この病室の窓から
踊る君の姿を眺めていた
明るい空の下で
快活に飛び跳ねる
若き命の塊よ
脈打つ心臓は
明日の未来を夢見ているか
その笑顔は
純粋な心を育む
エネルギーになっているか
若く明るい健全な魂よ
その場所から
化石のように病んだ
この身体が見えるだろうか
くすぶった灰色の空のような
悲しみを握りしめて
この病室の窓から
放り投げている私の姿が――
元旦に外出したのは何年振りの事だろう…。家族4人で暮らしていた頃は近くの帝釈天に初詣と、我が家の恒例行事になっていたが、離婚して一人暮らしになり今の所に越して来て6年目。過去5年間、常に体重増加と心不全を意識して正月を迎えていたような気がする。
今年は初詣にもまだ行っていないが、それより貴重な体験をさせて頂いた。私にお呼びの声が届いたのは昨年、退院してまだ間もない頃だったと思う。
大衆文藝ムジカの責任者、そして詩人で歌人・俳人でもある『葛原りょう』氏からフェイスブックを通して吉祥寺の老舗ライヴハウス曼荼羅で元旦ライヴを行う旨、参加の呼び掛けがあった。
当然の事ながら私は退院間もない身であり、一ヶ月は自宅静養が当たり前であったから、「参加する」と即答出来ず、「体調が良かったら行きます」と返答を濁らせた。
そして迎えたライヴ当日、体調は思ったよりよかったので退院後初めての電車を乗り継ぐ外出となった。正月の東京は人影や走る車の数も少なく閑散としている。凍てつく真冬の空は今にも雪がやって来そうな厚い雲に覆われていた。
開場は16時だったが、30分ほど早く会場に到着。吉祥寺に降り立つのも随分久しぶりの事となる。受付もまだ始まっていなかったが、B1階のドアを開け中の様子を覗き込んでみると、中では出演者たちのリハサール中だった。
入口に立つ私の姿に気付いた『久留素子』さんが、真っ先に声を掛けて来た。「かんべさん、かんべさん…」「お久しぶりです」満面の笑みを浮かべつつ握手を交わす。彼女も今日ステージに立つ一人である。そして『葛原りょう』君と握手。
病み上がりの身体を気遣う彼に促されながら、ベンチ型の長椅子に席を設けた。正月恒例のイベントとなっているこのライヴは飛び入り参加もOKで、もし私の体調が万全だったら詩の朗読に挑戦してみたいと思ったが、10年前100名の同窓生の前で詩を二つ朗読して以来、その機会から遠ざかっており、とてもステージに立つ余裕もなかった事から観劇に徹する事とした。
オープニングは司会・進行役を務める『葛原りょう』君の詩の朗読で幕を開けた。出演者たちが自分の得意分野を披露するその内容はバラエティに富んでおり、詩、俳句、短歌、小説の朗読以外に、アカペラ、カンフーの演武、ピアノ演奏、舞踏など多岐にわたっている。
会場にはNHKテレビ連続ドラマ『鳩子の海』や『Gメン75』などでお馴染みの女優『藤田三保子』さんもみえており、葛原君の紹介でステージに上がり熱いメッセージを私たちに贈ってくれた。
アーティスト個々の演劇も素晴らしい内容であったが、私にはもう一つ密かに楽しみにしていた物があった。素子さんから事前に情報を得ていた『お雑煮』である。「お正月だからやっぱりお雑煮が食べたいかなぁ…」「曼荼羅でもお雑煮が出るそうですよ」。この一言で曼荼羅行きを決めてしまった部分もあった。
曼荼羅のカレーも美味しいと人気メニューであるが、この『お雑煮』がまた格別の味で「うーん、美味い」と声が出てしまったほどである。見た目はあっさり上品だが、出し汁がしっかり効いていて、何杯でもお代わりをしたくなるほどだった。お雑煮を頂くのも、一人暮らしを始めてから長い事口にしていなかったので、より一層このお雑煮の味が五臓六腑に染み渡ったのは言うまでもない。
約4時間にわたるライヴが終了し、二次会へのお誘いもあったが、流石に疲れて二次会に参加する余力も残っていなかったためお断りしたが、こうして私の1年が普段とは違うスタートを切れた事に感謝するとともに、見事なパフォーマンスを披露してくれたアーティストの皆さんにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
店の外に出ると、星も凍てつく冷たい夜風にコートの襟を立てたくなったが、心の中は言葉の温もりで一杯だった。来年もっと元気な自分でいたなら今度はステージに立ってみよう、マイクを握りしめて叫んでみよう…。そう思いながら曼荼羅を後にし、帰路へと就いた。
私の今年の抱負は入院しない事。毎年、同じ目標を掲げて来たが、過去7年間でそれを達成出来た試しがない。最も酷かったのは脳梗塞で新年を迎えた2年前の時。右半身完全麻痺の状態から、後遺症全くなしと言う奇跡の復活を果たしたまでは良かったが、その後がいけなかった。
2月~4月にかけて心不全を2回起こし救急搬送。そして記憶に新しい昨年1月、蜂窩織炎と心不全で緊急入院し左奥歯を3本抜歯、痛み止めが効かずモルヒネを使用。この時の入院で初めて腎臓内科に掛かる事となった。
「今年は入院1回で済みそうだと…」と高を括っていた矢先、11月末に心不全で救急搬送、体重が思うように落ちてくれず2週間の予定が3週間かかり、12月18日に妥協しての退院となった。
その退院からまだ1ヶ月も経っていなが、何とかギリギリ体重を維持しているものの、1~4月における気温の低い時期は心臓に余分な負担がかかりやすいため要注意である。前置きが長くなってしまったが、今年もやって来た1月7日の誕生日。
静岡にいる息子『勇樹』から玄米(ひとめぼれ)30キロが届いた。昨年『ひとめぼれ30キロの思いやり』と題して記事を書いたが、その時は白米であった。それが今回、玄米に変わったのには訳があった。
入院を何度も繰り返している内に心臓以外に腎機能も悪化の一途を辿って行った。腎臓内科の担当医から「かんべさんの腎臓は30%の機能しかありません…」と告げられ、その場で返す言葉もなく私は沈黙し俯いてしまった。
余命1年を宣告された26年前よりショックだった。心臓の場合は手術をすれば元気になれると言う希望があったのでそれほどショックもなかった訳であるが、それに比べると腎臓の場合は非常に厄介で、病気がかなり悪化し末期状態になって初めて自覚症状が現れるため、気付いた時には手遅れと言う事態も少なくないようである。
私の場合も長い期間に渡り腎臓病に対するアプローチやフォローもなくここまで来てしまったため、気付いた時には腎機能30%だったと言う事なのだろう。心臓病と同様に腎臓病を治す薬は今のところ存在しておらず、腎機能を助ける対処療法や食事療法などで出来るだけ腎臓に掛かる負担を減らす事が最善の方法になっている。
退院日が近いて来ると、希望すれば栄養士から退院後の食事指導が受けられるが、自宅に戻ってからが本当の闘病生活の始まりである。病院から一歩外に出れば、別世界が待ち受けている。特に『食欲』に対する誘惑は街の至る所に存在し、食の脳幹を刺激して来る。
厳しい食事制限を言い渡され、『食の楽しみ』を奪われてしまうと尚更美味しい物が食べたくなってしまうのだ。然し栄養士や看護師などから言われた事を守らなければ、即座に病院へ逆戻りの結果が待ち受けている。
玄米、腎臓病をキーワード検索すると、玄米をメインとした腎臓食のレシピが数多くヒットする。人間に必要なビタミン、ミネラル、食物繊維など40種類が豊富に含まれている事も初めて知った。但しメリットばかりではなく、デメリットもある事を承知しておかないと玄米依存に陥ってしまう可能性もあるので気を付けたいところである。
玄米初体験、30キロあれば半年は米を買う必要もない。息子の真心に感謝し、生まれて初めて味わう玄米の食感を噛み締める父であった。
喪中につき新年のご挨拶をご遠慮させて頂きます。
郷里の藤枝に住んでいる従姉の父親『神戸福治』が93才にて老衰の為、永眠致しました。
一昨年末に亡くなった伯母『ふさ枝』の後を追うように、静かに息を引き取ったとの事でした。従姉からその知らせが届いたのは私が入院中の事だった為、喪中ハガキを用意する準備時間もなく、また藤枝に帰省し、仏前に手を合わせる余裕もありませんでした。
ふさ枝、福治、この両人とも幼い頃に大変お世話になっており、私にとっては親も同然の存在でした。暴力団との諍いで逮捕された父『信夫』が、藤枝警察署の拘置所で号泣した話しを今でも忘れられません。
※藤枝警察署の取調室に男が四人いた。父を中心に話し込んでいるのは担当の巡査、伯父の福治、そして祖父の弟、良一だった。
「信さん、どうするよ」と巡査が言った。
警察署員が犯罪者に「さん」付けで呼ぶのはこれが初めてではないだろうか。元々父はここの署員だったし、同僚も数名おり、顔なじみだったからだ。皆の前でうなだれ、酒の切れた父はそれこそ牙を抜かれた狼同然だった。福治が続けて言う。
「俊樹をどうするつもりだ」
「おみゃーが服役している間は俺んとこと良ちゃんちで面倒みるから」
「もう二度と馬鹿なことするじゃにゃあぞ」
福治の言葉が相当こたえたのか、父は涙をぼろぼろ零し泣いた。自分の愚かさを嘆いていた。もうこんな馬鹿な事は二度とするまいと誓っていたのかもしれない。
※小説『届かなかった僕の歌』より引用。
語り尽くせぬほどの思い出を私に与えてくれて、本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
昨年は当ブログをご贔屓頂き誠にありがとうございました。本年も皆様のご多幸を願いつつ、宜しくお願い致します。
今年2度目の緊急入院となった11月28日、『心不全』の場合は必ず救急車を呼ぶ事となる。三井記念病院の救急外来に電話を入れ、「数日前から体重が4キロ増加し、起坐呼吸でないと苦しい」旨を看護師に伝える。
「救急車を呼んで下さいね…」予想通りの返答で、119へ…。数分後『ピーポーピーポー』が聞こえ始め、3人の救急隊員が椅子型ストレッチャーと心電計を持って私の部屋へとやって来た。『期外収縮』と『心房細動』そして『ST低下』等の不整脈がある事を隊員たちに伝える。
もうすっかり乗り慣れてしまった救急車が、夜の闇に白く浮かび上がって私を待っていた。出来る限りの不安を取り除こうと、救急隊員の優しい声が私の身体を包み混んで行く。「人はどうしてこうも優しくなれるのだろう…」蒲田の自宅アパートが火災に遭った時も、消防隊員の胸を打つほどの優しい言葉に涙が流れたほどである。
救急外来では、その日の当直医2人(研修医1人)が心電図や心エコー、レントゲンなどで心臓の状態を調べ、血液検査の結果を待って入院の有無を決めるが、私の場合は入院必至である。但し今回は今までよりも症状が比較的軽かった為かCCUへは入らず、循環器病棟での治療となった。
様態が落ち着いた12月9日、一般病棟の18階へ移動。最上階の19階はVIP患者専用の個室病棟で、1日8万円となっている。高層階からの眺めは絶景で、富士山、ディズニーランド、スカイツリー等が望める。
私は今回の入院で自分が重病人である事を今更ながら再認識する事となった。20代そこそこの若い看護師が言った。「かんべさんは自分が重病である事を自覚してないみたいですね?」「うーん、そうかも知れない…病歴が余りにも長いと病気の感覚が麻痺しちゃうんだよね」「サムスカを15mgも服用している患者さん初めて見ましたよ…」。
今回の入院で初めて投薬されたのが『サムスカ』であった。これは利尿薬として最もポピュラーな『ラシックス』と比べて若干作用が異なっている。体内の余分な水分やナトリウムを体外へ排泄し、浮腫を解消する訳であるが、カリウムなども一緒に排泄されてしまう為、使い過ぎると『低カリウム血症』を招くと言うリスクを伴うラシックスに対し、単純に水分のみを排泄してくれるのが『サムスカ』である。
更に腎臓への負担もラシックスに比べると遥かに優しいと言う利点もあるが、効き過ぎると脱水症状を招く為、外来で管理出来る量は7.5mgまでと言う厄介な部分もある。
いずれにせよ、入院を重ねる毎に回復力が弱まっている事を思い知る結果となった。1日塩分6g、タンパク質40g、1600キロカロリーと言う『腎不全食』を自宅で再現し持続させる難しさを痛感し、心が折れると言うより『心が捻じ曲がってしまった』ような敗北感をこの入院生活中に味わう事となった。
それでも私は多くの優しい人たちの善意に包まれ、そして生かして貰っている訳で、それに対し私は出来うる限り最大限の努力をして、皆さんの気持ちに応えて行かなくてならないと思っている。更に闘病は果てしなく続くけれども、こんな私とこれからもどうか宜しくお付き合い頂ければ幸いです。
11月18日、高倉健さん死去のニュースが列島を駆け巡った。東映がおくる任侠映画の看板スターとして、「網走番外地」「日本侠客伝」などが大ヒットし、シリーズ化され映画スターとしての地位を確実なものとした。
高倉健さんについては皆さんもよくご存知の事であるから、ここでは私自身と高倉健さんの接点について述べて行きたいと思う。
健さんを語るにあたり、避けて通れないのが実は私の父「信夫」の存在である。私は今、その「信夫」をモデルとしたノンフィクション小説「網走番外地(仮題)」を執筆中で、第16章まで書き終えており、後は終章を残すのみとなっている。
大まかなあらすじとしては、府中刑務所を出所し、故郷である藤枝に帰る途中の信夫が、静岡に住んでいる息子に会い、刑務所帰りの父親とそれを迎える息子とのやり取りを、過去の想い出と共に語ると言う設定になっている。
その小説の中にも僅かではあるが高倉健さんが登場している。さて、話しは49年前に遡る。1965年(昭和40年)、前年に開催された東京オリンピックも大成功に終わり、日本は高度経済成長真っ只中であった。その影響は東京のような大都市だけではなく、地方の町や村にも波及して行った。
一般的な家庭には「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」などが普及し、貧しかった戦後の日本の姿は人々の暮らしから消え去り、車道を走る車の台数がその豊かさを象徴する時代でもあった。テレビが娯楽として定着し、ブラウン管から「オバケのQ太郎」「スーパージェッター」「ジャングル大帝」「ザ・ガードマン」など人気番組が続々と登場した。
当時、私の家にはテレビがなく(一時あったが父が酒代のため質屋にいれてしまった)、自分の好きな番組は近所の家のテレビで楽しんでいた。ある日、学校をずる休みし不貞腐れていると、父が「映画見に行くがとし坊も行くか?」と訊いてきた。
その時代、一日の小遣いが10円で、映画代は子ども一人80円であり、子どもにとって映画は贅沢な娯楽だったように思う。どんな映画を見るのか聞き返す事もせず、二つ返事で父の後を着いて行った。私以外に父の舎弟分が3人、厳つい肩をなびかせ、平日の昼間に往来の激しい車道を雪駄の音が歩く度にシャリシャリと響いていた。
私は学校の友だちに見つからないよう、小さくなって父の影に隠れながら歩いた。映画館に着くと、派手な色使いの大きな看板やポスターが飛び込んで来た。「座頭市二段斬り」「昭和残侠伝・唐獅子牡丹」の二本立てであった。
どんな映画を見るのか期待はしていなかったが、子どもの見る映画ではなかった。2本とも「やくざ」が活躍する任侠映画…。父らしいと言えばそれまでだが、父はスクリーン狭しと暴れ回る高倉健を意識していたかどうか知らないが、髪型も風貌もどことなく健さんに似ていた。
年を重ね白髪も目立ち始めた高倉健さんを見ると、父が生きていたらきっと健さんのような感じになっていたのかな…と健さんの姿に父の面影を重ねてしまうのである。
健さんのように父もまたぶきような生き方しか出来なかった…。昭和の時代が産んだ偉大な星がまた一つ、父の想い出と共に消えて行った。
さよなら、健さん、謹んでご冥福をお祈り致します。
バラバラと激しい音を立てて無数の噴石が情け容赦なく降り注ぐ。極限状態に追い込まれたその中を逃げ惑う多くの登山者たち。山頂付近の山小屋に避難し身を寄せ合って噴火が収まるのをじっと待つも、立ち込める灰色の噴煙で辺は暗闇に包まれ視界は殆ど遮られた。火山灰と噴石の雨は止むことを知らず激しさを増して降り続ける…。
携帯を取り出し家族や友人にメールを送る人々…。「お母さん、ごめんね」それは死を覚悟した最後の言葉だったのかも知れない。余りにも衝撃的な映像の連続に私は言葉を失ってしまった。
戦後最悪の火山災害を齎した御嶽山噴火から一週間が経過した。火口からは今もなお白い噴煙が立ち上り、噴火が収まる気配は見受けられない。今回の噴火による犠牲者は現時点で51人となり、23年前に発生した雲仙普賢岳の大火砕流で犠牲となった43名を大きく上回る結果となった。
御嶽山に入山した行方不明者が現在も十数人存在する可能性が高く、県警や自衛隊による懸命の捜索活動が続けられているものの、雨などの天候不順により中止するなど捜索は難航を余儀なくされている。
美しい紅葉を見せる御嶽山が一瞬にしてその姿を変貌させ、登山者を恐怖の坩堝へと巻き込んで行く。澄み渡る碧天の空が突如として濛々と黒い噴煙で覆い尽くされる。吹き出した噴煙は上空8千キロまで達したと言われる。
噴火から一夜明けた御嶽山の容貌は一変し辺り一面、灰色の火山灰に覆われそこに降った噴石の跡が噴火の激しさを物語っていた。まるでそれは月面のクレーターを想起させ、活火山の持つ破壊力と大自然の猛威をまざまざと私たちに見せ付けた。
火山の研究者や専門家たちは口を揃えて「噴火の予知は極めて困難」と言う。特に今回のような水蒸気爆発の場合は過去に殆ど前例がない為、マグマ噴火と比べても極めて難しいようだが、噴火の前兆が全く無かったと言う訳ではない。
過去に水蒸気噴火を頻発している「草津白根山」の例を熟知し速やかに取り入れていれば、御嶽山の警戒レベルは2に引き上げられていたかも知れない。活火山を100以上も抱える日本はいわば火山大国でもある。気象庁・火山噴火予知連が無能と言われないよう、役に立つ研究に専心して頂きたい。
活火山が与えてくれる自然の恩恵も大きいが、自然がひと度牙を剥けば今回のような大災害に繋がると言う事を忘れてしまわぬよう、謙虚な姿勢で自然と向き合う事が必要なのかも知れない。台風18号が過ぎ去れば、捜索が再開されるだろう。
家族や友人たちの祈りを背中に感じながら、捜索隊の長い列が御嶽山の山頂を目指して歩を進める姿が眼に浮かぶ。降り積もった火山灰と、そして火山性の有毒ガスが隊員たちを待ち構えている。今はただ一刻も早く行方不明者が見つかり、家族の元へ帰る事を祈るばかりである。
今回の噴火で犠牲となった多くの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。