朝日新聞全国版の夕刊文化欄に彼の俳句が掲載!葛原君にとっては俳句での初仕事となった訳である。やはり受賞の影響は大きく、詩と違って短歌や俳句の歴史が古い日本独特の文化が追い風となっている様子も伺える。今後の彼の動きに眼が離せない状況である事は間違いないだろう。

 さて、大衆文藝ムジカ創刊号であるが、当初は昨年12月24日クリスマスイブに発売する予定であった。然しながら、雑誌や書籍と言う類のものは予定通りに原稿が揃わなかったり、校正や推敲に想定外の事態が発生したりとトラブルが付き物である。

 葛原氏の体調不良などアクシデントの連続で、予定より約4ヶ月遅れの4月15日『大衆文藝ムジカ創刊号』発刊の運びとなり現在、写真をご覧の通り、前回と同じく『紀伊國屋書店新宿本店2階』にて平積み陳列。浦和パルコ店ではレジの直ぐ隣りにあるワゴン車の中に創刊準備号も一緒に陳列されると言う反響ぶりである。

 さて、気になる中身であるが、前作の準備号を遥かに凌ぐ内容となっており、ページ数も増え完成度の高い作品がぎっしりと詰め込まれている。活字の好きな方であれば、十分納得の行く読後感を味わう事が出来るだろう。

 そして何といっても創刊号の目玉は、大ヒット漫画『鈴木先生』の原作者である文藝漫画家の武富健治、詩人・葛原りょう両氏による誌上対談が実現!約12ページにビッシリと隙間なく書き込まれた両氏の熱き想いを是非体感して頂きたい。

 さて、私自身はと言うと今回は詩ではなく心温まるエッセイを寄稿し、64~65ページに掲載されている。準備号では息子の勇樹も作品を寄稿し写真詩として掲載されたが、今回は多忙を極める仕事の理由などから辞退したようである。

 地方の新聞社(群馬・上毛新聞/岡山・山陽新聞)などから取材の申し込みがあったりと、商業誌としての確固たる基盤作りも大海の荒波にもめげず、文藝と言う洋上に高々と帆を掲げ舵を切った。最も難題となる新たな読者獲得の為、更に販路を拡大し、大衆文藝の名に恥じぬ作品作りに邁進して行くものである。

※ムジカでは新たな投稿欄として『ムジカ新鋭衆』を設置。詩、短歌、俳句、自由律俳句、川柳など貴方の投稿をお待ちしております。

 投稿・問い合わせ先→「bungei_musica@yahoo.co.jp」。

※ムジカのお求めはこちら→『紀伊國屋書店新宿本店2階』『紀伊國屋書店浦和パルコ店5階』『ジュンク堂吉祥寺店』『大衆文藝ムジカ事務局』。

ヒロポン


 日本の音楽シーンに輝かしい時代を築き上げた人気デュオ『CHAGE and ASKA』。その一人であるASKA(アスカ・本名:宮崎重明)容疑者(56)が先日の5月17日、南青山のマンションから出て来たところを待機していた警視庁の捜査員によって逮捕された。

 容疑は覚醒剤取締法違反(所持)であった。逮捕当初は容疑を否認し続けていたが、23日になって容疑を認め、「覚醒剤を使用した事がある」と供述をしているようだ。同時に逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者とは一年ほど前から愛人関係にあったとされており、ASKAの夫婦間に亀裂を生じさせる要因にもなっていたらしい。

 90年代の音楽シーンに絶大な人気を誇ったチャゲ&アスカ。人気ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった『SAY YES』は280万枚と言う記録的なセールスを樹立。その後、彼らの人気は留まるところを知らず、破竹の勢いでレコードセールスを塗り替え、巷ではチャゲアス旋風が巻き起こるほどであった。

 私の記憶を振り返ってみると、彼らは確か7人編成のバンドとして音楽活動を始め、その頃は『チャゲ&飛鳥』と名乗っていた。当時、ヤマハが主催するポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)が音楽界の登竜門とされており、このコンテストを踏み台にして大きく羽ばたいて行ったミュージシャンは数多く、井上陽水や八神純子、中島みゆきなどもポプコン出身である。

 チャゲ&飛鳥の曲を初めて耳にしたのは、『コッキーポップ』と言うラジオ番組で、『流恋情歌』と言う歌だった。どことなく演歌を思わせる歌詞とメロディが強烈で、私のお気に入りの一曲となった。この流恋情歌で、ポプコンつま恋本選会に出場し入賞を果たした。

 彼らのデビュー曲は『ひとり咲き』であるが、この時は既にバンドではなく、チャゲと飛鳥の二人だけであり、ここから『CHAGE and ASKA』へと栄光と野望のリズムを刻み始めて行く事となる。

 今回の逮捕に至ってはおそらく氷山の一角に過ぎないであろうが、増える事はあっても一向に減らない薬物乱用やそれに付随した事件・事故が多発する中で、当局にしてみればニュースなどマスコミが飛び付くような人物の逮捕がどうしても必要であった。

 アスカ容疑者のような大物歌手を逮捕する事によって、事件の深刻度を世間にアピールする狙いも当局にはあり、『見せしめ逮捕』とも受け取れる。

 覚せい剤などの違法薬物について時間を少し遡ってみると、国が暗黙の内に使用を認めていた時期がある。日本が軍部の統治下に置かれていた戦時中の事だ。兵士の士気を高める為にヒロポンを使用したり、軍需工場の効率を上げる為、作業員に錠剤を配布するなどして労働時間を大幅に増やし、強制的に作業に就かせていたとも言われている。

 戦争と言う異常事態と狂気に満ちた時代だったから、薬物も必要悪とされていたのかも知れない。一昔前までは若年層に薬物使用が広がり、社会問題にまで発展した経緯がある。ところが、現在ではその若年層よりも40、50代の中高年層に覚せい剤の影が付き纏うようになった。

 社会的・経済的にも安定した年代の人たちが何ゆえ覚せい剤に手を染めてしまうのか、その背景に見え隠れするのは苦悩する大人たちの心の叫びである。管理型社会のストレスは増大する一方で、ストレスの捌け口が見つからない、或いは発散の仕方に戸惑いを覚える中高年たち。金銭的な余裕も手伝って手っ取り早く入手した薬物に身を委ねてしまうと言う、実に危うい覚せい剤の構図が見えて来るのである。

 逮捕されたアスカ容疑者もまた50代の中高年層であり、歌手としての絶頂期も既に過去物語りになりつつある。一度頂点を極めた者にとって、その時代が華やかであればあるほど現状を受け容れがたくなり、ヒット曲からも疎遠になればなるほど焦燥感に苛まされ、眠れない夜が何日も続く事となる。

 もう一度夢を実現しようと思っても、曲作りのイメージが浮かんで来ず、その結果薬物の力を借りる事となり、気が付けばその薬物地獄から抜け出せなくなってしまうと言った、薬物依存のループに嵌り込んでしまうのだろう。

 歌手は必ずしもヒット曲を出す必要がある訳ではない。もちろん歌がヒットし、有名になりファンも増えて来れば大スターの舞台を歩む事は容易くなるだろう。然し、それよりもある一曲を数十年と長く歌い続ける、歌い継がれて行く事こそが、本来の歌い手と呼べるのではないだろうか。

 人の心を揺さぶり、いつまでも心の中に残る曲が一曲あれば、ヒット曲に恵まれなくとも名歌手・名曲として音楽の歴史に名を残す事が出来る筈である。

城ヶ島


 店内は目立っていた空席もほぼ満員となり、私と父の周りにも仕事帰りの若い女性や、背広姿のサラリーマンたちで混雑し始めていた。

 「藤枝に帰ったらどうするの?ラーメン屋はもう出来ないでしょ?」

 「ああ、そうだな、まあ、少しのんびりするか…」

 「勇次とは連絡取ってるんでしょ?」

 「ああ、迎えに行くと手紙が来たが、断った」

 「なんでまた断ったの?悪いのは勇次でしょ」

 私は父の返答が不満でならなかったので、少し強い口調で言った。

 「まあいいさ、もう終わった事だ…」

 父は自分で納得しているようだったので、これ以上その話題に触れるのは止めておいた。

 「お腹空かない?」

 「そうだな、何か食べるか」

 「店を変えて他に行こうよ…」

 「ああ、そうするか」

 二人分の代金を済ませ、地上に出ると辺はすっかり暗くなっていた。時計を見ると7時半を少し回っている。父と一時間以上も話し込む事など今まで無かったので、私はある種の充足感を密かに抱いていた。

 「シャリン、シャリン、シャリン」私の直ぐ後ろを付いて来る足音がどこか懐かしい。父の履く雪駄は昔から蛇革の鼻緒と決まっていた。その雪駄が当時、どれほど高級な履物だったか幼い私には知る由もなかったが、その雪駄を履いてお使いへと出掛けたものである。子どもの小さな足に雪駄は似合わないけれども、父の温もりが伝わって来るような気がして、私はそれを履くのが大好きだった。

 松坂屋の直ぐ下を通り、丸井静岡店のある方向へと歩を進めて行った。

 「藤枝まではどうやって帰るの?」

 「うーん、まだ決めてないがどうするかな…」

 「電車だと藤枝駅でバスに乗り換えだよ」

 「ああ、バスだとどうなんだ?」

 「新静岡センターから藤枝駅行きが出てるから、乗り換えなしで直通だね」

 「じゃあ、バスで帰るか」

 「それならセンターの近くのお店がいいね、何食べる?」

 「そうだな…、蕎麦でも食べるか」

 丸井デパートの角を曲がり、新静岡センター方面へ向かう。暫く歩くと、薄暗い路地の片隅に「戸隠そば」と墨文字で書かれてある看板を見つけた。「ここでいいよね」と言いつつ、紺色の暖簾をくぐり中へと入った。

 食事の時間帯にもかかわらず店内は意外と空いており、和室風に施された室内は日本そば屋特有の静けさが漂っていた。カウンター席と奥が畳の座敷となっていたが、出入り口に近いテーブル席に座った。

 「いらっしゃいませ、ご注文が決まりましたらお知らせ下さい」

 品の良さそうな中年の女性が、おしぼりとお茶を置いて行く。

 「うーん、僕はたぬき蕎麦、父ちゃんは?」

 「ざる蕎麦にするかな」

 私は蕎麦を見ると、どうしても忘れる事の出来ない記憶がよみがえって来る。藤枝の実家では、父と祖母の三人で暮らしていた時期があり、祖母が亡くなる9歳頃までは祖母が親代わりでもあった。

 伯父の亨は、東京の(陸軍)中野学校を卒業した後、特に決まった仕事に就く訳でもなく、実家の3軒隣にある「柊屋」と言う蕎麦屋で暫くの間手伝いをしていた。その蕎麦屋には伯父の昔からの友人が店を継いで切り盛りしており、町内では「柊屋」の「支那そば」が絶品と評判で人気が高く、東京から噂を聞きつけて食べに来る客までいた。

 実家には父が居た事と、父の不良仲間が頻繁に出入りしていたため、伯父は実家に寄り付こうともせず、自分でアパートを借りて住んでいた。父が家を長く留守にしている時などは、祖母と私は二人で寄り添うように慎ましい暮らしをしていた。

 働かない父の代わりに祖母が仕出し弁当を作っていたが、その受注先は「藤枝警察署」であった。留置場に拘留されている犯罪者が食べる弁当で、漆塗りの高級そうな四角い器に採れたての食材を幾つも並べ、大きな釜で炊いた真っ白なご飯の上に、ごま塩や自家製の梅干を添える。そして鮮やかな緑色の植物ハラン(これも自家製)にギザギザの切れ目を入れ、弁当に添えて完成させる。

 それを現在の弁当に例えるならば、高級幕の内弁当がぴったり当てはまる。祖母の作る高級弁当を眺めながら「一体誰が食べるんだろう…」と最初は疑問に思っていた。自分が食べたいと思っても一切口には出来ず、小さな胃袋を満たしてくれたのは、コロッケや鰹節くらいのものだった。

 夜9時になると、近くの岡出山公園から「ねんねんころりよおころりよ~」のオルゴールが流れて来る。「さあ、良い子の寝る時間ですよ…」と母親の様に優しく語り掛けて来るその音色が子守唄替わりになって寝入ってしまう子もいたが、私の場合は少し違った。

 私を寝し付けるために祖母が歌う子守唄は、「城ヶ島の雨」だった。

 ――雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
   雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き――

 北原白秋作詞/梁田貞作曲。大正9年に奥田良三が歌い(レコード化)大ヒットした楽曲で、日本歌謡の先駆けとなった。おそらく祖母が若かりし頃にこの歌を聴いて、お気に入りの一曲としたのであろう。私の耳元で囁くように歌う祖母の「城ヶ島の雨」が心地よく、いつしか私は夢の淵へと吸い込まれて行くのであった。

 

愛言葉


午前0時の扉を開く

二人だけの秘密の合図

甘いバニラの吐息を吹きかけ

高鳴る胸の谷間に薔薇が咲く

開けてはならぬと囁く夜が

二人の逢瀬を戒めても

アダムとイヴが寄り添うように

熟れた果実は余りにも甘過ぎて

齧った分だけ耽美な夜が訪れる

二人を結ぶ愛言葉

戯れのmidnight

愛と言葉の真実を…

 

直下型

 GWも終盤に差し掛かった5月5日、早朝5時を少し回った頃、伊豆大島近海を震源とするM6の地震が発生。都心の千代田区では最大震度5弱を観測し、東日本大震災が発生した3年前の3.11以来の強い地震となった。

 地震が発生したその時間、私は珍しく少し早めの朝食を摂っていた。最初に揺れを感じた時は震度2程度の軽いものであったが、揺れが収まったその数十秒後に下からドスンと突き上げるような揺れがあり、棚から物が落ちて来るのではないかと思うほどの強い揺れに変わった為、「うわぁ、ヤバイ!」と小声で呟きつつ咄嗟にベッドから降り、直ぐ横にあるデスクトップPCを両手で押さえた。

 3.11の時はそんな行動をとる暇もないほど強烈な揺れの中で呆然としていたが、気が付いた時は部屋中に物が散乱し、パソコンもラックから飛び出して倒れかかっていた。そんな3年前の経験があった為、大切なデータ類がぎっしり詰まっているPCを、自分の身体よりも優先して保護しようという咄嗟の判断だった。

 幸い今回の地震による被害は殆どなかったようで、首都圏も平穏無事にその一日を迎えていた。然しながら未曾有の3.11大震災発生以来、日本列島を取り巻く地震環境は大きく変化し、列島の何処で巨大地震が発生しても何ら不思議ではない「リスク列島」へと日本は姿を変えてしまった。

 気象庁の発表によれば、今回の地震が想定されている「首都直下地震」とは震源域も異なるため関連性は低いものと説明されておりむやみに心配するほどの事はないと思われる。然し、直下型地震の引き金になる可能性も0ではないため、何れその時が来るであろう「東京直下型巨大地震」への心構えと防災を徹底し、被害を最小限に抑えるための訓練を、個々の人々が実践してこそ「心と身体の防災」へと繋がって行くものである。

 私のように病気を抱え、毎日大量の薬を服用している者にとっては、二重のリスクを背負う事となる為、障害を持つ人たちは優先して援助の手が差し伸べられるシステムが整ってはいるものの、緊急事態の場合は何が起こるか分からない想定外のリスク発生も十分に考えられる。

 援助の手を待つだけではなく、自分で出来る範囲の事は自己責任で解決しておきたいものである。家の外に逃げる状況になった時の為に、私の場合はまず最低でも一週間分の薬と新鮮な水を常備し、持ち出せる状態にしておく事だろうか。

 「備えあれば憂いなし」の言葉通りで、災害に対する意識の向上と日頃の心構えこそが、自分或いは他者の命を守る結果へと結び付いて行くのではないだろうか。

救急車

 
 事の顛末を聞きながら、「勇次のやつ…」と僅かばかりの怒りを覚えつつ、父の呆れたお人好しに「あんたは大馬鹿者だ」と私は言ってやりたかった。困っている者を見ると、放っておけない性分は、祖母キクノ(父の母)にそっくりだった。

 それは父の唯一の長所でもあったが、自分の家庭を顧みず、他人を助けると言うのは「ええかっこしい」と思われても仕方がなかった。藤枝で5本の指に入るほどの資産家に育ち、我がまま放題の子ども時代を送った父にとってみれば、プライド=世間体が大事だったのである。

 自分の息子が弁当を持たずに学校へ行って辛い昼時を迎えようと、一日一杯の即席ラーメンで飢えを凌いだとしても、見て呉れさえ良ければ問題なかったのだろう。

 私は父から小遣いを一度も貰った事がなかった。父は親戚の子どもたちを孫のようにたいへん可愛がっており、会う度に小遣いを上げていたようだ。だから従兄弟たちからは「信ちゃん、信ちゃん」と慕われていた。そんな従兄弟たちに嫉妬心など抱いた事もなかったが、唯一救われていたのは、私を可愛がってくれる人たちが大勢いた事である。父や母の分まで私を抱きしめてくれた祖母や叔母たちの存在があったからこそ、苦労を苦労とも思わず生き延びて来られたのだろう。

 煙草に火を点けながら父が言った。

 「心臓の方はどうだ?大丈夫なのか…」

 「うん、今の所はね、半年に一度市立病院に行ってるよ」

 「そうか、それはよかったな…」

 「でもね、いずれは手術しないと駄目みたいだよ」

 「とし坊が入院するって電話で呼び出された時は、どうなる事かと思った…」

 「夜中に救急車で運ばれた時でしょ」

 「ああ…、父ちゃんの居場所がよく分かったなぁ…」

 「どうして分かったんだろうね?僕も知らなかったし」

 「あの時、勇次や他の連中と飲んでたからな」

 「父ちゃんが酔っ払って救急車に乗り込んで来た時は参ったよ…」

 それは、私が十二歳の時だった。父は仕事で家を長く留守にしていたため、私は母の実家で暫く過ごしていた。大好きな祖母や叔母、叔父たちに囲まれての暮らしは、たいへん居心地の良いものであったが、その一方で、病魔は確実に私の身体を蝕んで行った。

 学校も長く休みがちになり、祖母が学校まで直接出向き、長期病欠の手続きをしてくれた。その当時の心臓弁膜症と言えば、不治の病として恐れられ、治す手立ても殆どなく死を待つのみであった。

 心臓が悪くなった十歳頃から、突然鼻血をよく出すようになり、それが止まらず滝のように流れ出て来るのである。その度に周りの大人たちが慌てふためき、私を取り囲んで必死に鼻血を止めようとした。時には顔を氷の塊で埋め尽くす事もあったが、それでも血は止まらず、鼻を詰めれば、その血は行き場を失い、喉の奥へと逆流し、それが固まって何度も窒息しそうになった。そんな事が年に数回あり、それが心臓と関係していたかは分からなかったが、私が心臓病だと知っていたのは父だけだった。

 「父ちゃん、これ貰って来た…」

 学校の健康診断の結果が書かれてある紙を父に渡した。

  ――心臓弁膜症の疑い有り、早急に専門医の診察を受ける事――。

 「うん…?」とその紙に眼を通したかと思うと、父はその通知書をゴミ箱に捨ててしまったのである。私の心臓病は約2年に渡り放置されたままになり、医者に掛かる事は殆どなかった。

 その夜もやはり突然に鼻から夥しい血を吹き出したのである。叔父や叔母たちの慌てる声が耳の奥で木霊していた。「俊樹、とし坊、どうしただ…」「母ちゃん、俊樹が大変だよ」。

 私の枕元は見る見る内に真っ赤な血の海と化して行った。これほど大量の流血を見た事がない祖母たちが慌てるのも当然だった。鼻はおろか、口からも血を吐き出し、もがき苦しんでいる子どもを眼の前にして、大の大人が4人も揃って成す術もなく狼狽えている。

 「持宗(小児科)さん呼んで来る…」そう言って祖母が外へと駆け出して行った。

 白衣を着た小児科医が私の血まみれの顔を見るなり言った。

 「私の手には負えない、直ぐ救急車呼んで…」

 「信さんにも連絡しないと…」

 祖母が心配そうに私の顔を覗き込みながら呟いた。父は以外にも救急車より先にやって来たが、既に顔は赤く眼付きさえも変わっていた。酒臭い息を吐きながら、「とし坊、どうした?」人前だから妙に優しく、にこやかな笑顔を見せている。

 喧嘩で散々血を見慣れているせいか、父は血だるまの息子の顔を見て驚きもしなかった。静まり返った深夜の道を切り裂くように、サイレンの音が響き渡る。「ウウー、ウウーー」。担架に乗せられ、車内へと運ばれる。両方の鼻には灰色のチリ紙がギュっと詰め込まれていた。

 私の直ぐ横に乗り込んで来た父は、息子の悲惨な様態を見ても酔から醒める事はなかった。車内が酒の匂いで充満して行く。酔っ払いと瀕死の子どもを乗せた救急車が、暗闇の国道へと音を響かせ消えて行った。

(更に続く…)。

 

青池

 今からおよそ850年ほど前の話しである。仁安(六条天皇の朝1165~)年間、旧西益津村(現在の藤枝市本町辺り)にある岡出山の麓に粉川長楽斎と言う郷士が住んでおり、弁天さまから天神さまにかけての地域を村の人々は長者屋敷と呼んでいた。

 長楽斎は、仏法に帰依して信仰が厚く困っている人には必ず手を差し伸べるほど心優しく憐れみ深かったため、村の人々は「仏心長楽」、「粉川長者」などと呼び敬っていた。

 長楽斎の妻は「秋野」と言い、伊勢の国神戸の住人神戸大蔵人某の娘で、婚礼の際には家来を三人連れて来て、以来藤枝に住まわせ、神戸(かんべ)と言う姓を名乗らせた。それがもととなり、藤枝の三神戸と言う家柄が出来た(私の実家がその内の一つ)。

 その後、夫婦の間に愛らしい女の子が産まれたので、長楽斎は「賀姫(いわひめ)」と名付け、大事に育てた。賀姫は成人するにつれて容姿も大変美しくなり、両親に仕えて孝心深かった。

 長楽斎は、岡出山の下に安置した薬師如来を信仰しており、娘もまた父に劣らぬ信仰家で、毎日、朝早く起きては、お参りをしていた。

 ところで、長者屋敷の裏山の東、約2キロ程の所に「真薦(マコモ)池」(現在の青池)と呼ばれる周囲約4キロ程の大きな池があった。この池には昔から大蛇(水龍)が棲み付いており、この大蛇が美しい賀姫に一目惚れし、ある日、美しい小姓の姿に化け、毎朝同じ時刻にお参りして、とうとう賀姫を虜にして池の底深く連れ込んでしまった。

 それを知った夫婦は怒り悲しんだ末に、石を焼いて炎にし、鉄を溶かして湯にし池の中に投げ入れた。その結果、さすがの大蛇もたまらず死んでしまったと言う。

 夫婦は、賀姫の菩提を弔うために、領地を割いて寺を建て、「長楽寺」と名付けた。弁天さまは、その薬師如来の斜め隣になっているが、可哀想な最後を遂げた賀姫のために、その場所を選んで建てたのだそうである。

 現在では押し寄せる宅地化の波により青池も小さくなってしまったが、今もなお、滾滾と湧き出る水を湛えつつ、ひっそりと散歩する人々に癒しと憩いの場を与えている。池のほとりには大蛇を祀ったとされる弁天堂があり、昭和40年代頃までは広がる水田の中に大蛇の跡の「蛇溝(じゃみじょ)」と呼ばれる水路や、溝が太くなった場所の「見返り淵」などが残っていた。

 

※私の藤枝の実家に伝わる物語の一つ。実家に不幸があると、三号瓶を持って青池の水を汲みに行き、仏前に供える仕来りがあるが、理由は分からない。神戸家の菩提寺である長楽寺には、粉川長楽斎婦人が使っていたと思われる髪飾が今も安置されている。

 

孤独


運の悪さはあたしの定め

夜につまずき恋をする

酔って飲み干すグラスの底に

あんたの嘘がこびり付く

 

あんたの温もりシャワーで溶かし

忘れたふりして夜を往く

重ねた身体に染み付いた

過去の重さが泣きを見る

 

夜を切り裂く孤独の影に

一人震えて夢を見りゃ

あんたの横顔遠ざかる

一夜限りの恋だった



 久しぶりにカバー曲の紹介。これまで、「夏休み」「紙飛行機」「あどけない君のしぐさ」「海岸通り」「バス通り」など吉田拓郎、井上陽水、イルカ、甲斐バンド等の曲で自分が最も得意とする楽曲を選んで紹介して来たが、今回の曲「リンゴ」もまた吉田拓郎の3rdアルバム「元気です」のB面に収録されている最も短い曲である。
 オリジナル曲の「夏の想い出」はもう暫くお時間を頂けると有難いです。必ず紹介させて頂きますのでよろしくお願い致します。
 さて、この「リンゴ」は、漫画家「上村一夫」の作品の中で『漫画アクション』において、1972年に80回に渡り連載された人気漫画の『同棲時代』をテレビドラマ化した際に挿入歌として使用されている。
 ドラマは「梶芽衣子」と「沢田研二」が共演し当時は最も人気のあった二人だけに、話題をさらった人気番組として記憶に残っている。映画化された際の主演は「由美かおる」「仲雅美」であった。
 このドラマの影響で、当時の若者たちの間で「同棲」が流行ったと記憶しているが、そう言う筆者も同棲経験があり、リンゴを聴くと当時のほろ苦い青春の1ページが時間を超えて鮮やかに蘇って来るが、私の同棲相手は先日紹介した息子「勇樹」の母親である…。
※動画がご覧になれない方はお使いのブラウザを「Google Chrome」等に変更して再度お試し下さるようお願い致します。

※ギター:神戸俊樹/三好清史
      ヴォーカル:神戸俊樹
       アレンジ:神戸俊樹