プールサイドの人魚姫 -23ページ目

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

ワールドカップ


 約一ヶ月間に渡り熱戦を繰り広げたサッカーワールドカップ2014、そのゴールの頂点に輝いたのはドイツだった。準決勝で地元のブラジルに7対1で大勝しその勢いのまま臨んだ決勝戦。堅牢な守りで定評のあるアルゼンチンは、攻守ともに安定した試合運びで決勝へと駒を進めて来た強豪。

 両チームとも技術・総合力とも拮抗しているだけにどちらか先に1点を取った方が優勝に大きく前進するのは目に見えていた。ドイツは『クロース選手』を中心とした連携プレーでゴールを狙う。それに対しアルゼンチンも負けじとエース『メッシ選手』のドリブル突破などで攻め入った。

 然し両チームとも得点には至らず、試合は延長戦へともつれ込んだ。そして迎えた延長後半8分、スタジアムが歓喜の声で大きく揺れた瞬間だった。左サイドを突破したドイツの『シュレール選手』が左足でクロス。すかさずこのボールを胸トラップした『ゲッツェ選手』そのまま素早くボレーシュート。ボールは吸い込まれるように白いゴールへ…。

 この1点が決め手となりドイツは24年振り4回目のW杯制覇を果たした。今年で20回目を迎えたFIFAワールドカップ2014は、開催国ブラジルに32ヵ国の強豪が揃い、32日間に渡り激闘を繰り広げて来た。

 優勝に最も近いブラジルは地の利を活かし順当に勝ち上がって来たが、そこに眼前と立ちはだかったのが南米勢の優勝を拒む欧州を代表する強豪のドイツであった。誰もが予想しなかったブラジルの大敗に、サッカーの持つ魔力を垣間見る思いがした。

 今大会でアジア勢が尽く姿を消してしまったのは寂しい限りであり、世界の壁が余りにも高くそして厚いのを聴衆よりもプレーヤーたちが身を持って感じていた事だろう。日本代表は初戦のコートジボワールに逆転負けした事が後の試合にも尾を引いた形となり、実力の半分も出さないままブラジルに別れを告げた。

 日本にとって多くの課題を残した大会であったが、日本の選手が他国の選手と比べて劣っている訳ではない。海外の一流チームで活躍する『海外組み』を中心にした万全のメンバーで臨んだ筈である。然し、個人のプレーがどれほど優秀であってもそれだけで優勝出来るものではない。

 随分昔の話しであるがプロ野球の巨人が『9人全員4番打者』と言う時期があり、優勝は間違いないと思われていたものの、最下位を味わう結果となっている。野球やサッカーのように複数の選手で行われる試合は、チームプレイの優れた集団が何よりも勝っているのである。

 『自分の持つ技術力・才能は他者の為にある…。』私がスポーツを通じて学んだこの言葉で今日の記事を締めくくりたいと思う。

七夕


 七夕の時期を迎えると私はどうしても忘れられない記憶が蘇ってくる。それは『七夕豪雨』と呼ばれ、1974年(昭和49年)7月7日に静岡市付近を襲った集中豪雨の事である。この集中豪雨の24時間連続総雨量は508ミリを記録し、静岡に於ける気象台観測史上最高記録となった。

 当時の私は18歳で、心臓弁膜症の手術をまだ受けておらず、静岡市沓谷にある『中央工芸静岡支社』で看板の制作やデパート等の内装・装飾の仕事に就いていた。日中はペンキだらけになりながら様々な内容の仕事に追われ、夕方になると呉服町の『ふしみや』8階にある『日本デザイナー学院』の夜間部に通い、グラフィックデザインの勉強に明け暮れていた。

 その日は仕事が終わった後、来週提出する課題『鉛筆デッサン(コカ・コーラの瓶)』に取り組んでおり、誰も居なくなった事務所で時間の経過も忘れて無心に鉛筆を走らせていた。

 中々思うように仕上がらないデッサンに少し嫌気が差し始めていた。事務所のガラス窓には叩きつけるような激しい雨音が乱反射を繰り返していた。時計に眼をやると午後11時を少し回っていたので、続きは明日にしようと思い、大きなシャッターをガラガラと開けアパートに帰ろうとしたが、余りにも激しい大粒の雨が真っ黒な空から降り注ぎ、コンクリートを容赦なく打ち付け、跳ね上がった水滴が白煙のようになって辺り一面を覆い視界もまともに見通せなかった。

「傘があってもこの雨じゃずぶ濡れになる…」そう思って帰るのを止めて事務所に泊まる事にした。来客用の少し長いソファに横になると、仕事とデッサンの疲れが一気に押し寄せものの数分もしない内に深い眠りの中に陥った。

 どのくらい時間が経っただろうか?耳元に「ピタピタ」と何か水の揺れる音で眼が覚めた。ところが、付けっ放しだった部屋の照明が全て消えており、辺は真っ暗闇であった。何かただ事ではない危険な気配を感じ取り、手をソファの下に持って行くと冷たい水に触れた。

「うわぁ!やばい…」と慌てて2階の小部屋に急いで駆け上がりそのまま朝が来るのを待った。昼夜降り続いた雨も漸く上がり、東の空が白々と明るくなって来た頃に1階の作業場を見ると、水水水…。あらゆる物がプカプカと浮かび上がり其処ら中が水浸しとなっていた。

 外がどうなっているのか気になり、1階に降りて衣服のまま雨水の中を歩きシャッターを開けた。どんより曇った空には早朝の静けさを掻き消すように、ヘリコプターがバタバタと轟音を響かせ舞っており、眼の前に拡がる光景は一瞬にして湖面へと姿を変えていた。

 兎に角、アパートに帰らなくてはと思い、ゆっくりと雨水の中に歩を進めて行った。最も深い部分は水が腰辺りまで来ており、この先無事にアパートに辿り着くのか心配になった。会社からアパートまでは徒歩5分もあれば十分であったが、広い道路を見て言葉を失った。

 道路上を走っているのは車ではなく、モーターボートだったからである。アパートは2階だった為、被害に会う事はなかったのが救いであった。

 この前代未聞の集中豪雨で、死者27名、全壊・流出家屋32戸、床上浸水11,981戸、床下浸水14,143戸と大規模災害となった。

 人気アニメ『ちびまる子ちゃん』の中で『まるちゃんの町は大洪水』と題して紹介されており、作者のさくらももこさん自身がこの豪雨を体験している。

 地球温暖化が叫ばれるようになって久しいが、年々その影響は加速しており、人間の環境破壊は留まる事を知らない。自然と共存してこそ人類の反映は築かれているのであるが、私利私欲に走る人間が余りにも多すぎる。

 人類がこの先も地球と仲良くやって行きたいのであれば、愚かな戦争や競争を止めて内なる自然の声に耳を傾けるべきである。その優れた知恵と勇気を明るい未来の為に使おうではないか。

 

ドラッグ


 巷に溢れ返る脱法ハーブは、いとも簡単に子どもでさえ手に出来そうなほど身近な存在となっており、この合法ドラッグを巡って年々事件・事故が多発している。

 これについて法の整備が追い付かず、対応は終始後手後手で終わり、早急な法整備による取締りが急務となっている状況である。

 先日24日に池袋の繁華街で起きた「暴走車事件」では、歩行者7人が車に跳ねられ重軽傷を負い、中国人女性の林雪琴さん(30)が死亡すると言う痛ましい結果となった。

 逮捕された名倉佳司容疑者は、運転直前に脱法ハーブを吸っていた事が明らかになっており、逮捕時、運転席で眼は虚ろ、意識は朦朧とし中途半端に開いた口からはヨダレがだらしなく垂れ、自力で車の外に出る事が出来ず、署員に引っ張り出されると言う状態であった。

 名倉容疑者が吸っていたと思われる脱法ハーブは、最近になって流通し始めた幻覚作用の強い最新型である可能性が高い事から、警視庁は入手経路やハーブの分析を急いでいるようだ。

 脱法ハーブは2004年頃より、欧州を中心として「Spice」と言う名称の乾燥した植物片を芳香剤やお香として販売し、喫煙する事により大麻と同様の作用が現れると言う噂が広まり人気を得るに至った経緯がある。然し、調査の結果「Spice」から大麻成分は検出されず、含有成分を特定する事が出来ず不明のままであった。

 その数年後の再調査で「Spice」から大麻と類似する作用を示す「合成カンナビノイド」が検出され、この時点で初めて人工的に合成された薬物が添加されている事が明らかになった。

 巷に出回っている脱法ハーブの殆どは、お香や芳香剤などと偽った目的で販売されており、指定薬物として薬事監視員による監視及び指導が行われているが、単純所持や使用の場合は規制外とされ、購入者の規制は事実上無しである為、罰せられない事から「合法ハーブ」として乱用を助長している側面もある。

 それにしても、このような実に危うい薬物を使用して車のハンドルを握ると言う行為は、脱法ハーブ以前の問題であり、「車は凶器」であると言う認識がドライバーに浸透しておらず、車社会を生きている私たちの最も身近なリスクの一つでもある。

 私も車の免許は持っているものの、精神科の主治医から「車の運転は出来れば止めておいた方がよい」とアドバイスを頂いた事もあり、メンタル系の薬を服用するようになってからは運転から遠ざかっている。

 メンタル系の薬に限らずどんな薬にも副作用は付き物であるし、特に眠気を催す薬は要注意である。時代とともに複雑化する人間関係や、情報化社会の波に呑み込まれて自分自身を見失い、路頭に迷う疲れた人々の心に降って沸いたような悪魔の囁きが語りかけて来る…。

「極上のひとときを貴方に、未体験ゾーンが貴方を待っている」あなたはこの誘惑に打ち勝つ事が出来ますか?



前回、吉田拓郎の「夏休み」をアップしたところ意外と好評だったので、今回は「海岸通り」をアップ。
この曲は1974年にヒットした曲なので、フォーク世代の人にとっては郷愁を誘うこと受けあい。
オリジナルは「かぐや姫」のメンバーだった伊勢正三であるが、イルカ(本名:かんべとしえ)が見事にカバーし、名曲として蘇えった。
原曲を殆ど聴いていないので、まともに練習もせずぶっつけ本番で演奏してみたが、テイク2程度ですんなり録音出来た。
自分なりにアレンジしているので、完全コピーとはいかなかったが、雰囲気は出ていると思う。
是非、皆さんも一緒に歌ってみて下さい。
ギター/ヴォーカル:神戸俊樹
ギター:三好清史

※前回アップ時に動画の部分が忙しなく聴きづらいとのご意見があった為、動画を再編集して作り直しました。
ブラウザによっては動画が見られない場合がございます。そんな方はこちらをクリック→海岸通り
初掲載2010年4月5日20時46分47秒。

ナギサ


スポットライトが熱い夜

グラスの向こうに貴方の笑顔

見付けられたら幸せよ

覚えておいて今宵の宴

熱い視線にとろけるボディ

ウォウォウォ夜明けの投げkiss

イェイェイェ今夜は返さない

 

握ったマイクに滲む汗

流れるビートがボディを揺らす

貴方の前なら可愛い女

演じてやってもいいかしら

いつもの台詞で口説いてよ

ウォウォウォ恋する胸騒ぎ

イェイェイェ抱かれて眠りたい

 

こぶし回せば演歌の女王

旅で拾った恋ねぐら

枕に滲む涙の跡は

破れた恋の物語り

グラス傾け夢を呑む

ウォウォウォなぎさのロックンロール

イェイェイェ吐息のロックンロール

創刊号

 
 書籍の紹介をする前に先ず、ムジカ代表の葛原りょう氏に祝辞の言葉を贈りたいと思う。去る3月11日、俳句の芥川賞と言われる『芝不男新人賞』の副賞を葛原氏が受賞。俳人で著名な『対馬康子奨励賞』である。

 彼の快挙に思わず身体が震えてしまったほどで、同じ文学界の中で生きようとしている同胞からの知らせは他人事とは思えず、食い入るように彼のフェイスブックを何度も見詰めてしまった。

 苦節16年、殆ど無所属で俳句の世界に身を置きながら、半ば諦めにも似た哀愁さえ漂う中での今回の受賞は、他の俳人たちにも大きな夢と希望を齎してくれたものと確信する。

 葛原りょう君、受賞おめでとうございます。お祝いの言葉が遅れてしまい申し訳なく思いますが、貴殿の今後の活躍を陰ながら応援させて頂きます。

 そして更に嬉しい知らせが届き、私も少し興奮気味である。5月13日の朝日新聞全国版の夕刊文化欄に彼の俳句が掲載!葛原君にとっては俳句での初仕事となった訳である。やはり受賞の影響は大きく、詩と違って短歌や俳句の歴史が古い日本独特の文化が追い風となっている様子も伺える。今後の彼の動きに眼が離せない状況である事は間違いないだろう。

 さて、大衆文藝ムジカ創刊号であるが、当初は昨年12月24日クリスマスイブに発売する予定であった。然しながら、雑誌や書籍と言う類のものは予定通りに原稿が揃わなかったり、校正や推敲に想定外の事態が発生したりとトラブルが付き物である。

 葛原氏の体調不良などアクシデントの連続で、予定より約4ヶ月遅れの4月15日『大衆文藝ムジカ創刊号』発刊の運びとなり現在、写真をご覧の通り、前回と同じく『紀伊國屋書店新宿本店2階』にて平積み陳列。浦和パルコ店ではレジの直ぐ隣りにあるワゴン車の中に創刊準備号も一緒に陳列されると言う反響ぶりである。

 さて、気になる中身であるが、前作の準備号を遥かに凌ぐ内容となっており、ページ数も増え完成度の高い作品がぎっしりと詰め込まれている。活字の好きな方であれば、十分納得の行く読後感を味わう事が出来るだろう。

 そして何といっても創刊号の目玉は、大ヒット漫画『鈴木先生』の原作者である文藝漫画家の武富健治、詩人・葛原りょう両氏による誌上対談が実現!約12ページにビッシリと隙間なく書き込まれた両氏の熱き想いを是非体感して頂きたい。

 さて、私自身はと言うと今回は詩ではなく心温まるエッセイを寄稿し、64~65ページに掲載されている。準備号では息子の勇樹も作品を寄稿し写真詩として掲載されたが、今回は多忙を極める仕事の理由などから辞退したようである。

 地方の新聞社(群馬・上毛新聞/岡山・山陽新聞)などから取材の申し込みがあったりと、商業誌としての確固たる基盤作りも大海の荒波にもめげず、文藝と言う洋上に高々と帆を掲げ舵を切った。最も難題となる新たな読者獲得の為、更に販路を拡大し、大衆文藝の名に恥じぬ作品作りに邁進して行くものである。

※ムジカでは新たな投稿欄として『ムジカ新鋭衆』を設置。詩、短歌、俳句、自由律俳句、川柳など貴方の投稿をお待ちしております。

 投稿・問い合わせ先→「bungei_musica@yahoo.co.jp」。

※ムジカのお求めはこちら→『紀伊國屋書店新宿本店2階』『紀伊國屋書店浦和パルコ店5階』『ジュンク堂吉祥寺店』『大衆文藝ムジカ事務局』。

ヒロポン


 日本の音楽シーンに輝かしい時代を築き上げた人気デュオ『CHAGE and ASKA』。その一人であるASKA(アスカ・本名:宮崎重明)容疑者(56)が先日の5月17日、南青山のマンションから出て来たところを待機していた警視庁の捜査員によって逮捕された。

 容疑は覚醒剤取締法違反(所持)であった。逮捕当初は容疑を否認し続けていたが、23日になって容疑を認め、「覚醒剤を使用した事がある」と供述をしているようだ。同時に逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者とは一年ほど前から愛人関係にあったとされており、ASKAの夫婦間に亀裂を生じさせる要因にもなっていたらしい。

 90年代の音楽シーンに絶大な人気を誇ったチャゲ&アスカ。人気ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった『SAY YES』は280万枚と言う記録的なセールスを樹立。その後、彼らの人気は留まるところを知らず、破竹の勢いでレコードセールスを塗り替え、巷ではチャゲアス旋風が巻き起こるほどであった。

 私の記憶を振り返ってみると、彼らは確か7人編成のバンドとして音楽活動を始め、その頃は『チャゲ&飛鳥』と名乗っていた。当時、ヤマハが主催するポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)が音楽界の登竜門とされており、このコンテストを踏み台にして大きく羽ばたいて行ったミュージシャンは数多く、井上陽水や八神純子、中島みゆきなどもポプコン出身である。

 チャゲ&飛鳥の曲を初めて耳にしたのは、『コッキーポップ』と言うラジオ番組で、『流恋情歌』と言う歌だった。どことなく演歌を思わせる歌詞とメロディが強烈で、私のお気に入りの一曲となった。この流恋情歌で、ポプコンつま恋本選会に出場し入賞を果たした。

 彼らのデビュー曲は『ひとり咲き』であるが、この時は既にバンドではなく、チャゲと飛鳥の二人だけであり、ここから『CHAGE and ASKA』へと栄光と野望のリズムを刻み始めて行く事となる。

 今回の逮捕に至ってはおそらく氷山の一角に過ぎないであろうが、増える事はあっても一向に減らない薬物乱用やそれに付随した事件・事故が多発する中で、当局にしてみればニュースなどマスコミが飛び付くような人物の逮捕がどうしても必要であった。

 アスカ容疑者のような大物歌手を逮捕する事によって、事件の深刻度を世間にアピールする狙いも当局にはあり、『見せしめ逮捕』とも受け取れる。

 覚せい剤などの違法薬物について時間を少し遡ってみると、国が暗黙の内に使用を認めていた時期がある。日本が軍部の統治下に置かれていた戦時中の事だ。兵士の士気を高める為にヒロポンを使用したり、軍需工場の効率を上げる為、作業員に錠剤を配布するなどして労働時間を大幅に増やし、強制的に作業に就かせていたとも言われている。

 戦争と言う異常事態と狂気に満ちた時代だったから、薬物も必要悪とされていたのかも知れない。一昔前までは若年層に薬物使用が広がり、社会問題にまで発展した経緯がある。ところが、現在ではその若年層よりも40、50代の中高年層に覚せい剤の影が付き纏うようになった。

 社会的・経済的にも安定した年代の人たちが何ゆえ覚せい剤に手を染めてしまうのか、その背景に見え隠れするのは苦悩する大人たちの心の叫びである。管理型社会のストレスは増大する一方で、ストレスの捌け口が見つからない、或いは発散の仕方に戸惑いを覚える中高年たち。金銭的な余裕も手伝って手っ取り早く入手した薬物に身を委ねてしまうと言う、実に危うい覚せい剤の構図が見えて来るのである。

 逮捕されたアスカ容疑者もまた50代の中高年層であり、歌手としての絶頂期も既に過去物語りになりつつある。一度頂点を極めた者にとって、その時代が華やかであればあるほど現状を受け容れがたくなり、ヒット曲からも疎遠になればなるほど焦燥感に苛まされ、眠れない夜が何日も続く事となる。

 もう一度夢を実現しようと思っても、曲作りのイメージが浮かんで来ず、その結果薬物の力を借りる事となり、気が付けばその薬物地獄から抜け出せなくなってしまうと言った、薬物依存のループに嵌り込んでしまうのだろう。

 歌手は必ずしもヒット曲を出す必要がある訳ではない。もちろん歌がヒットし、有名になりファンも増えて来れば大スターの舞台を歩む事は容易くなるだろう。然し、それよりもある一曲を数十年と長く歌い続ける、歌い継がれて行く事こそが、本来の歌い手と呼べるのではないだろうか。

 人の心を揺さぶり、いつまでも心の中に残る曲が一曲あれば、ヒット曲に恵まれなくとも名歌手・名曲として音楽の歴史に名を残す事が出来る筈である。

城ヶ島


 店内は目立っていた空席もほぼ満員となり、私と父の周りにも仕事帰りの若い女性や、背広姿のサラリーマンたちで混雑し始めていた。

 「藤枝に帰ったらどうするの?ラーメン屋はもう出来ないでしょ?」

 「ああ、そうだな、まあ、少しのんびりするか…」

 「勇次とは連絡取ってるんでしょ?」

 「ああ、迎えに行くと手紙が来たが、断った」

 「なんでまた断ったの?悪いのは勇次でしょ」

 私は父の返答が不満でならなかったので、少し強い口調で言った。

 「まあいいさ、もう終わった事だ…」

 父は自分で納得しているようだったので、これ以上その話題に触れるのは止めておいた。

 「お腹空かない?」

 「そうだな、何か食べるか」

 「店を変えて他に行こうよ…」

 「ああ、そうするか」

 二人分の代金を済ませ、地上に出ると辺はすっかり暗くなっていた。時計を見ると7時半を少し回っている。父と一時間以上も話し込む事など今まで無かったので、私はある種の充足感を密かに抱いていた。

 「シャリン、シャリン、シャリン」私の直ぐ後ろを付いて来る足音がどこか懐かしい。父の履く雪駄は昔から蛇革の鼻緒と決まっていた。その雪駄が当時、どれほど高級な履物だったか幼い私には知る由もなかったが、その雪駄を履いてお使いへと出掛けたものである。子どもの小さな足に雪駄は似合わないけれども、父の温もりが伝わって来るような気がして、私はそれを履くのが大好きだった。

 松坂屋の直ぐ下を通り、丸井静岡店のある方向へと歩を進めて行った。

 「藤枝まではどうやって帰るの?」

 「うーん、まだ決めてないがどうするかな…」

 「電車だと藤枝駅でバスに乗り換えだよ」

 「ああ、バスだとどうなんだ?」

 「新静岡センターから藤枝駅行きが出てるから、乗り換えなしで直通だね」

 「じゃあ、バスで帰るか」

 「それならセンターの近くのお店がいいね、何食べる?」

 「そうだな…、蕎麦でも食べるか」

 丸井デパートの角を曲がり、新静岡センター方面へ向かう。暫く歩くと、薄暗い路地の片隅に「戸隠そば」と墨文字で書かれてある看板を見つけた。「ここでいいよね」と言いつつ、紺色の暖簾をくぐり中へと入った。

 食事の時間帯にもかかわらず店内は意外と空いており、和室風に施された室内は日本そば屋特有の静けさが漂っていた。カウンター席と奥が畳の座敷となっていたが、出入り口に近いテーブル席に座った。

 「いらっしゃいませ、ご注文が決まりましたらお知らせ下さい」

 品の良さそうな中年の女性が、おしぼりとお茶を置いて行く。

 「うーん、僕はたぬき蕎麦、父ちゃんは?」

 「ざる蕎麦にするかな」

 私は蕎麦を見ると、どうしても忘れる事の出来ない記憶がよみがえって来る。藤枝の実家では、父と祖母の三人で暮らしていた時期があり、祖母が亡くなる9歳頃までは祖母が親代わりでもあった。

 伯父の亨は、東京の(陸軍)中野学校を卒業した後、特に決まった仕事に就く訳でもなく、実家の3軒隣にある「柊屋」と言う蕎麦屋で暫くの間手伝いをしていた。その蕎麦屋には伯父の昔からの友人が店を継いで切り盛りしており、町内では「柊屋」の「支那そば」が絶品と評判で人気が高く、東京から噂を聞きつけて食べに来る客までいた。

 実家には父が居た事と、父の不良仲間が頻繁に出入りしていたため、伯父は実家に寄り付こうともせず、自分でアパートを借りて住んでいた。父が家を長く留守にしている時などは、祖母と私は二人で寄り添うように慎ましい暮らしをしていた。

 働かない父の代わりに祖母が仕出し弁当を作っていたが、その受注先は「藤枝警察署」であった。留置場に拘留されている犯罪者が食べる弁当で、漆塗りの高級そうな四角い器に採れたての食材を幾つも並べ、大きな釜で炊いた真っ白なご飯の上に、ごま塩や自家製の梅干を添える。そして鮮やかな緑色の植物ハラン(これも自家製)にギザギザの切れ目を入れ、弁当に添えて完成させる。

 それを現在の弁当に例えるならば、高級幕の内弁当がぴったり当てはまる。祖母の作る高級弁当を眺めながら「一体誰が食べるんだろう…」と最初は疑問に思っていた。自分が食べたいと思っても一切口には出来ず、小さな胃袋を満たしてくれたのは、コロッケや鰹節くらいのものだった。

 夜9時になると、近くの岡出山公園から「ねんねんころりよおころりよ~」のオルゴールが流れて来る。「さあ、良い子の寝る時間ですよ…」と母親の様に優しく語り掛けて来るその音色が子守唄替わりになって寝入ってしまう子もいたが、私の場合は少し違った。

 私を寝し付けるために祖母が歌う子守唄は、「城ヶ島の雨」だった。

 ――雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
   雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き――

 北原白秋作詞/梁田貞作曲。大正9年に奥田良三が歌い(レコード化)大ヒットした楽曲で、日本歌謡の先駆けとなった。おそらく祖母が若かりし頃にこの歌を聴いて、お気に入りの一曲としたのであろう。私の耳元で囁くように歌う祖母の「城ヶ島の雨」が心地よく、いつしか私は夢の淵へと吸い込まれて行くのであった。

 

愛言葉


午前0時の扉を開く

二人だけの秘密の合図

甘いバニラの吐息を吹きかけ

高鳴る胸の谷間に薔薇が咲く

開けてはならぬと囁く夜が

二人の逢瀬を戒めても

アダムとイヴが寄り添うように

熟れた果実は余りにも甘過ぎて

齧った分だけ耽美な夜が訪れる

二人を結ぶ愛言葉

戯れのmidnight

愛と言葉の真実を…

 

直下型

 GWも終盤に差し掛かった5月5日、早朝5時を少し回った頃、伊豆大島近海を震源とするM6の地震が発生。都心の千代田区では最大震度5弱を観測し、東日本大震災が発生した3年前の3.11以来の強い地震となった。

 地震が発生したその時間、私は珍しく少し早めの朝食を摂っていた。最初に揺れを感じた時は震度2程度の軽いものであったが、揺れが収まったその数十秒後に下からドスンと突き上げるような揺れがあり、棚から物が落ちて来るのではないかと思うほどの強い揺れに変わった為、「うわぁ、ヤバイ!」と小声で呟きつつ咄嗟にベッドから降り、直ぐ横にあるデスクトップPCを両手で押さえた。

 3.11の時はそんな行動をとる暇もないほど強烈な揺れの中で呆然としていたが、気が付いた時は部屋中に物が散乱し、パソコンもラックから飛び出して倒れかかっていた。そんな3年前の経験があった為、大切なデータ類がぎっしり詰まっているPCを、自分の身体よりも優先して保護しようという咄嗟の判断だった。

 幸い今回の地震による被害は殆どなかったようで、首都圏も平穏無事にその一日を迎えていた。然しながら未曾有の3.11大震災発生以来、日本列島を取り巻く地震環境は大きく変化し、列島の何処で巨大地震が発生しても何ら不思議ではない「リスク列島」へと日本は姿を変えてしまった。

 気象庁の発表によれば、今回の地震が想定されている「首都直下地震」とは震源域も異なるため関連性は低いものと説明されておりむやみに心配するほどの事はないと思われる。然し、直下型地震の引き金になる可能性も0ではないため、何れその時が来るであろう「東京直下型巨大地震」への心構えと防災を徹底し、被害を最小限に抑えるための訓練を、個々の人々が実践してこそ「心と身体の防災」へと繋がって行くものである。

 私のように病気を抱え、毎日大量の薬を服用している者にとっては、二重のリスクを背負う事となる為、障害を持つ人たちは優先して援助の手が差し伸べられるシステムが整ってはいるものの、緊急事態の場合は何が起こるか分からない想定外のリスク発生も十分に考えられる。

 援助の手を待つだけではなく、自分で出来る範囲の事は自己責任で解決しておきたいものである。家の外に逃げる状況になった時の為に、私の場合はまず最低でも一週間分の薬と新鮮な水を常備し、持ち出せる状態にしておく事だろうか。

 「備えあれば憂いなし」の言葉通りで、災害に対する意識の向上と日頃の心構えこそが、自分或いは他者の命を守る結果へと結び付いて行くのではないだろうか。